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2018.05.29 貿易屋、恵美の大冒険-マンハッタンに眠るジャパニーズドールと謎の屏風-第5章-

第五章

滋賀にある日本最大の湖、琵琶湖。その西岸と東岸が最も狭まった地点に琵琶湖大橋が架かっている。
船舶の通行を妨げない為、中央の高さが二十六メートルもある美しい橋だ。
その東岸を湖岸沿いに北へ十分も走ると奇妙な建物が見えてくる。見たところは日本の城館のようだが、中国風のアクセントやヨーロッパの城で見かけるつり橋式の入り口などが気の向くままに付け加えられ、その奇妙な美意識に首をかしげて眺める者も多い。
武田美術館である。
ミュージアムというよりテーマパークの建物のようだった。
二階にある絨を敷き詰めた豪華な館長室で武田がテーブルをはさみ、カールとモニカに向かい合って座っていた。
黒いスーツを着た武田の部下が立ったまま部屋の隅に控えている。
武田次郎は六十過ぎで坊主頭である。唇が分厚い。「七人の侍」でサムライたちの頭領を演じた志村喬に似ている。見るからに金のかかった黒のダブルのスーツを着込んでいるが、人品の卑しさは隠しようもない。
「大阪でえらい機嫌よう遊んでるそうやな」
「スルコトガナイノデネ」
モニカはそっぽを向いて窓の外に広がる琵琶湖を眺めている。
「ええご身分で結構なことや」
「スキデシテルワケデハナイ。タケダサン、ビョウブハ、イツテニハイルノデスカ」
「わしも毎日谷山に電話をしとるのやが、輸入税を免除するための証明書に手間が掛っとるみたいや」
「ゼイキンハラエバスムコトダロウ」
「アホぬかせ。そんな簡単な問題やない。五、六日の遅れがなんやねん」
ケチな野郎だ、とカールはうんざりした。
取引の条件としてアメリカ側は屏風を武田に無償で提供している。
ー時間はカネでは買えないんだよ、クソッタレ!ー
カールは腹の中で毒づいた。

武田の父は戦後大阪でくず鉄を扱って財を成した男である。小さい時から仕事を手伝い、厳しい商売の辛酸をなめ尽くした武田は親元を離れて滋賀に拠点を移し、もともと興味があった旗師を始めた。
骨董の世界では自前の店を持たず、駆けずり回って集めた品物を競り市から競り市へと動かす業者を旗師と呼ぶ。
「谷山」のように店舗を構える業者は競り市で仕入れた品物を一般客、エンド・ユーザーに販売する。
「目垢が付いた」という言葉がある。品物を市から市へたらい回しにしているうちに多数の業者の目に触れてしまうことである。どこへ持っていっても引き取り手がなかったという烙印を押されたに等しく、業者が最も忌み嫌う。
対して眼の色が変わるのが「うぶ出し」である。個人宅や蔵などで眠っていた品物が出てくることで、競り市では「うぶ出し」があると一気に活気付く。
武田はこの「うぶ出し」をよく出品した。あくどい手段で集めているのではないかと眉をひそめる業者も多かったが彼は気にしなかった。
旗師をしてそこそこ顔と名前が売れてくると武田は闇組織に関わり始めた。
故買である。
盗品や闇で流れる品物を買い、売りさばくのである。儲けは桁違いに大きくなった。
まとまった金を動かせるようになると、彼はそれを風俗業に投資して増やし、今では京都と滋賀を合わせて五軒のファッション・ホテルと八軒の風俗営業の店舗を構え、表向きはひとかどの実業家を装っている。
金が出来ると武田はそれなりに世間で通用する肩書きが欲しくなった。
彼は湖畔の自宅の隣接地を買い、小規模ながら美術館をオープンして館長に納まった。
だが彼が期待したほど古美術・骨董業界の視線は変わらない。むしろ冷たくなっている。
一般の入館者も日にせいぜい数人、ゼロという日も多くある。
展示品のせいだと武田も分かっていた。「うぶ出し」や故買で気に入って取り除けておいた日本刀や武具、鎧などが中心になっているのだが、これといって胸を張れるものは数少ない。何か看板になるような逸品がひとつあればというのが武田の宿願だった。
故買が縁で顔見知りだったカールが持ち込んできた話があまりにも突拍子もなかったので、最初はなかなか信じられなかったが、ニューヨークで先方のボスと密かに会い、屏風を見て武田は確信した。美術館にとって、これ以上はない目玉になる。
一生に一度あるかないかのオイシイ話だった。
断るようなバカがどこにいる。
ところが今、彼は引き受けたことを後悔し始めていた。
「谷山」に頼めば簡単だと思っていた屏風の通関が遅れているのも気掛かりだった。彼は業界の仲間や税関の職員のあいだで、自分の評判が悪いのは良く知っていた。
無用のトラブルを避け、スムーズに輸入出来るだろうとの思惑で、「谷山」に依頼したのだが、こんな調子ではあまり意味がなかったなと思う。
カールには説明する気にもなれなかったが、慌てて輸入税など払えば、かえって不審がられるのは目にみえている。
ーそれをあのバカはー
何よりもショックだったのは西村がニューヨークで死んだことだった。カールはあの街では売春婦の犯罪は日常茶飯のことさと笑って済ましていたが、武田は信じていなかった。
カールとモニカが勝手なことをしたのではないか。これまで散々あくどいことをしてきたが、人殺しだけには関わったことがない。
ニューヨークのボスには表具師の口からは絶対漏れることはないので安心しろと念を押しておいたのだが。どうやら彼はカールを抑えきれなくなっている。
やはりガイジンなんかと組むとろくなことがない。
自分が知らないまま、大きな変化が起こっているようで、武田は不安になった。
モニカが眺めている琵琶湖の西岸の比良岳から黒い雲が流れ出して湖面を覆い始めた。

チャイムが鳴ってドアが開いたので、
「いらっしゃ・・」と言いかけた恵美が、「ボブ!」と眼を丸くした。
「ハイ、エミ」
ニコニコしながら「谷山」に入って来たマコーミックはアジア系の女性を伴っていた。
「日本へ来たのね。ニューヨークではお世話様でした」
握手しながら恵美は女性へ目を向ける。
白いシャツに黒いパンツをはき、ブラウンのシンプルなジャケットを着ている。化粧は日本人らしくなく、目と口元を強調して濃い。
「FBI日本支局のアイリス・タナカ。ワシントン生まれだけど、日本語はペラペラ。こちらはヤマザキさん」
それではと、日本語に切り替えて挨拶する。
「よろしく。恵美と呼んで下さい」
「私はアイリス。お目にかかれて嬉しいです」
美しい発音で返ってくる。
「まあ、日本生まれでいけるわ、アイリス。若い人はあまり日本語は喋れないと聞いたけど」
「えらい美人のFBIやな。恵美ちゃんと並ぶと、どっちもアイリスやがな」
三人に近づいてきた伊助が、あやめ・カキツバタの英語名のアイリスに引っかけて嬉しそうな表情で話しかける。
「止めてよ、イスケさん」
と恵美も笑いながら、
「モリモトさん。うちの長老です」
マーカス商会で見た写真より流石に老けてはいるが、まだ六十代と言っても通りそうだなとマコーミックは見詰めた。
賑やかな話し声で浩二が顔を出し、挨拶を交わした後、事務室へと招き入れる。
伊助は、「じゃ、私は店番で・・」と残りかけたが、「出来ればモリモトさんも」とマコーミックが言い、浩二は誰か入ってくればチャイムが鳴るんからいいじゃないかと勧めたので、全員が事務室に腰を据えた。

マコーミックは日本語が片言しか分からないので、英語で会話をする事にした。
「FBIに日本支局があるんですか」
浩二がアイリスに尋ねた。
「はい、東京のアメリカ大使館内に置かれてます」
「本土の激務に比べれば観光みたいなものですよ」
マコーミックがからかう。
「ACTの美術鑑賞ツアーよりましだと思うけど」
アイリスも負けてはいない。
笑いが収まると、マコーミックは真面目な顔になり、浩二に向き直った。
「タニヤマさん、ニシムラさんのことは、お気の毒でした」
日本式に深々と礼をする。
「有難うございます。ケリガン刑事も、残念でしたね」
マコーミックはちらっと恵美に目を走らせた。
「では、事件のあらましは、エミからお聞きなってられますね」
「はい、詳しく話してくれましたよ」
浩二も恵美を見て、軽く微笑む。
ふたりの視線が絡むの見て、マコーミックは恵美のボーイフレンドは彼だと確信した。妬ましさで胸がうずく。
一瞬言葉に詰まったが、そのことは頭から追い払い、彼は事件の発端となった高齢の資産家の女性の現状を詳しく説明し、その名前はジュリエット・クレーンで、有名なクレーン家の莫大な資産の相続人だと明かした。
「それで問題のビョウブですが、ラクチュウ・ラクガイ図ではありませんか?それも非常に有名な作品のレプリカのような」
浩二と恵美は目を丸くして驚いた。
「その通りです。どうして分かりました?」
「もう半世紀も前に、ジュリエットが購入しているのです。サンフランシスコのマーカスから」
マコーミックは伊助の顔色が変わったのを見逃さなかった。
「ボブ、凄いわ。シスコまで飛んだ成果があったじゃない」
恵美は単純に喜んで声を上げた。
浩二は思いついたように、こわばった表情の伊助を見た。
「おじいさんから聞いたんだけど、伊助さん、昔ニューヨークの大金持ちの家で屏風のタッチ・アップしたことがあったんじゃなかった?」
「はい」
伊助は腹をくくったように言った。
「クレーンさんでした」
全員が彼を見詰め、恵美が急き込んで尋ねた。
「それはどんな屏風だったんですか。まさかあの舟木屏風ではないですよね」
「恵美ちゃん、それが随分昔のことではっきり覚えてないんや」
その時電話が鳴り、手近にいた浩二が取った。彼が喋っているあいだ残りの四人は押し黙っている。
電話を終えた浩二は、
「屏風の通関が終わったよ。明日の昼一番で届けてくれる」とホッとしたように伝えた。
「そういえば洛中洛外図だったかな。うん、そうや。確かに舟木屏風にそっくりだった」
伊助が取ってつけたように言い出す。
浩二は何か大きな塊を呑み込んだような顔をした。幾ら五十年近く前とはいえ、伊助のようなベテランが舟木屏風そっくりの屏風をタッチ・アップしていて憶えていないはずがない。祖父や父が聞いていないとすれば谷山の誰にも喋らなかったのだ。
パソコンの写真を見た時にどうして何も言わなかったのだろうか。
「タッチ・アップのお仕事の様子を聞かせて貰えますか」
マコーミックが尋ねた。
「ジュリエットさんには結局一度もお会い出来なかったんです。でも、私としてはその方が良かったんですわ。それはその、何と言っても彼女はマーカスの客で、タニヤマは関係ないわけですからね」
珍しく、しどろもどろに近い口調である。
「せやから信義上、このことは誰にも言いたくなかったんです」
浩二は軽くうなづいたが、釈然としていないのは明らかだった。
普段の伊助らしくなく、少し口早に話を続けた。
「メイドさんが全部取り計らってくれましたんや。エントランス・ホールも豪華やったけど、仕事場に当てられた次の部屋も私には宮殿のようで、こんな所で仕事をしてもええのかと不安でしたわ。フロア全て持ってはるとのことやったけど、私が入ったのはこの二部屋だけです。仕事は数日ですんで、一日ニューヨーク観光をして帰ってきました。あとにも先にも、私の唯一のアメリカ行きです。もっとも映画では頻繁に訪れてますが」
唇をほころばせたのは恵美だけで、あとの三人は固い表情のままだった。
「屏風には剥脱以外に修理が必要なところはなかったですか?」
「ないです。本体そのものはしっかりしていて、破れや穴もあいていませんでした」
「仕事を終えられて、彼女からは何か?」
「メイドさんから主人がベリー、ベリー・ハッピーと言うてると聞きました。私にはそれで充分でした」
伊助が何故ジュリエットの洛中洛外屏風を素直に認めなかったのか疑問が残ったが、それでもマコーミックには一昔前の仕事が現在に結びつくとは考えられなかった。
「西村さんの件はどうなってますか?」
浩二は気になっていることを尋ねた。
「申し訳ないですが、これはNYPDの管轄なんですよ。でも必ず結果を出してくれると思います。仲間がやられた事件は彼らは必死になりますからね」
浩二はうなずいたが、先ほどマコーミックが恵美をファースト・ネームでなれなれしく呼んだことが少し気になっていた。彼の視線が彼女の上にとどまっていることが多いように思えてならない。
実はマコーミックはすったもんだのあげく、やっと来日出来たのである。サンフランシスコへ出張することさえ渋った直属の副部長が日本と聞くと仰天し、即座にNOとはねつけた。何のための日本支局かと言うのである。
マコーミックは屏風がカギであると確信していた。西村が三週間も掛かりきりだったのは屏風を空母のようなキャリア(運び手)に仕立て上げる為としか考えられない。問題は爆撃機を運ぶ空母と違い、屏風は何を運んでいるのかだった。
それをチェック出来るチャンスがあるとすれば屏風が谷山へ到着した一瞬でしかない。
マコーミックは屏風が免税措置の申請中で、まだ関空の保税倉庫内にあることを突き止め、小躍りした。京都へ急行すれば間に合うかもしれない。
マコーミックは意を決して全てを副部長にぶちまけた。結果が出ればこれは全米を駆け巡る大ニュースになるのは間違いない。担当者は一躍時の人だ。副部長の決断は早かった。今後、報告は全て自分に直接よこし、プレス・リリースを任せることを条件に、マコーミックは逆に火の点いたように急き立てられて日本へ向かった。
土地勘がなく、日本語も不得手なマコーミックのために日本支局からアイリスが選ばれ、ふたりは成田で合流して関空へ飛び、谷山へたどり着いたのだ。
先ほど浩二が取った電話ほどマコーミックを安堵させたものはない。
思い出したように伊助が、
「武田はんの方へは・・?」と浩二を見た。
浩二はマコーミックを見詰めた。マコーミックは恵美を見、恵美は視線を浩二に移した。
マコーミックは改めて浩二に向き直った。
「タニヤマさん、正直なところ、私は今ここでは何の権限もありません。ですからただお願いするしかないのです。タケダさんへの連絡を一日待って貰えませんか。そして明日、屏風が到着して検分なされる時に同席させていただきたいのです。お願いします、ニシムラさんとケリガン刑事のためにも」
「勿論ですとも」
浩二はにっこりした。
「実は私たちもじっくり見たいのですよ。ご一緒にどうぞ」伊助に向かうと、「武田さんには、それからにしよう」
「有難うございます。では明日昼過ぎに」
何とか目途がついたので、ニューヨークから奔りっぱなしだった気分のマコーミックは初めて日本にいる自分を実感した。浩二は恵美とアイリスの会話に耳を傾けている。
武田のことが心配なのか、屏風が気になるのか、伊助ひとりが浮かない顔をしていた。
サン・フランシスコのマーカスの店で見た写真をふと思い出し、マコーミックは伊助に話しかけた。
「イスケさん、カテリナさんからミニチュア・ワークの写真を見せて頂きましたよ。どれも精巧で素晴らしい出来栄えですね」
伊助はパッと顔を輝かせた。
「ああ、ご覧になりましたか。四十年以上あれに関わってきましたからね。ほんまに大変でした」
「造られたのはどんな方です?」
「図面はわしが引きました。実際の仕事はサシモノシ(指物師)が、え~っと artisan of ・・・」
英語が思い浮かばず、伊助が頭をかいていると、恵美が振り向いて、
「cabinetwork」
と助けを出してくれた。
「そう、その職人さんが引き受けてくれました」
「全部で何点製作されたのですか」
「二十五、六点ぐらいかなあ」
「四十年間ずっとひとりのサシモノシが掛かりきりで?」
「いえ、最初の職人さんは十点ぐらい完成させてから亡くなられ、次の人も高齢で数年前、引退してしまいましたわ」
マコーミックはカテリナの言葉を覚えていた。最後の隠居所のような一軒家は確か二年前に完成したはずだ。
「ええっと、するともうひとり、三人目のサシモノシがおられるんですか。二年前に一点出来上がっていますね」
カテリナはそんなことまで喋ったのかと伊助は困った顔で浩二を見た。
「いいじゃないか、本当のことを言えば」
と浩二はニヤニヤした。
「マコーミックさん、実は最後のミニチュアは伊助さんが造ったんですよ。いや、もう引き受けてくれる指物師がいなくなってね、君がやればって勧めたんです。全然見劣りしてなかったでしょう」
「へぇ~、器用なんですね」
「カメラマンとしてもプロ並みだし、若い頃は映画の脚本まで書いていましたからね。私の映画好きも彼の影響です。子供の時には、良く観に連れて行ってもらったものです」
「何ででも食べていけるじゃないですか」
マコーミックは心底感心した。
伊助はとんでもない、と手を振った。
「指物師の仕事は側で見ていましたからね。見よう見まねでなんとか形をつけただけですわ。丸々一年かかりましたが、途中で何度も投げ出しそうになりました。もう二度とやりまへん」
「きっとジュリエットさんも喜んでられますよ」
「えっ、ジュリエットですって? ちょっと待ってください。これまで造った模型の注文主は彼女だとマーカスが言ったのですか」
浩二が声を上げ、伊助と恵美もびっくりした様子だった。
マコーミックも「タニヤマ」の三人の意外な反応に驚いていた。
「ご存知なかったんですか」
「勿論ですよ。どれだけ親しくしていても、マーカスはエンド・ユーザーであるお客様の名前は明かしませんし、我々も尋ねません。それはルールですから」
浩二が答えると、伊助もあとを続けた。
「カテリナはミニチュアのお客様のことをずっとthe customer(得意先)としか言いませんでした。注文のやり取りは昔からすべて彼女を通してです。出来上がった作品はサン・フランシスコのマーカス商会宛に送り、支払いも彼らの小切手でした。まさかニューヨークへ送られてるとは夢にも思いませんでしたわ」
カテリナがあっさりマコーミックに明らかにしたのは、今後はもう彼女からの注文が望めないからに違いない。浩二と恵美が知らなかったのも事実だろう。だが伊助は何か隠しているとマコーミックは確信した。
カテリナは伊助のタッチ・アップの技術をプロはだしだと言っていた。伊助の隠居所のミニチュア・ワークは、マコーミックが見た限りでは本職のサシモノシの作品と全く違わなかった。
ただ器用ではすまされないような気味の悪さを彼は感じ始めていた。

四条通りから内蔵助伝説で有名な「一力」茶屋の横を南に向かって建仁寺まで続く花見小路は、祇園の代名詞にもなる最も観光客の多い通りのひとつだ。
その途中で東側の祇園町に入るやや細い路の中ほどに『匠』はある。間口二間ほどの、連子格子のある町屋の外観はそのままに、内部を改装したもので、小さなのれんがひっそりと掛かっているだけだ。
靴をぬいで玄関を上がるとすぐ細い廊下が奥へ向かい、左手には二階への階段、右手に小部屋の座敷がある。竜介という邪魔者がいたが、浩二が恵美にプロポーズした部屋だ。
廊下の突き当たりに仕切りがあって、その奥には数席のカウンターがあった。
『奥村』のオーナー・シェフ直樹は『匠』の和室の襖を開け、「いらっしゃい」と満面の笑みで浩二と恵美に挨拶した。
「和顔施」(わげんせ)と浩二がひそかに呼ぶ笑顔である。そのひとの笑い顔が、見る人に幸福感を与えるという仏教用語である。
何かと評価の厳しい祇園町で『奥村』が変わらぬ人気を持ち続けているのは、その料理に取り組む真摯な姿勢もさることながら、直樹の邪気のない笑顔にあると会うたびに思う。
ふたりの前にはシャンペンのボトルとグラスがあり、
「ちょうどええわ。グラス取っといでよ。乾杯しよう」
と浩二が言うと、直樹は「はい」と袖口からグラスを取り出し、部屋に笑いが弾けた。
「婚約されたんだってね。おめでとうございます」
直樹がグラスを上げ、恵美と浩二は「ありがとうございます」と応えた。
「こら、何かお祝いせなアカンなあ」
「披露宴タダにしてくれたらええやん」
「アホ言いないな。倍、請求したるわ」
げらげらと笑いあうふたりを、ちょっぴりうらやましく思いながら、恵美は幸せが満ち溢れてくるのを感じた。
「恵美ちゃん、ニューヨークどうやった?」
「付き添いの仕事やったし、バタバタしてただけで、何も」
「あ、そうか。叉、新婚旅行で行けばいいよ」
婚約が決まってこの娘は一段と魅力的になったなあと直樹は感心する。これ以上いてもお邪魔虫になるだけなので、ごゆっくりと直樹は早々に退出した。
待ちかねていたようにふたりはキスをした。身震いするような快感が恵美の体を駆け巡る。
ーやっぱり、浩二さん、最高ー
会った途端にマコーミックが自分に惹かれたのは分かった。イケメンで感じのいい若者なので、悪い気はしない。ニューヨークからの帰りの機内でも何気にFBIの妻としてアメリカ暮らしを想像している自分に気が付き、思わず苦笑いを浮かべて、慌てて隣席の房江の様子をうかがったことがある。
だが、こうしてふたりでいると、悪いけど、ボブでは問題にならないわと恵美は思う。

祇園町の『匠』と切通しの『奥村』とは歩いて五分もかからない。直樹は状況に応じて行き来している。そろそろ切通しへ移動しようかなと思った時に、表で車が止まる気配がした。
「カウンターのお客様?」
スタッフに訊く。
「多分スミス夫妻でしょう。武田さんがご予約です」
黒塗りのベンツから降りてきたのはカールとモニカだった。武田が自分の車で送らせたのである。
運転手はサブとだけしか知られていない使い走りだったが、ふたりのために車のドアを開けた黒いスーツの男は武田の用心棒の島田譲治で、カールはジョーと呼んでいた。
数枚の一万円札をカールは譲治に握らせた。
「ジョー、メシクッテクレ。オレタチハ、マタナクテイイ」
「すんまへん。ゴチになります」
譲治は頭を下げ、「おい」と運転手に目配せした。
サブが飛び出してきた。
「すんまへん。おおきに」
ぺこぺことお辞儀を繰り返す。
にこやかに入ってきた外人のカップルを、カウンターの内側で出迎えた直樹はモニカに眼を奪われた。
ー女優さんみたいにゴージャスなひとやなー
男の方も洒落たブレザーを着こなしていたが、眼光に凄みがある。見覚えがあるのだが、どうも頭の中でピントが合わない。
カウンターの前に座って直樹と向き合うとカールが言った。
「スミスデス。マエニイチド、タケダサントニカイノヘヤデ、ショクジシマシタ」
「ああ」
やっとピントが合った。
「あの時は確か髪の毛が・・」
「イエス、シルバーデシタ。チョットキブンヲカエテ、ブラックニシマシタネ。ニホンジンニミエマセンカ」
直樹とスタッフが笑い、意味が分からないながらモニカも微笑んだ。
「オクサンデス。ココ、オイシイカラトヒッパッテキマシタ。カノジョ、ハッピーニナルト、ヨル、ワタシヲハッピーニシテクレマスネ」
再び笑いが起こり、見掛けよりは楽しい男だなと直樹は気分が軽くなった。
オーダーを聞いていると、がらがらと玄関の戸が開いて、「こんにちは」と堀竜介の声がした。

竜介は浩二から洛中洛外屏風の話は聞いていた。出来れば実際に見てみたいと思い、どんな様子なのか知りたくて、先ほど「谷山」を覗いたのである。伊助がひとりで店仕舞いをしていて、浩二と恵美はFBIの男女と出て行ったが、何処へとも聞いていないと言う。竜介は俄然好奇心を強くかき立てられたが、伊助はあまり喋りたくないらしく、それ以上は聞きだせなかった。
周りを気にせず話が出来るとすれば『匠』以外考えられない。四人で小部屋の座敷にでも入っていたら、流石の竜介でも割り込む勇気はないが、カウンターなら偶然を装える。無駄足になったら、それはそれで食事をするだけのことだった。
ぴたりと閉められた襖の前の細い廊下をカウンターに近づいた竜介は英語で喋るカップルの声を聞き、ほら、僕のカンは凄いんだから、とほくそ笑んだ。
「ご馳走食べさせて」
明るい声を上げながら顔を覗かせる。

「今の声、堀さんやない」
恵美が声を潜めた。
「そうみたいやったな」
「どうするの」
「ほっといたらええ。直樹が上手いことしてくれるやろ」
そんなことより、と浩二は恵美を引き寄せ、また唇を吸った。

「いらっしゃい」
カウンター内にいた直樹が笑顔で迎えてくれたが、竜介は気が抜けたようにどさりと腰を下ろした。浩二も恵美もいない。
白人のカップルと目が合って、竜介はにこりと会釈する。
ふたりともどう見てもFBIではない。
ー待てよ。座敷に入ったのかもしれないー

ージャップにもこんないい男がいるんだー
モニカは目を外せない。
ー女みたいな男だな。いや、女以上だぜー
カールも舌なめずりする。

「今夜、浩ちゃんと恵美、外人さん連れて来なかった?」
竜介は直樹に尋ねた。
「来てるよ」
直樹は竜介が口を開く前に続ける。
「でも外人さんとは一緒やない。ふたりきりや。しばらく離れていたからなあ。ゆっくりしたいんやろ。自分も挨拶しただけで、すぐ失礼したんや。堀さん、まあ、一杯飲もう」
竜介はうなずいた。直樹がどちらにも気を遣ってくれているのは良く分かる。浩二に対する彼の想いも薄々感づいているに違いない。思わずため息が出た。
目の前にワイン・グラスがきた。
顔を上げると、直樹が赤ワインのボトルを持って、「こちらから」と外人の男を見る。
「ヨロシカッタラ、オチカヅキニイッパイ」
と笑いかけてくる。
「あ、これは、有難うございます。いただきます」
注がれたグラスを揚げる。
「カンパーイ」
揃って声を上げた。
「よーし、今夜は楽しくいきましょう!」
ワインで唇が光り、竜介はぞくぞくするほど美しい。カールとモニカは顔を見合わせ、にんまりする。
その時、『匠』の玄関のドアを開けてマコーミックとアイリスが入ってきた。

マコーミックはアイリスと三人で食事をしませんかと「谷山」を出た時に恵美を誘ってみた。今夜は先約がと恵美は残念そうに断り、谷山も本来なら私がご案内すべきなんですが仕事があってと申し訳なさそうに頭を下げた。
アイリスがそれでは何処か美味しいレストランをと尋ね、谷山が勧めてくれたのが切通しの『奥村』だった。
ところが『奥村』は満席で、これまで強行軍だったマコーミックは流石にバテだしており、気の毒に思ったレストランのスタッフが『匠』に問い合わせてくれたのである。幸い二階の椅子席が空いてるということで、ふたりはやっとたどり着いたのだった。

カールは意外に軽口をたたくのが上手だった。
また竜介も良く笑った。彼の場合は笑い声を聞きつけて、浩二が和室から顔を出して声を掛けてくれるのではと願う気持ちも強かったのだが。
襖が開く気配は全くなかった。
モニカは美貌では自分に引けをとらないこの男と寝たくてたまらなかった。意味ありげにカールを見る。
彼は海兵隊時代の数々の経験から男色には何の抵抗もない。三人プレイも面白そうだ。悪党同士に言葉は必要なかった。

譲治とサブは乗ってきたベンツを建仁寺に隣接するモーター・プールへほりこむと、鴨川に沿って走る川端通りにある焼肉店へ入った。
意外と知られていないが、京都人は一人当たりの牛肉の消費額が日本一の肉好きである。口が肥えているので、うまい肉を出す店は多い。
胃袋を充分満足さすと、店を出てぶらぶらと四条通りの方へ向かった。週末でもないのに、やたら人通りが多い。カフェでお茶をとさがすが、どこも混んでいる。
ふたりとも食事中にそれぞれジョッキを一杯空けていた。以前ならそのまま気にもせず車に乗ったが、美術館をオープンして館長に納まってから、武田は飲酒運転には異常にうるさくなっている。バレたら眼を三角にして怒り出すに違いない。
十年前、譲治は大阪の暴力組織の組員だった。ハジキの腕を買われて組長のボディ・ガードをしていたが、抗争事件に巻き込まれて服役し、やっと二年前に出獄したばかりであった。組長が口を利いてくれて、武田の用心棒に拾って貰ったのである。
サブは暴走族上がりで、運転以外は何の取り柄もない。サブどころかサルなみの脳ミソしかないなと譲治は思っている。
「兄い」
サブが立ち止まった。
視線の先に『バナナ・ファンタジー』と派手なピンク・サロンのカンバンがある。
「あそこでちょっと休んでいきまへんか」
下卑た薄笑いを浮かべている。
譲治は顔をしかめた。
「お前、何考えとるねん。京都の遊び人がわざわざ琵琶湖まで足伸ばして来よるのは、女とサービスがよっぽどええからや。何が悲しくて、わしらがこんな観光客相手の、しょうもないとこへ入らんならんねん」
「へえ」
サブは頭をかいた。
「すんまへん。兄いが俺なんかと一緒に時間潰してはるのが気の毒で」
サルなみでもそれぐらいのことは分かるらしい。実際、譲治はサブと一緒にうろうろしているのに嫌気がさしていた。しばらくコイツの顔を見なくてすむだけでもいいかもしれない。

マコーミックは食事をとると元気を取り戻したが、口数が少なく考え込むことが多かった。
FBI東京支局には三人のエージェントがいたが、ふたりは妻帯者だったので、アイリスは彼と京都で一緒に行動出来るのが刺激的だった。
これまでの経過は京都までの移動の間にしっかりレクチャーして貰っている。
明日の屏風の検分で頭が一杯なのに違いないと彼女はなるべく話しかけないようにしていた。
マコーミックが考えていたのは恵美と谷山のことだった。少し年が開いているが、毎日身近で働いているのは大きい。彼との会話でわざと恵美をファースト・ネームで呼んだのも意識してだ。
ふたりとも揃って今夜がダメというのも不自然な気がする。何処かでデートしているのではないだろうか。せっかくニューヨークから来てるんだから、ちょっとぐらい無理して付き合ってくれてもいいだろうにとマコーミックは不満だった。

浩二と恵美の部屋に、婚約のお祝いとして直樹から特製の『ロッシーニ風パイ包み焼き トリュフのソース』が出された。ナイフを入れるとフィレ肉とフォアグラがとろけ出し、トリュフの芳醇な香りに包まれた。
ひと口含んだ恵美はうっとりと浩二を見詰め、
「しあわせ」とつぶやいた。

『バナナ・ファンタジー』の個室はソファと小さなテーブルがあるだけで、息苦しいほど狭い。譲治についた女はそれなりに美人だったが、好みではない。その上、愛想が悪かった。
目の前の壁に張り紙がしてある。
[当店は会話を楽しんでいただく上品なサロンです。女の子が嫌がることは絶対強制しないで下さい。違反の場合は罰金十万円をいただきます]
琵琶湖畔の武田の店にも似たような表示がしてあるが、普通は見せかけの建前にすぎない。女の子もただ話しているだけでは、稼げない。
譲治はそんなことはどうでも良かった。帰ってから馴染みの女を抱く積りである。
何の気も見せないので、女の顔色が変わった。
「ウチが気に入らんのやったら、ほかの子と変わりましょうか」
「いや、アンタでええ。時間つぶしたいだけや」
女はそれから一言も喋らない。譲治も意地になって黙っているので、険悪な空気になった。
「おい」
譲治がたまりかねて声を荒げた時、ノックがあって、
「お客さん、ちょっとすんまへん。よろしいか」
と店の者の声がした。
女が黙って立ってドアを開けた。
マネージャーらしき男が顔を出す。
「お楽しみのとこ、すんまへん。お連れさんが無理なこと言わはって、女の子が泣いてまんねん。ちょっと話してもらえまへんやろか」
譲治は舌打ちして立ち上がった。
ソファに坐ったサブがふくれっ面をし、女の子がしゃがんで泣きじゃくっている。破れたパンティが床に落ちていた。
「あっ、兄い」
サブがバツの悪そうにぺこりとする。
「ご覧のようなありさまで。罰金は結構ですから、お引取り願えまへんか」
口調は丁寧だが、有無を言わさぬ気配がある。
譲治は黙って突っ立っていた。テーブルのひとつも蹴り上げたいところだが、ゴタゴタして地回りかサツが来れば、武田に迷惑がかかる。
「サブ、行こう」
マネージャーをにらみつけた。
「もっとマシな女そろえとけ」
最悪の気分だった。

明らかに自分の笑い声が聞こえているはずなのに、浩二からの反応がないので竜介はだんだんむかっ腹が立ってきた。イライラしているので料理の味も良く分からない。直樹は切通しの『奥村』へ戻ってしまったし、会話が途切れたのを機に「チェックをお願いします」とスタッフに頼んだ。
「デハ、ワタシタチモ」
カールも言い、モニカはトイレに立った。
その間にカールは竜介に声をかけた。
「ドウデスカ。ドコカデノミナオシマセンカ」
「有難うございます。でも、今夜はもうこれで失礼します」
「ソウデスカ。ザンネンデスネ」
そう簡単に諦めるつもりはさらさらなかった。

二階からトイレに降りてきたマコーミックは出てきたモニカとばったり出合った。ブロンドでもなく、赤毛でもなかったが、見間違えようがない。
平然とモニカはカウンター席の方へ戻っていった。マコーミックは大慌てで用を済まし、チェックを頼んで二階へ上った。
「アイリス。モニカが今このレストラントにいるぞ。おそらくカールも一緒だ」

竜介はスタッフが玄関で客を送り出す挨拶を聞き、浩二と恵美が帰ったのだなと察した。
「さよなら」
カールとモニカに笑顔を見せ、自分も玄関に向かう。
一呼吸置いてふたりも立ち上がった。
二階で耳を澄ませていたマコーミックとアイリスは英語交じりの会話が玄関で交わされるのを聞き、後を追う用意をした。

外に出た竜介は、花見小路で浩二と恵美が立ち話をしているのを見つけ、電柱の影に身を潜ませた。
後から出てきたカールとモニカは不審な行動をする竜介を見て立ち止まり、様子を窺う。
浩二と恵美は左右に別れ、それぞれ自宅のある方に向かった。
ぶらぶらと歩き出した竜介は花見小路に出ると恵美の後をつけ出した。
別にどうこうという積もりはない。ただ『匠』で無視されたのでむしゃくしゃしており、途中で言葉を交わす機会があれば、チクリと嫌味ぐらい言ってやりたかった。
どうやら若い女の後を竜介が追っているようなので、カールとモニカはこれは面白そうだと見守ることにする。
そのふたりから距離をおいてつけているマコーミックとアイリスには、彼らの先を行く恵美と竜介の動きは分からなかった。
花見小路は建仁寺の北門に突き当たると左へ直角に折れて真っ直ぐ東大路に至る。夜遅くまで人や車の流れが途絶えることはないので、浩二は当然この路を通って恵美は自宅に帰ると思っていた。
それでも遅くなったから建仁寺は抜けるなと念を押したのだが、恵美は構わず門をくぐった。
広い境内は静まり返っていて、ここが祇園の真ん中にあるとは、とても思えなかった。
子供の時から遊び場にしていたので警戒心は全くない。境内を横切って南の勅使門を出れば八坂通りで自宅まで五分とかからない。
巨大な法堂の横をぶらぶら歩いていくと三門近くの木陰に男がふたりたむろしているのに気が付いた。
無遠慮にジロジロと見詰めてくる。
流石に足を速めた途端にひとりが、「すみません」と声を掛けたので思わず立ち止まってしまった。
譲治とサブだった。やり場のない憤懣を冷ましていたのである。
「このあたりにカラオケありませんかね」
サブが訊いた。卑しげな笑顔をつくっている。
「河原町まで行かれたら大きな店が二件ありますよ」
「俺たち、車で帰るんで酔いを醒ましてるんやけど、良かったら付き合ってくれへん?」
「家へ帰らなきゃならないんで、すみません」
「一時間でいいんやけどなあ」
としつこく迫る。
「親が心配してますんで」
すり抜けようとすると譲治が前をふさぐように立ちふさがった。
「通して下さい」
「ちょっとだけて頼んでるんやないか」
譲治がとりなす様に言った。
「アカン言うてるやろ! どいて!」
恵美は思わず声を張り上げ、言った瞬間に後悔した。
譲治の顔色が変わった。
「このアマ、下手に出れば付け上がりやがって。おい」
と目配せするとサブが恵美を後ろから羽交い絞めにした。
「あっ、何をするの! 誰か・・」
呼ぼうとする口が右手でふさがれる。
そのままサブが恵美の耳元でささやく。
「静かにせんかい。ケガしとないやろ」
それを聞くと恵美は必死で暴れ出した。男の力は強い。ずるずると木立の中へ引きずり込まれていく。

法堂の影から竜介は一部始終を見ていた。
彼から離れて木陰にいるカールとモニカには法堂が邪魔になって見えないが、どうやら後をつけていた若い女がトラブルに見舞われているらしいのは分かった。
竜介は迷っているようだ。
「アイツ、ビビッてるな」
カールが白い歯を見せる。
「色男だから無理もないね」
モニカがニヤニヤしながら答える。
やっと追いついてきたマコーミックとアイリスは、カールらが何故立ち止まってじっとしているのか見当もつかず、戸惑っていた。
竜介が法堂を離れ、カールたちの方へ引き返し始めた。
「やっぱりね」
モニカは嬉しそうだ。
「ここまで来たら声を掛けようよ。いいきっかけになるわ」
その時、のろのろと歩いていた竜介が立ち止まった。暫く考えていたが、くるりと振り向いて法堂の方へ今度はすたすたと早足で戻って行き、角を曲がって姿を消した。
カールとモニカは顔を見合わせ、様子を見るために法堂へ急いだ。

早足で近づいて来る足音を聞いて、サブと譲治はギョッと振り向いた。
すらりとした優さ男が月光の中をやって来る。
「やめなさい。馬鹿な真似は」
譲治とサブは顔を見合わせ、ニヤリとした。
サブの手が緩んだので、恵美は振りほどき、「堀さん!」と駆け寄った。
「大丈夫? 僕が来たからもう安心よ」
サブは隙間だらけの歯並びを見せて笑い、なんとも凄みのある顔になる。
「お前が代わって相手をしようちゅうんか。エエ度胸やな」
「ここは禅寺ですよ。場所をわきまえなさい」
「何ぬかしてけつかるねん。このオカマが」
「あんたにオカマ呼ばわりされる覚えはないわ。取り消しなさいよ」
譲治が思わず声を出して笑った。
サブはいい憂さ晴らしの種が出来たとほくそえんだ。女と見紛うばかりの竜介を舐めきっている。
「そうでっか。ほなら、これが俺の取り消し方や。くらえ」と左手で竜介の襟を握り、ぶん殴ろうと右手を振り上げる。竜介は素早く相手の両襟を掴むと、下がりながら右足でサブの左足を跳ね上げ、同時に体を沈みこませ、両手を大きく円を描くように引き下げて投げ飛ばした。
恵美が目を丸くして見ていると、サブはビデオのスロー再生のように、ゆっくり空を舞ってどさりと地面に落ちた。
「アッ、イテテ・・」
のた打ち回る。
「はい、確かに取り消し、貰ったわよ」
竜介は涼しい声で言った。
流石に譲治の顔が一変した。鋭い目つきになると身構えながら竜介に近づく。
右、左と繰り出してくるパンチのスピードはサブとは比較にならない。
竜介はすいすいとかわすと相手の懐に飛び込み、右手で相手の左を殺して、上襟を掴んだ左手をぐいと突き上げ、譲治のアゴを反らす。同時に足の間に大きく踏み込んだ左足で相手の右足を払いながら体重を預けた。
譲治はたまらず枯木のように仰向けに倒れる。アゴが上っていたので、後頭部がまともに地面に叩き付けられた。白目をむいてぐったりする。
「全くもう、境内で。罰当たりのおふたりさんね」
立ち上がった竜介は息も切らしていない。
這って逃げようとするサブを見ると、
「ちょっと!」
鋭い声で呼び止めた。
「へ、へい、すんまへん。おにいさん、もうカンニンして下さい」
地面に額をこすりつける。
竜介は伸びている譲治へ顔を振った。
「こいつをほっていくのかい。僕は仲間を見捨てるようなやつは大嫌いだよ」
口にした瞬間、竜介は酸っぱい顔になったが、後ろにいた恵美には見えなかった。
「もうすぐ気がつくから。二度とこの辺をウロウロするんじゃないよ。さ、恵美、行こう」
恵美は茫然と竜介についていく。
「堀さん、どうしてここへ?」
「僕も『匠』に居たんだ。恵美が建仁寺に入ったのを見て、何となく気になってきたらこの騒ぎさ。浩ちゃん、こっちは通るなって言わなかった?」
「言った。きっと怒られるわ」
「それ、ご覧。ほんとにあんたは人の忠告を聞かないんだから。それに何よ、僕も『匠』に居たのが分からなかったの?」
竜介はねちねちと絡み始めた。

「へー、やるね」
法堂の陰から覗いていたモニカは感心したように言った。強い男には目がないのだ。
「ね、あれってジュードーとかいうわざなの」
カールは首をひねる。
「似てるが、ジュウジツ家じゃない。ニンジャのように身が軽いな。ひょっとするとー」
そのまま口をつぐんだ。
ふたりは途中で竜介の相手がジョーとサブだと気が付いたが、加勢に行く気は全くなかった。
武田の手下は彼が心配すればいい。
竜介と恵美が立ち去るのを見て、カールとモニカは花見小路へ戻ろうと法堂を離れた。

ふたりが急に戻って来るので、マコーミックとアイリスは身を隠す余裕がなかった。咄嗟にマコーミックはアイリスを抱き寄せてキスをした。アイリスも心得てしっかりすがりつく。
カールとモニカはちらりとふたりを見ただけで花見小路へ出て行き、来合わせたタクシーを呼び止める。
FBIのふたりが走り出てきた時にはタクシーは小さくなっていた。
「ファック!」
マコーミックはいまいましげに車を見送っているが、アイリスの方は横目で彼を見ていた。

先ほどのアクションが信じられないほど女々しい愚痴を散々聞かされたが、竜介はちゃんと家まで送り届けてくれた。恵美は自分の部屋に落ち着くとさっそく浩二に電話をした。
浩二はひとりで境内に行ったことを怒り、ふたりに絡まれた状況で言葉を失ったが、竜介の活躍を聞くと大笑いした。
「恵美、堀はね、高校、大学と剣道部にいて、小太刀の姫天狗と呼ばれて有名だったんだよ」
「小太刀って?」
「普通の刀より短くってね、六十センチぐらいかな。短い分、離れて打ち合うのは不利なので、相手の懐に飛び込んで倒すんや。当然柔術の心得もいる。実戦的な剣術と言えるやろね」
「でも、何故普通の天狗じゃなくて、姫天狗なの?」
「それは、ほら、あの美貌だろ、剣道の試合なのに女子学生が多いと思ったら、みんな堀のファンなんでやっかみ半分で付けられたんや」
「そらそうやろね。今夜もかっこよかったもん」
「大学でも副将までいってたんやけどな、格闘技に近いとこもあるから柔道部でも練習してたのが問題になってな、強いのと人気があるのが目障りやったのかもしれん。とにかく堀は嫌気が指して退部しただけやなく、大学まで辞めてしまったんだ」
「ふーん。けど、送ってもらっている間、ずうーっとブツブツ言われてた。ボクが居るの、気がついていたはず、無視してたでしょうって」
浩二はまた笑った。
「恵美とふたりきりになれたんは一週間ぶりやないか。アイツも何をイケヅなことを」
「ところで、浩二さん、あの屏風のこと訊かれたんで、明日のこと喋ったけど、かまへん?多分見に来やはると思う」
「当たり前やないか。恵美の危ないとこ、助けてくれているのに」
『匠』で過ごしたふたりだけの濃密な時間、突然ふりかかった境内での危機、屏風に秘められた謎、様々なことが浮かんでは消え、寝床に入っても恵美はなかなか寝付けなかった。

宿泊先のホテルに着くとマコーミックの元気がないので、アイリスの方からバーに誘った。
「カールは髪を黒くしていたわね・・・・どうしたの。心配事?」
水を向ける。
暫く黙っていたマコーミックだったが、実はと思いがけない事を言い出した。
「輸出される航空貨物はX線検査を通るだろう、爆発物や禁制品をチェックするためにね。ニューヨークで屏風が航空機に積み込まれる際にその検査をした係りと話したんだが、屏風はクリーンだった、つまりシロだと言うんだ」
「えっ、どういうこと?」
「エミから聞いた屏風の構造は説明したよね。僕としては骨組みの中空のスペースに何か貴重なものを隠し、国外に持ち出そうとしてると確信してたんだ。ところが係りの男は、特異な形態だったので慎重にチェックしたが、枠と骨組みだけのスカスカできれいなものだった、つまりなーんもなかった、と断言したのさ」
「記録は取り寄せたの?」
「いや、時間もなかったし、そうすると上に通さなきゃならないし・・」
「じゃ、支局の副部長は?」
「知ってりゃ僕がここに来れるわけないだろう」
「あきれた」
アイリスはため息をついた。
「しかしね、三週間も一流の表具師がかかりきりだったんだぜ。絶対何か細工してあるはずなんだよ。だが詳しく調べる時間がない。しかも明日、目の前にありながら僕たちは手も触れられないんだ。それでどうやって悪事が暴けるんだい」
マコーミックは心底悔しそうだった。若者らしく一途な気持ちが見える。
やっぱり本土で活躍するバリバリの若手は違うわ、とアイリスはちょっぴり妬ましい。
「今夜のふたりを見ただろう。ケリガンとニシムラの人生を奪ったというのに、まるで平然と食事を楽しんでいる。こんなことは許されないよ、絶対に」
マコーミックはグラスをグイと飲み干した。
「こうなっては、タニヤマが奇跡を起こしてくれることを祈るばかりだ」
アイリスもグラスを取り上げた。
ゆっくりと芳醇な香りを味わいつつ、先ほどのキスを思い浮かべる。唇をあわせたとき、下半身を衝撃が走り、思わず舌を絡ませそうになった。
日本に赴任してから、デートのチャンスはほとんどない。若い男とのキスは久しぶりだった。
正直言って寝たい。
だがマコーミックが、「タニヤマ」のエミとかいう女にイカれているのは、すぐ分かった。その女がオーナーのタニヤマに夢中なのも、火を見るより明らかだ。無駄なことを、と腹立たしい。
ちょっと嫌味を言ってやりたくなった。
「ねえ、タニヤマとエミ、デキてるわね。相思相愛よ」
マコーミックはじろっとアイリスを見た。
「今はそれどころじゃないだろう。僕は疲れたから、もう寝るよ」
立ち上がって出て行く男を見送りながら、アイリスはそっとため息をついた。
ーやれやれ、明日が思いやられるわー
彼女は単に彼の通訳や案内ではなく、お目付け役も仰せつかっていたのである。
緊急の来日であったため、FBI日本支局は警察庁の国際捜査課には一応連絡はしたが、目的は捜査ではなく、ACTのメンバーとして美術市場の視察となっていた。
銃規制の厳しい日本で、若いマコーミックが暴走し、一般人を巻き込めば日米の政治問題になる恐れがある。それだけは何としても避けなくてはならない。

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