小説

貿易屋、恵美の大冒険-マンハッタンに眠るジャパニーズドールと謎の屏風-第7章-

第七章

「まるで戦車の大砲に見えたなあ」
 病院のベッドに横たわった浩二が頭の後ろで手を組み、天井を見上げながら言ったので、恵美はクスクス笑った。ボートに飛び乗ろうとしてモニカに撃たれた話は何度聞かされたか分からない。
「この前はバズーカだったわ。どんどんグレードアップするんやね」
「そうかい」
 浩二も笑い出す。
 こうして無事に話が出来ることが嬉しいので、ふたりは他愛ないことでも良く笑う。
 彼の顔の右半分は、まだ白いガーゼが痛々しい。
 ボートに向かって駆け出した浩二はモニカのベレッタの銃口がピタリと自分の視線と一致したので、とっさに上半身をひねったのだ。彼には小さなピストルが異様に大きく見えたという。
 この反射的な動作で,浩二の顔面のど真ん中に命中するはずの銃弾は,彼の右頬を削っただけで飛び去った。
 形成外科の担当医は傷は残らないと太鼓判を押してくれているのだが、浩二は不安で仕方がない。度々、人相が変わったらどうすると尋ねるので、子供みたいねと恵美は呆れてしまう。
 実際同じ病院に入院している竜介の方がもっと大変なのだった。
 切り裂かれた左腕はアイリスが止血処置を素早くしたので大事に至らなかったが、損傷したのが顎だけに食事がままならず、苦労している。だが竜介は不満をまったく口にしない。
 それどころか恵美が見たところ、浩二が竜介の傷を非常に気遣い、いたわってくれるので、現状を楽しんでいるのではとしか思えないのだ。
 看護婦たちがおふたりのイケメンは大丈夫ですよとからかい半分に保証するので心配はしていないが、今後の三人の関係を考えるといささか気が重い。
 マコーミックは若いだけに一日検査入院しただけで、すぐ仕事に復帰した。彼はFBI、県警、警視庁の国際捜査課から選抜された特別チームのチーフになり、アイリスと共にずっと京都に滞在している。
「ところでスミスの行方はまだ分らないか?」
「跡形もなく消えたみたい。ボブはもう生きちゃいないんじゃないかと疑ってるけど」
 武田はあっさりニューヨーク側の黒幕は会計士のスミスだったと白状した。ただ警察に聴取される前に彼に連絡は取ったらしく、FBIがニューヨークの自宅に駆けつけた時はもぬけの殻だったようである。
 スミスは一度結婚しているが、十年前に離婚し、ずっと独り住まいだった。子供もいない。
 別れた女房に慰謝料をむしり取られていて、懐具合はあまり良くなかったようである。
 一発大きく稼いで、高飛びし、安逸な余生を過ごそうとしたのに違いないと突き放したのは弁護士ウインストンで、会計士とは仕事上で連絡を取る以外、一切接触はないと断言した。
  貧乏くじを引いたのは武田である。ボートの爆発と共に飛び散った三千五百万は四百万少々しか回収出来なかったし、自宅と美術館に一斉捜査の手が入って、都合の悪いことがボロボロ出てくる始末である。
「考えたら武田さんも、ちょっと気の毒ね」
 と恵美は言うが、
「自業自得だよ」
 浩二はにべもない。
「ダイヤを処分して手数料を稼ぐ上に何億もする屏風をタダで手に入れようとは虫がよすぎる」
 カールがポケットに入れたピンクのダイヤは湖中に沈んだか、見つかっていない。
「伊助さんはどう? 大丈夫?」
 浩二が心配そうに尋ねた。
 伊助は事件のショックが大きかったのか、ずっと元気がない。
 恵美はしばらく迷ったが、
「実は二日前から休んではるの。ぼんには内緒にしてと頼まれたので」ともらしてしまった。
「やはり屏風のことを気にしているのかなあ」
「結局、無事アメリカに返送されることになったんだからいいじゃない。何も気にすることはないのに」
「それがそうでもない」
 浩二が難しい顔をする。
「どういうこと?」
「クレーン家の屏風は、東京博物館の舟木屏風と、そっくりそのままだ。おそらく同じ時期に、同じ作者か、その工房によって製作されたのは間違いない。しかも状態はこちらの方がはるかにいいとなれば、大変貴重な美術品が、見つかったことになる。将来、もし日本の博物館が手に入れることが出来れば、国宝指定は間違いないよ」
 恵美はうなづいた。
「それならそれでいいじゃない」
「恵美は一双の舟木屏風に描きこまれた人間の数を知っている?」
「二千数百人ぐらいなんでしょう」」
「正確には二千七百二十八人だ」
「ひえ~、描いた絵師も絵師だけど、数えた人も大変やったやろね」
「ところがだね、新しく見つかったクレーン家の方には、二千七百三十人が描かれている」
「二人多いのね。その人たちはどの辺りに?」
 浩二はサイド・テーブルの引き出しから、大判の封筒を取り出して恵美に渡した。中を見ろとうながす。
 B4サイズのカラー写真が二枚、入っていた。どちらも舟木屏風である。
「こちらが東博の舟木屏風、それがクレーン屏風や。右隻第三扇の上部を比べてご覧」
「えーと、右から三曲目の上の方か。清水寺の舞台やね。踊ってる座頭や三味線弾いてるゴゼ、見物人もいて、賑わいは昔も今も、変わらへんのやねえ。仲良さそうな二人連れもいてるし・・・・アレ、このカップル、クレーン屏風にだけいる!」
「その二人や。事務所で屏風を検分しているときに気がついた」
「ふーん、でもこの写真では、小さくて良く分からへんわ」
「男は商家の人間らしいが、問題は女の方なんだよ。かつぎを頭から被っているんだが、のぞいている髪の毛が縮れている。鼻もあきらかに高いし、日本人らしくない。近くで見ないと分かり難いが」
「そんなことならもっと注意して見とくんだったわ。じゃあ、外人女性ということ? 南蛮人の娘さんかしら。へえ、四百年前にも、そんなトンでるカップルがいたんだ」
 浩二は渋い顔して、頭を振った。
「そいつはありえないな。当時はガレオンと呼ばれる木造の帆船が日本に来る唯一の手段だ。何ヶ月もかかる危険で、劣悪な環境の船旅に女性を連れてくるとは思えない。少なくとも現存する洛中洛外屏風には、南蛮人の女性はひとりも描かれていない。この時代、ミヤコでヨーロッパ女性を見た人間はいなかったはずだ」
「・・・ひょっとして、後で誰かが描き足したと考えているの?」
 恵美がつぶやいた。
 浩二はうなづいた。
「そうとしか思えん。でも実に器用な人だな。又兵衛風の特徴を巧みに捉えているし、ちゃんと岩絵具を使用している。その上、時代色までつけているから、周りの人物とまったく違和感がない。正直言って、のぞいている女性の髪の毛に気がつかなければ、分からなかった」
 二人は黙りこくって、屏風の写真を見詰めていた。それから先を口にしたくなかったのである。
「自分が知っているかぎり、この仕事を出来るのは一人しかいない。その上、彼にはその機会があったことも分かっている」
 浩二がしぶしぶ喋り出した。
「これは単純なタッチ・アップの問題やない。意図的にやっている。それもいまいましいことに完璧にね。この屏風の価値を誰よりも良く知っている第一人者が、何故こんなことをしたのか、信じられないよ。しかも彼はウチの・・・」浩二は言葉を詰まらせた。
「今はまだクレーン家のものだが、そのうち市場に出てくると、きっと大きな問題になるよ」
「元気がないのも当たり前ね。でも、彼が見たときには、すでに存在していた可能性もゼロではないわけでしょう」
「それはそうだけど。とにかく一度、伊助さんに話を聞かなくちゃね」
 浩二はとうとう名前を出した。
「様子見がてら、今日帰りにお宅に寄ってみましょうか」
「そうしてくれるか」
 喋っていると看護婦が届け物ですよと小さな包みを持ってきてくれた。見ると伊助からである。
 浩二は急いで開けた。手紙と古ぼけたノート・ブックが入っていた。日記帳のようで、細かい字で丁寧にびっしり書かれている。最初の数ページが破りとられ、1962年の六月四日から始まっていた。
 顔を寄せ合うようにしてふたりは先ず手紙を読んだ。

谷山 浩二様

 この手紙を読んでおられる頃、私はニューヨークに向かっています。
 貴方や恵美ちゃんに何の相談もせず、勝手に旅立ったことをお詫びいたします。
 最初に写真を見てすぐジュリエットさんがお持ちになっているはずの、もうひとつの「舟木屏風」だと分りました。
 私がそのことを正直に貴方やマコーミックさんにお知らせしておけば、あの惨劇は防げたのではないか、ぼんや恵美ちゃん、また堀さんにもあんな恐ろしい思いをさすことはなかったはずだと考えると苦しくて夜も寝られません。
 タッチ・アップに訪れた彼女のアパートメントで人間として、ことに美術品を扱う立場の者として許されないような、愚かで、恥ずかしい行いをしてしまいました。
 私にはそれを告白する勇気がどうしてもなかったのです。同封の日記は私がクレーン家に滞在中の出来事を書きとめたもので、ぼんには何があったか知っておいて欲しいのです。
 読後、誰の目にも触れないよう処分して下さるようお願いします。
 アイリスからジュリエットさんの容態が悪くなり、明日をも知れないと聞きしました。私が行ってもどうなるものでもありませんが、何とか気持ちの整理をしようと思っています。
 家内には店の用事で出張と言ってあります。話を合わせておいて下さいますか。
 本当に申し訳ありませんでした。

伊助

(伊助の日記)

六月四日、1962年、サン・フランシスコ

 とうとう明日は帰国する日になってしまった。初めてのアメリカもあっという間だ。仕事は順調に片付いてマーカスさんと新婚の奥さんにはえらく喜んで貰えた。店の用事で来ているので仕方がないが、観光らしいものはマーカスさんが連れて行ってくれたミュアウッズ国定公園ぐらいだった。
樹齢千年を越え、世界一高く育つというレッドウッドの森は確かに見事だったが。
 今日はひとりでアメリカで最も古く、そして有名な日本庭園、Japanese tea garden を見てきた。ゴールデン・ゲート・パークの中にあり、サン・フランシスコの名所のひとつである。とても美しく、手入れも行き届いて、散策してるとここがアメリカとは思えない。街中さえ見ていないのに何が悲しくてわざわざ日本公園と思わないでもないが、実はこのガーデン、そもそもの発祥は、マーカスのお祖父ちゃんが音頭をとって造ったらしく、ぜひ見て来いと言われたからだ。十九世紀末の博覧会のアトラクションのひとつとして造園され、大変な人気を呼んだと言う。閉会後、取り壊すのは惜しいと移民してきた日本人の家族が莫大な費用を何十年に渡ってつぎ込み、現在の規模になったそうな。戦争中は日系人として収容キャンプに隔離され、財産は全て失ったらしい。まるで映画のようなドラマチックな話である。
 マーカスの店に戻ると何だか騒がしい。話を聞くとニューヨークのお金持ちに売却された高価な屏風に剥脱があるとクレームがきたとのこと。こっちの眼を訴えるように見ながら話されるので、どうやら私に行って欲しいのかなと推察はついたが、日本から限度額いっぱい、持ち出してきたドルも底をつきかけている。
 ニューヨークまでの交通費や宿泊代も相当掛かるだろうし、無理やろうなあとは思ったけれど、経費さえ出して下さったらタッチ・アップに行ってもいいですが、と思い切って切り出すと、これが意外なことに大喜びだった。キャンセルになるのをめちゃくちゃ心配していたみたいだ。どうもわれわれには想像もつかないような高い値段で売ったんやないやろか。早速先方に連絡し、費用のことは全然問題ないのでお願いしますと言われた。こっちも内心大喜びである。ハリウッド映画大好き人間の自分としてはタイムズ・スクウェアは憧れの場所だった。サン・フランシコの仇をニュー・ヨークで、だ。
 お店には連絡しておかなくてはとマーカスさんが電話を使わせて下さった。国際電話なんて生れて始めてである。アメリカにいるのにこうして普通に京都の人間と喋れるなんて不思議な気がする。電話の向こうでもアメリカから掛かってきたと騒いでいるのが分る。
 谷山さんがそれはいい事だとご機嫌で承諾して下さったのでほっとした。家内への連絡をお願いして電話を切る。今夜はわくわくして寝られないぞ。

六月五日、ニューヨーク

 乗客出口で待っていてくれたのは黒いスーツを着た貫禄のある男性だった。手に持ったボードにミスター・モリモトと名前がはっきり書かれていなかったら、とても私の出迎えとは気付かなかっただろう。案内されたところに待機していたのは、バカ長い立派なリムジンで、お偉方やスターが乗るのに相応しいような車だ。感動して喜ぶ人間もいるやろけど、正直ため息をついてしまった。吊るしの背広に貧弱な旅行カバンの人間が乗ればまるでピエロや。
 こっちの気持ちが分ったのか、相手も苦笑いしながら、ちょっと肩をすくめてくれる。いくらか気も晴れたので、こうなりゃリムジンの乗り心地を楽しむことやと割り切って乗り込む。今日は真っ直ぐホテルまでお送りして、明日朝十時に又お迎えに参りますと言うので、どこのホテルですかと聞くと、返ってきた返事が「プラザです」。
 今度は心底げんなりしてしまった。プラザと言えばフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」に登場するアメリカ一有名なホテルじゃないか。近くで降ろしてくれ、歩いて行くからと頼んだのだが、一笑されてしまった。私が怒られますときっぱり言われるとそれ以上はどうしょうもない。だが実際ホテルの立地状態を知っていればケンカしてでも降りただろう。
 なんとなく東山の都ホテルのように奥まったところにあるイメージを持っていたのだが、いきなり着きましたよ、と言われて「えっ」と慌てて見れば、なんと人通りの多い歩道をはさんで、すぐ玄関。ドライバーはドアを開けようと急いで車を出ていき、派手な服装のドア・マンは出迎えに玄関の階段を駆け下りてくる。歩道の通行人は立ち止まってリムジンからどんな有名人が降りてくるのだろうと注目している。一気に頭に血が上ってきて、訳が分からなくなった。
 実はそれからフロントでチェック・インしてから部屋に落ち着くまでの記憶が今もない。ドライバーにはお礼を言ったと思うし、ドア・マンにはチップをとポケットをさぐった気がするが、まったく思い出せない。
 ホンマに今日は疲れた。早めに寝てしまおう。

六月六日

 快晴。朝食前に散歩でもと外に出て、あたりを見回して驚いた。なんとセントラル・パークの東南に面してホテルがある。そりゃ大勢の通行人もいたわけだ。クラシックで格好いい建物だ。昨日は周りがまったく見えないほど上がっていたので、気がつかなかったが、入り口に見覚えがある。ヒチコックの映画「北北西に進路をとれ」に写っていたと思う。こんな凄いホテルに泊まれるなんて夢のようである。ぶらぶら公園を歩いているとニューヨークへ来たんやなあと初めて実感がわいた。なんだか空気の味まで違う気がする。
 十時ちょっと前に玄関に出てみるともう昨日のリムジンが待っている。慣れというのはオソロシイもので素早く乗り込んでしまえばどうってことはない。たった数分走っただけで、やはりセントラル・パークに面したお客様のアパートメントに着いてしまった。これならホテルから公園沿いに真っ直ぐ歩けば済むことだ。明日からは迎えはいらないとお断りしよう。こちらで言うアパートメントは我々が馴染んでいるアパートじゃないと頭では分かっていたが、堂々たる十二階建てのビルで圧倒される。
 重厚なドアを開けると管理人らしい男性がいてジュリエット・クレーンさんと、マーカスさんに教えられた名前を告げると、もう連絡がついているらしく、十二階へと言われる。何号室ですかと尋ねると笑って、行けば分かりますとエレベーターまで案内してくれた。十二階に着くと三十過ぎぐらいの、優しそうな女性が微笑みながら待っていて、ジュリエットさんのお世話をしているドロレス・クロスですと挨拶してくれた。びっくりしたのは(何だか驚いてばかりいるようだが、事実そうなので仕方がない)エレベーターを降りたところがいきなり大きなエントランス・ホールだったことだ。普通は各部屋に通じる廊下があるはずなのに。
 キョトンとしていたのだろう、クロスさんが説明してくれた。このフロア全てジュリエットさんのものらしい。想像も出来ないお金持ちのようである。なるほど、マーカスご夫妻があれほど泡を食っていたのも無理はない。ヘリンボーン模様の床には見事な絨毯が敷かれ、おそらくフランスの年代ものと思われる趣味の良い家具調度で統一されたホールは気品があり、落ち着いたいい感じだ。複雑なデザインが刻まれたしっくいの天井からはシャンデリヤがさがっている。
 壁際にはロココ風の木彫りで飾られた大理石の暖炉があり、その上に掛かっている印象派の絵画に見惚れていると、いったんひっこんでられたクロスさんが出て来て、残念ながらジュリエットさんはお目にはかかれませんが、屏風は隣室にありますので、どうぞご自由に仕事をなさって下さい、何かご用があればどうかわたしにと言われた。願ったりかなったりである。仕事をしているのを側で見ていられるほど厭なことはない。
 さっそく隣室に案内された。こちらもエントランス・ホール以上に素晴らしく、宮殿の一室のような雰囲気だ。部屋の中央には楕円形のマーブル・トップのテーブルとシンプルで座り心地の良さそうな椅子が置いてある。どうやらこの豪華なアンティークのセットは私の画材置き場に使えということらしい。こんな所で仕事をするとは何と贅沢な経験だろう。いい土産話が出来たなと思いながら、置いてあった屏風を開いてビックリした。
 洛中洛外図の舟木屏風だった。夢を見ているのやろかと一瞬思った。
 重要文化財に指定されている日本美術史上最も有名な屏風のひとつだ。ありえへん。近寄って詳しく調べてみた。金箔も岩絵具も江戸初期のものだ。画風も岩佐又兵衛の力強さがあって模写したような弱々しさはない。又兵衛自身が中心になってその工房で同じ屏風を並行して製作していたとしか考えられない。確かに剥脱はあちこちに広がっている。しかし現在日本にある舟木屏風よりはるかに状態はいい。
 その時、ふっと思いついた。「後妻打ち(うわなりうち)」はどうだろう?先妻とその一族が後妻に暴行を加える情景やけど、舟木屏風では肝心の後妻の上半身の部分が剥脱しているのだ。今ここニューヨークにあるもうひとつの舟木屏風には残っているやろか。残ってたのやねえ、これが。必死で抵抗する赤い着物の後妻の表情が生きいきと描かれている。そうするとこの屏風の持つ価値は日本美術界にとって計り知れないほど大きい。
 一番いいのはタッチ・アップを中止し、お客様に事情を説明してその判断に任せることだ。だがキャンセルになればマーカスさんには大きな痛手だ。夫妻の様子を見れば、この売り上げが大きな意味を持っているのは間違いない。タッチ・アップには賛否があるが、作品のオリジナリティを損なわない自信はある。三十分ほど考えたが、決心して持参した道具を広げた。始めると夢中になって、ノックがあるまでお昼になっていたのを気がつかなかった。
 クロスさんがサンドウィッチにサラダとコーヒーを添えたトレイを持って現れた。四、五才ぐらいの女の子と一緒だ。恥ずかしそうにモジモジしているが、ハローと笑顔で挨拶してくれてとても可愛い。ミランダというクロスさんの娘さんだ。自分にも同じぐらいの娘がいますよと言うとクロスさんの顔がパッと明るくなって、トレイを置くと座り込んでしまった。サンドウィッチを食べながらあれこれお互いの娘たちの話をしてすっかり仲良くなる。ドロレスと呼んで、と言われる。
 ミランダが興味深そうに屏風の絵をみているので、画面の中で面白そうな人物を、あれは魚を獲っているところ、これは猿回し、このひとたちは桜の花を見ながら踊っているんだよなどと説明してやると絵本を見ている感覚なのだろう、夢中で引き込まれている。ふと思いついてミランダの絵を描いてあげようかと言うとふたりとも眼を輝かす。紙を貰ってスケッチし、日本のキモノを着た様子にする。彩色するとわれながら満足のいく出来栄えになった。ミランダは飛び跳ねて喜ぶし、ドロレスもにこにこしている。こんなことで喜んでもらえると自分も嬉しい。
 四時過ぎに仕事を切り上げる。車をと言われるが、せっかくのニューヨーク、歩いて行き来したいとお願いする。ふたりでエレベーターの前まで送ってくれるが、ミランダが小さな両手を上げて、来て、来てと手招きするので、かがむと首筋に抱きついて頬っぺたにキスしてくれる。心がきゅっとする。エンジェル・キッスやねと言うと、照れて紅くなって本当に天使のようだ。管理人の男性にもじゃあ、又明日と手を振り、五番街をぶらぶら歩いて帰っているとひとかどのニューヨーカー気分や。
 シャワーを浴びてすっきりしたのでいよいよ待望のタイムズ・スクエアに出かける。地図で見るとジュリエットさんのアパートメントとはちょうど正反対の方向だが、距離は同じぐらいなので歩いていった。あんなに期待してたのにいざその場に立ってみると、ああ、そうか、ここがタイムズ・スクエアかぐらいの感慨しかなかったのは昨日からあまりに目まぐるしく色々なことがあって普通の精神状態ではないからだろう。
 タイミングが悪かったんや。通りすがりに中華レストランを見つけたので、久しぶりに米のメシが食べたくて、チャーハンを注文した。量が多い上に、油っこくていただけない。早々にホテルへ引き上げる。

六月七日

 今日も快晴。五番街を歩いて行き、少し早めに着いてしまった。ドロレスが「グッド・モーニング、イスケ!」と笑顔で昔からの友だちのように迎えてくれる。コーヒーはと聞かれたので、よければキッチンでお喋りしながらと答えると、勿論オーケーよと案内してくれる。仕事場の部屋と反対側のドアを開けるとすぐキッチンだった。ピカピカに磨かれた調理器具がきちんと整理されてるが意外に広くない。見回していると、コーヒーを出しながらジュリエット様はおひとりなので、これで充分なのと説明してくれた。ミランダはと尋ねると今日は自宅でおばあちゃんと一緒にいるとのこと。ちょっとがっかり。昨夜はあのキモノ姿の絵をみんなに見せてまわり、イスケ、イスケと騒いでいたらしい。そんなにモテたのは生れて初めてだと目をむいてみせるとドロレスは大笑いする。
 つい調子に乗って、ご主人は何を?と尋ねてみた。ミランダの父親は彼女が三つの時に出て行ったきり戻ってこないのとあっさり答えてくれたが、返す言葉に詰まってしまった。あんな天使のような子を置いてなあと信じられない。
 お昼になってランチを持ってきてくれたドロレスが興奮気味だった。ジュリエット様が仕事を見たいと言っているらしい。彼女が人に、それも男性に会うなんて滅多にないと言う。「ミランダのせいよ」あの小さな天使は、絵を持って女主人のところへ飛んで行き、日本からやって来た紳士(ドロレスがそう言った)のことをえらく持ち上げてくれたそうな。ちょっぴりくすぐったい気持ちだ。私は何時でもいいですとお伝えして下さいと頼む。出て行く時にドロレスは振り返って、「ジュリエット様は十年以上、このアパートメントから外へは出ておられないの。とてもシャイだけど、素敵でチャーミングな方よ」と片目をつぶって見せた。ビックリした。一年、二年ならともかく、普通の人間がそんなに長く自宅に閉じこもっておれるものだろうか。いったいどういう人なのやろ。あんまり変人だったら嫌だな。仕事を再開して三十分もたった頃だろうか、エントランス・ホールとは反対側のドアが軽くノックされた。どうぞ、と声をかけると、その人が入って来た。
 この世の人とは思えない美しい女性だった。
 長い金髪を背中へ垂らし、シンプルで細身の、プリーツの入ったロングドレスをまとい、両手を前で軽く合わせて立っている。古い家具調度のかたわらにたたずむ彼女は、壁に掛かっているどの絵画よりも魅力的だった。「イスケ モリモトです」私は深く頭を下げた。とても、初めましてと近づける雰囲気ではなかった。
「ジュリエット・クレーンです」低い声が返って来た。騒がしい往来だったら聞こえなかっただろう。
 そのまま立ちすくんでいたが、近くでご覧になりませんかと手振りで誘ってみた。小さく首を振られたので、又仕事に戻ることにした。最初は背後の彼女が気になったが、仕事に集中するにつれ、意識の外に出ていった。だからいきなり「その人たちは何を争っているの?」とすぐ側から声がしたのでびくっとした。何時の間にかジュリエットさんは近くまで来て、屏風の画面を覗き込んでいたのである。「あ、ごめんなさい。急に声をかけて」と丁寧にあやまられ、かえって恐縮してしまう。マーカスの話では私より五、六歳ぐらい年上のはずだが、近くで見ても実に若々しい。彼女が指しているのは、ちょうど昨日見ていた「後妻打ち」だ。少しためらったが、ここは正直に話した方がいいだろうと思った。
「この時代は離婚された先妻が、その元夫が新たに迎えた後妻を、家族や友人を加勢にして路上で襲うことがよくあったみたいです。棒を振り上げているのが先妻で、抵抗している赤いキモノの女性が後妻です。まわりには止めに入ろうとする人や、はやしたてている者もいて大騒ぎですね」
 大変興味深そうに熱心に聴いている。こもり切りの隠者とはとても思えない。それからせきを切ったように、あれこれと質問が始まった。意外なことに彼女は昔の京都を実に良く知っていた。
 さすがに通りや場所の名前は分からないようだったが、すぐ見分けられる清水寺、御所、二条城などの建物は説明するまでもなかった。五時近くまですっかり話し込んでしまい、ドロレスがどうなってるのかと見に来るまで、仕事は中断したままだった。
 慌てて帰り支度をしだすと、ジュリエットさんと話していたドロレスが目を丸くして近づいて来た。「イスケ。ジュリエット様が、夕食をご一緒にっておっしゃってるわよ。まあ、一体どうしたんだろうね、彼女は」 どうせホテルへ帰ってもわびしく一人で食べるだけだし、有り難いことですと喜んでお受けする。
 ダイニングに使われているのはキッチンの隣の小部屋だった。床と壁の腰板には美しい木目の板がはられ、小ぶりの暖炉が壁の中央に取り付けられていた。壁にはルノワールの絵が一点だけ掛けてある。部屋の中央には黒光りするどっしりした木のテーブルがあり、置かれた東洋風のシルクのプレース・マットが良くマッチしていた。ドロレスの手料理はどれもとてもおいしかった。普通のアメリカ人が取るディナーにしてはシンプルかなと思ったが、あれでもイスケがいるので普段よりはずっと多めだったのよと後でドロレスがそっと教えてくれた。
 食事の間、ジュリエットさんはとても素晴らしいホステスだった。緊張気味の私を見て取り、料理を持ってくるドロレスと冗談をかわしたりして、気を使ってくれる。話をするのがとても楽しく、次から次と話題が途切れない。絵や音楽が好きで、自分でもなさるらしい。絵はくろうとハダシですよ、とたまたま入って来たドロレスが言うので、ぜひ見せて下さいとお願いすると、ノー、ノーと手を振って若い娘のようにうつむき、赤くなる。チラっと上げられた青い眼に視線が合って息が止まりそうになった。
 ホテルへ帰ってきて、こうして書いていても、あの瞬間の彼女の表情が焼きついていて離れない。

六月八日

 曇り空で雨が時折ぱらつく。今朝もドロレスは笑顔で迎えてくれたが、何処か陰があるように思うのは気のせいだろうか。アメリカへ来て一番美味しかった料理ですと昨夜の礼を言うと、顔をくしゃくしゃにして喜んでくれる。今日もミランダは来ないのと尋ねると、来たがったんだけどねと口をにごして理由はハッキリ言わない。私がジュリエットさんと仲良くなり、会話が弾んでいるので、じゃまにならないようにと気を使っているのやろか。そうだとしたらミランダが可哀想や。
 昨夜の遅れを取り戻そうとタッチ・アップに集中しようとするが、ついジュリエットさんが来られるドアを見てしまう。午前中はお見えにならないのかなと思い始めたとき、ノックの音がした。心臓の鼓動が一気に激しくなる。どうぞとかけた声がうわずっているのが分かる。
 今日の彼女はブルーのドレスに淡いピンクの茶羽織をアレンジしたようなシルクのガウンが良く似合って、見惚れてしまう。宮殿のように素晴らしかった部屋が色あせて感じられる。「グッド・モーニング、イスケさん」と近づきながらガウンのえりをちょっとつまんで、「日本で特別にあつらえたのよ」得意気に言われる様子が飛んでいって抱きしめたいほど可愛い。よくお似合いですと言った声が震え気味で、恥ずかしい。
 このままではジュリエットさんに変に思われるから、何とか仕事に集中しなくてはとあせる。失礼して仕事を続けますと断って屏風に向かう。手が細かく震えているのが分かるので、線を描くのはあきらめて、塗りつぶす部分に取りかかった。またあれこれ聞かれるが、手を止めないで説明する。だんだん話しかけられるペースが落ちてきたなと思っていたら、静かになった。突然、イスケさん、何か怒っていらっしゃるんですかと彼女が言ったので、ビックリして振り返ると、うるんだ青い眼で見詰めている。慌てて絵筆を放り出して向き直った。
「とんでもない。どうしてそんなことを?」「だって、昨日とは様子が違うもの」「遅れてしまった仕事を取り戻そうとしているだけです。本当です。怒るわけないじゃないですか」と必死になる。そんな想いをさせてしまったのか、なんとバカな男やと自分が情けない。何とか機嫌を直してもらおうと、お描きになった作品を見せてもらえないかなとずっと考えていたんですと言った。
 顔がぱっと明るくなった。そんなことで無口だったのね、いいわ、さあと一瞬だが、手を取られた。柔らかい感触で、ゾクッとした。正直仕事なんぞどうでもよくなった。ジュリエットさんが出入りされているドアへ向かう。なんだか妖精に導かれて、禁断の世界に入っていくような不思議な気分である。ローレライの伝説ではないけれど、この部屋に戻ってこられるやろかと、思わず振り返って仕事を放り出したままの屏風を確かめてしまった。
 最初の部屋はライブラリーだった。見事なキャビネットがずらっと並び、ぎっしりと本が詰まっている。通り過ぎながら見たので良く分からないが、日本についての本がかなりあるように思えた。次の部屋は入った途端に、うわぁと声を上げたほど素晴らしいドール・ハウスのコレクションであふれていた。専門外だが間違いなくトップ・クラスのアンティークばかりである。「フランスにいた頃に母と一緒に集めたの」ジュリエットさんは立ち止まって見回しながら言う。お母さんはフランスの方だったんですかと聞くと、うなずいた彼女は私を見詰めた。「イスケさんは私の父、ウイリアム・クレーンについて何か知っていますか」顔がカーッと赤くなった。この質問の仕方では、アメリカでは相当名前の知られた人物に違いない。しまったな、誰かに聞いておくべきだったと後悔した。恥ずかしいですけれど、全く何の知識もありません、すみませんと素直に謝った。彼女はキッパリと首を振った。「とんでもない。私にはその方が嬉しいのです」心から言ってられるようだったのでホッとした。
 ジュリエットさんの描いた絵は床の上に、壁に立てかけて置かれていた。十数点あったが、アパートメントの窓から描いたセントラル・パークの風景の数点以外は全て彼女の自画像である。 何枚かはキモノを着ていた。芸妓姿にふんしたものもある。一点、一点ゆっくり見ていったが、クロスの言ったことは本当だった。どの絵も素晴らしかった。ことに自画像は怖いほどの純粋さが現れていた。触れれば砕け散るようである。私が黙って見ているので、ジュリエットさんは居心地が悪そうにしていた。
「いいですよ」「本当ですか」私はすぐ側に立っていた彼女を見た。
「素晴らしいです。あなたの絵を見て、ある日本の有名な先生の作品を思い出しました。私が大好きなその画家は光りを大切にするんです。だから彼の描く女性には大きな特徴があるのですよ。光りをうつす純粋な瞳です。その画家はー」途中から眼を輝かせていたジュリエットさんは、たまりかねたように私の腕にすがりつくと叫ぶように言った。「リョウヘイ、でしょう。リョウヘイ コイソ。私も大好きなんです」驚いた。そして感動した。お気に入りの小磯良平の名をまさか彼女の口から聞くとは思わなかった。ジュリエットさんは私の眼を覗き込んでニッコリした。
「リョウヘイ・・・イスケ・・・あなたもキレイな眼をしてるわ」彼女の吐息がかかる。
 ガマンが出来なかった。彼女を抱きしめて唇を求めた。突き飛ばされるだろうと覚悟していたが、驚くほど激しく応えてきた。どこにそんな力があるのだろうと思うぐらい強く彼女の細い両手は私に巻きついた。花の蜜を吸っているような長いキスだった。私たちはじっと抱き合い、何度もキスを繰り返した。どれほどの時間、そこにいたのか分からない。屏風の部屋へ帰りますと私はしゃがれた声で言った。ドロレスが気になったのである。ジュリエットはうなずき、「又後で行くわ」とささやいた。
 戻ってみるとランチだけがポツンと置いてあった。料理は冷めていた。食欲はなかったが、押し込むようにして食べた。仕事を続けていると肩に手が置かれた。振り返り、そっとジュリエットにキスをする。仕事を止め、そのまま屏風をふたりで眺める。ジュリエットは京都を良く知っているね、行ったことがあるのと尋ねた。ドロレスは十年以上このアパートメントを出たことはないと言っていたが、少女時代なら機会があったのかもしれないと思ったからだ。彼女は謎めいた微笑を浮かべた。「私の好きな京都には行けないわ」「それは京都のどこ?」「場所ではなくて、昔の時代。アメリカ人がやって来る前のミヤコ」眼は屏風に向けているが、どこか遠くを見ている。
「私が十三の誕生日に父がエドのドール・ハウスを買ってくれたの」「エドってメーカーの名前?」「違うわよ。メイジの前のエド。日本のアンティークのドール・ハウスってこと」「江戸時代に日本にドール・ハウスなんかないよ」「ありますとも。素晴らしく精巧な、すべて木でこしらえたパレスのドール・ハウスよ。それに天皇や皇后、お仕えする人たちから楽士たちまで信じられないほど可愛い人形がついているの。イスケはガールズ・フェスティバルを知らないの」やっと分かった。ヒナ祭りのことや。ジュリエットがプレゼントされたのは、大変珍しい御殿飾りだろう。今じゃ日本でも博物館に行かなきゃ見られない。
「そのプレゼントが届けられた時、とても不思議なことが起こったの。パレスは組み立て式になっているのは知ってるわね。フェスティバルの短い期間しか出さないんでしょう」
「あれは結構複雑で難しいんだ。一度やったことがあるが、一時間近くかかったよ」
「父と母も途中でギブ・アップしたのよ。組み合わせの箇所も日本語で書いてあったしね。結局、私が組み立てたの。十分もかからなかった。最初に手で触れたときに出来上がったパレスが見えたの。まるで、そう、昔ずっと遊んでいたようにね。それからはほとんど手が勝手に動いたわ。この部分はあそこ、これはこっちというように。最初は笑っていた父と母が何も言わなくなった。完成したパレスに人形もそれぞれの場所に自然におさまった。気が付くと私は日本人のように膝をおって座っていたの。父は黙って出て行き、母は私に優しくキスしてくれて言ったわ、ジュリエット、あなたは日本の女の子の生まれ変わりねって」急に広いアパートメントの静けさが感じられた。
「それで手当たり次第に日本の本を読み始めたの。おとぎ話、伝説、歴史、それからあの素晴らしいアートの世界、何もかも身体にしみこむように入ってきたわ。長い、長い旅路のあとでふるさとへ戻ってきたようだった。私は間違った場所、時代に生れてしまったんだと分かったの。今でもそう信じている」自画像そのままにジュリエットはキラキラと瞳を輝かせた。
「私が娘の頃の日本は分かるでしょう、イスケ。木の家を壊してコンクリートにし、軍艦や飛行機、大砲をせっせと造っていたの。世界と戦争をするためにね。ペリーが行って変えてしまったのよ」
 ヨーロッパではナチスが侵略を始めた頃ではないか。確かに日本へ、京都へ来るのはためらわれたかもしれないが、理由はそれだけではないような気もする。「私は二十の時に一度結婚したの。父は亡くなっていて、母が勧めてくれた相手だった」このアメリカでそんな封建的な結婚が?ちょっと信じられなかった。「ジュリエットはそのひとを愛していたの?」ジュリエットは首を振った。「母も私もあまり社交的ではなかったから、面識がある若い男性って、本当に限られていたのよ。彼は父の仕事仲間の息子だった。いい人に見えたのよ。私より母が気に入っていたから、仕方がなかった」「断ればよかったのに。そういう点ではアメリカは日本と違ってもっと自由だと思っていたけど」ジュリエットは哀しそうな笑みを浮かべて私を見た。「親に逆らうようなことが私に出来たと思って?」
 正直いってジュリエットの決断が今の日本の女性の共感を呼ぶとは思えない。ただ結婚が破局したあと、母娘がアパートメントに閉じこもってしまった気持ちは何となく理解出来た。当時ふたりの周りに渦巻いていた欲望の群れは凄まじかったのだろう。そんな流れに立ち向かい、乗り切るのには彼女らはあまりにもか弱かったのだ。母がこの世を去った後は、ひとり残されたジュリエットの心のよりどころはなんだったのだろう。彼女にとってはシャングリラとしか思えない古き良き日本のミヤコだったのだろうか。
 仕事が終わるとドロレスは当然のように夕食の準備を始めた。ジュリエットは着替えに行ったので、キッチンで待つことにする。お父さんのウイリアム・クレーンてどんな方と彼女に訊いてみた。えっ、知らないのと眼を丸くする。知りませんよ、日本じゃ聞いたこともないよと答えると、逆にへぇー、そうなんだと感心する。「じゃ、ロックフェラーは?」「それぐらいは知ってるよ。全米一のお金持ちだろう」ドロレスは少し声をひそめて、「クレーン様はね、二番目だったんだよ」ひえー、と今度はこちらが眼を丸くする番だ。「何の仕事をなさっていたの」「鉱山王よ」
 どうしてロックフェラーほど有名ではないのと尋ねると、うん、まあ、と生返事だったので、これは聞かない方がいいのだなと止めておいた。それでもポツ、ポツと話してくれたことによると、鉄道や銀行を経営して莫大な資産をなし、最後は上院議員にまでなられたらしい。ただその政界入りがスキャンダルになったようである。
 ジュリエットは金色のサテンのドレスに紫のショールで現れた。輝くばかりの美しさで息を呑んでしまう。ちょっと近寄りがたさがあって、この人と少し前にキスをかわしていたとは信じられない。
「ジュリエット様、とても、とても素敵ですよ」ドロレスも見惚れている。「やっぱり女性は・・」とつぶやきながら、チラと私の顔を見てキッチンに消える。ちょっぴり男心をくすぐられてしまった。
「本当にキレイだね」「ありがとう」と天女のような甘い笑みを浮かべてはにかむ。夕食は楽しかった。ジュリエットはよく笑った。時々お互いに手を伸ばしてテーブルの上で重ねる。ハリウッド映画でよく観るシーンだが、まさか自分が、それもニューヨークのど真ん中で経験するとは夢にも思わなかった。一瞬、日本にいる妻子の顔が横切ったが、これぐらいならいいだろうと無理やり心から閉め出す。ドロレスがコーヒーを出してくれる頃には、流石にジュリエットも口数が少なくなっていた。今日は疲れたのだろう、そろそろ引き上げなくてはと思った途端に彼女が思いがけないことを言い出した。
「イスケ、ホテルに帰っても寝るだけだし、ここで泊まっていけば。部屋はいくらでもあるわよ」
 わざとさり気なく喋っているが、顔は上気してこわばっていた。思わずドロレスの顔を見た。硬い表情をしている。夕食がすんで、彼女が帰ってしまえば、ジュリエットとふたりきりだ。胸が早鐘のように打ち出した。どうしよう。そうですねと時間稼ぎにつぶやく。結果はどうあれ男としては帰りたくない。妻子の顔がちらつく。それにここは仕事場で、彼女はお客様じゃないか。でもこんな機会は生涯二度とないだろう。「有難うございます。片付けもあるし、やっぱりホテルに帰ります」口から出たのは想いと正反対の言葉だった。「そう」ジュリエットは微笑んだ。顔が一気に青ざめた。
 では、叉明日、おやすみなさい、と立ち上がる。ジュリエットは軽くうなずいただけで、動かなかった。ドロレスに送られてエントランス・ホールへ向かいながら、激しく後悔していた。ジュリエットが可哀そうでならなかった。女として言い出すのにどれほどの勇気を振りしぼったことだろう。それを目の前でピシャリとドアを閉めたのだ。もっと言い方があったやろ。そもそもキスをしかけたのは自分やないか。なんちゅうアホや。エレベーターの前から引き返そうとした。それを見越したように彼女が言った。「イスケ、あれでよかったのよ」
 ちっともよくなかった。ホテルに帰ってからもずっと落ち込んでいた。シャワーを浴びようと支度を始めた時に電話が鳴り、飛びついて取った。ドロレスだった。ジュリエット様の様子がおかしいから、ちょっと来てくれないかと言う。ホテルを飛び出し、ニューヨークで初めてタクシーを利用してアパートメントに戻った。
 ドロレスはエントランス・ホールで待っていた。呼び戻してゴメンなさい、でも何だか心配でと気がかりそうな表情だ。ジュリエットは屏風の前にずっと座ったまま喋らないと言う。帰りますと挨拶してもうなずいただけらしい。分かった、と落ちつかせて、軽くノックしてドアを開けた。ジュリエットは桃山時代の小袖をガウンのように着て、横坐りでぼんやり屏風を見詰めている。屏風の画面から抜け出した女性が休んでいるように見えた。
「イスケ!どうしたの」私を見て驚いた顔をする。ちょっと忘れ物をしてと答えた。後ろからドロレスが顔をのぞかせたらしい。「ドロレスが呼んだのね」私はジュリエットの側に同じように横坐りした。ドアのクロスを見て、目顔でここは任せてと合図する。彼女はうなずいて、そっとドアを閉めた。
 身を寄せ合ったまま黙って坐っていた。静かだった。ふたりを取囲むように屏風に描かれた洛中の世界が広がってくる。そのうちにかすかな話し声や足音が聞こえてきて、しだいにざわめきが大きくなっていった。呼び立てる物売りの声、路上でもつれ合う男女の嬌声、踊る人々の笑いや叫び、奔る馬、カブキや祭りのおはやしも聞こえ、ミヤコは今日も大賑わいだ。
「ここは騒がしいね。帰ろうか」ジュリエットはコクンとうなずく。手をかして立たせてやった。屏風から遠ざかるにつれて喧騒は消えていく。部屋を次々と通り抜け、やっと寝室にたどり着いた。
「疲れただろう」
 にっこりして首を振ると小袖を脱ぎ捨てて横たわる。私も衣服を脱いだ。ジュリエットは迎えるように両手を伸ばし、ふたりはひとつになった。

六月九日

 ぐっすり寝ているジュリエットを起さないようにそっとベッドから抜け出した。寝起きの顔でクロスに会うのだけは絶対イヤだった。タッチ・アップに取り組んでいるとドロレスがドアを開けてのぞき、意外そうな顔をした。「グッド・モーニング、イスケ。昨夜はゴメンね。あなたが帰ってからずっと思いつめた様子で怖かったのよ。あんなジュリエット様を見たのは初めてで、どうしていいのか分からなかったし」「いいんだ。気にしないで。電話してくれて良かったよ」ジュリエットはよく寝ているし、安心してと言うと、ホッとしたようだった。
 仕事をしている私の横に立ち、あとどれくらいかかるのと訊いたので、今日中には終わらせようと思っていると答えた。朝食の支度をしてくるわと言ってからそっと私の腕に手をかけたので、絵筆を止めた。「あなたの娘をミランダにしないで」「うん。分かっている」
 ドロレスがドアを閉めるとどっと涙があふれてきた。こらえきれずにしゃがみこんで嗚咽した。何時の間に来たのかジュリエットがうしろから包み込むように身を重ねてきた。頭を私の背にもたせかけたまま、じっとしている。彼女も泣いているらしい。
「行くのね」とつぶやいた。「ああ」「何時?」「明日」「今夜は?」「追い出したいのかい?」「バカね」ジュリエットの手にそっとキスをした。「ドロレスが待っているよ」立ち上がって向き合った。「ひどい顔をしているのね」「君もだよ」「いいのよ。人は泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑うのが自然なんだから」
 タッチ・アップの仕事は三時過ぎに終わった。ジュリエットは十二階の全てを案内してくれた。豪華な御殿飾りは最も大きながらんとした部屋にポツンと置いてあった。美しいモザイク模様のフロアで、ジュリエットの結婚を機に舞踏会のためのボール・ルームとして改装されたのだが、実際使用されたことはなかったらしい。この御殿飾りもマーカスから買ったのと聞くと、ジュリエットはうなずいた。
「イスケがキョウトで働いているのはマーカスと同じような店なのね」「うん。どちらの店も十九世紀から続いているんだよ」「あなたはこのパレスのようなものを造れる人を知っている?」「ああ。指物師(サシモノシ)といって木の細工の得意な職人さんがいるから、こちらからちゃんと指示してやれば問題ないよ。一体何を考えてるの?」
ジュリエットは広いボール・ルームの真ん中へ進み出してくるりと一回転した。 
「ここへ私のミヤコを造るのよ」ああ、そういうことか。「ドール・ハウスのように?」「そう。城や、お茶屋や、色々なお店、もちろん普通の住いもすべてね。最初はカブキ・シアターにしようかな」ジュリエットはさり気なく付け加えた。「オーダーはマーカスを通しましょうね」ほっとした。マーカスさんは私を信頼すればこそ、大事な顧客であるジュリエットのところへ送り込んでくれたのだ。板ばさみになって私が困らないようにとのジュリエットの気遣いがたまらなく嬉しかった。
「ホントはね、朝ベッドで目をさました時、あなたを死んでも離さないと決心していたのよ。出来ると思っていたし、そのためには何でもするつもりだった。でもうずくまって泣いている後姿を見てハッとしたの。母は人生で本当に大切なものはお金で買えないといつも教えてくれていたのに」
 その夜、ジュリエットが寝入ったのを確かめて、そっとベッドを抜け出した。私がやろうとすることは芸術に対する冒とくとして許されるものではない。構わなかった。何と言われようともやるつもりだった。二時間ほどかかったが、私は満足してベッドに戻った。

六月十日

 朝、ジュリエットを屏風の前へいざなった。「許しも得ないで勝手なことをしてしまったんだ。どうしても描かずにはおれなかったんだよ」私は清水寺の舞台の片隅に又兵衛のタッチを真似ながらふたりの人物を描き足していたのだ。かつぎを被った南蛮人の女性と彼女を見守る日本人の男性だった。細心の注意を払って時代を付けておいたので、彼らは屏風に描かれた京のミヤコの人々に完全に溶け込んでいた。「これは私で、こちらはイスケね」ジュリエットの眼に涙があふれ出した。
「怒っていない?」彼女はむせび泣きながら、すがりついてきた。
「怒るものですか。私たちは永遠に一緒なのよ」
 彼女は屏風の前で別れることを強く望んだ。ドアに手を掛けたとき、もう一度顔を見たい思いを必死でこらえた。エントランス・ホールでは嬉しい驚きが迎えてくれた。ミランダがドロレスと待っていたのだ。「イスケ!」と飛びついてくる。抱き上げると、また頬にキスをしてくれる。ドロレスも涙を浮かべて両手を広げるので、三人で抱き合うような形になってしまう。ほんまにいい人たちばかりや。また来ますと言えないのが悲しいし、つらい。 
 何とか別れをつげて五番街に出た。ホテルに向かって歩き出したが、途中で一度立ち止まってアパートメントを振り返った。十二階の窓辺に人影が見えたように思ったが、光りが反射してよく分からなかった。

 映画を観てもすぐ感激する浩二は目を赤くしていた。
「いやあ、伊助さんにこんなラブ・ロマンスがあったとはねえ」
 恵美は持っているのが汚らわしいとばかりに日記を放り出した。むすっとして機嫌が悪い。
「ホンマに男って美人の涙には弱いのねえ。あきれた。後半はまるで愛の告白やない。恥ずかしげもなく、べたべたと。伊助さん、自分に酔っているわ」
「うん、まあ、若かったんやし、別に見せるつもりで書いたわけじゃないだろうし」
「若いといったって浩二さんと似たり寄ったりの年の頃でしょう、いやに肩を持つのは共感するところが多いわけ?」
 とばっちりがきそうなので、浩二は泡を食って話題を変えた。
「あのふたりはやっぱり彼が描き加えたんだ。困ったことをしてくれたよ」
「屏風はジュリエットさんのものだし、それが少しでも彼女の慰めになったのなら、私は目をつぶりたいわ。とにかくつまらない結婚相手を選んだ親が悪いのよ。娘のことはもっと理解してあげなくちゃ」
 恵美は、ジュリエットには多大のシンパシーを抱いているようだ。
 浩二はサイド・テーブルから携帯を取って操作し、耳にあてた。
「伊助さん?」
 恵美が訊くとうなずく。
「ダメだ。着信拒否をかけている」
 携帯を放り出した。恵美も自分の携帯を取り出し、試してみたが、やはり首を振った。
 浩二は大きくため息をついた。
「弱ったなあ。このままほって置くわけにもいかんし。まさか滅多なことはしないだろうけど・・・・ニューヨークへ行ったって、いったい何が出来るんや。病院へ行っても、不審者扱いで追っ払われるだけだよ」
 恵美がにっと笑って浩二を見た。何か思いついた時のクセだ。
「ね、ジュリエットさんのメイドを、ボブはミランダって呼んでいたわね。母娘二代で仕えていたって。それってほら、例のエンジェル・キッスの子でしょう?」
「あ、そうか。じゃあ伊助さんのこと、憶えているかも」
「日記どおりなら、小さい子でも強烈な印象を残していったはずよ。伊助さんもそれに唯一の望みをかけて、ニューヨークへ向かったのじゃない。ボブに聞けば、ジュリエット宅の電話番号を教えくれるわ。掛けてみようか?」
 恵美の意気込みとは逆に、浩二は渋い顔をした。
「いくら親しくっても、FBIのエージェントが個人情報を教えてくれるとは思わないし、何よりも理由を訊かれるぞ。まだ伊助さんのことは、そっとしておきたい」
「じゃあ、マーカスさんに聞くのは?」
 浩二は激しく首を振った。
「もっと駄目だ。事情はどうあれ、商売相手にそのお客様の電話番号など尋ねるなんて絶対許されないことだよ。『谷山』の名前にかかわる」
 二人ともしばらく黙り込んだ。
「伊助さんはニューヨークへ着いたら、先ずどうすると思う」
 恵美が口を開いた。
「ウーン、取りあえずジュリエットのアパートメントへ行ってミランダに逢おうとするやろ」
「では管理人に接触する可能性は非常に高いわね」
「ああ」
 ふたりは顔を見合わせた。
「となると、またお助け娘、恵美の出番てこと?」
「頼めるかな」
「イエス・サー!」
 恵美は立ち上がり、ふざけて敬礼をした。
「ね、ついでにニューヨーク・タイムズに事件のこと、チクッてお小遣いを稼いでこようか」
「おっ、そいつはいいな」浩二も調子に乗る。
 武田美術館の事件は「琵琶湖湖畔の美術館で銃撃戦、密輸入をめぐり」として日本ではかなり大きく報道されたが、まだクレーン家がらみのことは伏せられていた。
 マコーミックやアイリスによればジュリエットの容態が思わしくないことが知れると、全米、ことにニューヨークで連日彼女のことがマスコミで取り上げられていると言う。
 半世紀以上にも渡って超高級アパートメントに閉じこもっていたことや、一度も使用されなかったふたつの豪華な別荘、莫大な資産などが話題になっているが、私生活のことはまったく謎のままだ。
「こりゃマジで凄いスクープを握っていることになるな。しかも我々は、あの映画顔負けのアクションの当事者なんやから。一応ハリウッド女優も絡んでいるし」
 と浩二は笑ったが、まんざら冗談でもなさそうだ。
「浩二さん! とにかく伊助さんでしょう」
「おっと、そうやった。気をつけてな」
「何事もなければ、二、三日ニューヨークを観て来ていい?この前はトンボ帰りやったし」
「いいとも。ゆっくりしておいで」
 病室には誰もいなかったので、恵美は浩二にキスをした。
「でも早く帰って来いよ、寂しいから」
「了解」
 浩二は調子に乗りすぎていた。

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