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貿易屋、恵美の大冒険-マンハッタンに眠るジャパニーズドールと謎の屏風-第8章-

第八章

 そのひとは海岸にたって青い海を見つめていた。
 遠くに小さく見えていた「ろかい舟」があっという間に近づいてきた。
 白浜に乗り上げた舟から若い男が飛び降りて駆け寄ってくる。
 待った?
 ううん。
 ふたりは手を取り合って森に駆け込む。そこはセントラル・パークだ。
 海って、こんな近くにあったのだ。
 どうしてもっと早く気が付かなかったのだろう。
 森を抜けるとミヤコだった。往来は大勢の人々であふれている。みんなキモノを着ている。
 がやがやと騒がしい。
 突然、まぶしい光があふれ、白い天井が見えた。
 まわりには白いマスクをした男と女がうろうろしている。遠くから呼びかける声も聞こえた。
 いやだ。こんなところには居たくない。
 そのひとはまた目を閉じる。
 ひとりになっていた。あのひとはどこへ行ったのかしら。
 少し離れて立ち止まって彼女を見ている。
 もっと静かなところへ行こうよと言い捨て、スタスタと歩いていく。
 待って。 私をひとりにしないで。
 どうしたのだろう。足が動かない。どんなにもがいても少しずつしか進まないのだ。
 何時の間にか彼はアパートメントのエレベーターで待っている。
 ドアが閉まるよ。
 あせって必死に足を踏み出そうとする。とても近い距離なのに。
 突然エレベーターの中に入っていた。誰もいない。
 エレベーターが動き出した。
 どこまでも、どこまでも上っていく。
 こんなに高いビルだったかしら。
 やっと止まった。
 ドアが開くとミヤコが見えた。
 私のミヤコ。帰ってきたわ。
 そのひとは微笑んだ。
 
 その瞬間、ジュリエットの心臓は最後の鼓動を打って停止した。

 ケネディ空港に到着した恵美はタクシーでプラザ・ホテルに向かった。伊助が泊まっていることは、京都から予約の電話を入れた時に確認している。ジュリエットのためにニューヨークへ向かったのなら、このホテル以外は考えられなかった。
 車窓から迫ってくる摩天楼を見ながら、次こそは浩二さんとのハネムーンでと恵美の夢は広がる。
 天気が急速に悪くなり、雨が降り始めた。
 プラザ・ホテルの玄関は普通に人々が出入りしていた。伊助が感動したというドア・マンの姿は、もう見かけられない。
 チェック・インをすませた恵美は、フロントで伊助が朝から外出したままなのを知った。おそらくジュリエットのアパートメントに行っているのではないか。
 念のために、ホテルの電話を使って彼の携帯にかけてみたが、やはり繋がらなかった。
 ホテルからアパートメントまでは五番街を北へ真っ直ぐとマコーミックから場所と建物の様子は詳しく聞いている。
 五番街を歩いてみたく、行ってみることにした。動きやすいパンツと甲を深く覆うシューズなので雨は気にならない。
 グーグル・マップで外観の写真を見ていたので、建物はすぐ分かった。
ーふ~ん、これが天国に一番近いアパートメントかー
 降りかかる雨にも構わず、恵美は傘を傾け、十二階を見上げた。
 薄暗い雨雲の下、長い年月の染み込んだ灰色の壁を濡らし、無表情にうずくまるビルからは、とてもそんな栄光は感じられなかった。
 恵美はぶるっと身をふるわせた。
 建物自体が巨大な墓標のように見えたのだ。
 一瞬、どうしようか迷ったが、相変わらず彼女の決断は速い。ビルの入り口は五番街を東へ入った通りにあった。首を振って傘をたたむと、見事なアールデコのメタル飾りのついたドアを押した。 
 入ってすぐ左手に小さな受付があり、カウンターの後ろに、ネクタイにジャケットの若い男が立ったまま恵美を見詰めている。笑みを浮かべているが、目は油断なく注がれていた。
 入り口の外で立ち止まった時から、監視カメラでチェックされていたのは間違いない。男のジャケットの裾あたりに、カウンター内にあるモニターの淡い光りが反射している。
 あきれるほど、飾り気のないロビーだった。
 床は立派な大理石だが、壁も天井も白い漆喰で、こげ茶色の腰板が張られ、天井からはシャンデリヤがぽつんと下がっているだけである。
 正面にはアール・デコの木彫で縁取りされたエレベーターがあり、その右手に階段が見えた。
 左右の壁にはそれぞれドアがある。右のドアはどっしりと大きく、一階の居住部分に続くのだろう。左手の受付の横にあるドアはささやかで、明らかに管理人の出入り用だ。
 目の飛び出るほどの高価な美術品や調度類で、自分たちの住いを飾り立てているセレブたちにとっては、共用するロビーなぞは無味乾燥であればあるだけ有難いのに違いない。
 恵美は出来るだけ無難に見えるようにと願いながら近づいた。妙な小細工はせず、正面から当たってみることに決めていた。
「今日は。私は日本から着いたばかりで、エミ・ヤマザキといいます。プラザに部屋を取っています」
「ハロー。トーマスです。どういうご用件でしょうか」
「十二階のジュリエット・クレーンさん宅に、メイドのミランダさんという方がおられると思いますが、最近、彼女を訪ねて年配の日本人男性が来なかったでしょうか。ミスター・モリモトといいますが」
 ジュリエットの名前を聞いた途端に若者が警戒心を強めたのは分かった。最近ではマスコミの取材などで、さぞかし面倒なことが多いのに違いない。
「ミランダさんからは、あなたのことは何もお聞きしていませんが」
「はい、モリモトさんと私はキョウトの同じ職場で働いていますが、ミランダさんは私のことはご存知ないと思います。ちょっと事情があって、モリモトさんと連絡が取れなくなり、私たちは心配しているのです。ただ彼がニューヨークに来ているのは間違いなく、そうだとすれば、こちらしか、私たちには考えられないのです。決してご迷惑はお掛けしませんから、教えていただけませんか」
「住居者への訪問者については、勝手にお話出来ません。プライヴァシーにかかわることですからね」
 ボブは管理人が話し好きだと言っていた。トーマスがその当人なのかは分からないが、賭けてみることにした。
「ひょっとしてFBIのマコーミックさんはご存知ないですか」
 トーマスは目を丸くした。案外気は良さそうだ。
「ボブのこと? 彼を知っているの?」
 当たりだ。
「ええ、友達です。実は、これ、内緒なんですがー」
 恵美は、さり気なく辺りを見回してみせる。
「彼、今、キョウトにいるんですよ。ジュリエットさんが所蔵されているアートが犯罪目的で日本に輸入されましてね、ボブは犯人を追って来たんです。私やモリモトさんは美術商で働いていて、彼に頼まれて協力したんですよ」
「へえ、そうなんですか」
「事件は何とか解決したんですが、ボブはあなたのおかげで、犯人を特定出来たと大変喜んでいました」
 若者は得意げに胸を張った。
「カールのことでしょう! 最初から怪しいヤツだとにらんでいたんだよなあ。それでそいつ、どうなったの?」
「撃たれて死んだようです。でも、トーマス、これはまだ誰にも言わないでね」
「分かってる、分かってるって。どうせろくな死に方しないだろうなと思っていたんですよ」
「ところが事件に巻き込まれたかたちになったモリモトさんにはショックだったようで、ニューヨークへ行くと消えてしまったんですよ。連絡が取れなくて、みんな心配してるんです」
「でも、何故このアパートメントなの?」
「モリモトさんは、何十年も前、ここでジュリエットさんと一緒に、その問題のアートを見ているんです。まだ子供だったミランダにも会っています」
 トーマスはうなづきながら、天井を見上げた。伊助がいることを認めたのも同然だった。
「分かりました。ミランダに連絡します」
 若者はモニターの横にある受話器を取り上げ、ダイヤルした。
「トーマスです。今、こちらに日本のキョウトから来られたという若い日本人の女性がおられます。お名前はエミ・ヤマザキとおっしゃっていますが・・・・そう、エミです。ミスター・モリモトを探しておられるとのことですが、お話になられますか?」
 耳を傾けていたトーマスが、「おひとりです」と応え、それから「はい」と続けると、姿勢を心持ち楽にして待機した。
 ミランダが伊助と話し合っているのだろう。
 しばらくしてトーマスが恵美を見てウインクした。
「分かりました。それではすぐ上がっていただきます」
 トーマスは受話器を置いて、にっこりした。
「OKです。エレベーターで十二階までどうぞ」
「アリガトウ。トーマス」
「ああ、エレベーターは十二階に着いても、ドアはミランダが操作しない限り開かないから、待っていて下さい」
 乗り込んで十二のボタンを押すと、エレベーターはゆっくりと上昇を始めた。各フロアの数字の下にカードの差込口がある。カード所有者でないと、目的の階に到着してもドアが開かず、侵入出来ない仕組みだ。伊助の時代には、こんなセキュリティーは必要なかったのだろう。
 恵美のエレベーターは到着すると、すぐドアが開いた。
 両手を胸の前で握り合わせ、満面に笑みを浮かべた女性が立っていた。薄く口紅をつけただけの白く面長な顔は、柔らかくカールしたブラウンの毛に良く似合った。
 白のブラウスと黒のスリムパンツに、軽やかそうなネイビーのジャケットで、ガイジンとは思えないほど、ほっそりした身体つきだ。背も恵美と変わらない。
 エレガントな美しさは、メイドよりもジュリエットの娘といっても通るだろうと思った。
 一歩近づくと、さっと両手を差し出して恵美の手を取った。
「いらっしゃい。エミね。イスケから聞いていた以上の美人ね。これじゃオーナーのハートを掴んじゃうのも無理ないわ」
 恵美は赤くなった。
「突然お邪魔してごめんなさい。あなたもとても素敵よ、ミランダ。これからは、よろしくお願いします」
 ミランダは軽くハグし、恵美の頬にキスをした。
「エンジェル・キッスね」
 恵美は嬉しそうに言ったが、ミランダは何のことか分からないようだった。
 伊助が渡米した時に四、五才だったのなら、四十代半ばのはずだが、どう見ても三十代にしか見えない。
「恵美ちゃん、日記読んだんやな」
 日本語の声がして、恵美は横を見た。数メートル離れたところに、伊助が戸惑った様子で立ちすくんでいた。くたびれたグレーのジャケットが侘びしげだ。
 日記を読んだ時は、腹立たしかったが、顔を見るとさすがにホッとした。
「すみません。病室で浩二さんと話しているところに届いたものですから」
「それはかまへん。ぼん宛やったら、どうせあんたにも見せるやろと覚悟してたからな。せやけど、何でほっといてくれへんかったんや。わざわざニューヨークまで追ってきて」
 思いがけなく突っ放した言い方をされ、恵美はたじろいだ。
「ごめんなさい。でも、浩二さんも私も本当に心配で、じっとしておれなかったんだから。彼はまだ入院中だし、動けるのは私しかいなかったの」
 伊助は視線を逸らし、黙り込んだ。
「だって電話も繋がらないし」
 顔を伏せたまま、伊助は絞り出すように口を開いた。
「・・・あんな恥ずかしいことをして、ぼんの顔に泥を塗ってしもたんや。これが世間に知れ渡ると、『谷山』の信用問題になる。わしもどのツラ下げて、これからあの世界を渡っていけるんや。もうアカン。何もかもお終いや」
 こんなに落ち込んだ様子の伊助に出会うとは意外な驚きだった。
「そんなことないわ」
 と恵美はつぶやいたが、軽々しくこの役を買って出たことを今更のように後悔していた。人生の大半を、この厳しい業界の荒波をくぐり抜けて過ごした先輩を説得するには、自分はあまりにも役不足だったことを思い知ったのだ。
 どんな言葉をかけても、伊助の深い悩みを和らげるのは難しそうだ。
 恵美はどう言えばいいか、分からなくなった。
 日本語のやり取りは分からないだろうが、内容は察しがつくのか、ミランダも黙って俯いている。
 重い沈黙が突っ立ったままの三人を覆った。
 突然、気を取り直したように、伊助が顔を上げた。
「実はな、恵美ちゃん、ジュリエットが亡くなったんや」
「エッ、そうなんですか」ミランダを見る。
「それではお取り込み中だったんですね。とんでもない時に押しかけてきて、すみません」
 英語で話しかけ、ミランダは軽く首を振った。
「つい先ほど、連絡があってな、ミランダはこれから病院へ行かんならん。それでわしも付いていってみようと思う。ひょっとしたら一緒に入れるかも知れんしな。ラスト・チャンスや」
「あ、それならどうぞ。私はホテルに戻ります」
「いや、恵美ちゃん、ここで待ってて。病院はすぐ近くやねん。ひと目会えるかどうか分からんけど、どっちにしてもわしは関係者やないから長居は出けへん。二、三十分で帰ってくるから」
「えー、でも、私がひとりでここにいるのはまずいんじゃないんですか」
「いや、恵美ちゃんなら、ぜんぜんOKや。な?」
 と伊助は英語に切り替えてミランダを見た。
「勿論よ。あのドアの向こうはキッチンで、テレビや飲み物もあるし、楽にしてくれていたらいいわ。私は無理でしょうけど、イスケは、すぐ戻ってくるから」
「それにわしはエレベーターのカードは持っていないから、恵美ちゃんが開けてくれんと入れへん」
「はあ」
 恵美にしては珍しく迷っていた。ボブでさえ拒否されたジュリエットのアパートメントにいるのだ。
今帰ってしまえば、二度と訪れる機会はないように思える。彼の話では、ここへ出入りした人間は片手で数えられるぐらいしかいないらしい。浩二に大きな土産話を持って帰ることが出来る。
 その一方、いくらミランダが了解しているとはいえ、初めての訪問なのに、一人きりでいる時間があったことは、後日問題にならないとも限らない。
 結局、好奇心が勝ってしまった。
「分かりました。待ってます」
「そうか」
 伊助はほっとしたようだった。
「じゃあ、トーマスには恵美ちゃんがいることは言っておくから。このエレベーターのカードを持っているのは、ミランダと弁護士のウインストンだけや。スミスも持っていたけど、失踪してからコードは変えられている。そやから、このふたり以外は、君がエレベーターのボタンを押さん限り、誰も入ってこれへんわけや。階段側にも出入り口があるが、締め切られていて、外からは絶対開かん」
「エミ、会えてよかったわ」
 ミランダは再び恵美を抱きしめると、慌しくエレベーターに向かった。伊助も続きながら、
「もしも気が変わって、ホテルへ戻ろうと思ったら、そのまま帰ってくれたらええで。エレベーターで出てしまえば、自動的に鍵がかかったのと同然やからな。わしも閉め出されるけど」
 弱弱しいが、出会ってからはじめて笑顔を見せる。
「じゃ、帰ろうかしら」
「おいおい」
 短いやりとりだったが、「谷山」での空気が戻ったようで、恵美はホッとした。
 ふたりが上がってきたエレベーターに乗り込むと、ミランダはすぐ開閉ボタンを押した。恵美を見た伊助が真顔に戻って何か言いたそうにしたが、閉まるドアが遮ってしまった。
 恵美はジュリエットのアパートメントで独りきりになった。

 
 エレベーターの微かな響きが階下に消えていくと、静寂が訪れた。物音ひとつ聞こえない。
 ミランダや伊助との慌しいやり取りに巻き込まれていたので、恵美は初めて部屋を見回す余裕が出来た。
 伊助が日記に描写したとおり、ヨーロピアン・スタイルの優美なエントランス・ホールだ。当時から少しも変わっていないのに違いない。暖炉の上にかかっていたという印象派の絵はセザンヌの風景画だった。
 大きなガラス窓から見える雨空のせいだろうか、室内は妙に寒々としているように思える。
 十八、九世紀の工芸品と思われる優雅なテーブルと椅子があったが、座る気にはなれなかった。
 恵美はゆっくりと窓辺に近づいた。
 ガラスに額を押し付けるようにして見下ろすと、雨に濡れた街路を色とりどりの車が行き交っているが、その喧騒はまったく聞こえてこない。
 振り返って腕を組み、窓枠にもたれた。
 空気が重く、湿っぽい匂いがする。
 突然、このアパートメントの広い十二階に、たった一人でいることを強く意識し、落ち着かない気分に襲われた。体を動かしていた方がいい。
 ホールの両側には向かい合ってふたつのドアがある。恵美はミランダが教えてくれた右手にあるキッチンに向かい、時代物の丸い真鍮のドア・ノブを回して開けてみた。
 予想したよりずっと手狭な感じだ。冷蔵庫やレンジ、ガスの調理台は比較的新しく、食器類はきちんと収納されていた。片隅に小型のTVがある。
 意外だったのは、コーヒーやお茶のペットボトルがテーブルの上に無造作に置かれていたことだった。ほかにポットやカップ類が見当たらないので、ミランダの言った飲み物とはこれらしい。伊助が持ち込んだのかもしれないが、こんなところで見るのは違和感があった。
 恵美はキッチンには入らず、振り向いて、反対側にあるドアを見た。
 伊助の日記では、あのドアの向こうにある部屋で、屏風のタッチ・アップをし、ジュリエットと初めて顔を合わせたのだ。恵美は部屋を横切って、ぶらぶらと歩いていった。
 ちょっと見るぐらいならいいだろうとドア・ノブを回し、のぞいて見る。
 うわぁ、と思わず声が出た。
 江戸初期の作と思われる狩野派の花鳥画の金箔屏風が、壁一面に広げて掛けられていた。春から夏へと続く季節の草花や鳥たちが、華麗に豪壮なタッチで描かれている。
 恵美は思わずふらふらと入っていった。
 振り返ってドアの横の壁を見る。思ったとおり、秋から冬への情景の屏風が、同じように掛けられていた。一双の四季の花鳥屏風が、向き合って壁面に飾られているのだ。
 恵美はしばらく見惚れていた。道具市へ出したら、少なくとも億は超える。ウチで扱えたら、浩二さんが喜ぶだろうなあと、つい考えてしまう。日記には書かれていなかったので、伊助は見ていないのに違いない。
 壁際には東洋風のデザインを青貝で象嵌した黒塗りのキャビネットがあり、その横には畳まれた状態の屏風が五、六本立てかけてあった。
ージュリエットの日本好きって、どうやらホンモノねー
 伊助が仕事に使ったという楕円形のテーブルと椅子は窓際に押し付けるように片付けられていて、表面は薄いホコリでおおわれている。テーブルの下には、使い古しのカートンの箱が数個あり、雑多な物が無造作に突っ込まれていた。床のあちこちにくしゃくしゃになった新聞紙がある。
 ジュリエットが入院してからどのくらいの月日が経っているのか知らないが、女主人が再び帰宅する可能性がないことは分かっていたに違いない。住いをきちんと維持管理する気力は低くなっているように思われた。
 恵美は肩をすくめた。勝手に部屋に入り込んだ後ろめたさがいくらか軽くなったのは確かだった。
 伊助がジュリエットに導かれて入っていった次の部屋は、ライブラリーだったと記憶している。
 真っ直ぐドアに近づいた恵美は、ノブに手を掛けて振り返った。開いたままのドアからエントランス・ホールのエレベーター口が見える。伊助が戻ってくれば、トーマスがインターフォンを鳴らすだろう。
 ライブラリーは角部屋になる。
 建物の角をはさんで窓は両面にあり、それ以外の壁面は全てキャビネット本棚が占めている。本だけでなく、VHSのビデオ・テープやDVDも数多くあった。
 窓際にはグランド・ピアノと小さな丸テーブル、座り心地の良さそうな椅子があり、テーブルには大判のグラフィック誌が何冊が乱雑に積み重ねてある。
 中へ進むと、正面の窓から、セントラル・パークの緑が見えてきた。
 これまでと違い、次の部屋に続くドアは右手の壁にあり、恵美は十二階のレイアウトを理解した。
 いかなる訪問者も拒絶したい母娘にとって廊下は必要なかったのだろう。ヨーロッパのシャトーのように全ての部屋はドアでつながっており、ビルの中央にあるエレベーターと階段の空間をぐるりと取り囲んでいるのだ。このまま部屋を次々と通り抜けて行けば、ひとまわりして、最後はキッチンに出るはずだった。 
 次の部屋はドール・ハウスのコレクションとジュリエットの絵があるはずで、若き伊助がファースト・キスで燃えたところだ。
 恵美はにやりとした。
 この部屋に入ってしまうと、エレベーター・ホールは死角になって見えなくなるが、ドアは開けっぱなしなので、呼び出し音は聞こえるだろう。
 ためらうことなく、ドアを開けた恵美は異様な光景を見て、ギョッとして立ちすくんだ。
 部屋の大部分は、ドール・ハウスのコレクションで占められているが、空いた壁のスペースにはジュリエットの自画像らしい絵が数点掛かっている。
 ところが描かれている彼女の顔が、どれも無残に切り裂かれているのだ。
 恵美は近づいて調べてみた。切り口は古くなく、新しい。叩きつけるように乱暴で、執拗に切りつ
けている。狂気のような激しい怒りの発作が伝わってきて、恵美はぞっとした。いったい誰がやったのだろう。
 まさか、ミランダが?
 それはありえないわ、と恵美は首を振った。見つかれば、真っ先に疑われるのは彼女だ。ミランダが犯人なら、絵をそのまま掛けておくわけがない。
 ひょっとしてジュリエット本人のしわざだろうか。自画像を傷つけ、誰にも触らせない。それを許される人間は彼女だけだ。どうしてそんなことをしたのだろう。伊助がミランダから何か聞いているかもしれない。
 恵美は時計を見た。伊助が出て行ってから、まだ十分も経っていない。この部屋で、何だか見てはいけないものを見てしまった気がする。
ー次で止めようー
 ドアを開いた。忽然とミヤコが現われた。
 

 恵美は、二年ほど前、伊助がコツコツと完成させた模型の一軒家を見ている。細部まで精巧に出来ていて、何と器用な人だろうと感心した覚えがある。
 それ以外にも、何十年にもわたって専門の指物師が製作した数々の建物の写真を伊助から見せてもらってはいたが、現実にそれらが大きなボール・ルームを埋め尽くしている壮観さに息を呑んだ。
 入り口右手の壁には、高さが二メートル弱ある、背の高い黒い木製の猫脚のキャビネットがあった。幅は一メートル以上あるが、奥行きは極端に薄くて二十センチほどしかない。観音開きのガラス戸の中は文庫本サイズの棚が何段も作られ、小さいが、生きているような時代風俗の男女の人形がずらりと並んでいた。明らかに百体は超えている。全員が侵入者を注視しているようで、気味が悪く、恵美はすぐ背を向けた。
 雨空のせいもあって、室内はますます薄暗くなってきていた。恵美はドア横にスイッチを見つけ、明かりをつけた。
 五層の天守閣が目に飛び込んでくる。屏風に描かれた二条城をモデルにしているようだ。テーブルの上に乗せられているので、恵美の身長ぐらいの高さになっている。対面になる桧皮葺の御所との間に、様々なミニチュアの建物を配置した四つのブロックが整然と広がっていた。
 ブロックの中心に、人ひとりが通れるほどの十字状の隙間が開いている。ジュリエットはここを行き来しながら、人形を使って夢想の世界に浸っていたのだろう。
 十字の横線、|の両端は城と御所のテーブルで塞がれているので、通路にあたる隙間には縦線、
ーのどちらかしか入れない。
 恵美はゆっくりとその細い通路に入っていった。
 「谷山」の指物師は、信じられないほど手間を掛けた緻密な仕事を成し遂げていた。天守閣の何百もある屋根瓦には、ひとつ、ひとつ家紋まで彫り込んである。
 十字状の隙間の中心まで来て、恵美はしゃがみ、自身が人形になったつもりの視線にしてみた。
 ゆっくりと首をめぐらしてみる。城を仰ぎ見、町並みを眺め、御所の美しい桧皮葺の屋根に見惚れる。
 まるで古きミヤコの十字路に立っているようで、楽しい。
 舟木屏風の情景が重なってきた。どこからか喧騒が聞こえてくる。
 芝居がはねたのだろうか、歌舞伎小屋からどっと人があふれ出す。
 いかにも通らしく、役者の口調を真似る親父の側らを、精一杯着飾った若い娘たちが賑やかに笑い戯れながら通り過ぎ、そのあとを粋な若い衆がつけていく。
(おっと、道の真ん中で何をぼうっとしとるねん)
(危ないやないかー)
 恵美は、ハッとして立ち上がった。
 冷や汗をかいている。
 ここには、何かあるのだろうか。
 バカバカしい、と自分を叱った。日本からの長いフライトのあと、この伝説のアパートメントで、ひとり異様な環境の中にいるのだ。きっと瞬間的に夢を見たのだろう。確か、そのような経験談を本で読んだことがある。
 そういえば伊助が作った最新のミニチュアはどこに置かれているのだろうと見渡したが、見つからない。
 気がつくと、部屋の片隅に梱包したままの大きなカートンがあった。見覚えがある。近づいて確認した。「谷山」からサンフランシスコのマーカスに送り出したミニチュアのカートンだ。マーカスはそのまま、ジュリエットのアドレスを上書きした用紙を貼り付け、転送したのだ。
 明らかに開梱された形跡はない。
 ジュリエットは何故取り出してみようとさえしなかったのだろう。気が変わったのか、それともただ面倒だっただけなのか。
 ー大金持ちのアメリカ人がすることはわけが分からないわー
 恵美は時計を見た。もう二十分近く経っている。ここで思いがなく時間を取ってしまった。
 引き返そうとして、彼女は次に続くドアを見た。
 ジュリエットは、きっとこのミヤコに最も近い部屋で夜を過ごしたかったはずだ。ドアの向こうが寝室の可能性は高い。
 誰もいるはずがないのに、恵美はそっと周りを見回した。
 興味がないことはない。いや、大いにある。はしたないかなとは思ったが、足は自然にドアに向かった。
 伊助が帰ってきたら、さすがに言い出せないだろう。チャンスは今だけだ。
 ひと目見るだけでいい。
 恵美は誘惑に負けた。そっとドアのノブを回す。開かなかった。鍵がかかっているのだ。直前のためらいは忘れて、何度もノブをガチャガチャ回したが、ドアはびくともしなかった。
ーなぁんだ、しょうもないー
 当てが外れて、立ちすくんでいたが、ノブの下にある鍵穴が目についた。今どきの住宅では、絶対お目にかかれないしろものだ。せめてここからでものぞいておこうと、恵美はかがんで鍵穴に目を寄せた。
 向こうから、青い眼がこちらを見返している。
 悲鳴を上げ、恵美は尻餅をついた。そのまま、手足を使ってずるずると後退し、震える足で立ち上がる。
 半身でドアを見詰めたまま、急ぎ足で遠ざかる。今にも誰かが飛び出してきそうで、怖い。心臓が早鐘のように打っている。
ー誰や! 誰や! あれは!ー
 か細い悲鳴が聞こえた。
 呼んでいる。誰かが開けてくれと呼んでいるのだ。
 恵美は走り出した。
 ボール・ルームを抜け、切り裂かれた肖像画の部屋に入っても、悲鳴は追いかけてくる。
 それどころか、どんどん近づいてくる。もうすぐ後ろだ。
 恵美は必死で駆けた。
 角部屋の中で急角度で曲がり、やっと悲鳴は前方から聞こえてくるのが分かった。
 悲鳴ではない。エレベーター横のインターフォンが鳴っているのだ。
 恵美は飛びつくように受話器を取った。
「イ、イエス?」
「あ、エミ。今、ミスター・モリモトが上がっていったから」
 チラッと、エレベーターの掲示を見る。十階を通り過ぎたところだ。
「サンキュー」
 息をととのえる余裕が出来た。
 エレベーターから出てきた伊助は、見るからに気落ちした様子だった。そのまま近くにある年代ものの優雅な椅子に、ゆっくり腰を下ろした。ジャケットの肩口が雨で濡れている。
「アカンかったわ。やっぱり無理やった」
 両手をだらりと膝の間にたらし、がっくりとうなだれた。
「病院の関係者だけやったら、何とかなったかもしれへんが、もう弁護士が先に着いてたんや。ミランダが、彼がいたら絶対ダメと言うので、そのまま引き返してきた・・・・・まあ、こういう運命やねんなあ」
 恵美が黙っているので、伊助は顔を上げた。
「どうした、恵美ちゃん、なんや、顔色、良くないで」
「ウン・・・伊助さん、お茶、飲む?」
「そやなあ、頼めるか」
 恵美はうなづいてキッチンに向かった。先ほどから、ある恐ろしい考えが取り付いて消えない。どう伊助に切り出そうかと思案をめぐらしているのだ。
 ペットボトルを持って、戻ろうとすると、伊助が開いたままになっているドアを見ているのに気づいた。走り抜けてきたので、とても閉めるひまはなかったのだ。恵美は覚悟を決めた。
「恵美ちゃん、あっちの部屋、見たのか? 案内もなしに、あんまり褒められたことやないで」
 伊助の目に怒りが見える。
「ごめんなさい」恵美は素直に頭を下げた。
「ちょっとだけ、のぞくつもりが、とても素晴らしい屏風が見えたので」
「ー屏風?」
「四季の花鳥屏風」
 伊助は座り込んだまま、黙っている。どうやら、まだ見ていないらしい。
「確かに無作法やったけど、それより伊助さん、聞いて。実は大変なことを見つけたの」
 恵美は早口で続けた。
 伊助の強ばった表情は変わらない。
「ジュリエットさんがミニチュアで遊んでいた大きな部屋のー」
「あんなところまで行ったのか!」
 伊助はあきれたように大声を出した。
「ゴメン、ゴメン」恵美はなだめるように手を振りながら、
「隣の部屋のドアには鍵がかかっていたのでー」
「そこはジュリエットの寝室やで!」
 悲鳴に近い。
「伊助さん、お願い、聞いて! それで何気なく鍵穴からのぞいて見たのよ。そしたらね、人がいたの!」
 伊助はポカンと恵美を見た。意味が分からないようだった。
「人がいた? 何を言うてんねん。 わしとミランダが出てしもたら、あんただけやないか、ここにいるのは」
「違うのよ。本当にいたのよ、人が!」
 膝を着き、取りすがるようにして訴える恵美を見て、伊助もようやく真剣な表情になった。
「人って、どんな人や? 男か、女か?」
「分からない。だって向こうも鍵穴からこっちを覗いていたのよ」
「何かを見間違えたんやろ」
 恵美は首を激しく振った。
「違う。その眼がまばたきしたから」
「ホンマかあ」どうにも信じられないようだ。
「・・・そやけど、ドアに鍵がかかってたのは変やな」
「ね、伊助さん、ここへ到着したのは?」
「二日前や。ミランダは覚えていてくれた。大喜びで歓迎してくれてな、わしもほっとしたで」
「それで・・・このアパートメントは見て回った?」
「いや、ずっとキッチンにいて話をしていた。そんな気分には、なれへんだわ」
 伊助は、恵美が持っているペットボトルを取り、ひと口飲んだ。
「ジュリエットの眼の色、覚えている?」
「当たり前や。晴れ渡った空のように、透き通った・・・」
 伊助の声が小さくなり、探るように見る。恵美はうなづいた。
「それに若い人の眼ではなかったわ」
「まさかジュリエットが閉じ込められてると・・」 
 恵美は否定も肯定もしない。
「な、何をバカな!」
 伊助は椅子から飛び上がって叫んだ。恵美も立ち上がって向き合う。
「ジュリエットは、四月から入院していて、つい先ほど亡くなったと連絡があったばかりや。彼女がここにいるわけないやないか。大丈夫か、恵美ちゃん」
「どうして亡くなった人がジュリエット本人だと分かるの」
「ジュリエット・クレーンはアメリカ人なら誰でも知っている」
「名前だけはね」
「・・・・・・・・・」
「写真は二十二歳の時に撮られたのが最後。それ以後のは一枚もなし。このアパートメントに閉じこもってしまったのだから、当然ね。ボブの話だとスミスは電話かドア越しに喋るぐらいで、三十年以上会ったことはなく、弁護士のウインストンも同様。勿論、血のつながった家族は誰もいない。と言うことは・・・・・病院で亡くなった女性を、ジュリエットと確認出来るのはたったひとり、ミランダだけよ」
「別人なら、ミランダはどうして何も言わんのや。それに、そもそもそんな身代わりになる女性がどこにいるねん」
「・・・・・ミランダの母親って、いつ、どうして亡くなられたの?」
 伊助は呆れたように恵美を見詰めた。
「恵美ちゃん、恐ろしいことを思いつくなあ・・・・・・二年前と言ってたが、詳しいことは聞いてない」
「お母さん、ドロレスだっけ、彼女の目の色は?」
「青かったが、ブロンドやない」
「年を取れば、髪は白くなって見分けがつかないわ」
 ため息をついて、伊助は辺りを見回した。どうも納得出来ないらしい。
「ちょっと考えすぎちゃうか。この場所が場所やからなあ。オカシクなるのも、無理ないけど」
「ドール・ハウスの部屋に、ジュリエットの肖像画が何枚か掛かってるの」
「・・・・?」
「その顔が全て切り裂かれている」
 伊助は大きな衝撃を受けたようだった。
「ゴメン、もうひとつ。ミニチュアの建物がある部屋、伊助さんが二年前に作って、マーカス宛に送った一軒家のカートン、ここへ転送されているけど、開梱されないまま、放ってあるわ」
 持っていたペットボトルを黙って恵美に返す。
「分かった。とにかく見てくる」
 見違えるような、しゃんとした足取りで開いたドアに歩いていく。
「私も」恵美が追いかける。
 伊助は立ち止まった。
「いや、恵美ちゃんはここで待ってて。万一、その人がジュリエットなら、わしだけの方がええ。見知らぬ人間がいたら、警戒して何も言わんやろ。たとえ日本人の女性でもな」
「もしミランダが戻ってきたら?」
「そんなに早く帰ってこれるとは思わんけど、正直にわしが寝室に行ったと言ってくれ」
 伊助は足早に部屋を抜けて行き、角部屋で曲がって、見えなくなった。
 恵美はまた、ひとり取り残された。

 薄暗さに耐えられなくなり、電気をつける。
 手を握ったり、開いたりしながら、ウロウロとエレベーター・ホールを歩き回った。目を頻繁にエレベーターのフロア掲示に目をやる。ミランダならカードを持っているから、トーマスは連絡してくれないだろう。
 数字が動き出すとドキッとして待ち構え、途中のフロアで止まると力を抜いた。
 伊助はなかなか戻ってこない。
 遠くでパンッと音がして、恵美は飛び上がった。
 ドアが閉まったのではない。間違いなく銃声だ。琵琶湖の武田美術館で聞き覚えがある。
 また聞こえた。今度は近い。
「恵美っ! 恵美っ!」
 伊助の叫び声だ。
 恵美は走り出した。
 とたんに伊助が角部屋のライブラリーから花鳥屏風の部屋へ飛び込んで来た。
 チラッと恵美を見ると、振り向いてドア・ノブを引っ張って閉め、そのまま両手でしっかり握り締める。
 誰かがドアにぶっつかる音がした。
 伊助が力を込めた。必死でドア・ノブを引っ張っているが、相手が勝って、開き出す。
 恵美は駆け寄ると伊助の手に重ね、全身の力で引く。ドアは再び閉まった。
・・・きっと、また開けようとするわ・・・
 耳もとにささやくと、荒い息をつきながら伊助がうなづく。
 しばらくすると、突然、ノブが強い力で引っ張られた。
 ぐいと力を合わせて、引き戻す。
・・・誰なの?・・・
・・・スミスや・・・
・・・会計士の?・・・
・・・ああ。ジュリエットはおらへんで・・・
 恵美は自分の思い込みのバカバカしさに泣きたくなった。灯台元暗し、である。武田から連絡を受けたスミスが急いで身を隠そうとすれば、真っ先に思いつくのはここしかない。夜は無人だし、昼もミランダの動きだけ警戒していればいいのだ。食料さえ調達しておれば、当分は潜んでいられる。日本での事件は、まだ知られていなかったから、エレベーターのカードは使用出来たし、管理人もスミスの出入りには関心がなかったろう。
・・・アホやったね、私・・・
・・・今時分、分かったんかいな・・・
 何時もの伊助調が復活だ。恵美は嬉しくなった。
・・・ドア越しに撃たれない?・・・
・・・小さな護身用のピストルや。この戸はオークの一枚板やから、貫通しない・・多分・・・
・・・頼りないなあ・・・
 伊助が目で鍵穴を指した。恵美はそろそろ身を傾けて、のぞき込む。
 また、あの青い眼と対面するものと覚悟していたが、当てが外れた。
・・・居ないみたい・・・
 顔を見合わせる。
「アッ」
 恵美が大きな声を上げた。
「向こうへ回ったのかも」
 部屋を逆周りに通り抜けて行けばエレベーター・ホールにたどり着ける。
 伊助の返事を待たないで、恵美は身を翻して走り出した。
「伊助さん、そこはお願い!」
 同時にエレベーター・ホールの向こう側にあるキッチンのドアがパッと開いた。
 よれよれの白いシャツの男が、手にピストルを持って立っている。
 目は血走り、頬はこけて、幽鬼のようだ。
 ピストルを構えながら、エレベーター・ホールをこっちへ向かって走り出す。
 恵美は開いたドアの陰に走り込み、身体を預けるようにバタンと閉めて、足を踏ん張る。
 どんっとドアに衝撃があり、恵美はずるっと押し戻された。
 十センチほど開いた隙間から、一瞬、ピストルが突き出されたが、すぐ引っ込む。
 駆けつけた伊助が加勢して、ドアは再び閉まった。
 銃声がし、ふたりは首をすくめたが、ドアには何の変化もない。オークは銃弾を受け留めてくれたようだ。
 ドアを伊助に任せ、恵美はテーブルの横にある椅子を取ってくると、背もたれの上部をドア・ノブの下に差し込んで、突支い棒代わりにした。
「映画で見たの」
 伊助はうなづき、角部屋の方を見た。
「あっちにはバリケードでも作っとこうか」
 恵美は背もたれの隙間に顔を入れ、鍵穴からのぞいてみる。
「どうや?」
「部屋の真ん中あたりで、ぼうっとしている。アドレナリンを使い切ったみたい」
 顔を上げて伊助を見る。
「銃声、誰か気づいてくれなかったかしら」
「このビルでは機関銃ぶっぱしても分からへんで」
 恵美は、また鍵穴をのぞき込む。
「エレベーターを見たわ・・・出ていこうとしているのかしら・・・ア、なんか、そわそわし出したわ。じっとエレベーターの方を見ている・・誰か上がってきているのよ・・大変! ミランダかもしれない!」
 恵美は突支いにしている椅子を取っ払い、ドアを細目に開けた。
「やっぱり、この階よ。ああ・・着いたわ!」
 ドアをもう少し開けて、恵美は絶叫した。
「ミランダ、出てはダメ! スミスがいる!」
 ミランダはもうホールに足を踏み入れていた。
 ビックリして立ち止まり、恵美を見る。
 すぐスミスにも気がついた。ふたりはにらみ合った。
 恵美は仰天した。ミランダがつかつかとスミスに近づいて行ったからだ。
 思わずドアを開いて、叫ぶ。
「銃を持ってるわ!」
 ミランダはスミスの前で立ち止まると、手を伸ばして銃をもぎ取った。スミスはなすがままだ。
 呆気に取られたまま、恵美はそろそろとホールに足を踏み入れた。伊助も続く。
 ミランダがにらみつけていると、スミスが目を伏せた。  
「ミランダ、凄いわ。カッコいい!」
 恵美はインターフォンに駆け寄った。
「トーマスに警察呼んでもらうわね」
 すぐ背後で銃声が起こり、恵美はびっくりして振り返った。
 スミスが遠くを見るような眼つきでミランダを見ていたが、くにゃりと床に倒れる。
 ミランダが構えるピストルから薄く硝煙が漂い、火薬の匂いがした。
「な、なぜ撃ったの!」
 ミランダが氷のような眼で恵美を見た。
「仕方がないわ。あんたが警察を呼ぼうとしたからよ」 
「え?・・意味が分からないわ」
 ミランダは応えず、倒れたスミスを見ている青い顔の伊助に目をやった。
「どうしたの?」
 顎でスミスを指しながら、訊く。
「う~ん、エミが・・・」ちらっと恵美を見て、
「・・わしがここへ戻ってきたら、ジュリエットの寝室に人がいると騒いでいるんや」
 ミランダが恵美をにらんだ。始めて会った時とは、まるで人が変わったようだ。
「あんなところまで、コソコソ探りに行ったの。まるで泥棒猫ね。でも、あの部屋は鍵がかかっていたはずよ」
「ああ。ドアが開かないので、エミが鍵穴から覗こうとした時に、スミスの目と鉢合わせになった」
 恵美は呆気に取られて、伊助を見詰めていた。様子がおかしい。どうやら彼もスミスの存在を知っていたらしい。
「彼女、目だけでスミスと気がついたの?」
「いや、それが・・・ジュリエットが閉じ込められてるのじゃないかと言い出してな」
「はあ? 何をバカなことを。あのババァはずっと病院だったじゃないの」
「ほら、あの切り裂かれたジュリエットの絵を見てるからな」
 チッと舌打ちして、ミランダは顔をしかめた。
「早く片付けとくんだったね」
 ではジュリエットではなかったのだ。
「色々あって、わしのせいでもあるんや。とにかく、うるさく言うんで、見てくるからとひとりで寝室に向かった。鍵を開けて入ると、スミスの眼がすわっていてな、あの女は誰だと突っかかってくるんや。わしの知り合いやから、心配ないと落ち着かせようとしたけど、聞く耳持たずや。あげくのはてに、自分を始末しに来たのに違いない、それなら先に殺してやると銃を持ち出した。慌てて取り上げようとしたら、それならお前からだといきなりぶっ放しよってな、すっ飛んで逃げた。エミと隠れているところへ、お前が帰ってきたんや」
 わけが分からなかった。
 ミランダとスミスの関係はどうなっているのか。
 ジュリエットを想い、ひと目逢いたいとニューヨークへやって来たはずの伊助は、何故こんなことに関わりあっているのか。
「まあ、いいや。スミスはいずれ始末しなくちゃならなかったからね。それに・・・」
 ミランダは恵美を見た。
「とんだ邪魔が入って、うっとうしかったけど、考えてみたらちょうどいい」
「どういうことや」
 伊助は不安そうな様子になった。
「トーマスはエミがひとりになったのを知っている。彼女がここをウロウロしていて、潜んでいたスミスに出会い、襲われた。帰って来たイスケが銃を奪い、スミスを射ち殺した。それでめでたしめでたしよ」
「そんな、イスケさんが殺人犯になるなんて」
 恵美は首を振った。
「アメリカではね、彼はヒーローになるわ。若い女性を殺した凶悪犯を倒したんだからね」
 恵美は血の気が引いた。この女が何を考えているのか分かったのだ。
「ちょっと待て。若い女性って、まさか」
 伊助が泡を食って、詰め寄った。
「ほかに選択肢はないじゃない。この年で刑務所に入るのはまっぴらよ」
「だからと言って、何も・・・」
「この娘はおとなしくしているタイプじゃない。生かしておけば絶対後悔する」
 恵美は必死で頭をしぼった。相手は銃を持っている人殺しなのだ。何とか説得しなくてならない。
「OK。ね、聞いて。もっとシンプルにしましょう。私たちがスミスに殺されそうになったことは事実よ。私が銃を奪い、撃ったことにしましょう」
 ミランダはフンと鼻で笑った。
「ここじゃ何とでも言えるわね」
「本当です。約束します」
 ミランダは倒れているスミスを見下ろした。シャツに血が滲み出しているが、まだかすかに胸は動いている。
「じゃそのテーブルにある置物で、スミスにとどめをさしてよ」
「え?」
 恵美はテーブルを見た。青銅で出来たフクロウの置物が飾ってある。
「これで殴って、銃を奪った。FBIに言える筋書きにぴったりじゃない」
 恵美は唇をきつく噛み締め、俯いた。
「どうしたの。どうせ死にかけてるのよ。やればあんたを信用する」
 無理だ。私にはとても出来ない。目に涙があふれた。
 たまりかねたように、伊助が進み出て、置物を取り上げた。
「わしがやる」
 ミランダが叫んだ。
「止めて、パパ。それじゃ意味がない」
ーパパ?ー
 涙でかすんだ目を見開いて、恵美は伊助とミランダを交互に見た。
「パパって・・・・ミランダは何を言ってるの? ひょっとして、彼女は・・・伊助さんの娘?」
 伊助はあきらめたようにうなづいた。
 ショックだった。詳細に書き込まれていた日記を信じきっていたのだ。
「じゃあ、タッチ・アップに来た時には・・・」
「まだエンジェルはいなかった。ジュリエットは顔さえ見たことがない」
「あの日記は?」
「ここへ来る前に、当時の日記の余白を使って、三日がかりで書いた」
「昔は脚本も書いていたのよね。すっかりだまされたわ」
 恵美は悔しかった。自分のことより、浩二が可哀想だった。
「浩二さんなんか涙ぐんでいたわよ。伊助さんのこと、あんなに心配していたのに」
 伊助は黙ってうなだれている。
「みんな嘘っぱちなんだ」
「そんなことは・・・ない」伊助は呻いた。
「恵美ちゃん、それは違う。確かにちょっとは脚色してるけど、あの・・あれは・・」伊助はさすがに言いよどんだ。「ジュリエットとのことはドロレスを想いながら書いた。名前を変えているだけや・・・女房と子供は愛している。だがあれは・・・あれは、わしの生涯で、たった一度の恋やった」
 不意に静かになった。ミランダも気勢をそがれたのか、黙りこくっている。
 大きな窓ガラスを雨水が音もなく流れ落ち、淡いライトが豪華なカーペットの上に横たわる虫の息の男を照らす。
 異常な事態が起こっているのに、恵美には全てが現実ではなく、ステージの上で繰り広げられているドラマを見ているように思えた。
「ジュリエットの生い立ちはドロレスが詳しく話してくれた。古き良き日本に強い憧れを持っていたのは本当や。自分は日本人の生まれ変わりだと本気で信じ込んでいたらしい。けれどマーカスに送っていたミニチュアの注文主が彼女とは、ミランダが教えてくれるまで知らなかった」
 伊助は悲しげに恵美を見た。
「恵美ちゃんがニューヨークまで飛んで来るとは夢にも思わなんだわ。もともと無鉄砲なのは分かっていたけど」
「伊助さん、あなたはもう日本には帰らない積もりだったの?」

 伊助がミランダの存在を知ったのは、ニューヨークの出張から帰って、三年後だった。
 伊助宛に「Personal」(私信)と封筒に記された、差出人不明の航空便が「谷山」に届き、開けてみるとエンジェルのように可愛い女の子の写真とドロレスからの手紙が入っていた。
 迷いに迷った末に、お知らせすることにしましたと文章は始まっていた。
 伊助が去ってから、しばらくして妊娠に気づいたこと、孫が出来ると母親が喜んで許してくれたこと、思いがけなくジュリエットが味方になってくれ、そのまま仕事が続けられたことなどが淡々と記され、ミランダと名付けましたとあった。
 ドロレスは、日本での伊助の立場を良く理解してくれていた。経済的には恵まれているので、くれぐれも気遣いはしてくれないようにと念を押し、あなたとミランダは、天から頂いた大きな幸せですと結んでいた。手紙を握りしめてトイレに駆け込んだ伊助は号泣した。
 それからも節目、節目に成長していくミランダの写真と近況が送られてきた。エンジェルはまたたく間に美少女へと脱皮し、高校、大学とその魅力を際立たせるようになって、伊助に驚きと感動をもたらした。だが、卒業記念に、母娘そろった写真が届いてからは、次第に便りが少なくなり、数年前に娘が手伝ってくれるようになりましたとの簡単な連絡を最後に途絶えてしまった。
 二年前、久しぶりに受け取った「Personal」は珍しく長文で、伊助は嫌な予感がした。
 残念ながら医者に余命がすくないことを宣告されましたとドロレスはいきなり切り出していた。
 幸いジュリエットの世話は娘が引き継いでくれること、ぜひ一度、日本へ行って父親に会いたいと頼んでいること、そちらの事情は分かっているので、決して迷惑はかけないし、今なら、自分はまだジュリエットの面倒は見ていられるから、出来るだけ早い機会にお願いしたいと訴えていた。
 ドロレスの病気のことはショックだったが、ミランダの来日にまったく異議はなかった。
 京都のホテルに現われたミランダは、ドロレスの面影を強く残し、しかもその姿態は東洋人のようにしなやかだった。愛情にあふれ、優しさと節度をわきまえた彼女に、伊助は有頂天になった。
 ふたりは一日かけて語り合い、今後は連絡を取り合おうと堅く約束した。ミニチュア・ハウスがジュリエットに届けられ、ボール・ルームにセットされて、彼女が人形で遊んでいることも、その時に知った。
 別れ際に、ミランダが抱きしめ、頬にしてくれたのは、伊助が夢見たエンジェル・キッスだった。
 ミランダが帰国してからは、自宅に帰ってパソコンをチェックするのが伊助の楽しみになった。彼女はアート・ビジネスに関心があるらしく、伊助の仕事の内容や取り引きの仕方を良く尋ねてきた。やはりわしの血を引いてるワイ、と嬉しく、彼はその都度、丁寧に答えてやった。
 ドロレスはその年を越せなかった。葬儀は盛大に行なわれ、特別な墓地の立派な廟堂に葬られた。その周りに咲く花々が、永遠に途切れないように手配されているという。費用は全てジュリエットが負担し、百万ドル近くかかったらしい。
 一生をジュリエットに捧げたようなドロレスを悼むには当然だろうと思ったが、ミランダはそうでもないらしく、弔いにそんな大金を使うぐらいなら、ほかにもっと使い道があったはずよと不満そうで、伊助はちょっと意外な気がした。
 カール・ライナーをミランダに紹介したのは伊助である。
 一年ほど前、トップ・シークレットのお願いです、とミランダからメールがきた。ジュリエットの所有するアートを、内密に処分したいので、誰か知らないかと会計士から頼まれているらしい。下手に動けば、あっと言う間に噂になるので、パパも「谷山」には内緒にね、と念を押されて、伊助は弱ってしまった。
 この手の仕事は、アート・ビジネスの裏表に通じていて、機転が利く人間でないとまずい。ここはひとつ、ミランダにさすがと思われたかったが、アメリカにそこそこの人脈があったのは、一昔も前のことで、今ではほとんど途絶えてしまっている。マーカス商会の三代目が生きておれば、最適なんだがと頭をひねっていた伊助が、思いついたのがカールだった。
 彼は武田に連れられて、何度か古美術の競り市に顔を出しており、英語が堪能な伊助とすぐ親しくなった。ちょっとヤバそうだと忠告してくれる人間もいたが、伊助は気にも留めなかった。映画と下ネタのジョークが好きなふたりは、妙にウマが合い、何度か飲みにいったこともある。
 カールのアドレスを、率直な(いささかいかがわしい)人物評価とともに知らせてやると、アリガトウ、パパと連絡があったきりで、あとはうんともすんとも言ってこなかった。
 忘れていた頃に、久しぶりにふらっと競り市に現われたカールから、先日はニューヨークの件で世話になったとわざわざ挨拶され、うまくいったんだなと伊助は推察した。
 伊助は取り引きの内容を聞かなかったし、カールも喋らなかった。ミランダからも何の報告もないのは寂しかったが、全て会計士が仕切っているのだろうと思っていた。
 四月になって、ミランダはジュリエットの入院を知らせてきた。回復の見込みはないとあっさりしたメッセージが付け加えられていた。
 表具師、西村のニューヨークでの不審死に、伊助は何となく不安を覚えた。帰京した恵美から話を聞き、浩二が撮ってきた洛中洛外図を見て、彼は打ちのめされた。間違いなくクレーン家の屏風だ。怪しげなたくらみが進行中なのは間違いない。
 最悪なのは、武田が屏風の輸入代行を、よりによって「谷山」に依頼したことだった。
 愛の交歓の余情が醒めきらぬまま、清水寺の舞台に描き加えたドロレスと自身に見立てたふたりの人物は、そのまま残っていた。ジュリエットのアパートメントにある限りバレないだろうと安心していたのだが、日本に里帰りするとなれば、問題になるのは明らかだった。
 FBIの捜査員が犯人がカップルだと言っていたと聞いて、男はカールに違いないと確信した。
 そもそも会計士は本当にジュリエットの指示で動いていたのだろうか。
 何度もパソコンの前に座って、ミランダに問いただそうとしたが、結果が恐ろしくて、どうしても指が動かなかった。
 武田が「谷山」に乗り込んできた時に、カールと一瞬、目は合ったが、それだけで済んだ。
 びわ湖畔でカールとモニカが吹っ飛んだあと、ミランダはメールを送ってきて、トラブルに巻き込まれました、相談に乗ってもらえませんか、助けてください、と訴えてきたのだ。
 国宝級の屏風に手を加えたことが公けになれば、京都の古美術業界からどんな眼で見られるか、良く分かっていた。家庭では伊助の存在感は日々薄くなっている。その一方、ミランダには、親らしいことは何もしてこなかったという負い目があった。
 あれこれ思い悩んだ伊助は、ドロレスとジュリエットをすり替えた日記をでっち上げ、それなりの覚悟をしてニューヨークへ向かったのである。
 ミランダのトラブルとは、ジュリエットのアパートメントに逃げ込んできたスミスだった。驚いたことに、彼はミランダの操り人形にすぎなかった。ふたりが男と女の関係にあるのはすぐ分かった。
 スミスはさえない初老の男である。犯罪者にまで成り下がったのは、ミランダが肉体で誘ったのだろう。伊助は吐き気を覚えた。
 娘をトラブルから救い出し、アメリカで一緒に新しい生活をはじめてもいい、という彼の独りよがりの、甘い幻想は粉々に砕け散り、残ったのは苦い失望だけだった。
 そこに現われたのが恵美である。
 ミランダが病院に駆けつけようと急いでいたのは事実だが、伊助が同行したのは、恵美の処遇を相談するためだった。取りあえず、京都へ追い返そうと決めて、戻ってきたのだがー。

「・・・まあ、そう考えたこともあったけど」
「・・・あった?」じろっとミランダが伊助を見た。
「と言うことは、気が変わったわけ?」
「・・・・・・」
「娘が窮地に陥って、助けを求めているのに、もう逃げ腰になってるの。まったく、たいした父親ねえ。いったいこれまでどれだけのことをしてくれたのよ。聞かせてちょうだい」
 ミランダの青白い額に、血管のスジが浮き上がり、目がつり上がっている。恵美は唇を堅く結んだ。女性がこの状態になったら、何を言っても無駄だ。
「四十年、四年じゃない、四十年よ。その間、一度でもママかアタシに逢いに来たことがある?ママは何も言わなかったけど、よく夜中に泣いていたわ。何が一生に一度の恋よ。ママが優しく、思いやりがあるのにつけこんで、センチメンタルな自己陶酔にひたったまま、責任逃れをしていただけだわ」
 伊助は何も言い返さず、黙然とたたずんでいた。ミランダが言ったとおりだ。自分は身勝手そのものだったのだ。ドロレスを想う心に偽りはなかったが、面倒なことは、出来れば避けたい気持ちがどこかにあったのは間違いない。
「確かにアタシがやろうとしたのは犯罪ですよ。でもね、ママは半世紀以上、ほとんど休みも取らず、あのババァの世話をし、一ダースもあるクソでかい部屋を這いずり回って、キレイにしていたのよ。なのにあの女は、どう報ってくれた? そりゃ大学は出して貰ったわ。だがそれって、あのバカバカしい、模型の一軒家の屋根代にもならないのよ。どれだけのミニチュアが、あの部屋を埋め尽しているか、見たわね。あげくの果てに、百万ドルの廟堂よ。喜んだは葬儀屋だけ。あのババァの頭はおかしいのよ」
 一気にまくし立てて息が切れたのか、ミランダは口をつぐんで、窓の外を見た。目が赤い。
「私は小さい時から出来るだけママを助け、亡くなってからも、一生懸命頑張ったわ。どうせ先にババァがくたばるだろうから、それなりの遺産分けがあるだろうと期待するのは当たり前でしょう。ところがね、スミスがそっと洩らしてくれた遺言書の内容を聞いて、ブチ切れちゃった。数億ドルの遺産は、全て、一セント残らずこのニューヨーク市に寄贈されるんだ。私や、スミス、それにあのクソ弁護士も、全員、なぁーんにもナシさ」
 ミランダは身近にあった、優美なテーブルの脚を蹴り上げた。バキッと無残な音がして、恵美は思わず顔をしかめた。
「だからアタシはスミスを誘い込んで、ほんの何がしかのおすそ分けを頂戴しようとしたのさ。バカなカップルのせいで、吹っ飛んじまったけどね。でも、このまま引き下がらないよ。チャンスはまだある。だから、パパの手を借りたいんだよ。ニホンの家族との時間はもう十分だろう。少しはこっちの娘も助けておくれよ」
 伊助は顔を上げ、うなづいた。
「分かった。わしも覚悟を決めた。お前についていくよ」
「ほんと? パパ、嬉しい。愛してるわ。これからはずっと一緒なのね」
「ああ」伊助はうなづくと、
「そのかわり、ひとつ条件がある。この娘はまだ若い。人生はこれからやないか。わしが責任を持って、絶対秘密は守らせる。だから、このまま行かせてやってくれ。お願いや。頼む」
 ミランダは疑わしそうに恵美を見た。
「だから、アタシの条件は、さっき言ったじゃない。そのフクロウで、スミスをやれって」
 伊助は振り返り、
「・・・恵美ちゃん」
 と哀願するように見た。恵美は激しく首を振った。
「ダメ、出来ないわ、絶対無理」
 伊助はミランダと恵美を交互に見た。
「何とか、他の方法はないのかね?」
 ミランダの眼は冷たい。
「同じ話を繰り返していてもしょうがないよ」
 彼女が銃を握り直したのを、伊助は見逃さなかった。
「ちょっと待ってくれ! それだけは止めてくれ!」
 伊助が両手を上げて制止しようとした。片手に握ったままのフクロウを見て、ミランダの顔色が変わった。
「おや、まさかそれで、アタシをどうこうしようってんじゃないでしょうね」
「バ、馬鹿な!」
 伊助は慌てて置物を床に投げ捨てた。
 ミランダの口元に薄く笑みが浮かび、恵美は思わず後退った。
 前へ出ようとしたミランダの足首を、掴んだ者がいる。
 ぎょっとしてミランダは見下ろした。何時の間にか、にじり寄っていたスミスが、ひしと握り締めていた。
 血の気の失せた蒼白な顔で見上げている。
「ミランダ・・・・ハニー・・・」
「この死に損ない!」
 ミランダが振り払おうとした時に、スミスは思いがけない力で、摑んだ足首を引っ張った。
「アッ」と思わず腰を落として倒れる。
「恵美!」
 伊助が金屏風のある部屋を指して、駆け出す。恵美も素早く反応した。ふたりで部屋に飛び込むと叩きつけるようにドアを閉める。伊助が全身の力で抑えている間に、恵美が、また椅子を突支い棒にした。
 耳をすませる。
 スミスの悲痛なうめき声が起こり、ふたりは顔を見合わせた。
「撃ったのかしら」
「いや、銃声はしてない。おそらく・・・」
 突然、ガチャガチャとノブが回り、コンコンとドアがノックされた。
「エミ、聞いている? あんたには負けたよ。安心しな。スミスは私が息の根を止めてやった。これでいいんだろう。あとはフクロウにあんたの指紋をつけてくれればいい・・・・さあ、出て来て」
 恵美は伊助を見た。どうしたらいい、と目で尋ねる。伊助は沈痛な面持ちで、顔を小さく振った。
「エミ、待っているのよ。早く出ておいで。トーマスに連絡して、このことを片付けましょう・・・パパ、何とか言って」
 ふたりとも、身を硬くして黙っていた。
「ワァーッ」
 と突然、ミランダが絶叫した。ドアをどんどんと激しく叩く。
 「どうしたのよ、パパ」振り絞るような涙声だ。「自分の娘より、その女の方が大事なの。これからはずっと一緒だと約束してくれたじゃない。あれはウソだったの」
 伊助は額をドアに押し付けた。顔をゆがめている。頬を涙がこぼれ落ちた。
「ミランダ、分かってくれ。自分の娘が、これ以上、人を殺すのは見たくない。わしはドロレスが送ってくれたお前の写真は、毎日、何度も取り出して、繰り返し見ていた。逢いには来れなかったが、ずっと想っていたんや。ウソやない。信じてくれ。わしは必ずお前についていく。だから、彼女は助けてやってくれ」
 返事はなかった。ドアの向こう側は静まり返っている。
「ミランダ?・・・・・ミランダ、そこにいるのかい?」
 伊助は問うように恵美を見た。身をかがめ、背もたれの隙間から鍵穴を見ようとした恵美が、首を振ってすぐ立ち上がった。
「駄目。ノブに何か引っ掛けていて見えない」
「ケータイは持ってないのか?」
「バッグの中。エレベーター・ホールに置いてきた。伊助さんは?」
「ここに着いたときにミランダに取られた」
「電話は?」
「ジュリエットの寝室の奥が居間で、そこにあるだけや」
「一台だけ?」
「キッチンにもあるが、今は問題外やろ」
「居間に行きましょう」
「この椅子の突支いだけで、ここを離れて大丈夫か」
 言いながら、ノブに手を掛けて引っ張ってみた伊助が、
「ミランダが鍵を掛けたぞ。何でや!」
 と叫んだ。 
「スミスと逆にキッチンからこっちへ向かってるんだわ。伊助さん、寝室のドアを開けた鍵は持ってないの?」
「ドアに差したままや。こら、アカン。寝室に先に着かんと!」
 ふたりは角部屋のライブラリーへ向かって駆け出し、ドアを開けると飛び込んだ。切り裂かれたジュリエットの絵が飾ってある次の間へ続くドアは、スミスが通ったので、開いたままになっている。
 ドアの陰から中の様子をうかがう。薄暗いが、人影は見えない。二人は急いで通り抜け、ミニチュアの京のミヤコへ通じるドアにたどり着いた。
 薄闇の中で、黒々とうずくまる模型の家々は、まるで本物の街並みを望見しているようだ。その向こうに見える寝室のドアは開いたままである。
 恵美は何か違和感を覚えた。どこかおかしいが、分からない。
 声を掛ける間もなく、伊助が走り出した。仕方なく恵美も続く。
「ドアに鍵が差さってないぞ!やられたな」駆けながら伊助が叫んだ。
 戸口にたどり着いて、のぞき込む。
 オーク材の優雅なベッドと卵型の三面鏡がついたドレッシング・チェストだけのシンプルなベッド・ルームだ。寝室の奥にある居間へ続くドアは閉まっていた。
 伊助がツカツカと入っていって、ノブを確かめた。絶望的な表情で振り返る。
「ロックされてる」
 部屋を見回し、洗面所らしいドアに目を止める。近づくと慎重にドアを開けてのぞいたが、すぐ恵美を見て首を振った。
「閉じ込められたようやな」
 恵美は振り返って、広がっているミニチュアの街を見た。どこがおかしいのか分かった。
ーバカな恵美ー
 自分をののしった。油断なく目を凝らしたまま、手で伊助を呼び寄せる。人差し指を立てて唇にあて、喋るなと合図した。
 ゆっくりとしゃがみ込み、伊助も引っ張って同じようにさせた。
 声を潜めて、ささやく。
「私、最初この部屋へ入った時、電気をつけてる。良く見ようとしてね」
「そういえば、明かりがついていたな」
「消したのはミランダよ。彼女はここにいる。外じゃない」
 しゃがむと、テーブルとその上のミニチュアの街並が視界をふさぐ。ミランダもどこかに潜んでいるに違いない。
「どこら辺りにいるのやろ」
 伊助が不安げにささやく。
「戸口の横、あの壁際にあるドール・キャビネットの陰に隠れていたと思う。私が入って来たら撃つ積もりやったんやろけど、二人とも寝室へダッシュしたので、狙えなかったんだわ」
 恵美はテーブルの脚の間をのぞいて見た。テーブルの下は暗く、箱のようなものが数多く詰め込まれていて、まったく見通せない。
「武器を持ってるのに、どうして襲ってこないの」
「スミスが持っていたのは護身用のピストルや。弾は六発しか装填出来ないはず。ぜんぶで、何発撃った?」
「えーと、スミスが一、二・・三発、それにミランダが一発」
「残ってるのは二発や。銃身も短いから、接近して撃たんと効果ない。慎重にならざるをえんやろ」
「詳しいのね」
「映画のおかげや」
 恵美は振り返って寝室を見た。
「今のうちに、寝室に入ってドアにバリケード作ったら?」
「袋の鼠になるやないか。電話は居間やで」
 恵美は少し背伸びして、模型の屋根越しにのぞいてみた。ミランダの姿は見えない。このままでは埒が明かないとあせっているはずだ。
 残りの弾が二発、近づいて撃たなければ効果なし(ホントかな?)、と聞いて、いくらか気が楽にはなった。ふたりの年齢差とマウンテン・バイクで鍛えた恵美の脚力なら、ミヤコの周りを逃げ切れる自信はある。そのうちにチャンスがくるだろう。
 怖いのは不意打ちだ。
 ミヤコの平面図を思い浮かべてみる。
 四個のブロックが十字を形成し、恵美と伊助は左下ブロックのコーナーにいる。キャビネットは右手の壁際にあるから、ミランダは右側ふたつのブロックの陰にいるのに違いない。
 横線|にあたる通路の両端はテーブルで塞がれ、それぞれ右には御所、左には五層の城がそびえている。するとミランダが潜んだまま、最も恵美に近づけるポイントは、縦線 ― の下だ。
ーこのまましゃがんでいるのは、かえってマズイー
 恵美はすっくと立ち上がった。伊助が驚いて見上げる。
「どうした?」
「来るならあそこだわ」と指差す。
「そうか」
 伊助も立ち上がった。いきなり恵美が示したポイントに向かって歩き出す。
 あ、危ないわと言いかけて、言葉を呑み込む。ふたりは親子だ。ミランダの狙いは自分なのだ。
 恵美はミランダが忍んできている場合に備えて、城のテーブルまで移動した。
 通路の端に近づいた伊助が、覗き込むようにして、「おっ!」と立ち止まる。
 ミランダが立ち上がった。
 怒りに燃えた目で見回し、天守閣の陰にいる恵美に気がつく。
 伊助が狭い通路に、一、二歩、踏み込んで、ミランダの進路を塞ぐようにした。
「どいてよ、パパ」
「もういいじゃないか。今ならまだなんとかなる。もう、ここらで止めよう」
 伊助はさらに近づき、ミランダの持つ銃に手を伸ばした。
「さ、パパに任せて。悪いようにはしないから」
「今さら、親父面しないでよ」
 氷りのような声だった。
「黙って、そこをどきな」
「いい加減にしないか!」
 恵美が初めて聴く伊助の怒声だった。同時にミランダの顔を引っ叩いた。
 髪を振り乱したミランダが伊助をにらみつける。銃声がし、うわっと悲鳴を上げて、伊助が通路に倒れこんだ。 
 恵美は思わず、天守閣の陰から飛び出した。
「何てことをするの! 父親を撃ったのね!」
 ミランダはふんと薄笑いした。
「足だよ。あんたはそうはいかないからね」
 伊助を飛び越えるようにして、通路から出てくると、恵美に向かってくる。思ったより素早い動きだ。
 城の横を通り抜け、恵美は走り出した。こうなればブロックの周りを逃げ回るしかない。
ーあと一発だけやー
 ブロックのコーナーを回りながらチラッと見ると、ミランダが意外に間近に迫っている。恵美は必死でスピードを上げた。
 次のコーナーが近づいてきて、少しスピードを緩めた瞬間、背後でパンッと音が弾けた。
ー撃った!ー
 思わず首をすくめる。
 どうやら外れたようだ。これで銃は役立たずだ。コーナーを回り、御所のテーブルの横で恵美は走るのを止めた。
 くるっと振り向く。
 追ってきたミランダもコーナーを回って、立ち止まる。
 三メートルほどの距離で、ふたりは向き合った。
 ミランダは薄笑いを浮かべている。
「どうした? 覚悟を決めたのかい、ビッチ」
 恵美も笑顔になった。
「可笑しいわ、ついこの間、ピストルを持ったヤンキー女に同じことを言われたばかりよ」
「へえ、それで?」
「今じゃレーク・ビワの湖底に沈んでいるわ」
 ミランダの顔から笑みが消える。
「最初会った時から気に食わなかったんだ」
 ピストルを持った右手がすっと上がり、ぴたりと恵美の顔を狙った。
「アバヨ」
 突然、恵美はパニックになった。
ー伊助が間違っていたらー
 思わず、ぎゅっと目をつぶる。
 小さな乾いた音がしただけだった。
 全身の力が抜ける。目を開いた。
 ミランダは落ち着いていた。
「もう、一発ぐらい残っていると思っていたんだけどね。そうか、計算していたのか」
 ピストルの銃身で、コツコツと自分の頭を叩く。
「あんた、ここがいいね。それにガッツもある。パパより先に会いたかったよ」
 ぽいと銃を投げ捨てる。
「これで何とかなると思ったら、大間違いだよ。手ぶらでキッチンを通り抜けてくるはずがないだろ」
 体の陰から出てきた左手には、肉きり包丁が握られていた。薄暗い中で、ぎらっと光る。
 恵美は思わず、二、三歩後去った。
 ミランダは包丁を右手に持ち替えた。口を硬く結び、もう何も言わない。
 恵美は周りを素早く見回し、左側にある模型の家の屋根を、とっさに摑んだ。何もないよりはマシだ。
 右側にはドール・キャビネットがある。
 ミランダの目が鋭くなり、ジリジリと向かってくる。
 不意にキャビネットの手前の方のガラス戸が、見えない誰かに引っ張られたように、スーッと開いた。
 ぎくっとしたミランダが立ち止まる。
 開いたガラス戸は、まるで意思があるように、向かい合ったふたりを遮っている。
 ミランダがじろっと横目でキャビネットの中を見た。
 小さな人形たちが、無表情に見返している。
 盾がわりにと恵美はとっさに左手で開いたガラス戸の端を固く握り締めた。
 ミランダがフンと笑い、恵美の手に切りつけようと、包丁を振りかざした。
 ガラスをへだてて、悪魔のような顔が大きくなる。
 恵美は右手に握り締めていた屋根をガラス戸に叩きつけた。
 ガシャーンと凄まじい音がし、大小のガラスの鋭い破片が、飛び散る。
 ミランダは甲高い悲鳴を上げた。顔を手で振り払うようにしながら、くるくる回り、ドール・キャビネットの閉まっていた方のガラス戸にしがみ付いた。
 その重みでガラス戸が開き、キャビネット自体がミランダに覆いかぶさるように倒れていく。
 キャビネットの上端が、ブロックに激突し、このガラス戸もまた割れて、破片が倒れたミランダに降り注いだ。
 ミランダの泣き声のような悲鳴と、バリバリとガラスの砕ける音がしていたが、不意に静かになった。
「おーい、恵美、無事か? ・・・大丈夫か」
 伊助の呼びかける声が耳に入り、茫然としていた恵美はわれに返った。
「・・・だ、大丈夫です」
 応えると、上端をブロックに引っ掛けて、斜めに倒れているドール・キャビネットにそろそろ近寄った。
 思い切って覗いてみる。
 血まみれの無数の小さな人形が、痙攣するミランダの身体を覆っていた。それらは微妙に震え、うごめき、まるで彼女の肉体をむさぼっている未知の寄生虫のようだった。
 どくどくと血を吹き出す白いのどには、町娘の人形が取り付き、赤く濡れた唇でニヤニヤ笑いながら恵美を見詰めていた。
 恵美と伊助は苦労しながらドア・ノブを叩き壊し、やっとトーマスに連絡を取ることが出来た。
 ミランダが身につけていたはずの鍵は、とてもさぐって見る気にはなれなかったのである。

 総額五億三千万ドルにのぼるジュリエット・クレーンの遺産は全てニューヨーク市の寡婦と孤児を支援する団体に寄贈された。
 別に親娘二代にわたる献身的な奉仕に感謝するとして、一千万ドルの受取人にミランダ・クロスが指定されていたが、本人死亡により、前記寄贈金に組み込まれた。
 会計士ケビン・スミスが、本当のことを知っていたかどうかは不明である。 

 
                   了

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