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冒険屋、恵美の大冒険.パート2

貿易屋、恵美の大冒険・パート2

ー鹿ヶ谷・呪われた日本庭園の伝説ー

第一章

『この、利兵衛じじいめ、よしやァがれ』
ちゃきちゃきの江戸の下町娘が、目を吊り上げ、島田髷を崩しながら、必死に抵抗している。
彼女の足首を掴んで秘所をあらわにさせ、おのが馬並みを振りたてて迫っているのは、全身毛むくじゃらの素っ裸のじじいだ。
『なんといわれても、一ばんしさいすればよいのじゃ』
鼻毛が伸び放題の大きな鼻の穴をふくらませ、女を手ごめにしようとのしかかっている。
勝気な娘はじじいの腕に噛み付いているが、もはや風前の灯火だ。

「ふ~ん、さすがに世界のウタマロね」
と山崎恵美は見入っている。
「そうやろ。構成も描写力も、並みの浮世絵師では真似出来ないよ。レイプという無残な情景を描きながら、どことなくおおらかで、ユーモラスだ。たった一枚の版画がこれだけのものを表現しているんやからなあ」
谷山浩二も眼をはなす事が出来ない。
浩二と恵美は京都、新門前通りの美術商、「谷山」のオーナーと店員であり、恋人同士でもあって、正式に婚約をかわしたばかりだった。
「谷山」は間口が四間ばかりある店舗で、大きなガラスのウィンドウが正面の三分の二を占めている。通りからは店内が丸見えなので、様子を見て、息抜きに奥の事務室へエスケープする。
今ふたりは事務室の片隅におかれたソファにぴったり寄り添って坐り、テーブルに置かれた歌麿のオリジナルの版画を覗き込んでいるのである。
「歌満くら」(うたまくら)と呼ばれるシリーズの中の一枚で、最も有名な『利兵衛じじい』の場面だ。ところがこの歌麿の傑作は、彼の他の作品にくらべて、あまりおおっぴらに取り上げられることは少ない。
実はこの作品は愛好者のあいだでは「わじるし」と呼ばれる春画なのである。
当然、性行為をテーマにしているので、そのものズバリが詳細に描かれている。ことに男性器は見事なほど巨大に強調されているが、これはもともとー笑いーの対象としているからで、だから一字を取って「ワじるし」なのである。
欧米の博物館や美術館ではアートとして高く評価され、普通に公開されているのだが、日本では、まだ専門店の店先でも、むき出しで陳列出来るような空気はない。
「でも、浩二さん、大丈夫なん? 売る当てあるの」
恵美が心配するのも無理はない。
版画の浮世絵は「谷山」でも売れ筋のひとつだが、「わじるし」は先代が嫌がったので、ほとんど扱ったことがなく、この手のコレクターに関する情報はとぼしい。
浩二はこのたった一枚の浮世絵に大金を注ぎ込んでいる。
所有していたのは西陣の織物関係のコレクターで、浩二の父の時代からの顔なじみだが、もう年なので手離したいと連絡してくれたのだ。特別に安くするとは言ってくれたのだが、それでも「谷山」にしては結構な買い物で、浩二はそれこそ、清水の舞台から飛び降りるつもりで決めたのである。
「うん。実はゴールドバーグさんにいけると思うんや」
「あ、エド。でもあの人は昭和版画やないの。江戸ものでもええの?」
ふたりが話題にしている人物は、エドワード・ゴールドバーグ、通常、エドとして世界的に知名度の高いユダヤ系アメリカ人の富豪だ。今をときめくIT産業で財をなし、世界長者番付のトップ・スリーの常連である。
三年前、「谷山」にふらっとひとりで現れ、十分ほどの間に一千万近い買い物で浩二を驚かせたのが最初である。爾来、京都へ来るたびに立ち寄るようになり、今では店の上得意のひとりだ。浩二は恵美と祇園で接待したり、あるいは逆にホテルでの食事に呼ばれたりしている。
親日家としてもしられ、カリフォルニアにある自宅は完全な日本建築である。日本美術にも造詣が深く、ことに版画、なかでも川瀬巴水(カワセ・ハスイ)のコレクターとして有名だ。
巴水は大正・昭和に活躍した浮世絵師で、叙情豊かな、美しい日本の風景を描き続けた画家だ。欧米では日本以上に良く知られており、広重・北斎並みに評価が高い。
「それはそうだけど、仲間内の情報では、『わじるし』にも目がないらしい。ただし飛び切りの一級品クラスでないと駄目だけどね」
「うふっ。それならきっと大丈夫。楽しみやね」
澄んだ眼をし、すきっとした鼻筋と形のいい唇の勝気そうな顔が、間近で浩二を見上げ、何とも言えない笑顔になる。パステルピンクのセーターと濃いブルーのパンツがよく似合う。
(あぁもう、可愛いなあ。食っちまいたいぐらいや)
浩二は、またメタメタになってしまい、抱き寄せて唇を吸う。恵美も縋りつき、ふたりは舌を絡ませる。今日、何度目のキスか分からない。
番頭の森本伊助が休みの日なので、店内ではふたりきりである。
客足が途絶えると、用事にかこつけては奥の事務室へ入り、つい唇を重ねてしまうのだ。

京都が碁盤の目と呼ばれるような、整然とした通りで区分されているのは良く知られている。
街の中心、東西に伸びる三条と四条の両通りの真ん中あたり、パラレルに走る数百メートルほどの通りがある。
この何の変哲もない通りが、ある時期、日本のどんな地名よりも国際的に名を馳せることになった。
シンモンゼン・ストリート、すなわち新門前通りである。
門前と呼ばれることから分かるように、この路は東山山麓に威容を誇る臨済宗の本山、知恩院の日本最大の三門から、東大路をはさんで真っ直ぐ市中に伸びている。
明治維新後、入洛する外人旅行者目当てに、古美術・骨董を扱う店がこの通りに集まり出した。
当時、「貿易屋」と呼ばれた。
日本人は慣れ親しんだ文物を捨て去り、西欧人は争って買い求める。
『アンティークならキョウトのシンモンゼンへ行け。何でも手に入るぞ』
世界中の裕福な旅行者が殺到した。貿易屋には夢のような世界だった。
それから一世紀以上が経ち、もはやこの国での美術商のパイオニァたる「貿易屋」の存在すら知る人は少ない。
浩二で四代目になる「谷山」には、Visitor’s Bookと呼ばれる、まるで百科事典のように重厚な表装本が数冊、大事に保管されている。そこには明治から昭和にかけて、「谷山」を訪れた数千人にのぼる海外からの訪問者のサインが残されているのだ。ある時期、一世を風靡した「貿易屋」、タニヤマの貴重な記録である。
欧米人がほとんどだが、貴人、公人から経済界の大物まで、当時の世界に大きな影響を与えた人々の名前が、キラ星のごとく散見される。恵美は、「谷山」のメンバーの一員となった時、毎日のようにページをくっては、あ、ここにあの政治家が、え、こんな映画スターまで、と驚いたものだ。
直接の取り引きがあったわけではないが、ニューヨークに住むジュリエット・クレーンという高齢の婦人も、「谷山」と長年にわたってかかわりのあったひとりだった。彼女は公になっているだけでも三億ドルを超えるとされる資産を所有しながら、人生の大半をセントラル・パークを見下ろす超高級アパートメントから一歩も外へ出ることなく過ごした女性である。
ジュリエットは、生身の人間、ことに男性に対して強い不信感があった。その一方、自身を日本人の生まれかかわりと信じ込んでいたふしがあり、異常なほど十九世紀以前の日本に憧れを抱いていた。
親の言うままに二十歳で結婚した彼女は、一年も経たずに離婚すると、そのままアパートメントに閉じこもってしまい、外出しようとはしなかった。
もともと母親の影響で、ドール・ハウスが好きだったジュリエットは、江戸時代の家屋や建築物の精巧な模型を、日本で造らせ始める。
その仕事を請負ったのが「谷山」である。
もっとも、取り引きはサンフランシスコにある日本の美術工芸を取り扱う老舗、「マーカス商会」を通じて行なわれていたので、「谷山」サイドでは、エンド・ユーザーであるジュリエット・クレーンの名前は知らなかった。
全てが明らかになったのは、ジュリエットの所有する屏風をめぐる凶悪な犯罪に、浩二や恵美らが巻き込まれてしまったからだった。
事件後、浩二は、普段声を荒げたこともない温厚な父親に、預かっている人様の大事な娘の命を危険にさらすとは何事だと激しく叱責された。
僕だって、身を挺して恵美を救おうとしたのにと浩二は口をとがらせたが、父親の気持ちは良く分かっていた。
彼の両親はそろって、恵美が大のお気に入りなのである。ふたりが一緒になってくれればいいのにと思っているのは間違いない。彼女が「谷山」で働き出してから四年も経つのに、いっこうにアクションを起こさない優柔不断な息子にイライラしていたのだった。
だが、実は事件の直前に、浩二は恵美に結婚を前提にした交際をプロポーズし、甘いキスまでかわしていた。
それどころか、今では彼らはもう一線を越えているのである。
凶悪なカールとモニカに恵美が人質にされた時、ふたりはお互いに命を懸けて、相手の身代わりになろうとしたのだ。モニカの銃弾で負わされた傷が癒えて浩二が退院した時、ひとつになりたいと燃え上がった彼らの情熱を押し留めるものは何もなかった。
事件の一ヵ月後、お互いの両親と共に正式に婚約を交わした時は、ふたりはすでに他人ではなかったわけで、恵美は澄ました顔をしていたが、浩二は面映くて、いたたまれない気持ちだった。

恵美には男性経験がなかったが、現代っ子らしく、それなりの知識はあった。
英文科の学生だった彼女は、パソコンの検索対象も英語版を頻繁に利用する。適当なワードさえ打ち込めば、そのものズバリの動画は簡単に見ることが出来た。
最初はそれなりに興味津々でドキドキしたが、すぐ飽きてしまった。男たちは、ロボットのように決まりきった動きを繰り返すだけだったし、悦びにあえぐフリをしている女たちも、実際は何も感じていないらしいことは手に取るように分かった。
恵美はガッカリした。
文芸作品には、至上の快感に満たされる女性がいる一方、セックスの不満に悩む妻や恋人も多く描かれる。それが男次第によるのなら、関係を持って初めて分かることではないか。
まるでクジみたいと恵美は憮然とした。
勿論、愛情は大切だけど、所詮、男と女は肉体的に違うのだから、性行為の感覚も微妙に違うはずだ。食生活を豊かにする料理教室があるのなら、性生活を充実させる教室があってもいいはずなのに、とポルノを見ながら冷静に考えていたのだから、恵美自身も相当変わっている。
変わっているといえば、浩二も負けず劣らずで、学生時代は暇さえあれば映画館にもぐりこみ、自宅ではクラシック作品のDVDに熱中していたものだから、青春真っ盛りにデートのひとつも経験していない。
卒業し、「谷山」の後継者として修業生活をおくるようになると、年の近い同業者たちとの付き合いも始まり、遅ればせながらその方面の関心も強くなった。商売柄、若い世代でも金回りはそこそこ良く、何かと妖しげな遊びの話に花が咲く。
ところがもともと慎重な性格の上に、初めての出会いにはそれなりの夢や期待があり、浩二は聞き役に回ることが多い。
何時の間にか、「谷山」の四代目は堅物と見なされるようになった。
初体験の機会は意外な形で突然訪れる。
昔ほどではないが、「谷山」には品揃えにも、外国人客への応対にも、貿易屋としてのDNAが根強く残っており、新門前の店舗の中では圧倒的に欧米人の来客数は多い。
浩二はもともとアメリカ映画が好きなので、陽気でフランクなアメリカ人の客とは肌が合う。すぐ親しくなり、友達感覚で話しが弾むことも多い。
キャロライン・クリューが「谷山」のドアを開けたのは、浩二が店の仕事を任されだした二十五の時である。
「Hello」
と挨拶しながら近づいていった彼の心がときめいた。
年の頃は三十前後だろうが、年配の客が多い「谷山」では珍しい。
カールしたブロンドが肩にかかり、ほっそりした顔立ちの美人である。背も浩二と変わらないほど高く、男なら振り返ってみるような見事なボディだ。
微笑みながら、青い眼で悩ましげに彼をじっと見詰めている。
(一目惚れしてくれたのかな)とっさに、浩二が舞い上がったのも無理はない。
うぬぼれもいいところで、かなり強い近眼のキャロラインは、その時コンタクト・レンズをつけておらず、近寄ってくる彼に焦点をあわせようと必死になっていただけだった。
浮世絵を選んでいる彼女が、版画を舐めるように顔に近づけたので、やっと気がついた。
事情を聞くと、昨夜コンタクト・レンズを入れた化粧バッグをこの近くのバーで忘れたらしい。これから尋ねに行くのだが、まったく英語の通じなかったところなので、どう説明したら分かってもらえるか不安だと言う。閉店間際だったし、浩二は通訳代わりについていくことにした。
キャロラインはアメリカン・エア・ラインのCA、キャビン・アテンダントで、トウキョウで三日間、オフになったから、大好きなキョウトへ遊びに来たのらしい。
バーはすぐ近くの小さな雑居ビルの四階にあった。小型のエレベーターに乗ると、身近に立つキャロラインのDカップがまぶしく感じられる。
店は開店前だったが、従業員は一生懸命探してくれた。結局化粧バッグは見あたらなかった。
降りるエレベーターで、キャロラインがしゅんとしているので、浩二はさりげなく肩に手を回して元気づけた。日本女性相手なら気後れして、とても無理である。
キャロラインは仕方がないわという風に首をすくめ、にっこりして浩二を見た。
(わざわざ有難う。お礼に一杯、おごらせて)
(いいとも。じゃ、メシは僕のおごりだ)
浩二がキャロラインを案内したのは「谷山」から遠くないシャブシャブ料理の店だった。部屋はすべて座敷の個室である。彼にまったく下心がなかったとは言えない。ふたりきりの部屋なら、ひょっとしたらキスぐらい出来るのではと甘い期待もあった。
約束だからとキャロラインがワインを別勘定でオーダーし、ふたりがグラスをかかげた。
「Here is looking at you」
食事に誘ったときから、この言葉で決めてやろうと浩二は考えていた。
名作「カサブランカ」で主演のハンフリー・ボガートがヒロインのイングリッド・バーグマンにささげるセリフで、「君の瞳に乾杯」という名訳で有名だ。
こんなキザなことは日本人相手には絶対口に出せない。たとえ言っても、おそらく、「はあ?」と引かれてしまうのがオチだろう。
アメリカ人ほど映画文化をこよなく愛し、大切にする国民はない。浩二にはキャロラインならウケるはずだと確信があった。
果たして彼女は満面に笑みを浮かべ、
(日本のボガートに!)
とウインクする。
(よしてくれよ! そんな年じゃないぜ)
浩二が叫んで、大笑いになった。
会話は大いにはずみ、シャブシャブもきれいに片付けて、一息つくと、何となくふたりは顔を見合わせた。
浩二の動悸が速くなった。
キャロラインの表情が微妙だ。
ああ、もうどうなってもいいやと浩二はキャロラインに顔を寄せた。間違いなく、「Oh, no!」と顔をそむけられるだろうと覚悟していた。
案に相違して、キャロラインも顔を寄せ、ぴったりと唇を合わせた。彼女の舌が別の生き物のように浸入してきて、彼も夢中で自分の舌を絡ませた。
ースゴイなあ、これがホンモノのキスやー
長い情熱的なキスのあと、キャロラインが浩二の顔を覗き込むようにして、ささやいた。
(部屋に来る?)
浩二はうなずいた。
彼女が滞在していたのは河原町通りの三条に近いホテルだった。
部屋に入り、また激しいキスを交わしてから、実はセックスは初めてだと浩二は正直に告白した。この際、率直に言った方がいいと判断したのである。
キャロラインはケラケラケラと手を叩きながら、大笑いした。浩二も笑い出し、一気に気が楽になった。
誘い方がスマートな上に、会話も洒落ていたので、こいつは相当なプレイ・ボーイだなと思っていたらしい。
キャロラインは浩二を見詰めた。眼にまぎれもない情感が浮かんでいる。
「OK, young Bogart. Be my guest tonight」(OK、若いボガート。今夜は私にまかして)
彼女は優秀なCAだったが、恋愛でも素晴らしいガイドだった。映画や本では得られないセックスの素晴らしさを、アメリカ人らしい率直さで、しかもダイナミックに浩二に教えてくれた。
男はプレイヤー(演奏者)で、女はミュージカル・インストリューメント(楽器)である。
巧みな演奏技術があれば、楽器もそれに応えて妙なる音楽を奏でることが出来るが、そのためには互いに相手に対してラヴとリスペクトがなければならない。どちらかを欠くと、生まれてくるのはただの不協和音である。
ふたりの関係は五年近く続いた。キャロラインのフライト・スケジュールにあわせての年に数回ほどのデートだったが、逢うたびに情熱的な時間を過ごした。ふたりが互いに強く惹かれあっていたのは間違いない。
浩二はキャロラインより六つ年下である。一度、ロスアンゼルスのユニヴァーサル・スタジオで遊んだ時に、彼女が何気なく、年令が逆ならよかったのにねと言ったことがある。
浩二は黙っていた。年のことは気にならなかったが、結婚するには、やはり問題がありすぎると思っていたのだ。
関係はキャロラインからの手紙で唐突に終わった。ドイツに向かうフライトで、イギリス人外交官と知り合い、デートを重ねて、プロポーズされたのだと言う。
浩二は素晴らしい古伊万里の揃い物をお祝いとして送った。何と言っても、彼を一人前の男にしてくれたのはキャロラインだったのだ。
父親に代わり、仕事に関わる度合いが増えていくと、気の合う同業者たちと祇園に飲み行く機会も多くなった。浩二は良くモテた。誘われることも多く、何人かとはいい仲になったが、深入りすることは避けた。
恵美が「谷山」で働き出すと、祇園へは次第に足が遠のくことになる。
ふたりが結ばれたのは、東山にある京都で最も歴史と格式のあるホテルだった。
その前に、浩二はキャロラインとの関係を恵美にかなり赤裸々に話していたが、彼女はかえって喜んだ。彼の年代で恋愛関係のないほうがおかしかったし、正直に全てを説明してくれたのは、自分を信頼してくれている証しと嬉しかったのだ。
恵美は何の不安もなく、浩二に身をまかせることが出来た。
彼の動きはじれったいほど穏やかに始まったが、女の体を知り尽くしているのは明らかだった。時には男の浩二ではなく、見も知らぬ女のキャロラインに愛撫されているような感覚があり、恵美は強烈な妬ましさを感じた。
例えようもない快感の波が寄せては引き、また襲ってきて、恵美は次第に自分を失っていく。
ほとんど苦痛を感じることもなく、恵美は最初のセックスで天国に導かれたのだった。
それからは毎週のように、ふたりは愛の交歓に夢中になる。互いに深く愛し合っており、相手を悦ばし、また応えようとするので、その行為は濃く、激しい。
最近は浩二の方がたじたじとなることが多くなっている。

歌麿の「わじるし」で火がついたのだろう、浩二の欲望が大きく盛り上がっている。
こんな場合、彼がどうして貰いたがっているのか、恵美には良く分かっていた。店のドアをロックしていないのは気になったが、開けばチャイムが鳴るだろう。
何よりも彼を悦ばしたかった。
ソファに坐っている浩二も期待して、ベルトを緩めてパンツを下ろす。
フロアに跪いた恵美が顔を寄せて含もうとした時、店のチャイムが派手に鳴った。
ぱっと立ち上がった恵美は素早く髪をなでつけ、事務室のドア・ノブに手をかける。
後ろで慌ててチャックを引き上げた浩二が、どこかをはさんだらしく、「アッ、痛っ!」と悲鳴を上げ、恵美はくすっと笑ったが、構うことなく出て行った。
店に入っていたのはインテリア・デザイナーの堀竜介だった。今日は革のジャケットにジーンズできめている。
「何や。堀さんか」
「ちょっと、どういうこと、その言い方。店、からっぽにしてさ」
ジロジロ恵美の顔を見詰めると、竜介は自分の唇の横を白い指でポンポンと叩いて、
「恵美、口紅、ズレてるわよ」
えっと思わず手を上げかけたが、途中で気がついた。
「今日はつけてませんよーだ」
「いやな娘(こ)ねえ」
竜介は顔をしかめた。事件で重傷を負った顎もやっと治ったところだが、傷あとはまだ消えておらず、それがかえって彼の美貌を凄艶に際立たせている。
ぞくぞくっとして、恵美は思わず見惚れてしまう。
「浩ちゃん、いるんでしょう」
と竜介が目だけで奥の事務室を指すと、あわせたようにドアが開いて浩二が現れた。
隠し事が出来ない男らしく、見るからに取り繕った様子である。
「ああ、堀さん」
「堀さんじゃないわよ。また、事務室でイチャイチャしてたんでしょう」
「いや、そんなことは」
と浩二は竜介に弱い。
もっとも彼がナイフを振りかざすカールの前に立ちはだかってくれたからこそ、浩二も恵美もこうして無事でいられるのは間違いない。
竜介はゲイである。
浩二に惚れているが、以前は気をつかって、決してあからさまにはしていなかった。
それが琵琶湖での危難を共に切り抜けてからは、垣根がとれてしまったのか、遠慮がなくなり、想いを隠そうとはしない。むしろ、ずうずうしくなっている。
浩二にはその気がまったくなく、迷惑がっているが、まんざら悪い気もしていないようなところもあり、恵美は少々いまいましい。
「実は歌麿のわじるしが手に入ってね、ほら、あの利兵衛の場面や」
「え、ホンモノなの!」
「もちろん」
「わあ、見せて、見せて」
事務室に戻る浩二に、いそいそとついていく竜介を見送りながら、恵美はため息をついた。

伊助は砂利道を踏みしめながら、御所の長い塀に沿って歩いていた。ニューヨークでミランダに撃たれた脚も、後遺症はほとんどない。
ここは仕事の休みに、散策に来ることが多い、お気に入りの場所だ。
神社仏閣が、それこそ芋の子を洗うように混雑している春秋のシーズンでも、別世界のように静まりかえっている。
京都御所、仙洞御所、大宮御所のまわりには大きな砂利道が広がり、それらを取り囲むように五万本を超える樹木が生育している御苑がある。
遠くに見える東山の山並みと長く直線として伸びる各御所の白い塀は、いかにも京都らしい美しいコントラストを見せる。
生い茂る樹木の中にはウメ、サクラ、モミジ、イチョウ、マツが点在し、それぞれの季節に違った表情を楽しむことが出来た。
伊助は砂利道からそれて、樹木の中へ入っていった。木々の間を縫いながら歩いていると、京都の真ん中にいるとは信じられないような、自然に包まれた空間である。
案外知られていないが、彼が今歩いている京都御苑は環境省が管理するナショナル・パークなのだ。宮内庁の管轄の御所とは別なのである。
ブラブラしながら、伊助はこの街に生を受け、住んでいる幸せを噛みしめている。
ニューヨークから無事帰って来た時、浩二は優しく労わってくれて、過去のことは一切口にはしなかった。
恵美も京都へ戻ってからは、何事もなかったように接してくれている。
御所への拝観者が出入りする門前の砂利道にリムジンが止まっているのが樹木の隙間から見え、好奇心にかられて伊助は近づいた。
この道は普段は皇宮警察のパトカーしか入れないところだ。
数人の関係者に囲まれるようにして、白黒のエレガントなコスチュームを着こなした女性が、挨拶をしながら車に乗り込もうとしていた。
黒い髪だが、明らかに日本人ではない。よほどのVIPなのだろう。
そのひとが伊助に気がついて、一瞬、動きを止めた。
じっと見詰めている。
伊助の顔から血の気が引いた。
「ミランダ・・・」
そのひとはすぐ視線をそらし、リムジンの中に消えた。
ーそ、そんなバカなー
彼は眼をぎゅっと閉じ。頭を激しく振った。
ジュリエットのアパートメントで、キャビネットの割れたガラスの破片に被われていたミランダの顔は眼に焼きついている。
ーきっと、良く似てるひとやったんやー
眼を開くと、車は右へ曲がって、木立の向こうに消えた。

第二章

IT産業の雄、「インテリジェンス・データベース」のCEO、キャサリン・ビルボーは、マンハッタンのリバーサイド大通りに建つ自社ビルの三十階にある執務室の全面ガラスの前に立ち、霞んでいるハドソン川を見下ろしていた。
目を上げて林立する摩天楼を見渡す。
この世界のメトロポリス、ニューヨークで自分ほど稼いでいる者はいないのだと思うと、何とも言えない高揚感にとらわれる。地上をうごめく小さな人間たちは、ただの寄生虫にしか見えない。
今、洪水が押し寄せ、彼らを押し流していっても、何も感じないだろう。
彫りが深く、鼻筋が高い容貌で、ブロンドでショート・カットのすらりとした長身は、生きているギリシャ彫刻のようである。実際その身体は大理石で出来ていて、温かい血は一滴も流れていないんじゃないかともっぱらの評判だった。
三十八歳の彼女は、すでに世界長者番付の一位を二年保持している。
ID、こと「インテリジェンス・データベース」は一九七十年代後半にマイクロコンピューターのソフトに大きな未来を見て取ったポーランド系ユダヤ人のサム・ギブソンが起こした企業だ。
当時サムはまだマサチューセッツ工科大学に在学中で、学生仲間ではテクノロジー・ナード(オタク)として良く知られていた。背が低く、小太りで、顔にそばかすがあり、常に実際の年令よりも若く見られる。
とりたてて成績が良かったわけではない。ただ高等数学には滅法強く、異常な集中力を持ち合わせていた。
その頃のコンピュータは、前世紀の恐竜のようで、ひとつの部屋を占めるほどバカでかく、研究所や大企業しか取り扱えなかった代物だった。ところがマイクロプロセッサと呼ばれる、デジタル回路を集積した小さくて安価な魔法のチップが開発され、一人に一台のパーソナル・コンピュータの時代が見えてくる。
革命的な情報社会の未来に気がついたごく少数の人々が、手探りで動き出す。
サムもそのひとりだったが、彼の持つ並外れた情熱は飛びぬけていた。
コンピュータに指示を与えるプログラミング言語の研究から始まったサムの努力は、数々のアプリケーションの成果となって実を結ぶ。
パソコンの普及とともにソフト面で先行する「インテリジェンス・データベース」のアプリは金を生み出す小槌となり、株式市場に上場されると、サムは若くして一躍億万長者に仲間入りする。
どちらかと言えば無口で人見知りのする性格の上に、自分の能力には絶対の自信があるため、他人には厳しく、常に上から目線で接していた。
サムが信頼した、たったひとりの人間がハーバード大学経営大学院出のキャサリンである。
彼女はナード(オタク)のサムに欠けていたトップ・レベルのビジネス・センスを持っていた。
「インテリジェンス・データベース」に採用されると、瞬く間に頭角を現し、サムの片腕に上り詰める。会社の時価総額が、並み居るIT産業を押さえて、一気にトップに踊りでたのは彼女の手腕によるところが大きい。
サムがテクノロジーに注いだ膨大なエネルギーを、キャサリンはビジネスに向けた。
ふたりに共通するのは目的のためには手段を選ばない非情さである。ことにキャサリンは「経営は戦争である」と公言していた。
競合する新しいテクノロジーが生まれると、圧力をかけて買い取り、拒絶されると豊富な資金力に物を言わせて、その企業を叩き潰した。そのため、反トラスト法の訴訟沙汰に巻き込まれたが、キャサリンは巧みに切り抜ける。彼女がストック・オプションで得た持ち株も、その時点ですでにサムの二分の一を超えていた。
サム自身は当然世界一の長者である。
わが世の春を謳歌していた「インテリジェンス・データベース」だが、三年前、突然、サムは残りの人生は家族と過ごしたいと引退を表明し、IT産業の世界から身を引いてしまう。
後任のCEOにはキャサリンを指名し、取締役会は満場一致で承認した。
ーとうとう逃げ出したかー
一応引き止めるふりをしていたが、キャサリンはとっくにサムを見限っていた。
「インテリジェンス・データベース」はもともとツールの創造者ではなく、ソフトに磨きをかけるサムの能力で急成長した、いわば後発の企業である。現在のように成熟したネット社会では情報が瞬時に広がり、従来のやり方では時代のスピードに追いつけない恐れがある。
CEOにかかるプレッシャーは以前とはくらべものにならないほど強くなっていた。
事実、「インテリジェンス・データベース」の時価総額は落ち始めている。
それとともに、サムから溢れんばかりに現れていた覇気が薄れていくのにキャサリンは気づいていた。
ーもうコイツでは駄目だー
キャサリンには自信も目算もある。サムの引退後、その持ち株を徐々に譲り受けて、二年前、ついに彼に替わり、世界長者番付のトップにたどり着いた。もっとも彼女にとっては単なる通過点に過ぎない。最大の関心事は不倶戴天のライバル、「JUN」に向いていた。

その男の名はエド(エドワード)・ゴールドバーグ、やはりユダヤ人で、サムより二歳年上である。
「インテリジェンス・データベース」の天敵、「JUN」のCEOだ。
青年時代の彼も、パーソナル・コンピュータの大きな可能性に魅せられたひとりである。ただその取り組み方が、サムとエドでは大きく違っていた。
サムが開発したのは、アプリケーションやデータベースなどあくまでパソコンの頭脳になるソフトである。関心は最高の機能を持つソフトを提供することだけだった。
一方、エドが目指したのは、ひとり、ひとりのエンド・ユーザーに届ける究極のパソコン、そのものだ。ソフト・ウエアとハード・ウエアをひとつにした完成品である。ことに彼がこだわったのはマシンの洗練された美しさである。優れた工業製品は、同時にアートでもあると信じていた。
エドにとって完璧さは至高のものである。ある新しいモデルの発売直前に、彼は内部の基盤の寸法が一ミリ違っていることに気がついた。機能にまったく影響のない、しかも消費者の目に触れない内部のパーツである。しかし彼は発売を延期し、すでに完成していた全ての商品の基盤を取り替えさせた。
勿論このエピソードが消費者の心理を微妙にくすぐることも計算の内に入っていたのは間違いない。
「JUN」ブランドで発売されるパソコンを始めとした各種の電子機器は独特の味わいがあって、コアなファンも多い。企業の時価総額もじわり、じわりと上昇して、「インテリジェンス・データベース」を脅かすようになっている。
エドは日本文化に心酔している。シンプルさの本質を本当に理解している唯一の文化だと思っていた。「JUN」は日本語の純粋から一字とって名づけている。
自身を天才と想いこんでいるので、性格はエキセントリックそのものだった。
優しく、思いやりがあるかと思うと、一変して底意地が悪く、暴君にもなる。CEOとしては考えられないような二面性があり、配下の人間にとっては気が休まる時がなかった。
気まぐれさは結婚生活にも現れている。四度結婚して、四度離婚し、現在は独身である。子供はいない。慰謝料で四人、億万長者が出来たのだからいいじゃないかとケロリとしている。
能力を認めた相手には強い親愛の情をいだくが、評価出来ない人間にはくそみそに怒鳴りつけ、こき下ろす。ボロボロになって辞めていくものも多い。
世界長者番付では常にサムの後塵を拝しており、今はキャサリンに頭をおさえられてトップになったことはない。
負けず嫌いだから、内心悔しがっているのは、誰の目にも明らかだった。

小さくチャイムが鳴ったので、キャサリンはテーブルのモニターに戻った。
秘書のドロシー・ムーアが生真面目な顔で見詰めている。
「第一研究室のジョージに繋がりました」
キャサリンは素早くキーを押して、画面をジョージに切り替えた。
「バグのデバッグは終わったの」
いきなり訊く。
ジョージは疲れきった顔をしていた。髪は乱れ、目の下に深いくまが出来ている。
「もう少しです。キャサリン」
「約束は明日よ。分かっているわね」
ジョージは目をしばたたかせた。
ー嫌なサインねー
キャサリンは視線をジョージの目に結びつけた。じっと見据えて、まばたきひとつしない。スネーク・アイと恐れられるキャサリンの特技である。大抵の人間は先に目を逸らしてしまう。
ジョージも一度、目を下ろしたが、すぐ顔を上げて正面からキャサリンを見た。決意がにじみでている。
「申し訳ありませんが、明日一日だけ休ませていただけませんか」
「どうして?」
「息子のマークが血友病なのはご存知ですね。ドナーがやっと見つかって、明日、骨髄移植の手術をします。そばにいてやりたいのです」
「あなたは医療関係者なの?」
「は?」
「手術室に入れるわけではないんでしょう。医者に任せておけばいいじゃないの」
「この年でやっと恵まれた私たち夫婦のひとり息子です。妻も本人も不安がっています。手術前に励ましてやりたいんです。パパがついているよって。きっと安心します。キャサリン、お願いです。明日一日だけです。もう二週間もこの仕事にかかりきりで、顔を見ていません」
「いいわ。明日と言わず、これからすぐ病院に行ってあげなさい」
ジョージの顔にさっと喜色が広がった。
「本当ですか! 有難うございます。感謝します」
「そこを離れる時に、あなたの私物も持って出てね」
「はい?」
「今からその仕事はポールに任せて、あなたは息子さんの側についていて上げなさい」
「そんな、キャサリン、もう半年も私はこのプロジェクトに掛かりきっています。今更私を下ろさないで下さい」
「一日のロスでどれだけの損失が、クライアントにもわが社にもふりかかるか、分かっているの。さっさと私の指示に従いなさい」
「・・・・・・いいです。分かりました・・・私が最後まで責任持って終わらせます」
「そう、じゃあ、結構」
キャサリンはキーを押して、ジョージの顔をモニターから消した。
ー私も気が弱くなったもんだー
軽く舌打ちする。
ジョージの精神状態では、仕事に集中できる筈がない。さっさとポールとすげ替えるべきだった。
CEOが部下の気持ちを汲んで、指示を撤回するなんて、組織の責任者としては最も避けねばならないことである。
IDの企業戦士が、妻子の付き添いのためだけに、仕事を中断するなんて理解不可能だった。ここは戦場なのだ。
ーよし、コイツはクビだー
気を取り直し、テーブルに広げたままだった、金と黒で縁取られたお洒落な招待状を、あらためて取り上げる。
エドの直筆だった。

親愛なるキャサリン、

京都の別荘がやっと出来上がったよ。
十一月二十八日の夕べ、ちょっと飛んでこないか。
この世のものとは思えない美しい紅葉は保証する。
内輪のディナーで、我々以外は、映画監督のデニス・グリーンと地元のアートの関係者が数名だけだ。
色々話し合いたいこともある。
OKなら、そちらが望む時間と空港にガルフ・ストリームを送るから。
いい返事をくれるように祈ってるよ。

エド

そうそう、ナオミ・モローも来る。彼女の噂は聞いているだろう。私も興味津々だ。いい機会じゃないか。

エドが購入した京都の三万平方メートルを超える広大な日本庭園の話は知っていた。
三年前、オークション・ハウスのクリスティーズがその年の目玉として、世界の超セレブにだけオファーした物件だ。スタート価格は百億円からだった。エドが幾らで落札したか分かっていない。
京都市内の有名観光寺院のすぐ側らに存在しながら、一世紀近くもまったく人の目に触れることなく、ひっそりと眠っていたシークレット・ガーデンである。
エドが手に入れてから三年、いろいろ庭に手を加えたり、新たに建て増したりして、驚くような別荘にしているらしい。
彼がいくら資金を注ぎ込もうと知ったことではないし、秘密めかした日本庭園や邸宅にも興味はない。
だがナオミ・モローは別だった。最近キャサリンは彼女の名前を聞くことが多い。アメリカ人だが、幼年期をスイスで過ごしたということしか分かっていない謎の女性だ。
年令不詳の上に、独身である。
アート・ディラーとして世界中を飛び回っているが、底知れない金持ちらしい。色々なところに投資していて、それが莫大な利益を上げているという。国の中央情報機関とも結びつきがあるという噂もある。
一度ナオミには会って、どんな女か正体を見てみたい。エドが彼女を餌さに呼び出そうとしているのは明白だったが、引っ掛かってやることにした。
キャサリンはドロシーをモニターに出した。
「はい、キャサリン」
「エドの招待を受けるわ。返事をして。それから迎えの飛行機は必要ないと」
「分かりました。その手配はこちらでしておきます」
無駄なことを一切聞き返さないドロシーにキャサリンは目を細めた。下半身が熱くなった。
「ドロシー、今夜八時に『ノブ』を予約して」
ドロシーの眼がキラリと光った。『ノブ』は映画俳優のロバート・デ・ニーロが日本人シェフと共同で経営するニューヨークの人気レストランで、キャサリンは特別な時しか使わない。
「はい」
モニターを消すと、キャサリンは再び立ち上がって窓辺へ寄った。
セックスの前には『ノブ』でデイナーをするのが、キャサリンとドロシーの暗黙の了解だった。キャサリンはドロシーの都合など、訊いた事がない。
断るとは夢にも思わないし、また実際、一度もなかった。
ふたりとも全く同じ嗜好を持っていた。
セックスを楽しむには、醜いペニスは邪魔なだけだった。

同じ頃、セントラル・パークのテラス・ドライブに近いベンチに、FBIニューヨーク支局のボブ・マコーミックと日本支局のアイリス・タナカが坐っていた。
「もうあれから半年経つのね」
アイリスが五番街に建つジュリエット・クレーンのアパートメントのビルを眺めながらつぶやいた。
マコーミックが頷きながら、アイリスの坐っているあたりに視線を泳がせた。
「?」何かとアイリスが眼で尋ねる。
「ちょうど君のいるあたりにケリガン刑事が坐ってたんだ」
「そう。残念ね。好きだったんでしょう」
「ああ。昔かたぎのデカって感じでね。死んだオヤジにそっくりだった」
マコーミックはNY支局でATC(Art Crime Team)、美術犯罪捜査班に属している。
ジュリエットのアート・コレクションから絵画が盗み出されているのではないかとの風評が立ち、独自に調査を進めているうちに、京都から来た屏風の表具師、西村の殺害現場に往きつき、ケリガンと出会ったのだ。
「口惜しかったよ。ペン・ステーション近くのバーで、カークに殺されたと知った時はね」
「でも琵琶湖で仇を取ったんだからいいじゃない」
「僕はのされちゃったんだよ。やったのはエミさ」
ーまたエミかー
アイリスはマコーミックに気づかれないよう、魅力的な口唇を少しゆがめた。
ー何時までも未練がましいことー
ジュリエットのアパートメントでのあの恐ろしい惨劇の後で、ニューヨークから京都の浩二に電話をかけてきた恵美が、最初に(私は無事で、安全だから)と念を押したにもかかわらず、話を聞いてパニックになった彼は、慌ててマコーミックに相談した。アイリスがあきれたことに、FBIの若者は、琵琶湖の事件の後始末をいきなり彼女に押し付けると、そのままニューヨークへ飛んでいってしまったのである。
アイリスにはマコーミックの下心が見え見えだった。恵美の気持ちを自分に向けさせる絶好のチャンスと踏んだのに違いない。
もっとも、恵美と伊助の名前が表に出なかったのは、マコーミックがふたりの、というより恵美のために駆けずり回ってくれたおかげである。
いずれにせよ、悪党ふたりの仲間割れの陰惨な事件はニューヨークでは珍しくもなく、ジュリエットの三億ドルを越える全資産が市に寄贈される大ニュースの陰にすっかり隠れてしまったのだった。
恵美と伊助をともなって、マコーミックが関空に到着した時、浩二は病院を抜け出して出迎えた。人目もはばからず、しっかと抱き合っているふたりの側らで、憮然としているマコーミックを見て、アイリスは(ザマミロ)と内心ほくそ笑んだ。
恵美はマコーミックの支援には心から感謝したが、彼の恋のアプローチは断固として拒絶したのである。
その夜、傷心のマコーミックと慰め役にまわったアイリスが、ホテルのバーを追い出されたあと、そのままベッドになだれこんだのも自然な流れだった。
ただマコーミックがニューヨーク支局へ帰任し、アイリスも東京の日本支局に戻ると、電話とメールしか、ふたりを結ぶものはない。物足りないが、それ以上を求める決心は、まだどちらもついていなかった。
今回はアイリスが休暇をとって、ニューヨークへ遊びに来たのである。
会えば楽しいし、セックスの相性もいい。ただふたりとも微妙な問題は触れないように気をつかっている。
マコーミックは地方検事、アイリスも弁護士を目指している。将来、同じ法廷で敵味方に分かれて争っていたりして、と冗談で大笑いしているが、話は何時もそこで終わる。
ようするに友達以上ではあるが、結婚予備群にはまだ入っていない状態だった。
アイリスは視線をまたアパートメントのビルに戻した。
「あの中はどんな感じだった?」
「まさにグレート・ギャツビーの世界へタイム・スリップ!、だよ。お宝がゴロゴロしていたな。妙な気を起こしたのも無理はないね。ただ・・・・・」
「ただ、何よ」
「・・・・・ジュリエットが愛した日本の模型の家が、ぎっしり並べられている大きな部屋があるんだがね、そこへ入った時に、ゾクッとしたんだよ。誰かに見詰められている気がした。あの国の文化はミステリアスで神秘的だ。どこか人知を超えたところがある」
アイリスは目を丸くして、マコーミックを見詰めた。
「ちょっとボブ、やめてよ。そんなスピリチュアルな話、あなたに似合わないな。私にも日本の血は流れているけど、そんなこと、全然、思いもしないわ」
マコーミックは首をすくめ、アイリスの手をそっと握った。
「そうだね。ひょっとしたら冷房が効きすぎていたのかもしれん」
アイリスにはそれ以上何も言わなかったが、彼は自分の感覚を信じていた。
あの部屋には確かに何かがいた。エミを救い、あの小さな日本の家々を守っているものが。

第三章

くねくねした細い山道を、悪い足元に気をつけながら登ってきて、曲がり角を出たとたんに、二十メートルほど前方に立つ四人の忍者の姿が眼に入った。
「ヒヤッ!」と若い女性のひとりは小さく悲鳴を上げ、足元を気にしていたもうひとりも視線を上げると棒立ちになった。
京都観光を楽しんでいた二十代のOL二人連れである。
忍者は見下ろし、OLは見上げたまま、固まった。
次の瞬間、忍者たちは山道から木立の中へと身をひるがえした。木々の間を素早く駆け抜けてゆく姿がチラッと見えたかと思うと、あっと言う間に四人の姿は消え失せてしまった。
「な、な、何、今の!忍者だったよね。見たよね!」
「見た!見た!え、なにコレ!映画の撮影?」
ふたりは辺りを慌てて見回した。静まり返り、人の気配はまったく無い。
秋の落日は早く、山間は、もう薄闇が忍び寄っている。
ケエッーと鳥とも獣とも分からない鋭い鳴き声がして、ふたりは飛び上がった。
「も、戻ろう」
急ぎ足で、登ってきた山道を戻り始めた。

彼女たちは別に山に登ろうと思っていたわけではない。同じ職場で働く東京のOLで、秋真っ盛りの京都を散策している途中だった。
朝から東山の山麓に展開する紅葉の名所を、南の方から北に向かって清水寺、南禅寺、永観堂と堪能し、哲学の道にたどり着いた。銀閣寺を目指して歩き始めたのだが、あまりの混雑で、人波に酔ってしまったのである。
どこかで息抜きをと思っていると、人通りのない坂路が山手に向かって延びているのに気がついた。
少し上れば京都市街が見渡せて、いい気分転換になるかもとふたりは哲学の道をそれた。十分ほど登ると家並みや舗装された路が尽き、山道が現れた。
一瞬、迷ったが、もう少し上れば、もっと視界が広がるかもとふたりは登り続けることにした。
道は折れ曲がり、どんどん細く、足元は悪くなっていく。
先ほど、すぐ右手を流れていた桜谷川のせせらぎは、何時の間にか、はるか下方の崖下になり、左手は樹木がそびえている。
チラッと振り返ると、木立にさえぎられて、街はまったく見えず、取り巻く空気は、街中と明らかに違う。何の物音もしない。
流石に気味が悪くなったふたりは、あの曲がり角まで行ったら、引き返そうと決めたところで、忍者に出会ったのである。

互いに言葉を交わすこともなく、急ぎ足で下りて来たふたりは、たった数分ほどで舗装された路に戻り、そのまま歩き続けて、あっと言う間に、もとの哲学の道の雑踏に巻き込まれてしまった。
ふたりは山手を振り返り、顔を見合わせた。十数分前に見たことが現実とは思えなかった。
「くの一がいたでしょう」
誰が聞き耳を立てているわけでもないのに、ひとりが声を潜めて言った。
「あ、気がついた?しかもガイジンだったね」
「え、本当?」
「眼、ブルーだったよ」
「マジで!」
「お土産にどうどす?」
いきなり声をかけられて、ふたりはびくっとした。
色とりどりの、可愛い陶器のペンダントを並べた小さな店の女性が笑いかけている。
「みんな手造りでっせ」
ふたりは思わず覗き込んだが、ひとりが思いついたように、山手を指して、
「あの辺りは何と言う所ですか」
と尋ねた。
「シシガタニです」
「シシ?猪でも出るの」
「はい。でもそのシシとは違います。鹿ヶ谷と書きますねん。ほら、あの平家物語で有名な」
はあ、とふたりは頷いたが、古典には詳しくないので、何のことだか分からなかった。
「あの、ひょっとして、その鹿ヶ谷には、忍者も住んでます?」
「はあ?」
と今度は、店の女性が訝しげな顔をした。
「あ、いや、いいです、いいです。どうも有難うございました」
礼を言って立ち去っていくふたりを見送り、ケッタイな観光客やな、と思ったが、次の客に笑顔を向けた時には、もう忘れていた。

京都市のヘソにあたる四条烏丸交差点の中央に立つと(車が溢れているので実際には不可能だが)、北、東、西、三方全て、ビルの谷間の行く手に山並みが見え、この歴史都市が山脈に囲まれた盆地であることが実感出来る。
特に東山の山麓には、朱の鳥居のトンネルで、海外からの観光客の人気ナンバー・ワンに躍り出た稲荷大社をはじめ、有名な神社仏閣が連なる、京都観光のゴールデン・ゾーンだ。
山肌を利用したり、借景に使ったりした雄大な庭園や別荘も散在する。
鹿ヶ谷の地名が一般に知られているのは、やはり「平家物語」によってであろう。
十二世紀中頃、京の都は「平氏にあらずんば人にあらず」とまで言われた平家全盛の時代だった。ところが、これをこころよく思わぬ後白河法皇のグループが、鹿ヶ谷にある真言宗の僧、俊寛の山荘で、平家打倒の密議、まあ、いわばミーテイングをしばしば持っていたと言うのである。
「平家物語」によると次のようになる。

東山の麓(ふもと)、鹿ノ谷と言ふ所は、うしろは三井寺につづいて、ゆゆしき城郭(じょうくわく)にてぞありける。俊寛僧都(しゅんかん・そうず)の山庄(さんぞう)あり。
かれに常は寄りあひ寄りあひ、平家ほろぼさむずるはかりことをぞ廻(めぐ)らしける。
或る時法皇も御幸(ごこう)なる。
・・・・・・・・・・・・・・・・
その夜(よ)の酒宴に、この由を静憲法印(じゃうけん・ほふいん)に仰せあはせられければ、
「あなあさまし。人あまた承り候ひぬ。唯今(ただいま)もれきこえて、天下の大事に及び候ひなんず」
と、大きにさわぎ申しければ、新大納言けしきかはりて、ざっとたたれけるが、御前(ごぜん)に候ひける瓶子(ヘイジ)を、狩衣(かりぎぬ)の袖にかけて、引倒(ひきたふ)されたりけるを、
法皇、
「あれはいかに」と仰せければ、
大納言立帰(たちか)へって、
「平氏(ヘイジ)たはれ候ひぬ」とぞ申されける。
・・・・・・・・・・・・・・・
平判官康頼(へいほうぐわん・やすより)、参りて、
「ああ、あまりに平氏のおほう候に、もて酔ひて候」と申す。
俊寛僧都、
「さてそれをばいかが仕らむずる」と申されければ、
西光法師(さいくわうほうふし)、
「頸(くび)をとるにしかじ」とて、瓶子のくびをとってぞ入りにける。

東山の麓、鹿の谷は、そのうしろはびわ湖畔、大津の三井寺まで続いていて、城郭としても素晴らしいところだが、僧の俊寛の山荘がある。
そこへ何時も寄り集まっては、何とかして平家を滅ぼしたいものだと密議をこらしていた。
ある時、後白河法皇もおいでになった。
・・・・・・・・・・・・・・
その夜、酒宴になって、けっこう酔いも回ったはずみだろうか、法皇はお供していた静憲に、つい陰謀のことを漏らしてしまわれた。静憲はびっくりして、
「何ということを。こんなに大勢の人がいるところで。はかりごとが漏れたら、天下の一大事でございますぞ」
と大騒ぎするので、むっとした新大納言は、その場をさっと立ち上がったが、酒を入れる瓶子(ヘイジ}を、袖に引っ掛けて倒してしまわれた。
法皇が気をきかせて、
「それはどういうことだろう」と水を向けると、大納言も気を取り直し、
「平氏(ヘイジ)が倒れましたな」とうまく返した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やって来た康頼が続けて、
「あ~あ、平氏(瓶子)ばっかり多くて、もう悪酔いしそうです」
すると俊寛が、
「さて、どういたしましょうかな」
西光法師が調子にのってしまって、
「首をとってしまえばよろしい」
とうとう瓶子(平氏)の首をもいでしまった。

鹿ヶ谷の陰謀はやはり密告によって発覚する。激怒した平氏の頭領、平清盛はさすがに法皇に手を出すことは控えたが、関係者には厳しい処罰でのぞんだ。平氏と瓶子をめぐるやり取りは出来すぎているような気がするが、もし記述が正しいのなら、清盛はじめ、一門を強く刺激したのは間違いない。
俊寛を含む首謀者三人は鬼界ヶ島に流刑とされ、のちにふたりが帰京を赦免されても、俊寛だけは生涯、島を出ることを許されず、恨みながら世を去ったと伝えられる。
この話は近松門左衛門の人形浄瑠璃、「平家女護島」に取り入れられ、のち歌舞伎でも「俊寛」として上演されるポピュラーな演目になっている。

明治に入り、南禅寺周辺には、政界の権力者や大富豪による広大な敷地を持つ別荘が、あまた出現した。世に言う南禅寺別荘群である。
なかでも鹿ヶ谷では、四国の海運業の社長が、九千坪はあろうかという最大の用地を購入したが、紆余曲折があって所有権が転々とする。
戦後、権利を譲り受けた京都でも有数の資産家の男が、京のどの名園にも負けない最大、最高の日本庭園をと、十数年の歳月と莫大な私費を費やして、情熱と熱意を注ぎ込む。
庭園は完成するが、東屋と茶室に取り掛かったところで、男は力つき、亡くなってしまう。
計画は中断され、庭園は閉鎖されたまま、また月日は過ぎて、二十一世紀に入った。
高い塀と樹林に囲まれ、外からでは庭園の様相はまったくうかがえない。
まだ造園中だった頃を知る周辺の住民の話では、山の傾斜を利用し、石垣を張り巡らせた城のような造りに見えたと言う。
ひっそりと眠り続ける秘められた庭園は、俊寛の伝説にちなみ、何時しか「城郭」と呼ばれるようになった。
三年前、エドが念願かなって、京都で別荘地として手に入れたのがこの庭園である。
何十年ぶりかに、再び工事関係者と車両が出入りするようになり、「城郭」は目覚めた。

「谷山」の事務室のソファにどっかと腰を下ろしたエドは、ウタマロの『利兵衛じじい』の浮世絵を見ると、相好を崩した。
面長で髪の毛はグレイだが、少し時代がかった黒い口ひげを生やしている。五十代を過ぎているが、体形は若者のようにすらりとしていた。
「こいつはいい! このスケベじじいと娘の表情の対比を見ろ!構成も完璧だ。まさにアートだな」
テーブルをはさんで、椅子に坐っていた浩二はニッコリした。
「気に入っていただけましたか」
「勿論だよ、コウジ。よし、貰おう」
ふたりの側らで、立ったまま控えていた恵美は仰天した。浩二はまだ値段も言っていない。
「エド。まだ値段も申し上げてませんが」
エドは両手を大きく広げてソファに体を預け、脚を高々と組んだ。
「聞くところによると、ある大富豪は、自家用ヨットの値段を聞かれて、こう答えたそうだ。値段を聞かなくちゃならないなら、買う立場じゃないってな」
浩二はニヤリとした。
「Columbo」(刑事コロンボ)
恵美がタイトルを続ける。
「Any Old Port in a Storm」(別れのワイン)
エドは大笑いした。
「元ネタはバレバレか。だから君たちが好きなんだ。よそのディーラーでは、こうはいかないよ。ポカンとして聞き流されるのがオチさ。私はコウジを信頼している。何なら金額をブランク(空白)の小切手を渡そうか」
「とんでもない」
浩二は笑みを浮かべながら首を振った。こういうタイプの人間は、こちらが調子にのってしまうと、痛い目にあう。
「そうか。じゃ何時ものように鹿ヶ谷に届けてくれ。すぐ払うから」
「有難うございます」
浩二は丁寧に礼を言った。恵美も同じように頭を下げる。
「エミ。そんなところで突っ立てないで、こっちに座れよ」
エドはソファの自分の側らをポンポンと叩いた。遠慮をすると、機嫌が悪くなるのを知っているので、恵美はすぐ腰をかけた。
「心配するなよ、コウジ。君の大事な婚約者には指一本触れないから」
と両手を高く上げたので、浩二と恵美は笑ってしまった。どうやら今日は機嫌がいいらしい。
「もう一年早く、この店を知っていたら、絶対彼女にアタックしたんだけどね」
浩二に片目をつぶってみせる。
「別荘の方は完成なさったのですか」
と恵美が尋ねた。
「やっとね。こちらから買ったアートもすべて、パーフェクトに収まったよ。君たちのおかげだ」
「そう仰っていただくと嬉しいです」
浩二はあらためて頭を下げた。
「それで実は今月の二十八日に、親しい人たちだけをディナーに呼ぼうと思うんだ。君らは来てくれるよね」
ふたりは思わず顔を見合わせた。夢のような話である。何回か品物は届けているが、入り口近くの仮設の事務所までであった。
エドはあの伝説の庭園を利用して、どんな別荘を造り上げたのだろうか。それが見られると思うと、ワクワクする。
「勿論です。よろこんでお伺いします」
「良かった。その夜は部屋を用意するから、ゆっくり泊まっていって欲しい」
「本当ですか。みんなうらやましがりますよ」
「君たちは同じ部屋でいいね」
浩二は正直に嬉しそうな顔をし、恵美はちょっぴり紅くなった。
「そうだ。リュウスケにも声を掛けておいてくれ。彼がアレンジしてくれた屏風も、どれも素晴らしかった」
「分かりました。彼も大喜びすると思いますよ」
(だろうな)と恵美は思ったが、竜介の目の前で、ふたりが同じ部屋へ消えることを考えると、いささか気が滅入った。

ドアが軽くノックされたので、ナオミ・モローは時計を見た。きっかり四時である。
ー相変わらず時間に正確な人ねー
ナオミは立ち上がって、ドアを開けた。
長身だが、身軽い動きで、白髪のメガネをかけたスーツの男が入ってきた。CIA情報本部長のフランク・ストーンである。
ふたりは笑顔を浮かべて、握手をかわした。
「フランク。お久しぶり。元気そうね。とても六十五には見えないわ」
「ナオミ。相変わらずお美しい。こいつは掛け値なしのコメントだ」
入ってきたのはフランクひとりだったので、ナオミはドアに目をやった。
「ガードは?」
「エレベーター・ホールで待機している」
「VIPが来てるのが、丸分かりじゃない」
「このフロアは超セレブ専用だぜ。当然だろう」
「何か飲む?いいのがあるわよ」
洒落たバーカウンターに向かいながら顔だけ向ける。
「じゃあ」
とフランクは二本指で量を示して、ソファに坐った。
「わざわざ京都に来たわけじゃないのでしょう?」
「ああ、中国から帰りのストップオーバーさ」
ナオミから渡されたグラスを受け取り、フランクはひと口味わった。
「なるほど。こいつはホンモノだ。日本のだろう」
ナオミは笑って頷いた。
「ヤレヤレ。スコッチも形無しだな」
ナオミも自分のグラスを持って、フランクの隣りに坐る。
「うまくディナーに招待されたらしいな。さすがだね」
「映画監督のデニスが参加すると聞いたので、頼んでOKは取れたけど、何だかガードが固かったわ。限られたメンバーしか呼んでないみたい。エドにも、あの別荘にも興味があるから、渡りに舟だったけど。でも何故CIAが気にするのか分からないわ」
「わが国の軍需産業や防衛システムには「JUN」のデータベース管理システムが大きくかかわっている。そのCEOの動向には眼を光らせているのは当然だろう」
フランクは日本産のウイスキーを口に含んだ。
「君も良く知っているように、この街は歴史都市だ。日本はもとより、世界中から観光客が押し寄せている。当然市内には遊んでいる土地なんか、ほとんどないし、あっても取りあいだ。ところがやつが買ったあの別荘地だ。どれぐらい大きいか知っているか?三ヘクタールだぜ」
「ワァオ」
口では驚いたふりをしたが、彼女が知っていたのはあきらかだった。
「いくら山すそと言っても、街のど真ん中みたいなものだ。観光客がすぐ近くをぞろぞろ行き来している。しかもだな、この庭園は三十年以上前に一応日本人が完成させているんだ。その時、辺りの住民が何と呼んだと思う。キャッスル、城郭だ。最初は冗談だと思った。せいぜいフォート、そう砦みたいな雰囲気があるんだろうと考えた。衛星写真を見て仰天したよ。確かに平地には日本庭園が広がっているんだが、そこから山に向かっての傾斜には本格的な城壁が展開してるんだ」
フランクはぐいとグラスの残りをあおった。
「CIAもヒマなのね。エドはただ日本の伝統的なものに憧れてるだけよ。取り越し苦労だわ」
ナオミはからかう様な目つきでフランクを見た。
別に気を悪くした風でもなく、彼は立ち上がって窓辺に寄った。
ナオミがステイしているのは鴨川沿いに建つオープンしたばかりの超高級ホテルのロイヤル・スイートだ。市の条例でこの辺りは建物が三階しか許されないので、最上階のこの部屋でも、鴨川をはさんだ対岸は、かなり身近に見える。
ナオミは気をきかせて、室内のライトは消し、窓には白いレースのカーテンを引いていた。
フランクは、そのカーテンをさっと開いた。ナオミは何も言わない。
「平和だな、ここは。こうして窓辺に立っても、何の不安もない」
彼は振り向いて、ナオミを見た。
「9・11の前に、高層ビルにハイジャックされた旅客機が突っ込んで、ビルが崩壊するなんて映画を企画したら、いくらハリウッドでも荒唐無稽だと大笑いされたはずだよ。因果な仕事でね、今や、まさかと思えることこそ怖いんだ。」
フランクはカーテンを閉めると、ソファに戻って、ナオミを見詰めた。からのグラスを握り締めている。
「直径が二メートルはある金属製の黒い球だ」
何を言い出したのかとナオミを眉をひそめた。
「二ヶ月前、密かにあの庭園に運び込まれたんだ。撮影記録をチェックしていて偶然見つけた。ラングレーのうちのメンバーは、何かの飾りだろうと問題にしていないが、私はどうも気に入らん。少なくとも現在の衛星写真では、庭園のどこにも、その黒い球の姿は見えない」
「室内に飾られてるんじゃない?」
「おそらく、そうだろう。だがあの別荘の建物はどれもエレガントな日本建築だ。あんなバカでかい球を飾るにふさわしいとは、とても思えんのだけどね」
「分かったわ。行けばそんな図体なら、すぐ見つかるでしょう」
「有難い。この哀れな年寄りの心配事のひとつを取り除いてくれるか。日本との友好関係にヒビを入らせてはならん」
ナオミは笑って、フランクの空のグラスを(お代わりは?)と指差した。彼がうなずくと、グラスを取って、バーカウンターへ向かう。
「アメリカはシェールガス関連の投資で大金が動いている」
フランクはさりげなく切り出した。ナオミに語りかけるというより、独り言のようだ。
「エネルギー革命だと喜んでいるが、こいつは原油に比べて採るのにコストがかかる。供給が増えれば、モノの値段がさがるのは鉄則だ。将来、産油国が手を組んで価格を下げれば、すぐ採算割れになる。油だけにヤケドをせぬよう気をつけることだ」
何も聞いていなかったように、ナオミはグラスを持って戻ってきた。
「エドの前立腺の腫瘍は、実際どうなの?」
「一年前の手術と放射線治療で完治したと公表されている。本当のところは分からん。今はとても元気なようだが、精神的に不安定なのは相変わらずだ」
二杯目を手にしたフランクは、グラスを掲げた。
「ペイトリオット(愛国者)の女神に乾杯」
「私は好きなことをしてるだけだから。この世界から、少しでも愚かな争いがなくなりますように」
ナオミは、アルカイックな微笑をフランクに向けた。
古強者の彼としては、珍しく心がときめく感動におそわれた。

第四章

十一月二十八日は抜けるような青空に紅葉が映える、絶好の秋日和だった。
哲学の道の人波を縫うように横切って、浩二、恵美、竜介を乗せたタクシーは山手へ向かった。
住宅がまばらになった頃、右手に低い石垣とアール・デコ様式の青銅の門が開いた入り口が見えて来た。
石垣の上は盛り土で、樹木が生い茂り、視界をさえぎっている。
ガードマンが一人立っていて、車内の三人を認めると、敬礼して、通してくれた。
砂利道を折れ曲がって進むと、今度は巨大な岩石を柱にした、重厚な木の扉の門が現れた。黒い鉄で装飾されている、城郭に相応しいような、どっしりした扉である。
来客のために開かれていたが、やはり樹木で奥は見えない。
「ごっついお屋敷ですねえ。近場にこんなスゲエところがあるなんて、まったく知りませんでしたわ」
タクシーの運転手が感嘆の声を上げた。
門の前で着物に袴の長身の美青年が爽やかな笑顔を浮かべて待っていた。
「谷山様、山崎様、堀様ですね。お待ちしておりました。どうぞ」
恵美がちらりと横目で見ると、竜介はよだれを流さんばかりだった。恵美の視線に気がついて、フンと肩をそびやかす。
樹木の間の砂利道を案内されながら進んで行くと、いきなり視界が開けた。
「うわぁ」
と三人が異口同音で、思わず声を出して立ち止まった。
夢のようで、圧倒的なスケールの別世界が大きく広がっている。
中央に大きな池がある。歩いてぐるっと一周するのに十分はかかるだろう。
東山を背に、鏡のような水面に青空を映しているその池の周りを、常緑樹と、真紅からオレンジがかった赤まで、色合いの違う紅葉が取り囲み、黄色の鮮やかなイチョウが入り混じって、例えようもなく美しい。
鹿ケ谷そのものを庭園に変えているのだ。
何よりも三人を驚かせたのは、起伏ある地面である。趣(おもむき)のある岩が要所要所に巧みに配置されているが、地表は全て見渡す限り、一面見事な苔で被われている。
「苔寺なんて、比べ物にならないね」
浩二がつぶやいた。
「庭園は約三十年前に完成しましたが、三年前にオーナーが購入されるまで、完全に閉鎖された状態でした。数名の庭師の方々が細々と管理を続けてられましたが、それ以外はまったく人が立ち入ることがなかったので、このような奇跡が生まれました」
案内している青年が説明してくれる。
辺りを見回しながら、浩二は不思議に思った。
このままでも、間違いなく京都の新名所になる。何故こんなに素晴らしく、貴重な庭園が長い年月、閉鎖されたままだったのだろう。
彼は勿論、俊寛の伝説は知っているが、それがこの二十一世紀の時代に影響を及ぼすとはとても考えられなかった。
「苔の上、踏んで歩き回ったら、気持ち良さそうね」
竜介が穏やかならぬ発言をするので、恵美がにらみつけた。
北になる池の左手には、ちょっとしたガーデン・パーティーなら出来そうな芝生があり、それにそって風雅な数奇屋造りの建物が幾つか、微妙に屈折や雁行を繰り返して山手に続いていた。屋根は優美な銅板葺の寄棟造りである。
「これらの建物は、全てオーナー自身で設計されたものです。連続していて、廊下で行き来が出来ます。手前からエントランス・ホール、広間の棟、多目的和室の棟、厨房、管理と収蔵の棟、と続きます。一番奥に少し変化のある入母屋造りの屋根がのぞいてますが、あれがオーナーの居間と寝室の棟です」
青年は続いて数奇屋棟から離れ、一軒だけポツンと池に突き出している書院造りの建物に視線を向けた。
屋根は桧皮葺で、高欄のついた縁が取り巻いている。建物自体は池に埋めた柱に支えられて、浮いているように見えた。すでに庭園にしっとりと馴染んでいて、まるで絵巻物から抜け出してきたような眺めである。
「池の正面に見える琵琶湖の浮御堂のようなあの建物はライブラリーですが、ゲスト・ハウスとしても使えるようになっています。のちほど、ご案内出来ると思いますが、あのテラスから池越えに見える京都市街の眺めも素晴らしいですよ」
「今夜のⅤⅠPが泊まったりして」
恵美は流し目で青年を見た。
「ハイ、多分」
と思わず答えた彼は、紅くなり、
「あ、あんまり勝手にしゃべったらボスに叱られますので、今のは聞かなかったことにして下さい」
「ちょっと、恵美、可哀想よ。余計なことを聞いちゃ駄目」
竜介は先ほどにらまれたしっぺ返しをする。
「お城のような見事な石垣があると聞いたことがあるんだけど」
浩二が尋ねた。
「あ、池の奥、もっと山手の方へ登っていかれるとありますが、ここからでは樹木にさえぎられて見えません。よろしければ何時でもご案内いたします」
「タツオ!」
突然、怒声が響き、説明していた青年が、びくっとした。
エントランス・ホールの棟の前に、キモノ姿のエドが突っ立ち、険しい目つきで彼を睨んでいる。
三人は軽く頭を下げて挨拶したが、エドは目もくれない。
ー鬼みたいな形相やわー
恵美は背筋がぞくっとした。
「ハイッ!」
タツオと呼ばれた青年は返事をすると、袴をパタパタさせながら駆けていき、エドの前で直立不動になった。
「お前の仕事は何だ」
「ハイ。お客様をエントランス・ホールまでご案内することです」
「誰がガイドをしろと言った」
「申し訳ありません。出すぎたことをいたしました」
「それはホストである私がするべきことだ。それぐらいのことが分からないほど、お前の頭は空っぽなのか」
タツオ青年はこれ以上出来ないほど、深々と頭を下げた。
「すみません。本当に申し訳ありません」
「もういい。仕事に戻れ」
「ハイ」
タツオ青年はもう一度頭を下げ、向き直って三人にもお辞儀をすると、しおしおと立ち去った。
「やな感じ」
竜介が低い声でぼそっとつぶやいた。
何事もなかったように、エドは両手を軽く広げながら、三人に近づいてきた。一変して満面の笑みを浮かべている。
付け替えお面みたい、と恵美は思った。
「コウジ、エミ、リュウスケ、良く来てくれたね。私の別荘に君たちのような素晴らしいゲストを迎えることが出来て、本当に嬉しいよ」
エドは浩二の手を握りながら、言った。
「お招きいただき、感謝いたします。天気もいいし、今日は人生最高の日になりそうです」
浩二がそつなく礼を述べる。
「エミ、今日は一段とお美しい。モミジが色あせて見えるよ」
目をのぞきこむようにしながら、そっと恵美の手に唇を当てる。
「とんでもない。たとえ美人が千人いても、ここの紅葉の美しさには敵いませんわ」
恵美も負けてはいない。
エドは竜介の手も、しっかりと握り締めた。英語でなく、日本語で話しかける。
「リュウスケ、素晴らしい屏風をアリガトウ。君の助けがなかったら、この別荘も、まさに『画竜点睛を欠く』ところだった」
きれいで、正確な発音だった。竜介のために覚えたのだろう。
単純なところもある竜介は、先ほどのことはすっかり忘れたように、
「有難うございます」
とニコニコしながら、手を握り返した。
エントランス・ホールへ向かいながら、浩二はエドにそっと話しかけた。
「わたしたちが色々質問したために、あの案内の青年には気の毒なことをしました」
「そんなことはない。彼も勉強になって、感謝しているはずだ。気にするな」
後ろを歩いていた恵美と竜介は、そっと顔を見合わせた。

エントランス・ホールは黒の御影石がランダムに敷かれ、式台の前には赤みがかった鞍馬山産の沓脱ぎ石(くつぬぎいし)が華やぎを与えている。
坐り心地の良さそうな、北欧風の曲げ木背もたれの椅子が数脚おいてあったが、ひとり先客がいて、入って来た浩二らを見て立ち上がった。
五十歳前後の、赤ら顔で小太りの白人で、襟付きシャツにブレザーのラフな格好である。
「映画監督のデニス・グリーンだ」
とエドが引き合わせた。
浩二がぱっと眼を輝かせた。
「お目にかかれて光栄です、グリーンさん。あなたの映画は全て観ていますよ」
「そいつは嬉しいね。デニスと呼んでくれ」
デニスは口元を緩めたが、目は神経質そうに瞬きを繰り返している。
彼はイギリス人で、二十八歳の時、近未来を扱ったSF映画で衝撃的なデビューをした。細部までこだわった美術と照明の独特な映像美で知られ、デビュー作「エイリアン・ワールド」の地球外生物と異世界の造形は、ファンの間で語り草になっている。
すでに十数本の作品を監督し、アカデミー監督賞には三度もノミネートされているが、まだ縁がない。完璧主義のために、製作が常に遅れ勝ちになり、ハリウッドに嫌われてか、ここ数年は一本も撮っていない。
エドは社運を賭けた、新しいPCの発売に際し、そのTV用CMの製作にデニスを登用したことがある。彼の美的センスに惚れ込んだからだが、斬新なCMは大きな話題になり、商品も大ヒットした。「JUN」ブランドが、一般にも大きく知れ渡ったのは、それからである。
美にこだわる。産業界と映画界のふたりの巨人に共通した想いが彼らを結び付けている。
タツオ青年が、一人の女性を案内してくるのに、みんなが同時に気がついた。
うるしのように艶のある黒髪が、濃紺のジャケットの肩にかかり、白い水玉模様のシャツに、チャコール・グレイのスカートが合っていた。
透きとおるような美女である。
顔を真っ直ぐに上げ、微かな笑みを浮かべながら、歩んでくる姿に全員が見惚れている。見事な庭園も、彼女の引き立て役に過ぎないようだった。
エドが入り口で出迎えた。
「ようこそ、ミス・ナオミ・モロー。お目にかかれて、とても嬉しい。ゆっくり、古都の秋を楽しんでいただけたらと願うよ。ところで、ナオミと呼んでいいかな?」
エド自身もナオミの噂は聞いていたが、会うのは初めてである。想像とは大きく違ったので驚いていた。
「勿論よ、エド。このような素晴らしいところで、あなたにお会い出来る機会をいただけたことを喜んでいます。本当にワクワクしていますわ」
ナオミとデニスは顔見知りらしく、ハグをしながら、挨拶をかわした。
「ナオミ・モローだ。君たちと同じようにアートを取り扱っている。世界中を飛び回っておられるらしい」
エドが浩二らに彼女を紹介する口調には、どこか皮肉っぽい響きが感じられる。
「コウジ タニヤマです。アートと言っても、ささやかな古美術店を経営するのが精一杯で、京都から出たことも、ほとんどありません。うらやましいですね」
浩二が言うと、ナオミは首を振った。
「私が昔から憧れているのは、そんな人生ですよ。こちらこそ、うらやましいわ」
まんざら、口先だけのトークでもない様子である。
ナオミの身長は浩二と変わらない。間近で見ると、瞳はアンバーである。光線の加減で金色に輝く時もあり、狼の目とも呼ばれる。
白人だが、どこか東洋的な柔らかさがあり、唇が官能的だ。
ーキスしてみたいなー
恵美が隣りにいるにもかかわらず、浩二は、一瞬、不埒なことを考えた。
はっと気を取り直して、
「エミ ヤマザキ。フィアンセです」
と紹介しながら恵美を振り返った浩二はビックリした。
眼を見開き、真っ青な顔をしている。
「そう。あなたがエミなのね」
ナオミは微妙な言い方をし、恵美の手をしっかり握り締めた。そのまま手を離さず、いとおしげに見詰めている。
恵美はこわばった表情で、
「今日は」
とかろうじて応えて、頭を下げた。
浩二がいぶかしげな表情をしたまま、竜介の方に向き直る。
「彼はリュウスケ ホリ。友人で、屏風のデザイナーです」
「よろしく」
竜介はとろけるような笑顔で、握手した。男でも女でも、美しい人は大好きである。
二人が並んでいると、絵にかいたようなカップルである。
ナオミは一瞬で、竜介がゲイだと見抜いたようだ。楽しげな表情を隠そうとしない。
「では、あなたたちがヒーローね」
あらためて見回した。
言われた三人はもとより、エドもデニスも怪訝そうな顔をした。
「ジュリエット・クレーンの屏風の件で、大活躍したそうじゃない」
ああ、と浩二と竜介は納得して、悪い気はしないようだが、恵美は黙ったままナオミから目を離さない。
ー誰や、この人ー
半年ほど前、ジュリエットの遺産やそのミステリアスな生活は全米のマスコミを賑わせたが、それに先立つ琵琶湖の武田美術館の騒ぎなぞ、海外のどの新聞にも載らなかったはずである。事件に絡んだ日本人の名前を知っているアメリカ人がいるとはとても思えない。エドもデニスも、ナオミが言ったことがピンときていない様子なのは当然だ。
どうして浩二や竜介の活躍を知っているのだろうか。
考えられる唯一の可能性はボブかアイリスの線だが、先ほどの妙に思い入れのこもった握手は何だったのだろう。
「大丈夫か」
浩二が顔を寄せて、そっと恵美にささやいた。
うん、と軽くうなづく。
そっと彼の手にふれ、「あとで」と小さく言った。
少し間の空いた空気が、デニスの一言で緊張した。
「来たぞ、T-REXが」
「え、何が来たって?」
竜介が浩二に尋ねた。
もともと学生時代、英語が不得手でなかった竜介は、この半年間で、日常会話は問題ないレベルになっていたが、デニスの言葉は最後まで聞き取れなかった。
「ティラノサウルス」
浩二が短く答えた。
「はあ?」
慌てて追いすがるタツオ青年を無視し、長身の女性が大またで近づいてくる。
端正な顔立ちで、きりっと結んだ口元に強い意志力が現れていた。高価そうだが、素っ気ないまでシンプルなビジネス・スーツを着ている。
「インテリジェンス・データ・ベース」のCEOであり、世界一の金持ち、キャサリン・ビルボーだ。
エドが出迎え、ふたりは握手を交わした。
「キャサリン」
これ以上はない猫なで声だった。
「エド」
あっさりと返す。
ふたりともニコニコしているが、眼はまったく笑っていない。
「遠いところを良く来てくれたね。失望させなければいいが」
「お会い出来ただけで充分よ」
エドは全員を紹介したが、キャサリンが目を輝かせ、口を利いたのはナオミにだけだった。

建物の内部も贅をつくしていた。良質の欅やヒノキ、栗などの木材を巧みにいかし、洗練された侘び、寂びの風味に、時には大胆に民芸風をまじえている。
伝統的でありながら、軽快さを感じさせる仕上がりは、当代随一の数寄屋師が心血を注いだものに違いない。
エドは建物の内部を自身の居間や寝室まで含め、全て見せてくれた。
多目的和室の棟は四つの独立した部屋になっており、それぞれナオミ、デニス、竜介、浩二と恵美に割り当てられ、持参したバッグやケースはすでに届いていた。
「キャサリンにはライブラリーのあるゲスト・ハウスを使って貰おう」
エントランス・ホールまで戻ってくると、エドはぞうりに足を通した。そのまま案内する積もりらしいので、一同も靴を履き、表へ出た。
建物群から池に沿い、緩やかなカーブでゲスト・ハウスへ向かう道は車一台が通れるぐらいある。
エドが先頭に立ち、盛んにナオミに話しかけるキャサリンが続いた。
少し遅れて、映画の話題に夢中になっているのが浩二とデニスで、最後尾は恵美と竜介だった。
普段は恋の鞘当てで何かと角突き合わすふたりだが、今はキャサリンという格好のたな卸しの対象が出現したので、珍しく話がはずんでいる。
「ほんとにいけ好かない女よねえ。我々庶民は眼中にないのよ」
吐き捨てるように竜介が言うと、恵美が大きく頷いた。
「エドが何故彼女を招いたのか、わからへんわ。思惑があるんやと思うけど」
「ディナーの席でのふたりのやりとりが見ものね」
ふたりは顔を見合わせ、くすっと笑った。
庭園ではあちこちに、忙しそうに行き来する男女が見られる。男性はグレイで、女性は白の特別仕立てらしい作務衣(さむえ)を着ている。
ゲストを見ると、立ち止まって、丁寧にお辞儀をした。
「この方たちは、ここに住んでられるの?」
ナオミがエドに声をかけた。
「いや、彼らはほとんど通いだが、秘書や警備、ハウスキーピングの居住棟は、あの・・・」
と歩きながらエドは北の山裾を指した。
「・・山陰にある」
浩二は目でキャサリンを指し、デニスにそっと訊いた。
「どうしてT-REXなんです?」
「暴君だからさ。食い殺されないように気をつけろ」
池に浮かんだような、優雅な書院造りの建物は小橋で岸と結ばれている。
履物のまま入ると、ライブラリーだった。池に面した北と西側は大きなガラス戸になっていて、建物を取り囲む回り縁に出られる。小さな飾り棚がひとつと本棚がふたつあるだけのシンプルな部屋だったが、磨き上げられた床板は見事な欅である。
一目見て、「うぉっ!」と浩二が嘆声を上げた。
「素晴らしいだろう」
エドが得意げに浩二を見る。
「はい。今どき、良くこんな大きくて、良質の欅が手に入りましたね」
「一番苦労したところだ。何としても、ここにはケヤキと決めていたからね」
床板ごときに、何を大層な、とキャサリンは無表情にふたりの会話を聞いている。
ゆったりした一人用ソファとガラス・トップのノグチ・テーブルが置かれた床には、二枚の鍋島段通が敷いてあった。
「美しいナベシマですね。ケヤキの床に良く合ってるわ。パーフェクト!」
ナオミが小さく拍手の真似をエドに送った。
浩二と恵美は、ナオミが段通を正確にナベシマと呼んだので顔を見合わせた。
世界的に有名な焼き物のイマリ、ナベシマの名を知っている外国人は多いが、段通のナベシマは日本人でさえ、知る人はあまりいない。
高級磁器のナベシマも、段通のナベシマも、江戸時代から続く佐賀藩(鍋島藩)の特産品で、藩主により幕府や諸大名への献上品として名高い。
「ね、ナオミが言ってるナベシマって、あの床に敷いてある畳一枚サイズのカーペットのこと?」
「そう。段通と言って、滅多に見かけないけど、お茶会の待合などで時々敷いてあるわ。独特な色合いと模様で一度見たら忘れられない。へえ~、堀さん、知らなかったんや」
竜介は口惜しそうな顔をした。恵美はともかく、ナオミに遅れを取ったのがいまいましい。
ライブラリーと隣室の境の襖を開けると畳敷きの和室だった。小振りながら床の間もあり、禅の円相の軸が掛かっている。飾ってある江戸時代の銅の香炉ともども、浩二が納めたものだった。
ギャラリーと違って聚楽壁で囲まれ、障子窓があるだけなので、プライバシーは問題ない。右奥、南側に引き戸があり、そこからも回り縁に出られる。
キャサリンのものらしい旅行ケースが置いてあった。
「ベッドじゃないのね」
キャサリンは露骨に嫌な顔をした。
「すまないね。厚いマットを敷くし、最高級のふとんだから、寝心地は保証するよ」
「ベッド以外で寝たことがないのよ」
「いい機会じゃない。ひょっとして病みつきになったりして」
ナオミがとりなすように話しかけたが、キャサリンは返事もしない。
「化粧室とバス・ルームは奥の襖を開けるとある。日本の風呂なので、勝手が悪かったら、シャワーを使ってくれ」
エドは言い捨てると、池に面した高欄のある縁に出た。水面までは三メートルほどである。
竜介がへっぴり腰でのぞいている。ちょっとでも高いところは弱いのだ。
分かっていて、恵美はわざと竜介の体を軽く突いた。
「ウワッ!」
振り向いて、眼を三角にして怒っている。
「僕、泳げないのよ!」
「ゴメン、ゴメン」
恵美はすまして謝った。浩二がそっぽを向いて、笑いを噛み殺している。
「読書には最高だね、ここは」
デニスがつぶやいた。
「確かに眺めはいいわね」
何時の間にか、縁に出ていたキャサリンが言った。ベッドはあきらめたらしい。
「それでは、もう少し山手の方へご案内しよう」
ライブラリーを出て行こうとしたエドにキャサリンが声を掛けた。
「エド。私はここで暫く休むわ」
「そうか。途中のティー・ハウスでお茶をいただいて貰おうと用意してるんだがね」
「グリーン・ティーでしょう。あれは苦手。遠慮しとくわ」
「OK。じゃ、お好きに」

ゲスト・ハウスから池沿いに南へと続く道は狭くなっている。
しばらく進むと、山手の方への分かれ道があり、エドはそちらへ向かった。
見渡す限り緑に染め上げられ、うねるように広がる苔の大海の中を、切り石や自然石を配した細道が、時には真っ直ぐ、時には曲がりくねって続いている。
ところどころに紅葉とイチョウの黄色い葉が入り混じって、鮮やかなグリーンの苔に散り敷き、夢幻の世界へ迷い込んだようだ。
辺りは静寂につつまれ、声を出すことがはばかられるように、みんなは無言のまま歩を進めた。
木々の間を抜けると、豪壮な石垣が現れた。
高さは十メートルほどで、長さは七、八十メートルに渡って続いており、まさに城郭にふさわしいような景観だ。山の斜面を利用し、自然石を巧みに積み上げた石垣は、すでに古城のような風格さえ感じられる。
圧倒的な存在感があった。見上げたまま、誰ひとり口を利かず、立ちすくんでいた。
エドがうながし、ちょうど中央辺りに開いた、幅六メートルほどの登り口まで来た。
緩やかな石段が、真っ直ぐに伸びている。
登っていくと、少し奥まったところに、同じような石垣が見えてきた。つまり二段構えになっているのだ。二段目の石垣は一段目ほど大きくはないが、高さは変わらない。
二段目についている石段は、一段目の石段より数メートル左にずれている。その幅は一段目の半分もなく、二メートルほどだ。見上げると、石段を登りきったところに、円錐形の屋根がのぞいている。
一行はそのまま石段を登り始めた。
頂上にたどり着いた時は、さすがにデニスは息を切らせていた。
曲線が美しい桧皮葺の屋根は、間口が約四メートル近くある立派な御堂を覆っていた。
石垣を取り囲む、三方の山肌は、切り立った崖になっている。
ーなるほど。まさに城郭そのものだわー
ナオミは唸った。
池を眼下に、山間に広がる京の街並みは、はるか遠くに見える。
御堂の側らには、タツオ青年ではない別の若者が、やはり着物に袴姿で控えていた。
エドが深く礼をし、手を合わせたので、一同もそれに倣った。
「何を祀られているのですか」
浩二は尋ねた。
「サトリだ」
「サトリ?」
「そうだ。Spiritual Enlightenmentだよ。コウジ、気がついただろうが、ゲスト・ハウスに掛かっていたのは、君から買ったエンソウ(円相)の軸だ。禅の悟りを形象化したものだと説明してくれたね。私は非常に感銘を受けた。あれこそ私が求めていたものだ。円の中には何もなく、真理だけがある。無駄なものは徹底的にそぎ落とすべきだ。すると答えは自然に出てくる。例えば日本の国旗を見たまえ。あれほどソフィスティケートされたデザインはない。Simplicityこそ究極の美だ」
エドは憑かれたように喋り続けた。
「エンソウは二次元のアートだ。私はサトリを三次元で表現したかった。それがここにあるんだ。ここにさ!」
エドは激しく腕を振り回して、御堂を示した。
デニスは興味深そうに耳を傾けていたが、浩二と恵美は呆気に取られている。竜介の現在の語学力では、エドの話を完全に理解するのは無理だった。
ナオミはみんなの後ろで、腕を組み、唇にうっすらと笑みを浮かべて、御堂を見詰めていた。
ーフランク、安心して。あなたの心配事は見つけたわよー
「見せてあげよう」
エドは興奮を抑えきれないように、手を震わせながら、御堂の扉を開けるよう若者に指示した。
彼はうやうやしく、御堂の縁に上がり、そっと扉を開いた。
真っ先に目に飛び込んできたのは、直径が二メートルはありそうな、黒光りする巨大な金属の球であった。金箔におおわれた一畳ほどの大きさの金属板に乗っている。
そしてその球と台座を、高さが三尺ほどある見事な巨木の円柱が二本、両端で支えていた。
美しかったが、異様な圧迫感があり、不気味であった。
球の表面には金で梵字が一字、刻み込まれている。
「梵字ですね。何と言う字ですか」
「アだよ。最も大事な字で、全ての神を現すことが出来ると言われている」
エドは合図をして、扉を閉めさせた。眼の奥はまだ燃えていたが、嘘のように平静さを取り戻している。
御堂以外は芝生を敷き詰めた空き地だった。
「エド。サトリの球は、何で出来ているんだ」
デニスが尋ねた。
「鋼鉄だよ」
「君はどうしてこの巨大な球をここに据え付けることが出来たんだ。フェリーニはLa Dolce Vita(甘い生活)のファースト・シーンで、ヘリコプターからキリスト像をぶらさげて、ローマ上空を飛ばしたが、あれは半世紀も前だ。まさか二十一世紀のキョウトで同じようなことが許されたとも思えんが」
「ああ。勿論無理だった」
エドはニヤニヤしている。
「下は見事なコケのガーデンだ。しかもこの石垣だ。クレーンやリフトなんかの機械類は使えなかったはずだ。一体どうしたんだ」
「実はサトリの球は十六のピースからなっている。バラバラにして人力でここまで運び上げた。ひとつのピースでも四人がかりだったけどね。最後にはめ込むピースには、ストッパーが内蔵されていて、差し込むと開き、真円の鋼鉄球が完成する。近くで見ても、継ぎ目は全く目立たないよ。「JUN」の最高傑作だ」
「設計者は君だな」
「ほかに誰がいる。御堂の土台が出来上がると、サトリはその上でたった三日で組み立てた。御堂の建物も同じだよ。パーツに分解して持ち込んだ。釘はほとんど使わないシンプルな構造だからね」
デニスは首を振った。
「何も知らない者から見れば、一夜にしてこの御堂が出現したみたいなもんだな」
「実際には、五日かかったけれどね」

石段を降りながら浩二はエドに尋ねた。
「あのサトリが据えられた台を支えている木の円柱ですが、かなり時代がありますね。風格があって、存在感が凄いです。どこか由緒ある建造物に使われていたものですか」
「ふむ、さすがコウジだな。眼の付け所が違う。あれはこの庭園と石垣を造った男が大切にしていたholy woods,ゴシンボクだよ」
「ご神木?」
「そうだ。トヨトミ ヒデヨシの大坂城にあった、とても素晴らしい建造物に使われていたと聞いている」
浩二は首をひねった。
「秀吉の大坂城は猛火に包まれ、全て灰燼に帰したはずですが」
「それが残ってるんだから、奇跡のゴシンボクということだろう」
エドがうるさそうに言ったので、浩二は口をつぐんだ。
徳川家康は秀吉の大坂城を徹底的に破壊し、石垣さえ埋め尽くした。城の遺物は何一つ残らなかったと聞いている。あれほどの円柱を使用した建造物なら相当大きかったはずで、無傷で戦火をまぬがれたとは到底信じられなかった。
デニスは竜介に手振り身振りで、フェリーニの映画のシーンを説明している。
自然に恵美とナオミは肩を並べる。恵美は先ほど疑問に思ったことを率直にぶつけてみることにした。
「屏風の件ですけど、コウジやリュウスケ、それに私のことを、とても良くご存知のようですね」
ナオミは謎めいた笑顔を彼女に向けた。
「ジュリエットのアパートメントで、あなたとイスケに何が起こったかも知ってるわよ」
恵美はびっくりした。
タツオ青年の案内で彼女が現われた時の衝撃が戻ってきた。
あの時、恵美は一瞬、ミランダが生き返って、復讐にやってきたのかと錯覚したほど、ナオミは彼女にそっくりだったのである。
近づいて言葉を交わしているうちに、さすがに別人らしいとは気づいたが、こうして並んで歩いていると、なんとなく落ち着かない。
それが、また妙なことを言い出したので、気味が悪くなってきた。伊助はともかく、この件で彼女が現場にいたことを知っているのは浩二、竜介とマコーミックだけである。
「FBIのマコーミックですか、私のことを喋ったのは?」
「そんな人、知らないわ」
とにべもない。
すると残りはひとりしかいない。
「じゃ、弁護士のウインストン?」
ナオミは肯定も否定もしない。
ミランダがナイフ片手に迫ってきた時、ジュリエットの人形ケースのガラス戸がふたりをさえぎるように、スッと開いたのは、偶然だったかもしれないが、恵美は人形たちが助けてくれたと信じている。
伊助の傷を確かめると、恵美は取りあえず浩二に電話で状況を説明した。彼から連絡を受けたマコーミックはすぐ電話をしてきて、救急車の手配はした、ウインストンが向かっているから、彼の指示にしたがうように、自分もすぐNYへ飛ぶからとテキパキ話を進め、さすが現役のFBIと恵美は見直した。
真っ先に到着した弁護士のウインストンは気遣いの欠けらもなく、お世辞にも思いやりがあるようには見えなかったが、恵美をアパートメントの一室に隠し、その存在を鮮やかに消してしまった。
伊助が運ばれたのも、ジュリエットが入っていた病院で、こちらも何の取調べもなく、ふたりともあらためて、この国での金の威力というものを身にしみて味わったのだった。
ところがその秘密を、どうやらこの女は知っているらしい。弁護士のウインストンとは、どういう関係なのだろうか。
石段を降りて池側の細道まで戻ってくると、エドは南の方へ進み始めた。池をぐるっと回って行こうとしているらしい。
「ひょっとして、あなたはジュリエットさんをご存知なんですか」
ナオミは前を行くデニスと竜介の背中を見た。
「ね、あとで私の部屋に来ない。女同士でお茶しましょう」
艶然と微笑むナオミに、恵美は女ながらくらくらした。男ならひとたまりもないだろう。
了解のしるしに、恵美は黙ってうなづいた。エドと先頭を歩く浩二にちらっと眼をやる。
ー気をつけないとー
まさかとは思うが、浩二には外国人、ことにアメリカ女性とはとはすぐ馴れ馴れしくなり、少し心配なのだ。
細道が建物群の方へ戻っていこうとする辺りの木陰に、ひなびた感じの茅葺きの茶室がひっそりと佇んでいた。タツオ青年と着物姿の若い女性が二人、笑顔で迎えてくれる。女性の一人は白人だった。
「茶会ではないし、正客は関係なしだ。気楽に坐って欲しい」
エドが言った正客、Guest of honorの意味を、浩二がデニスに説明した。ナオミは分かっているようだ。それどころか、彼女はきちんと正座している。デニスは胡坐がやっとだった。
茶室は六畳の広間だったので、ゆったりくつろぐことが出来た。茶掛けの軸は定番の『喫茶去』、東福寺の禅僧の手によるものらしい。
十一月なので炉である。
挨拶をしてタツオ青年が点前を始めた。
茶道は古美術を扱うものには必須である。浩二は父親の命令で、学生時代から習い始めていた。恵美と竜介はそこまでの年季はないが、それでもここ数年、熱心に稽古に通っている。
その三人が、おや?とタツオ青年の所作動作に注目した。動きが折り目正しく、気迫がこもっている。見たこともない流派だった。
「サンサイ流だ。Samurai school(武家流派)だよ」
亭主役を務めるエドが言った。
「サンサイ?あの細川三斎ですか?」
「そうだ」
細川三斎(忠興)は戦国から江戸時代へかけての大名である。戦国武将でありながら、芸術を愛した文化人でもあった。千利休から最も気に入られていた愛弟子で、彼の茶風に心酔していたと言われる。正室はガラシャ夫人である。
エドはきりっと姿勢を正した。
「サンサイ流は開祖、ロード・ホソカワ(細川公)の流儀を連綿と受け継いでいる。したがって諸君がご覧になっているのは、最もセンノリキュウ(千利休)の茶に近いものだ。これこそサムライの茶道である。例えば、今、タツオが茶せんを棗の上に置こうとした所作も、槍を突くような気迫で、と教えているぐらいだ」
忠興は、また、短気であり、政敵を抹殺するのに、冷酷で、残忍な手段をためらわなかった。鼻に傷跡がある。妹婿を暗殺したため、彼女に懐剣で切りつけられたのである。
浩二は、一瞬、エドが忠興であり、彼の城内の茶室にいるような感覚におそわれた。
「ナオミ。どうか楽な姿勢で、茶を楽しんでくれ。そのままでは、キツイだろう」
エドは、くだけた様子に戻り、正座を続けるナオミに声を掛けた。
ナオミはにっこりした。
「大丈夫です。小さい時から、この坐り方は平気でしたから」
恵美はハッとした。何かひっかかる。
なんとなく答えが、すぐ水面下まで浮き上がってきているのに、手が届かないようなもどかしさがあった。

第五章

ディナーまで自由に、と言うことで、それぞれが、取りあえず部屋に入った。
「やっとふたりきりになれたね」
浩二がぐいと恵美を抱き寄せた。
ナオミのことを喋りたくて、うずうずしているが、恵美も、先ずキスがしたかった。
目をつぶって、唇を寄せる。
バタバタと足音がして、
「浩ちゃん、浩ちゃん、いる?」
と竜介の声が部屋の外でした。
やっぱりコイツは池に突き落としておくべきだったと恵美は後悔した。
「ああ」
浩二が襖を開けると、ふくれっ面の恵美には委細かまわず、竜介がズカズカと入ってきた。
「奥村さんがいるよ。今、出会った」
「えっ、直樹が。こんなところで、何を・・・。そうか、ケータリングに来てるんやな」
奥村直樹は、祇園の京懐石風のフランス料理店、「奥村」のカリスマ・シェフである。浩二とは遊び仲間でもあり、お互いにファースト・ネームで呼ぶほど、仲がいい。竜介とも顔なじみである。
エドもよく通うと聞いていた。今夜のデイナーの出張料理を請け負っているのだろう。
「そこにいるよ」
「じゃあ、ちょっと顔を見てこよう」
どやどやとふたりは出て行った。
「ファック!」
恵美が低くののしるのと、向かいの部屋の襖が開いて、ナオミが顔を出すのと同時だった。
思わずペロリと舌を出す。
ナオミが笑い、こっちの部屋に来ないかと、顔をかしげて誘った。

直樹は厨房横の廊下でニコニコしながら立っていた。
「なんや、今夜は直樹の料理かいな。しょうもな」
エドの姿が見えなかったので、浩二は遠慮なく、突っ込みを入れた。
「せっかく腕を揮おう思てたのに、ゲストが浩二と堀さんやったら気が抜けてしもたがな」
直樹も笑いながら、切り返す。
「せやけど、ほんまに凄いとこやな。びっくりしたわ」
「そやろ。今、エドさんに案内して貰ったとこやけど、山手の方へいったら、腰ぬかすぜ」
竜介が真顔で頷いて、
「信じられないような石垣が山沿いに広がってるの。怖いぐらい。頂上に御堂があってね、悟りが鎮座してるのよ」
勢い込んで言う。
「悟り?」
「ちょっと、案内してあげようか」
「いやいや、今はちょっと、抜け出すのは・・・」
直樹は首を振った。
浩二は部屋を出る時、恵美がむくれていたのが気になっていた。それにエドの気性からして、ここで直樹と立ち話に興じているのは、いかにもまずい。
「じゃ、あとで」
と竜介を促して、離れた。

ナオミの部屋も同じような和室だった。二脚の椅子と小テーブルのある縁側は、竹林に光悦垣を配した庭に面して、居心地の良い空間を作っている。
ナオミと恵美が椅子に坐って、お茶を飲みながら、ぼんやり庭を見ていると、浩二が慌しく帰って来た気配がした。
いいの?とナオミが視線で問うので、恵美は肩をすくめて、微笑んだ。ちょっと、すねてやりたい気分なのだ。
それより、と恵美は座りなおした。
「ジュリエットのアパートメントで起こったことだけど」
ナオミはいたわるように覗き込む。
「大変だったわね。ミランダに殺されかけたんでしょう」
ヤッパリ知ってるんだ、と恵美は唇を噛んだ。まだあの恐怖の体験は生々しい。
ナオミがそっと恵美の手を包み込むように握った。暖かい。
「可哀そうに」
恵美は挑むように、そのアンバーの瞳を見返した。こうなったらストレートに言ってやろう。
「あなたは誰?ミランダにそっくりね。最初見たとき、びっくりした」
ナオミは黙って眼をそらした。何故だか分からないが、恵美はふと、彼女が泣き出すのではないかと思った。
「私たちは双子だったのよ」
庭を向いているナオミの目は竹林の遠くを見ている。
恵美は黙っていた。予期していた通りだった。この部屋に入った瞬間に、確信したのだ。今、彼女は伊助に猛烈に腹を立てていた。結局、全ては文字通り、彼がまいた種のせいではないか。ほんとに男はもうー。
「母のドロレスは、ひとりであの広大なアパートメントと大きな子供のようなジュリエットの面倒を見ていたのよ。その上ふたりの赤ちゃんの世話は不可能だった。で、ひとりがはみ出したわけ」
ナオミはわざとおどけたように言って、指で自分の胸を指した。
恵美は応えようもなく、沈痛な表情を浮かべている。
「ジュリエットの弁護士が取り計らってくれて、赤ん坊の私ははるばる海を渡り、スイス人夫妻の養女になりました」と明るい調子で語りかけたが、恵美の表情が変わらないのを見て、
「ウーン、そんな難しい顔をしないで。これだけは覚えておいて。いい、血はつながっていても、私はミランダと違う。それどころか、エミ、私はあなたのほうが本当の妹のような気がするのよ。さっき初めて会った瞬間に、ぴっと感じたの。だからお願い、嫌いにならないで」
「そんなー」と戸惑いながら、恵美は慌てて手を振った。
「ミランダの気持ちも分かるんですよ。あんな異・・その特別な環境で育ったら、思いつめてしまうのも無理はないです。そもそもー 」父親がしっかり・・・と続けようとして、伊助がナオミ自身の父親でもあることに気がついて口をつぐんだ。
ナオミは察したようだが、そのことには触れずに、
「そうなの。ある意味、私はミランダに申し訳なく思っているのよ。スイスのパパとママは素晴らしい人たちだったの。長い間切望してたのに、子供には恵まれなかった。だから私を養女に出来て、とても喜んだらしいわ。深い、深い愛情に包まれて、私は育ったの。私も心から愛していたし、尊敬していた。もうふたりともいないけれど。もし私とミランダが逆になっていたら、どうなっていたか、正直に言って、私は自信がない」
ふたりはそれぞれの想いを抱えて、黙っていた。
「それに私はとてもツイていたの」とナオミは満面の笑みを浮かべる。
「パパはジュネーヴ美術館のキュレイターだったのよ、それも飛び切り優秀な。物心がつくと、私のまわりには様々なアートがあふれていた。良くミュージアムにも連れて行ってくれたわ。私はあっというまにアートの世界にのめり込んだ。好きだったのね。普通の女の子のようにオモチャで遊んだ記憶がまったくないのよ」
ナオミを見詰めていると、時々ミランダに重なる。
ジュリエットのアパートにあった時代物の優美で繊細なテーブルを、ミランダが無造作に蹴り折ったことを思い出した。
もしふたりが入れ替わっていたら、どうなっただろう。
「当然美術の大学にも進んだけど、パパが教えてくれたことのほうがずっと役に立ったわ。私たちは一緒に仕事をするようになった。世界の大富豪が例外なくのめり込むのはアートのコレクションなのはエミも良く知ってるわね。仕事以外に刺激的な金の使い道って、もうほかには無いわけ。そんな彼らが最も恐れるのは、贋作やあまり価値のないアートを押し付けられること。お金より恥をさらして、自分のコレクションの評価を下げることになる」
恵美は話に引き込まれていた。同じアート・ビジネスに関わっているが、その世界は大リーグと高校野球ほど違う。
「だから誰もが認める一部のキュレイターが、セレブたちとどれほど物凄いコネクションを持っているか、聞けば驚くわよ。パパは純粋に美学の世界にいて、それをビジネスに利用する気はまったくなかったけど、私は違う。それにお金持ちにはおじいちゃんが多いから、ね、少しばかり有利でしょう」
ナオミはウインクする。
恵美は思わずニヤニヤした。
「そうでしょうとも」
「こら、この娘(こ)はー」
ナオミは、軽くパンチを当ててきた。声を潜めているせいもあって、ふたりは触れ合うほど近く、顔を寄せ合っている。
「エミ、あなただって、内心あのプリンスを射止める自信はあったでしょうが」
「まあね」
ふたりは手を取り合って、くっ、くっと笑った。
隣の部屋で、がたっと音がし、そろって首をすくめる。
「ほら、今日はここまで。早く戻らないと彼のご機嫌が悪くなるわよ」
二人は立ち上がった。
「ひとつだけ聞かせて。ミランダはあなたのことを知っていたの?」
ナオミは首を振った。
「私は知っていたけどね。パパもママも、そういうところはオープンだったの。でも詳しいことは何も。あまり興味もなかったし。ただ弁護士のウインストンとは時々連絡を取り合っていたので、今回のことも真相は聞いているのよ」
恵美が襖にかけた手を、ナオミは押し留めて、
「私の本名はね、エリザベス。でもこの仕事を始めてからはナオミで通している」
何故だか分かる、と眼で問いかける。
「ひょっとして、日本人の名前としても通るから?」
ハリウッドの女優ではナオミ・ワッツがいるし、日本の舞台女優では藤山直美が有名だ。
ナオミは親指を立てて見せた。
(そうか。やはり父親も誰か、分かってるんや)
「自分の出生の秘密を知らない子供のときから、日本の美術には特に惹かれていたの。何だか、すっと心に沁みこんできたのよ」
ナオミはうっとりした表情で、美しい黒髪に手を触れる。
「だから本当はブラウンだけど、黒く染めてるの」
「とてもよく似合ってるわ」
ナオミは優しげに微笑んだ。
(まるで天女やわ)
「ね、今話したことは、あなたの彼ならいいけど、ほかの誰にも言わないで。勿論、本当のパパにもね。どうするか分からないけど、決めたら、自分で言いたいの」
恵美はコクリとうなづいた。
ナオミは彼女を抱きしめ、耳元でささやく。
「ダイスキ」
襖を開け、そっと恵美を送り出した。

ディナーの時間が近づき、浩二、恵美、竜介の三人が広間の棟に行くと、デニスがすでに来ていて、一杯やりながら庭園を眺めていた。昼間と服装は変わっていない。
広間の庭園側は大きな全面ガラスで、見晴らしは素晴らしい。
秋の日はすでに落ち、降り注ぐ月の光りの下で、庭は違った顔を見せている。池の水は黒く、樹林は濃淡の影を重ねながら夜空を区切っていた。
キャサリンがいるゲスト・ハウスの灯かりが水面に揺らいでいる。
広間のすぐ横には、手入れの行き届いた芝生が広がっていて、大きなかがり火がふたつ、燃え盛っていた。
デニスはグラスを上げた。
「お先にやってるよ」
広間の廊下側には背の高い本間六曲で、華麗な琳派の四季草花図が描かれた金屏風が一双、広げて飾られていた。
その陰から着物姿の女性が出てきて三人に、「お飲み物は如何ですか」と尋ねた。
浩二はシェリー、恵美と竜介はキール・ロワイヤルを頼んだ。
部屋の中央にはアンテイークの板戸を巧みに生かしたディナー・テーブルがある。浩二も祖父や父からその仕様は聞いてはいたが、見るのは初めてだった。
食器の下に敷くプレース・マットは、やはり古い絹織物で、サテンの裏地をつけた豪華なものだ。
ナオミが顔を出した。浩二が意味ありげな視線を送る。
三人だけの秘密よ、とナオミはデニスや竜介には分からないように、片目をつぶって見せた。
ほとんど同時にキャサリンがエントランスの方から現れた。ふたりともディナー・ジャケットを引っ掛けているだけである。
続いてやって来たエド自身もタートルネックにジャケットである。
エドにあらかじめ言われていたので、浩二らも同じようにシンプルな装いをしていた。
長角のテーブルの両端にエドとキャサリンが坐り、一方の側に恵美をはさんで竜介とデニスが席を占め、向かい側は浩二とナオミだった。
袴姿の青年たちが料理を手に現れ、ディナーが始まった。
最初は蟹と色鮮やかな野菜のテリーヌにコンソメゼリーとキャビアを添えたオードブルである。ひと口含むと、至福の味が広がる。テーブルに笑顔とお喋りの花が咲き、これからの献立への期待が高まった。
「主にどんなタイプのアートを取り扱ってられるのですか」
浩二がナオミに尋ねた。
「あらゆるものよ。どちらかと言えば、絵画が多いけれど。需要があれば、それを探すだけ」
「何でも屋かね」
エドが言った。聞きようによれば、とげがある。
「その通りです」
ナオミはさらりと受け流した。
「私はアートには詳しくないし、興味もないの。ことに現代絵画にはへどが出そうなのが多いわ」
食事中にもかかわらず、キャサリンが平気で言い放った。
フォークを口元に運んでいたエドが一瞬、顔をしかめる。
「例えば、どんな作品ですか」
ナオミが面白そうに聞く。
「メキシコの大金持ちが買ったバカ高い作品があったじゃない。えーと、ポリ、ポ、ポ、・・・」
「ポラックだろ」
エドが助け舟を出した。
「そう、そのポラック、現代絵画として最高額を記録したわね、一億ドルをはるかに超えていたと思うけど」
「No.5,1948一億四千万ドルでしたね」
ナオミが言った。
「そんなタイトルしかついてないのは当然よ。そのポラックって、絵筆も使わず、キャンバスに絵の具をぶちまけたり、垂らしたりしてるだけじゃない。私はそんなもの、絵とは認めない。チンパンジーでも出来る」
「それはちょっと言い過ぎだろう」
エドが苦笑する。
「この部屋に飾ってあるスクリーンを見てよ」
英語でいうスクリーンとは屏風のことだ。いきなり竜介のプロデュースした琳派の四季草花図金屏風をキャサリンが話題にしたので、彼は緊張した。
「これこそアーテイストとアルチザンが才能と技術を注ぎ込んだアートだわ。エドが幾ら払ったか知らないけど、私は納得する」
キャサリンの言ったことは何とか理解出来たので、竜介はホッとした。
「どうせメキシコの成金が、うまく言いくるめられて買わされたんだろうけど、仕組んだ人間の顔が見たいわ」
「今喋ってられますよ」
ナオミがさり気なく応える。
「おや、それはちょうどいい」
キャサリンは平然としている。
「教えて。あんな偶然の産物としか思えないようなものが、どうしてピカソやゴッホより高いのよ。私なら一ドルでもゴメンだわ」
「絵画については、アメリカ大陸はずっとヨーロッパの顔色をうかがっていたの。歴史が違うから仕方ないわね。日本の浮世絵が印象派に影響を与えたと騒がれても、指を咥えて見ていただけ。ところが第二次大戦直後に、アメリカ人が世界に初めて大きな顔を出来るムーブメントが生まれた。Abstract Expressionism(抽象表現主義)よ」
「アクション・ペインティングですね」
恵美が嬉しそうに言った。
ナオミは頷いて、続けた。
「その代表がジャクソン・ポラック。No.5はその象徴的な作品。そういう心情的な想いが入った値段ということ。アメリカが存続する限り、価値は上がっても、下がることは絶対ない。投資には最高よ」
「あなた自身は、No.5をアートそのものとして、どう思うの」
キャサリンは鋭い視線をナオミに向けた。
「Abstract Expressionismはあまり絵の内容を重視しません。鑑賞者は作品から、アーテイストの動きを察し、それによって同じ空間を共有するの。絵の具をここで落とした、あそこには手型がついている、といった具合にね。『筆使い』ではなく、アクションの『痕跡』を評価するのです。だからどうだといわれればそれまでだけど。個人的に言えば、キャサリン、私もあなた以上は払いたくないわ」
キャサリンが初めてニャッと笑った。
「自由で、野放図で、そのくせ文化的コンプレックスの強いヤンキーにぴったりのアートだったわけだ。CIAが絡むはずさ」
エドの言葉で、みんなが目を丸くする。
「本当なの、ナオミ」
「はい。CIAは一時期、この運動を熱心に援助したの。東西冷戦の時代でね、自由国家アメリカに相応しいアートと捉えてプロバガンダに利用したわけ」
「いかにも政府の役人が考えそうなことだな。どうして俺の映画には援助してくれないんだ」
デニスがぼやいて、笑いが起こった。
手をつけるのがためらわれるほど見事にアレンジされた料理がつぎつぎと、絶妙のタイミングで給仕されていく。フォアグラと野菜のリゾットには、白トリフが惜しみなく振り掛けられ、独特の濃厚な香りがただよう。
浩二は恵美と二人だけに分かる淫靡な視線を絡ませる。気がつくと同じような視線が竜介からも来ていて、浩二は慌てて目を逸らした。
隣りのナオミが見て、見ないふりをしているが、面白がっているのは明らかだ。
「そういえばデニスが今面白い企画を持ってるんだ」
エドが楽しそうに切り出した。
「え、何ですか?聞かせてください」
浩二が身を乗り出す。
「SHOGUNを知っているかね?」
デニスが尋ねた。
「三十年ほど前のTVドラマですね。勿論です」
「ショーグン(将軍)」は十七世紀の日本に漂着したイギリス人、ウイリアム・アダムス(三浦安針)をモデルにした一九七五年のベスト・セラー小説で、一九八〇年にTVドラマ化された。
全面的に日本でロケーションした九時間近い大作で、全米では五夜に渡って放映され、エミー賞、ゴールデン・グローブ賞に輝いている。
「実はあれをリメイクしようと思っている」
「うわあ、それは凄いですね」
興奮して盛り上がっているのは、浩二ひとりだけである。もっとも彼自身もビデオで見たぐらいで、ほとんど憶えていない。
恵美にいたっては生まれる前のテレビ映画である。きょとんとしている。
デニスは仕方なく、簡単にストーリーを説明した。
「千六百年にオランダ船に乗って、イギリス人の航海士が日本に漂着するんだ。まだトクガワとトヨトミの権力争いの真っ最中でね、それにすでに日本で勢力を持っていたカトリックの宣教師らの陰謀が絡み、色々な冒険に巻き込まれるんだがね、戦闘や地震もあって、なかなかスペクタクルな作品だ。テレビ映画としては頑張っていたよ。トシロウ・ミフネも出ていたね」
エドが続けた。
「実在のモデルがいるんだ。ウイリアム・アダムスという。日本名はミウラ・アンジンだ」
キャサリンの表情は変わらなかったが、恵美と竜介は、ああ、と分かったようだった。
「この話はとにかくスケールがでかい。きちんと撮るのは当時では不可能だったろう。だが今ならコンピュータ・グラフィックスで何とかなる。歴史上初の、日本のサムライ魂と西洋のフロンティア・スピリットの激突だぜ。こんなに面白くて、エキサイテイングなテーマはない。俺なら世界的な大ヒットをとばす映画にする自信があるんだ」
デニスの口調は熱がこもっていた。眼がキラキラと輝いている。
「そうだ、エド。ここの石垣は城壁にぴったりじゃないですか。ロケに使えますよ」
とっさの思いつきだったが、浩二は口にしたとたんに後悔した。
いらぬ差し出口だった。エドのような人間が、自分の別荘を映画の撮影ごときに使用させるはずがない。
恵美と竜介も同じ思いだったのだろう。エドの表情をうかがい見た。
意外なことに、エドは両手を広げて、わが意を得たりとばかりにニコリとした。
「そいつはいい考えだな。どうだい、デニス」
「素晴らしい。あの石垣を使ったスペクタクルなシーンが目に見えるよ。そいつがOKなら、映画はもう成功したも同然だ」
エドは手をすり合わせて、キャサリンを見た。
「お互い一億ドルずつ出して、デニスに造らせてやらないか。少なくとも倍額にはなるぜ」
「映画のことは分からないわ。そんなにいい話なら、何故私を誘うの。二億や三億、あなたにとって、はした金じゃない」
一億ドルって円でいくらぐらいなのとそっと恵美に尋ねた竜介は、百億ぐらいと聞かされてため息をついた。
「キャサリン、マイ・デイア、君は私を誤解してるよ。この一夜のために、はるばる来てくれたことを私がどんなに嬉しく思っているか、君には想像もつかないよ。それから君の仕事振りに、心から敬意をいだいていることもね。失礼だが、サムがCEOのままだったら、「インテリジェンス・データベース」と「JUN」の立場は逆転していたはずだ。それは君にも異論はないだろう。この『ショーグン』のリメイクは絶対成功する。君は利益だけじゃなく、栄光も手に入れられるんだ。アカデミー賞のステージに上がることも夢ではない。儲けのためだけに君に声をかけたわけじゃないんだよ」
浩二も、恵美も、竜介でさえ、感動していた。エドの熱意は心からのように思えた。
「申し訳ないけど、私はショウの世界の栄光にはまったく関心がないの。でも機会を下さったことには感謝します」
キャサリンは軽く頭を下げた。
「そうか、それは残念だね」
エドは何の未練もなく、あっさりと引き下がった。タツオ青年を怒鳴りつけた時と同じく、エドの変わり身の速さに、恵美は驚いた。
近江牛のシャトー・ブリアンのステーキがメインだった。それぞれの好みに合わせて焼き上げられ、とろける様な肉の旨さは絶品だった。
デザートが出ると、シェフの直樹が挨拶に現れ、拍手で迎えられた。
「あんな旨いステーキは食ったことがなかったよ」
デニスはわざわざ立ち上がり、直樹と握手した。祇園にある彼の店には外国人も頻繁に訪れるので、日常会話なら不自由なく出来る。
「素晴らしかったわ」
とナオミも賞賛を送る。
「あなた、ニューヨークで店を出さない?」
キャサリンが唐突に言った。
「あ、いいですね。キョウトからニューヨークへ進出ですか。夢ですね」
直樹はニコニコしている。ジョークだと思っているらしい。
「私は真剣ですよ」
キャサリンは表情を変えない。
「彼女はビジネスでは冗談を言わない人だ」
エドが言った。
直樹は戸惑っている。
「そう急に言われても・・・」
「勿論よ。私が知りたいのは、やりたい気持ちがあるか、どうかなの」
「それは・・・・・あります」
「OK。決まったわ。最高の場所を選んであげる。企画書を送るから、検討して出来るだけ早く、ニューヨークへ来てください」
「ハイ、有難うございます」
今ひとつ事情が呑み込めないまま、直樹がキッチンへ引き上げたあと、
「キャサリンらしいな」
エドがポツリとつぶやいた。
デニスひとりが鼻白んでいる。
部屋の照明が落とされ、かがり火のある芝生がライトを当てられて明るくなった。
エドが、「ちょっとしたお楽しみを用意した」と言って立ち上がったので、みんなもガラス戸へ近づいた。
建物の陰からいきなり忍者が飛び出してきた。六人いる。四人は普通の黒装束だが、ふたりは白い忍者姿だ。
「白いコスチュームは女性のためだ。目立つし、現実にはあり得ないけど、実際忍び込むわけではないしね」
エドが説明した。
何時の間にか人形の的が用意され、忍者たちが入れ替わり、立ち代わり、十字手裏剣を撃ち込んでいく。なかなか見事な腕前である。
白装束のくの一は吹き矢を持ち出した。十メートル以上離れたところから、黒装束の持つ風船を鮮やかに撃ち割る。
仕込み杖や鎖鎌などを使った殺陣も手際よく披露された。
「彼らは、ここで働いている若者たちだよ」
エドが誇らしげに言ったので、驚きの声が上がった。
「プロじゃないんですか」
浩二も忍者ショーの出演者を呼んできたのかと思いこんでいたのである。
「ひょっとして、タツオも入っているの」
恵美は思わず尋ねた。
「いや、彼はいない」
エドは首を振った。
「だが白いニンジャのひとりは茶室にいた女性だ」
そう言えば、動きにキレがあったし、目つきも鋭かったと恵美は思い出す。
最後に、忍者独特の刀身が短く、そりのない直刀の、忍び刀を使った乱戦になった。さすがに、竜介は真剣な眼差しで見詰めている。
彼は大学時代、剣道部にいて、小太刀の姫天狗と呼ばれたほど、腕は立つ。
そりのあり、なしの違いはあっても、忍び刀も小太刀も刀身が短いので、相手の懐に飛び込んで、仕留める剣法である。
「どう、彼らの腕は?」
恵美はそっと竜介に聞く。
「剣の使い手としてはスキだらけよ。でも身体能力は凄いわ。だって、本身を使ってるわよ」
本身とは撮影などに使う竹光ではなく、真剣、ホンモノの刀のことである。
「えっ、マジで。でも、いくらなんでも刃引きはしてるよね」
刃をつぶして、切れない状態にしたのを刃引きという。
「勿論。でも一歩間違えれば、骨は砕けるわ」
恵美は顔をしかめた。江戸時代ではあるまいし、何故そこまでこだわるのか分からなかった。
形としての勝負がつき、忍者はそろって立ち並び、拍手に応えて礼をした。
懐から丸い玉を取り出し、地面に叩きつける。パッと白煙が上がり、薄れていくと、忍者たちの姿も消えていた。
「面白い趣向だったね。あの石垣がバックだったら絵になっただろうな」
デニスが唸るように言う。
部屋の照明が戻ると、何時の間にか板戸を利用したテーブルとダイニング・チェアは片付けられ、ラウンジ・チェアと低い黒漆のサイド・テーブルにかわっていた。
デニスは飲み足らないのか、さっそくキモノの女性に頼んでいる。
「エド、あのニンジャ・パフォーマンスを見せてくれた若者たちは普段、どんな仕事をしているの?」
ナオミが尋ねると、エドは冷ややかな目を向けた。
「護衛、警護、調査、運転、エトセトラ、エトセトラ、私の七人のサムライだよ・・・・・さあ、みんな、飲みなおして、ゆっくりしてくれたまえ。日本では秋の夜長といって、お喋りとお酒を楽しむんだ」
「せっかくだけど、明日、迎えの車が早いの。少し仕事もあるし、私は失礼させていただくわ」
キャサリンが切り出し、エドは虚をつかれたように、一瞬、棒立ちになったが、すぐ立ち直った。
「それは残念だ。じゃゲスト・ハウスまで送っていくよ」
キャサリンは、「おやすみなさい。お会い出来て良かったわ」とざっと一座を見回しただけで、さっさと玄関に向かい、エドが後を追った。
「ファック!」
デニスがはき捨てるように言い、側らにいるナオミに気がついて、
「失礼」
と会釈した。
「有難う」
代わりに言ってくれてと、ナオミが微笑む。
デニスは酔眼をすえ、ナオミを見詰めた。
「相変わらず君はイイ女だな。俺の映画に出ないか。間違いなく、スターになれるぞ」
運ばれてきたグラスを取って、ぐっと飲むと、その手を振った。
「いや、やはりダメだ。君はあんなバカ女たちの仲間になるような人じゃない」
ウン、とひとりで頷いて、ラウンジ・チェアにどさりと腰を下ろした。かなり酔いがまわっているらしい。
恵美と竜介が喋っているのを見て、浩二はナオミに近づいた。
「凄いですね、ポラックの作品を取り扱ってられるなんて」
「あれはウソよ」
ケロリとしている。
「は?」
「あまりにも彼女、人もなげだったじゃない。ついからかってみたくなったの。もっとも全くの出鱈目でもないけど。あれぐらいの作品だと、取引に絡んでくるシンジケートや人間の数も半端じゃないのは分かるよね。私もその内のひとりだったと言うこと。二、三電話をかけただけだから、取り分もたったの一パーセント」
たったの一パーセントというが、円にして一億四千万である。電話だけで、それだけのマージンを稼ぎ出すナオミの人脈に、浩二は底知れぬ怖さを覚えた。
「デニスの映画ですけど、面白そうじゃないですか。キャサリンなんかより、あなたが出資すれば?」
「興味はあるんだけど、エドが、うんと言わないわ。私を警戒しているのに気がつかなかった?」
「ああ、それは何となく。でも、どうして?」
「CIAのスパイじゃないかと疑っているのよ。ポラックの話でも、その話題を振ってきたでしょう」
なるほど、あれはそういう目的だったのかと浩二は納得した。
「で、どうなんです?」
「何が?」
「スパイですよ」
デニスに聞こえないよう低い声で喋っているので、ナオミの顔は目の前にある。
その顔が艶然と笑った。
「私はペイトリオット(愛国者)なの」
浩二はほとんど聞いていない。吸い込まれるようにナオミの眼に魅せられている。
(ホンマにええ女やなあ)
動悸が速くなった。下半身がかっと熱くなる。
彼女を、今ここで抱きしめ、唇を吸いたい。
「どうしたの?」
ナオミがいぶかしげにのぞき込んでいる。
浩二はハッとわれに返り、思わずぶるっと身を震わせた。
恵美と竜介も見ている。
「ああ、すみません。ちょっと飲みすぎたのかな。ぼうっとしてしまった。もう大丈夫」
キモノの女性が、「お水でもお持ちいたしましょうか」と声をかけてきた。
浩二は手を振り、
「いえ、結構です。そろそろ部屋に戻りますので」
と断った。
竜介も、「じゃ、僕も引き上げます」と言い、五人は、お休みのハグをした。
その時、ゲスト・ハウスの方から、甲高いキャサリンの笑い声が、闇を通して聞こえてきて、一同はギョッとして耳を澄ませた。
「キャサリンよね」
恵美が言って、浩二が頷いた。続いてエドのヒステリックなほど、耳ざわりな笑い声も起こった。
「どないしたんやろ」
エミがつぶやいた。ふたりとも大きな声だったが、聞くものが楽しくなるような笑いではなく、どこか気味の悪さがあった。

エドとキャサリンはぶらぶらとゲスト・ハウスへ向かった。
雲ひとつない明るい月夜だ。数奇屋棟からの明かりもあるので、足元は不自由ではない。
「今日は有難う。素晴らしい庭園と食事だったわ。私も、あなたとこうして話せる機会が出来て喜んでいるのよ」
さすがにこのままでは、と思ったのか、キャサリンも神妙に話しかけた。
「考えてみれば、誰にも邪魔されずに、ふたりきりになれたのは初めてだね。さっきも言ったように、私は君に敬意をいだきこそすれ、含むところはなにもない。マスコミの期待に応えられないのは気の毒だがね」
キャサリンは低く笑った。
「そのことについては、私も困ってるの。冗談で言ったことを大きく取り上げられたり、真意をねじまげて報道されるのは、しょっちゅうだわ。個人的には、あなたの製品に対するこだわりや、アーティスティックな感覚は、誰よりも理解している積りよ。私の甥なんか、「JUN」の製品以外は見向きもしないわ」
「それじゃ、彼に新製品は必ずプレゼントしなくちゃな。とにかく世間の奴らは、我々がいがみ合っているのが、何よりのご馳走なんだよ」
エドが立ち止まる。
「なあ、キャサリン。一緒に手を組まないか」
キャサリンの無表情な顔からは何も窺えない。だがハーバード経営大学院きっての秀才といわれた彼女の脳細胞はフル回転していた。
ーこいつの本当の目的は何だー
早めにゲスト・ハウスに引き上げることにしたのも、ふたりきりになるチャンスをエドのために作ってやったのだ。ひょっとしたらとは思わないでもなかったが、あまりにも唐突なオファーだ。
お互い金は有り余るぐらいある。健康問題が絡んでいるなと推測した。
前立腺に問題があるらしいのは聞いている。プライドの高い彼が、こんな舞台をセットしてまで、話を持ち出すのはあせっているからだ。おそらく残された人生の時間が、あまりないのだろう。
エドの偏執的な性格なら、長者番付の世界一には、強い執着があるのに違いない。手を組めば、キャサリンの一位を逆転出来るチャンスがあると考えているのだ。
(誰がくれてやるか)
だが一方では彼のオファーを聞いてみたい気もする。裏をかいて、エドを叩き出し、「JUN」を傘下に入れる自信はある。
「君の経営センスと私の美的感覚がブレンドされれば、どちらにも大きなプラスになるぜ」
「あなたの経営センスと私の美的感覚も一緒になるわけじゃない。うまくいくわけないわよ」
「うーん、やはりそう思うか。じゃ、この話は忘れてくれ」
エドはニコリとして、歩き始めた。
「That‘s it?」(それだけ?)
キャサリンは思わず叫んだ。
「そう」
肩透かしを食らった感じだ。思いつきで切り出すような話ではない。ライブラリーに席を移しての
長丁場になると覚悟していた。それを彼女のたった一言で引っ込めたのだ。
エドに追いつきながら、キャサリンは珍しく眉をひそめた。彼が何を考えているのか、分からなくなったのだ。
何事もなかったように、エドは喋り出した。
「セキュリティは万全だから、安心して休んでくれ。別荘の塀にそって、赤外線センサーと防犯カメラが完璧にカバーしている。勿論、ゲスト・ハウスは中からロック出来るし、電話は二十四時間管理センターに繋がるから。今夜は特にゲストが滞在されているので、念のために一時間ごとにパトロールもする」
「あのニンジャたち?」
「何時までもあの装束じゃないよ。ホンモノの賊と見分けがつかなくなるじゃないか」
クスクスと笑う。今夜のエドはご陽気だ。
ゲスト・ハウスと岸にかかる小橋まで来た。橋といっても、たかが三メートルほどである。
ふたりは向かい合った。
「今夜は本当に有難う。あなたは素晴らしいホストだったわ」
キャサリンはエドの手を握り、素直に言った。こいつとは、もう二度と会うことはないだろう。
「あなたをゲストに迎えることが出来て、光栄だったよ」
自分でも思いがけないことに、キャサリンはエドに身を寄せ、頬にキスをした。
エドは微笑んだ。
「キャサリン、今夜は一緒に過ごそうか」
一瞬の間をおいて、キャサリンは爆笑した。
「あっ、は、は、はっ―あ、あ、はっ、はあ―く、く、苦しいわ、エド。これまで聞いた最高の
ジョークよ。あっ、は、はぁ」
エドも狂ったように笑い出した。
「ひっ、ひっ、ひっー確かにな―うゎ、は、は、は―こいつはオカシイ―あ、は、は」
キャサリンはエドに手を振りながら、小橋を渡り、ゲスト・ハウスに入っても、まだ笑っていた。
しっかり鍵をかける音がした。
エドは閉まった扉に、バカ丁寧なお辞儀をし、ゆっくりと戻り始めた。
ペンギン歩きのように両手を腰の横で広げ、リズムをとって、よちよちと歩く彼の顔には凄味のある笑みが残っている。
月の光りが路上に落とすその影は、奇怪な怪物がうごめいているように見えた。

第六章

数奇屋造りである。深夜になれば物音や声は良く通るだろう。
浩二と恵美はセックスをパスするつもりだった。
先ほども、一緒に風呂に入りながら、きっと竜介が聞き耳を立ててるわよと笑ったばっかりだ。
風呂場で戯れあって、熱くなった浩二のオトコはふとんに入っても、静まる気配がない。
「浩二さん、イき。ウチはええし」
恵美は浩二の耳元でささやく。ついでに耳を軽く噛んだ。
「ええんか。ほんまに」
近頃、浩二が性技をふるうと、恵美の漏らす艶声はかなり大きい。
「かまへん。あぶなそうやったら、ウチの口ふさいで」
しばらく室内には衣擦れの音が流れ、浩二が軽く、ウッと呻いて、静かになった。
「スマンな、恵美。自分だけイってもうて」
「あとで倍返ししてもらうし」
「アホ」
クスクス笑いあう。
「さっきはナオミにぼおっーとしてたやろ」
浩二は小さく肩をすくめた。
「そら確かにナオミは魅力的や。正直、最初に紹介された時、一瞬、ほんの一瞬やで、キスしたいな、とは思った。あっ、痛ッ」
恵美がひねったらしい。
「いや、だから一瞬や、言うてるやんか、もう」
「一瞬でもアカン」
「無茶言うなよ。でもさっきは違う。何だか妙な気配を感じた。ほら、良く言うやろ、魔性の女って。本人は意識してないのに、誘い込まれるような」
恵美はしばらく黙っていた。浩二のことは責められないような気もする。
「ホントはね、ナオミの部屋から帰り際に抱きしめられて、ダイスキって言われたの。レズビアンの気持ちが、一瞬、分かった」
「ほれ、見てみい。これでアイコやな」
ウウン、と恵美は甘えて浩二にすがりつく。
ふたりはそのまま、しばらく黙って抱き合っていた。
恵美が思いついたように顔を上げる。
「ね、堀さんがね、タツオはエドのお稚児さん違うかしらって言ってたわ」
「へえ~、ホンマかいな。アイツはそういう勘は鋭いからな」
「それって、ふたりはそっちの関係があるってこと?でもエドは四回も結婚してるのよ」
「バイ・セクシャルやろ。エドならありそうやで」
恵美が意味ありげに浩二を見詰めるので、彼は激しく首を振った・
「自分は絶対そんなことはない」
「分かってるわ」
恵美はナオミに惹かれているし、竜介だって嫌いではない。ただ、浩二とややこしいことになられてしまうのだけは困るのである。

ナオミはエントランス・ホールへ向かった。キモノ姿の女性が現れたが、ナオミが手のセル・フォンを見せると、笑顔でうなずいて引っ込んだ。
沓脱ぎ石のぞうりを引っ掛け、表に出た。
二回の呼び出し音で、『フランク』と応答があった。
「見つけたわよ」
『何だった?』
「サ・ト・リ」
『・・・英語で言ってくれ』
ナオミはクックッと笑った。
「Spritual Enlightenmentを現す禅の言葉よ。それを三次元的に形象化したのが、あの鋼鉄の球とエド様はおおせられてます」
『あいつは正気なのか。まあ、いい、危険なものではないんだな』
「十六のピースに分割して運び、一日で組み立てたと言っていたわ。少なくとも武器には見えないけど。それより聞いて。デイナーのメイン・ゲスト、誰だと思う。キャサリン・ビルボーよ」
『嘘だろ。あいつら、新聞、雑誌では、罵り合ってるじゃないか。どういう風の吹き回しだ』
「分からない。さっきふたりで消えちゃったけど。何だかエドが気をつかってる感じだった」
『たまげたね。君ら三人が手を組めば、国家予算が動かせるぜ』
「まさか」
『ふーん。また何か分かったら、知らせてくれ』
「了解」

何時の間にか寝入ってしまったらしい。慌しく行き来する人の気配で目が覚めた。
恵美は浩二を見た。彼も目を開けている。
「何やろ」
「分からん」
ふたりが半身を起こすと、「浩ちゃん、起きてる?」と呼びかける竜介の声が外でした。
「ア、ちょっと待って」
ガウンを引っ掛けて顔を出すと、竜介とナオミが廊下に立っていた。
「誰か池に落ちたみたい」
竜介が青い顔をしている。恵美も不安げな顔を出した。
「広間に行ってみよう。あそこなら池が良く見える」
浩二が言って、
「デニスは?」
とナオミを見た。
「私が部屋に戻る時も、まだ飲んでいたから、多分酔っ払って寝ているわ」
広間のガラス越しに庭園を見回し、全員が息を呑んだ。
先ほど、忍者たちのアトラクションがあった目の前の芝生には、京都府警のパトカーと黒いセダンが停まっていて、制服姿の警官二人と背広を着た男が三人立っており、その内のふたりがジロッと鋭い目つきで、ガウン姿の四人を見た。
ゲスト・ハウスの横には赤いライトを点滅させている救急車が見え、数人の人影が動いている。全ての建物に電気がついていた。
バタバタと足音がして、白い作務衣に着替えているキモノの女性がやって来た。
「こちらにおられましたか。エドが気遣って、様子を見てこいと申しますので」
「誰か池に落ちたんですか。大丈夫ですか」
浩二が尋ねた。
「はい。パトロールの者が見つけまして。飛び込んで、すぐ引き上げたのですが」
顔が曇っている。
「誰ですか」
ちょっとためらっていたが、
「キャサリン様です」
と明かした。
エーッとみんなが声を上げ、ナオミは「Oh my goodness!」とつぶやいた。
数奇屋棟からゲスト・ハウスまでは、車一台やっとの小道だが、救急車がゆっくりと戻ってくる。
広間の前を通り過ぎ、グレーの作務衣の男性が小走りで誘導して、門の外へ出て行った。
エドと数人の男女も帰って来ていたが、警官と背広姿の男たちと途中で出会い、しばらく立ち話をしている。
やがて警官はゲスト・ハウスへ向かい、エドと背広の男たちはどうやら、この広間へ向かうようだ。
「ちょっと、我々もガウンを着替えましょうよ」
竜介が言って、みんなは慌てて部屋へ戻った。

服に着替えて、真っ先に広間に戻ったのは、浩二と恵美だった。
エドは難しい顔をして、背広の男たちに向かい合っていたが、恵美を見て、助かったというように手招きした。
「エミ、ダーリン。彼らの英語がサッパリ分からないんだ。通訳してくれないか」
「はい、勿論」
と恵美は近づいたが、
「キャサリンですってね。どうですか、容態は?」
浩二も心配そうだ。
エドは沈痛な顔で、首を振った。
「ダメだと思う。もう少し早く気づいておればね」
「失礼ですが」
と最も年長者と思われる、頭髪の薄い背広姿の男が恵美に話しかけた。
「私は府警本部の青木です。このふたりは、伊賀上と中村。どうも私たちのブロークンな英語では、不自由で。通訳をお願い出来るのですか?」
「あ、大丈夫です。山崎と申します。取りあえず、状況をお話します」
恵美は先ず、ホストのエドワード・ゴールドバーグが「JUN」のCEOで、世界有数の資産家であり、三年前に収得したこの庭園に、数奇屋、書院造りの家屋や茶室を建て、今夜がその完成記念のディナー・パーティーだったと説明した。
その頃になると着替えをすました竜介、ナオミ、それから、おそらく彼女に叩き起こされたらしい、寝ぼけ顔のデニスまで現れて、エドを囲んで状況を聞いていた。
「ごく内輪の集まりで、お見えになってる海外のゲストは、世界的な名士な方々ばかりですよ。
あの赤ら顔の男性は映画監督のデニス・グリーンさん、女性はアート・ディーラーのナオミ・モローさん、それから、あの、救急車で運ばれた女性は「インテリジェンス・データーベース」のCEO、キャサリン・ビルボーさんです。長者番付世界一の方です」
青木は一応、黙って頷いているが、年下のふたりの刑事は、小娘が何をオーバーに言い立てやがるとばかりに冷めた眼を返し、薄ら笑いを浮かべている。
伊賀上は将棋の駒をさかさまにしたようにエラが張っており、対照的に中村は饅頭のように丸顔だった。間違いなく、どちらの刑事も美術、映画やIT企業に弱い。
「こちらの男性は谷山浩二さん、新門前の美術商「谷山」のオーナーで、私の雇い主です。あちらの美男子は(竜介がにらみつけた)堀竜介さん、インテリア・デザイナーです。堀さんも、「谷山」もゴールドバーグさんには、大変お世話になっています」
彼女自身は、今夜、ここにいるホストもゲストも身分や身元のしっかりした人たちばかりであると強調したつもりだったが、どうやらセレブ風を吹かせていると取られ、反感をかったらしいと気がついた。
「ご立派な方たちばっかりだと良く分かりましたが、取りあえず、発見状況をゴールドバーグさんに聞いていただけませんかね」
「あ、はい」
しくじったかなといささかへこんだ恵美だが、気を取り直してエドを呼んだ。
ラウンジ・チェアが追加され、全員が腰を下ろす。
青木が日本語で質問すると、恵美が通訳し、エドが丁寧に答えた。
忍者アトラクションが終わって、エドがキャサリンをゲスト・ハウスまで送ったのが十時頃。居間へ戻って仕事を片付けてから、広間へ顔を出したが、デニスがラウンジ・チェアで酔いつぶれているだけで、誰もいなかった。
デニスを部屋まで送りとどけ、居住棟へ戻り、シャワーを浴びてから、ふとんに入ったのが十時半過ぎ。
秘書が起こしたので、時計を見ると十一時二十分。パトロールが池にうつ伏せに浮いているキャサリンを発見、引き上げていると報告を受ける。救急車の手配、警察への連絡を確認して、ゲスト・ハウスへ駆けつけた。
引き上げられたキャサリンは全裸で、苔の上に横たわっていた。脈はなく、息をしていなかった。人工呼吸を試みたが、効果なし。救急車が到着したので、後は任せた。
「全裸?まさかこの気候で泳ぐわけないわなあ」
青木が不審そうにつぶやいた。
「ガイジンは分かりまへんで。北欧なんか真冬に海に入ってるのをテレビで見ましたで」
伊賀上がしたり顔で言う。
エドと刑事たちの会話を通訳しているうちに、一人の長身の白人女性が入ってきて、エドの近くに立った。
ブロンドで目鼻立ちのくっきりした美人である。今夜、初めて見る顔だ。
白のシャツブラウスに黒のパンツというシンプルな装いだが、オーラがある。エドを起こした秘書というのはこの人ではないかと恵美は思った。
「パトロールですがね、何時もどんなタイム・スケジュールで?」
中村が尋ねた。
「ここは外壁のセキュリティは万全だ。普段、スタッフは庭園なぞパトロールしないが、今日は特別ゲストがいるので、念のために十一時から一時間おきに池の周りをチェックする予定だった。でなければ、キャサリンのことは朝まで気がつかなかっただろう」
エドの言葉を恵美がそのつど訳していく。
「するとパトロールはスタッフの方々でということですね。こちらでは何人ぐらい働いてられるんですか?」
青木が訊く。
「昼間は庭と建物のメインテナンスに大勢来ているが、夕方までに全員帰った。ディナーはケータリングを頼んだが、彼らも十時までには引き上げている」
「ケータリング?」
青木が恵美の顔を見る。
「出張料理のことです。祇園の奥村というレストランです」
刑事のひとりがメモを取った。
「で、今ここに残っていられるメンバーがゴールドバーグさんのスタッフですな。先ほど忍者アトラクションがあったとかおっしゃってましたが、その人たちは?」
青木はさすがに細かいところまで良く覚えている。エドに訳すまでのことではあるまいと思ったので、恵美が続けて答えた。
「スタッフです。六人ぐらいで見事なパフォーマンスを見せてくれました」
「ええ、スタッフがですか」
青木が驚き、ふたりの刑事は疑わしそうな顔をした。
やり取りで内容が分かったのだろう、エドが喋り出した。
「ニンジャを演じた彼らの本来の任務は警護や私の護衛だ。普段から様々なマーシャル・アーツ(武道)で鍛えている。パトロールは彼らがやってくれることになっていた。勿論その他にも秘書やゲストの世話をするスタッフもいるので、今夜は十人ぐらいがステイ(滞在)している」
「ゲストを含めると、結構な大人数がおられるわけですなあ」
青木は一応納得したようだった。
「パーティーの後、あなたがキャサリンさんをゲスト・ハウスまで送られたんですね。彼女の様子はどうでした?」
「ご機嫌そのものだったよ。入り口で別れたが、ジョークで大笑いしていた」
「あのゲスト・ハウスは施錠出来るんですか?」
「キャサリンがロックした音はした。南側に引き戸があるが、勿論、施錠出来る」
恵美が通訳し終わると青木が目配せし、饅頭の中村が立ち上がって出て行った。
「外壁は赤外線センサーと防犯カメラですね。モニターは何処に?」
到着した時に素早くチェックしたのだろう、青木が訊いた。
「この隣りがゲストたちが利用している和室棟、それから厨房と続いて、次が管理棟で、そこにある」
「警備責任者に会えますか?」
「勿論。あ、紹介しておこう。秘書のジャネット・リーだ。所用でトウキョウへ出張していて、先ほど帰ったばかりだ」
長身の白人女性はニコリとみんなに会釈した。
「ジャネット、こちらは京都府警のみなさんだ。お名前は後で直接聞いてくれ。どうも日本の名前は一度では覚えにくい。それから今夜のゲスト、エミ、コウジ、リュウスケ、ナオミ、デニスだ」
と身近から順に紹介した。
「じゃイガラシを呼んでくれ」
立ち去るジャネットを見送りながら、青木が訊いた。
「ゲスト・ハウスはキャサリンさんおひとりでお使いだったのですね」
「三分の二はライブラリーだ。寝起き出来る空間はそんなに広くない。それに何といっても彼女はメイン・ゲストだったからね」
青木がナオミや浩二らを見回した。
「皆さんの中で、パーティーがお開きになってからお休みになるまでの間に、何か変わったこと、どんな小さなことでもいいんですが、お気付きになったことがありませんか?」
全員が首を横に振った。
中村が帰ってきて、入り口と窓は施錠されてましたと報告した。
「ほう、密室かね」
「いえ、南側にスライドする木のドアがひとつありますが、鑑識によれば、最初から開いていたようです。日本間で、分厚いマットにふとんが敷いてありましたが、寝た形跡はありませんし、見たところ、室内も荒らされていません。シャワーは使用した形跡があります」
ジャネットが、がっちりした体形の男を連れて戻ってきた。きちんとしたスーツ姿で、四十前後といったところか。生真面目そうな顔立ちだ。
「警備主任のイガラシだ」
エドが紹介した。
「五十嵐さん、今日は問題なかったですか?」
「何も問題はありませんでした。センサーは正常に作動しておりました。外壁では不審人物はまったく目撃されておりません」
背筋をぴしっと伸ばしてハキハキと答える。
青木がウーンと唸った。
「まさか、建物、たとえばゲスト・ハウスを写しているカメラなんかは置いてられないですわな」
五十嵐がチラとエドを見た。
「実はある」
エドが言った。
「えっ」
青木や刑事たちが身を乗り出し、ゲストの面々はへえ?と顔を見合わせた。
「池の西側に三台、二年前から設置してある」
「それは何のために?」
「それぞれ北の数奇屋棟、東の書院造りのゲスト・ハウス、南の茶室に向いている。パソコンのディスプレイで建築中の状態が何時でも見られるようにするためだ。私はなかなかキョウトへ来る時間がとれなくて、現場が見られず、フラストレーションが高まっていた。その解決策さ。管理はイガラシが担当してくれていた。別に秘密でも何でもない。ただ庭の美観をそこねるのが嫌なので、苦心して目立たなくした」
「では、今夜、五十嵐さんはゲスト・ハウスの映像を見ておられた可能性があるんですな」
青木は意気込んで訊いた。
「いえ、警備担当者はこの三台のカメラの映像は見ることが出来ません」
「何故ですか?」
エドがその答えを引き継いだ。
「建物が全て完成すれば、不要のものだ。プライヴァシーの問題もある。私だってライブラリーでくつろいでいるのを他人に見てられるのは嫌だからね。しかもゲストがいる。そこでディスプレイとの接続は切ってしまった」
「ウェーッ」
恵美の通訳を聞いた伊賀上が呻き声を上げて、エドが顔をしかめた。
「最後まで聞いてほしい。カメラと録画機構は生きている。イガラシは、私の許可なしでは見ることが出来ないと言っているのだ。勿論私は協力するつもりだ」
刑事たちはホッと肩の力を抜いた。
「だが、あまり期待しないで欲しい。カメラは遠くからだし、しかも夜だ」
「分かりました。よろしくお願いします」
頭を下げた青木の携帯が鳴った。
「ハイ・・・・・・・・・・・そうか、ご苦労さん。また、連絡する・・・ああ、それはちょっと待ってて。VIPのガイジンさんやから、ややこしいことになったら大変やし。しばらく待機してくれ」
短く応答した青木が、沈痛な表情をエドに向けた。
「キャサリンさんが搬入された病院からの連絡です。残念ながら死亡が確認されました。外傷はなし。所見では、あきらかに溺死とのことです。残念です」
三人の刑事はそろって、深く頭を垂れた。
エドは目をつぶって、頭を強く振った。
「信じられん。何てことだ。私がキョウトへ呼んだばかりに」
恵美はそっとエドの腕に手をかける。エドが有難う、とその手を握り、何度も頷いた。
きっと顔をあげると、
「悼むのは後だ。大変な騒ぎになるぞ。ジャネット、ID(インテリジェンス・データベース)には連絡入れてあるのだろうな」
「先方の秘書に一報は入れてあります。専用機が何時でも飛び立てる状態ですから、間もなく飛んでくるメンバーの情報はくると思います。こちらからも、今の確認情報を送ります」
「そろそろマスコミの先陣が現れるぞ。玄関を固めて誰も入れないように」
「はい」
エドとジャネットが会話を交わしている間に、青木の携帯が再び鳴り、彼は少し離れて応答した。
携帯を切ると、刑事ふたりに親指を立てて見せ、
「本部のコレや」
と言った。表情に活気が出ている。
「サッチョウ(警察庁)から連絡が入ったらしい。アメリカから外務省、警察庁、府警、それから俺らにと玉突きで、きたわけや。オヤジ、びびっとったで。くれぐれも粗相のないようにと」
「それにしても早いなあ。よっぽどVIPでんな」
エラのはった伊賀上も興奮気味だ。先ほどの恵美に対する反感はどこかへいってしまったらしい。
「オヤジがもう連絡しとるやろけど、一応、ウチの外事にも状況を知らせといて。後でむくれられたらかなわん」
中村が携帯を取り出した。
「それから、所轄にもう少し、人手をよこしてくれと」
エドが急かすように、
「じゃ、行こうか」
と言って、管理棟へ歩き出した。青木と伊賀上が慌てて後を追う。恵美は当然一緒に来るものだと思っているらしい。
ナオミが、(大丈夫?)と表情で問いかけ、恵美は笑顔で頷いた。
「エド。俺も行っていいか?」
デニスが大声で呼びかけ、エドが歩きながら、ついて来いと片手を振った。
青木はちょっと顔をしかめたが、何も言わなかった。

管理棟の奥にある頑丈な木の扉が警備室の入り口だった。セキュリティ・カードもなく、五十嵐がノックをして開いた。
外壁を様々なポイントから捉えた二十数点のモニターが壁一面に広がり、中央に一際大きなディスプレイがある。
モニターの画面が、数秒間隔で順次に中央の大画面に写されているようだ。
モニターに表示されているのは、全て外界と接する門や出入り口、塀際で、居住区は一切写っていない。
コンソールの前で椅子に坐ってディスプレイを見ていた男がエドに黙って頭を下げた。
五十嵐がぽんと肩を叩いて交代し、ポケットからキーを取り出した。
コンソールの右手にプラスチック・ケースでおおわれた小さなキー・ボードがある。
五十嵐がその下の鍵穴にキーを差し込んでひねり、ケースを開いた。
「システム・リストアします」
滑らかな指裁きキー・ボードを叩く。中央の大画面が目まぐるしく変わったあと、1,2,3と単純な数字が出て静止した。
「2、そうだな、午後三時だ」
エドが指示し、五十嵐が2の後に、15:00/11:28/2005と打ち込んだ。
一瞬後に、ゲスト・ハウスの池越えの映像が現れた。
「結構、鮮明じゃないか」
デニスがつぶやいた。
「まだ昼間ですので」
五十嵐が言う。
扉をそっと開いて、電話をかけていた中村がもぐり込んできた。
画面はそのまま何の動きもない。水面の揺らめきで、静止画でないとかろうじて分かる。
「少し早送りにしてくれ」
イライラしたように、エドが命じた。
間もなく画面の左端にちょこまかとした動きの人影が現れた。
「ストップ。ノーマルに」
動きが元に戻る。七、八人の男女がゲスト・ハウスへ近づく。
「先頭を歩くのが私だ。その次がナオミと亡くなったキャサリン、背の高い方だ。コウジとここにいるデニス、最後がハンサム・ボーイ、リュウスケと私の英語を訳しているエミだ」
人の列はゲスト・ハウスの影に入った。書院造りだが、ライブラリーはガラス戸になっているので、みんなが室内に入って来る様子が良く分かる。
エドに続いて竜介とデニスが回り縁に出て来た。竜介の後ろに恵美が現れ、ふたりで何事かやりあっている。
右側の日本間は壁で、窓の障子は閉まっている。
キャサリンも縁に出て、あたりを眺めていたが、すぐ室内に戻った。
「この後、私たちは山手へ向かい、南の茶室でお茶を飲んだ。キャサリン以外はね」
「彼女は同行しなかったのですか」
青木が尋ねた。エドは肩をすくめた。
「お茶が苦手だからと、ゲスト・ハウスに残った」
ゲスト・ハウスの影からエドたちが現れ、右手の方へ立ち去った。
キャサリンは一度、日本間の方へ消えてから、ノート・パソコンをライブラリーへ持ち込み、何やら取り組み始めた。
「仕事熱心な方だったんですね」
青木がため息混じりに言った。
「そういうこと」
エドがあっさり切捨てると、「早送り」と命じた。
画面の中のキャサリンがサイレント映画のように目まぐるしく動き、あっと言う間に日が沈んで、暗くなった。
電気がつくとライブラリーの中は良く見えるが、周りはコントラストの加減で逆に見にくい。
突然キャサリンが立ち上がって日本間に入り、飛び出してきて、短距離ランナーのようなスピードで、左手に消えた。
「ディナーのために広間へ向かったんだ」
間もなく作務衣らしきものきた女性が何人かせかせかと行き来し始めた。
「彼女らは?」
「片付けたり、寝具の用意をしている」
それもすぐ終わって、画面は夜のゲスト・ハウスをえんえんと映している。
「あとでコピーを渡すから、ゆっくり見直せばいい」
やっと左端に人影が現れ、五十嵐がすぐノーマルに戻した。
月光とライブラリーからもれる灯かりで、何とかエドとキャサリンだと見分けはつく。
ぶらぶら歩きながら、ふたりはゲスト・ハウスの影へ消えた。
「入り口で、キャサリンと大笑いしているころだ」
「広間まで聞こえました」
恵美が言った。
「本当かい」
間もなく建物の影から現れたエドは、両手を腰の横で広げ、おどけたよちよち歩きで戻り出す。
恵美やデニスに、青木まであきれたようにエドを見た。
「いや、こいつは恥ずかしい。あまりにも気分が良くてね。この映像が流出したら、君を訴えるからな」
エドは青木に指を突きつけ、警部はノー、ノーと笑いながら手を振った。
ライブラリーに入ってきたキャサリンは、腕組みして考え込んでいたが、ガラス戸のロックを確かめてから日本間に消えた。電気がついて明るくなったが、窓の障子が閉まっていて、中の様子はうかがえない。再びキャサリンが出てきて、机上のパソコンをしばらく操作し、また日本間に戻った。
そのまま動きはない。
「早送り」
しばらくして、日本間の右手の縁に人影が現れた。
「ストップ。リバース」
少し戻して、ノーマルにする。
長身のキャサリンが現れた。足元まであるガウンを着て、頭をバスタオルでゴシゴシと乾かしている。
「シャワーを浴びたんだな」
キャサリンはそのまま回り縁のコーナーまで来て、何か見つけたのか、しゃがんで高欄に寄りかかりながら、池をのぞき込んだ。
やがて、さっと立ち上がったが、立ちくらみをしたように、フラフラとして、そのまま真っ逆さまに池の方に倒れこんだ。夜目にも白い足が空を切る。
恵美の隣りにいたエドが、はっと息を呑んだのが分かった。
デニスがちらっとエドに目をやった。
「落ちた!」
刑事のひとりが呻くように言った。
水面を浮き沈みするキャサリンが、必死にもがいている。
恵美は見ていられなくて、目を伏せた。
「あー、ガウンが邪魔なんだ。早く脱がなくちゃ、早く」
五十嵐が思わず叫んだ。結果が分かっていても、人間として自然な想いが口をついたのだ。
やがて押し殺したような沈黙がきた。
恵美はそっと目を上げた。ひとりの生命を飲み込んだ池は、鏡のような静けさを取り戻している。
かすかな影が水面に現れた。
「浮いてきました」
五十嵐がかすれた声で言った。
「ガウンは脱いだようですが、遅かったのですね」
「溺死体は沈むのじゃないのか」
デニスが乾いた声で、刑事たちに尋ねる。
「普通はそうです。直後に浮上する場合も二十から三十パーセントあるとは聞いてますが」
青木が答えた。また沈黙がおとずれた。
「少し早送りしてくれ」
エドが耐え切れぬように小声で言った。
左手からライトを手にしたパトロールがふたり、やってくる。
五十嵐がノーマルに戻す。
ゲスト・ハウスを通り過ぎたところで立ち止まった。日本間のドアが開いているのに気がついたようだ。
ライトがあちこちと交差していたが、やがてひとつが水面に浮かぶ影を捉えた。
そのライトが地面に置かれると、人影が岸辺を滑り降りて、池に飛び込んだ。もうひとつのライトは数奇屋棟の方へ駆けていく。
「ストップ」
エドが声をかけ、画面は一時停止の状態になった。
「まだ見続けなくちゃ駄目かね」
「いえ。貴重な映像を有難うございました。コピーはいただけるんですね」
青木が念をおした。
「ああ、すぐイガラシに作成さす」
「それなら現場に戻って、関係者の方々の聴取を済ませたいのです。やはりキャサリンさんは誤って転落されたようですね」
エドが頷いた。
「では、私たちはこれで」
刑事たちと恵美はすぐ出て行ったが、デニスはそのまま静止した画面を見詰めている。
のろのろと動き出したが、戸口にいたエドの前で立ち止まり、
「世界一の金持ちになった感想はどうだい」
とささやき、エドの返事を聞かずに立ち去った。

広間で待っていた三人が立ち上がった。
「どうでした?」
浩二が青木に尋ねた。
「ばっちり写っていました。事件性はおそらくないでしょう」
青木は軽く頭を下げ、刑事たちは慌しく出て行った。
恵美は三人に取り囲まれた。デニスはどっかとラウンジ・チェアに座って、思いにふけっている。
「ハードだったわ」
眉を寄せながら、恵美はキャサリンが転落した様子を、ナオミのために英語をまじえつつ説明した。
「僕も立ちくらみはよくするのよねえ。ふらーっとして、何も分からなくなるの」
竜介が悩ましげに訴える。
「ジェスチャーでしょ、あなたのは」
「何ですって!」
その時、エドが急ぎ足で広間に入って来た。ちらっと座り込んでいるデニスを見たが、真っ直ぐ浩二らの方へやってくる。
「IDのスタッフがもう専用機でこちらへ向かっている。明日、いや、もう今日だな。午後には着くだろう。FBIがひとり同乗している。君たちの旧友らしい」
「マコーミックかな」
浩二が首を傾げた。
「ボブよ、きっと」
「ホント!」
竜介が飛び上がって喜んだ。ボブ・マコーミックは竜介の命の恩人なのだ。
「じゃ、アイリスも東京から来る可能性が高いわね。ボブは日本語よく分からないもの」
恵美も嬉しそうだ。
「エミ、さっきはご苦労だった。ハードな映像を見せちまったな。勘弁してくれ。ナオミ、コウジ、それからリュウスケ。大変な夜になってしまって、申し訳なく思っている。明日はちょっとした騒ぎになる。どうか部屋へ戻って休んでくれ。刑事たちには説明しておくから」
ぞろぞろ部屋へ戻りながら、デニスはどうするのかしらと恵美は振り返った。
広間に突っ立ったエドがデニスを睨みつけている。その表情がぞっとするほど険しく、恵美は急いで目をそらした。
先ほどの警備室を思い起こす。
キャサリンが転落した瞬間、エドは何故息を呑むほど驚いたのだろうか。
確かにショッキングな映像だったが、ある程度、みんなが予期していたことだ。
デニスの反応も変だった。ちらっとエドを見た眼には、強い緊張が光っていた。
そういえば、彼だけ遅れて警備室を出てきたんだっけ。

第七章

浅い眠りがヘリコプターの騒音で破られた。
とても寝ている気にはなれないので、浩二と恵美は起き上がり、洗面をして服を着た。
廊下へ出ると、
「浩ちゃん?」
気配が分かったのか、竜介が部屋の中から低い声で呼びかけた。
「ああ、広間へ行かないか」
返事をすると、襖が開いた。もう身支度をととのえている。
竜介が、どうする?と目でナオミの部屋を指す。起きたらくるやろと低く浩二がささやいて、三人で広間へ向かった。
板戸のディナー・テーブルに白いシーツがかけられ、パンにサラダとフルーツ、カリカリに焼いたベーコン、ボイルド・エッグが用意してある。
お早うございますと、ラウンジ・チェアに坐ってコーヒーを飲んでいた伊賀上と中村が立ち上がって挨拶した。
作務衣に着替えた昨夜のキモノの女性が飲み物を聞きに近づいたので、コーヒーを頼み、三人とも近くのチェアに腰を下ろした。
「お疲れさまです。徹夜ですか?」
浩二が尋ねる。
「はあ。しょうがないですわ。でもガウンとタオルも池から回収出来ました」
伊賀上がさすがに疲れた声音で返事した。
「青木さんは?」
「ゴールドバーグさんから録画のコピーを渡されると、すっ飛んで本部へ帰りました。東京の警察庁からもお偉方がこっちへ向かってるようですし、アメリカ本社の連中も、おっつけ関空へ着くようですから、急いで見解を纏めとかなくちゃなりませんしね。マスコミも詰め掛けているらしいから、本部は蜂の巣をつついたような騒ぎでしょう」
「ヘリも相当飛んでるようですな」
浩二が目で上空を示した。
「ええ。でも門前もエライことになってます。テレビや報道のカメラが鈴なりですわ。しかも紅葉の真っ盛りで、ここいらは京都で一番ごった返すとこですやんか。物見高い連中がやってくるやろし、ぞっとします」
「青木さんは事件性はないやろって言われてましたね」
「アア、それは間違いないと思います。僕らもしっかり映像は見ましたし、現場にも不審な点はなかったですから」
饅頭の中村が口を挟んだ。
「もう、引き上げてもええ思うんですけどね。上がなかなか帰らせてくれまへん。可哀想に所轄の警官もまだ張り番させられてますし」
勝手が違う現場で気疲れで、うんざりしているのだろう。二人は昨夜にくらべて口が軽い。
その時、ナオミが入ってきて、みんなに笑顔を見せ、テーブルに向かった。恵美は刑事たちに会釈して立ち上がり、ナオミの横へ行く。
「お早う。眠れた?」
ナオミはサラダを取りながら、とろけるような笑顔を見せる。
「少し。ナオミは?」
「私は何時でも、何処でも、すぐ眠れるのよ」
「うらやましい」
恵美もサラダとフルーツを取った。
「ね、警備室の中で、エドとデニスに何かあった?」
「どうして?」
「帰ってきてから、明らかにふたりの空気が違った」
恵美は驚いた。気づいたのは自分だけかと思っていたのだが。
横目でうかがうと、浩二たちは話に夢中になっている。
実はねと、恵美はキャサリンが転落した場面でのエドとデニスの反応を話した。
「気をまわし過ぎかもしれないけど」
「その映像、見てみたいな。エドに掛け合ってみるわ」
刑事たちが立ち上がった。
「現場に戻ります。もう交代も来ますやろし。ご馳走様でした」
作務衣の女性に礼を言って出て行った。
浩二と竜介も食べものを取りにテーブルまでやって来る。
「デニス、遅いね」
恵美はもう一度同じ話をふたりにも繰り返した。
「僕も見たいわ」
竜介が言う。
浩二は一瞬、ためらったが、
「そうやね」
と同意した。気が進まないようだが、ひとり、仲間はずれになるのも嫌らしい。
「お早う。コーヒーを頼むよ」
明るい声で挨拶しながらデニスが現れた。昨夜とうって変わって元気がいい。テーブルに突進すると、朝食を皿にどんどん盛り始めた。
みんなは顔を見合わせる。
それぞれ席に落ち着くと、ナオミが尋ねた。
「何だかご機嫌ね、デニス」
朝食を頬張っていたデニスは、コーヒーを飲み込んで、
「ショーグンの資金の目途がついた」
とにっこりした。
「そりゃ凄い。良かったですね」
浩二が我がことのように喜んだ。
「エド?」
ナオミはクールだ。
「ああ。昨夜、話し合ってね。用意してくれることになった。となると出来るだけ早く帰りたいんだが」
ぐいと顎で表の方をさし、
「騒がしいんだろう」
「報道陣が取り囲んでるって刑事が言ってましたよ。どこか、そっと抜け出せる方法ないんですかね」
浩二は心配そうだ。
「ないこともないみたいだが。どっちにしても昼からになるだろうけど」
「デニス」
ナオミが呼びかけた。
「昨夜見たキャロラインの映像、どうだった?」
「どうだって、刑事やエミに聞いたのだろう?」
「エエ、それは聞いたわ。本当に何も問題なかった?」
「ヘッド・ラッシュ(立ちくらみ)だと思うよ。バランスを失ったみたいだった」
「そんなタイプに見えないけどなあ」
「サケも結構やってたしね」
「だけど・・・」
「そんなに気になるのなら、自分の目で確かめたらどうかね」
エドが広間に入って来ながら、ナオミに言った。ジャネットと一緒だ。
「いいの?コウジとリュウスケも見たいと言っていますが」
「構わんとも。君たちがそんなに、あの気の毒な女の最期を見たがるとは意外だったよ」
顔は笑っているが、言葉は冷ややかだ。
浩二と竜介はバツが悪そうだが、ナオミは平然としている。
「有難うございます」
「イガラシに言っておくから、何時でもどうぞ。ただし、コピーは駄目だ。とんでもない私の醜態が写ってるからな」
恵美を見て、片目をつぶる。
どうして、こう簡単にヒョイヒョイと気分が切り替えられるのか、彼女には理解出来ない。
「ところで、みんなにお勧めというか、お願いしたいのだが、もう一日、滞在を伸ばして貰えないかね。表には、ハイエナの群れが口を開けて待っている。君たちが出て行けは、格好の餌食だ。明日になれば、少しはマシになるだろう。午後にはIDの連中も挨拶に来ると思うが、やつらもキャサリンを早くつれて帰りたいはずだ。長居はすまい」
「警察はそう早くキャサリンの遺体を渡しますか?」
浩二が尋ねた。
「ああ、犯罪の疑いが少しでもあれば、こちらで司法解剖もしなきゃならないし、そう簡単にはいかないが、所見では不審な点はまったくなかったようだし、何よりも私が提供したあの映像が決め手になった。どうやら日米の政府間でもやり取りしてるようで、こちらの警察としては、ガイコクジンが絡む面倒なことは、一刻も早く、厄介払いしたいのが本音だろう」
「私はこの庭園の美しさを、もう一日、味わえるのなら構わないわ」
ナオミが言った。
浩二は竜介や恵美と顔を見合わせたが、
「私たちも取り立てて急ぐ用事はありませんので、お世話になります」
と答えた。
「じゃ、決まりだ。ところで、デニスから話は聞いたかね。そうか。彼はショーグンに取り憑かれていてね、早く帰りたがっている。気持ちは分かるが、ここまで待ったんだ。もう一日ぐらい、どうってこともないだろう」
ジロッとデニスを見る。
デニスは不承不承頷いた。

朝食が済むと、誰からともなく、庭園に出てみることになった。
昨日に続き快晴である。
まだ何台かヘリが飛び回っていて、騒がしい。
伊賀上と中村が同じような背広姿の男性ふたりと喋っている。交代員が到着したようだ。
みんなは自然とゲスト・ハウスへ足を向けた。
作務衣の男女が変わりなく働いていて、丁寧に頭を下げるが、表情はどことなく硬い。
紅葉も、池の美しさも変わりはないのだが、侘びしげに見える。
ゲスト・ハウスの入り口に所在無げに立っていた警官が敬礼をした。
道の側らの苔の上に、一箇所、いくつか花束が置いてある。水から引き上げられたキャサリンが横たえられた場所らしい。
「気がつかなかったな」
浩二が顔をしかめた。
「伊助さんに電話して手配して貰いましょう」
恵美が携帯を取り出した。
「僕の分も」
竜介が声をかけた。
「エミ、花を頼むの。じゃ、私もね」
ナオミに頷いてみせて、恵美は電話に出たらしい伊助に喋り始めた。デニスは関心がないらしく、書院造りの建物を丹念に眺めている。
「城壁にはいかないの?」
竜介が浩二に尋ねた。
「あんなところへ上がれば、ヘリのカメラの標的になるだけや」
「ふーん」
竜介はちょっと不満そうだ。

池を一周して戻ってくると、デニスはラウンジ・チェアに坐りこんでしまった。また、飲み始めるつもりのようだ。
「警備室をのぞいてみましょう。イガラシがいるかもしれないから」
ナオミを先頭に向かい、木の扉をノックした。
「どうぞ」
応答があったので、のぞくとタツオ青年が坐っていた。
「イガラシはいないのね」
ナオミが扉を閉めようとすると、
「あ、モローさん、彼から聞いてます。どうぞお入り下さい」
と立ち上がった。
「先ほどまでいたのですが、今休んでます。用意は出来てますので」
浩二や恵美に笑顔を見せる。竜介は嬉しそうに、タツオ青年の近くに場所を占めた。
来るのを予期していたのだろう、プラスチック・ケースはすでに開いていた。
「山崎さんはすでにご覧になってるんですね。どの辺りから写しましょうか」
恵美は少し思案した。
「そうね。夜の十時ごろからスタートしてください」
「了解」
タツオ青年は素早くキー・ボードに打ち込んだ。
月の光りに沈む黒々とした書院造りのゲスト・ハウスが現れる。
数奇屋棟からもれる明かりで、左手の方はそこそこ見分けはつく。
エドがキャサリンを送って、戻る時のペンギン・ウォークにみんなが爆笑した。エドが同席してないので遠慮がない。
「まあ、エドったら。信じられないわ」
ナオミがあきれている。
「はい。大変上機嫌のようです」
タツオ青年が生真面目に応えた。
キャサリンがシャワーを終えて、縁に現れるまで、早送りにした。全員が固唾を呑んで見詰める。
頭をタオルで乾かしながら回り縁のコーナーへ来る。しゃがむ。立ち上がってよろめく。転落する。もがく。平静な水面に戻る。
影が浮き上がった。
ため息が流れた。
「やっぱり立ちくらみにしか見えないわ。可哀そうに」
竜介が口に手を当ててつぶやく。
「お気の毒です」
タツオ青年が俯いた。浩二は唇を噛み締めている。
「もう一度落ちるところを再生して」
ナオミが命じた。
「はい」
浩二が顔をしかめて、画面から顔を背けた。
再び同じシーンが繰り返される。
「ストップ」
突然、恵美が声をかけた。首を傾げる。
「何かひっかかるんだけど」タツオ青年に、
「ね、スローで再生出来ない?」
と頼んだ。タツオ青年は頷いた。
またキャサリンがゆっくりとふらつき、真っ逆さまに倒れ、白い足が・・・
「止めて!」
恵美が叫んだ。画面が一時停止になる。
「足が・・・・・白い」
「そりゃ、白人やし・・・」
浩二がのんびり言いかけたが、恵美がさえぎった。
「よく見て。顔や手の白さと微妙に違う。何か人工的な白よ」
竜介がポンと手を打った。
「分かったわ! あれは・・・」
喋りかけた竜介が、突然口を閉じた。恵美がタツオ青年のことを目配せしたからだ。
ありがとうと口々に声をかけながら、慌しく一同は警備室を出て行き、タツオ青年が訝しげに見送った。

広間には嬉しいアイリスとの再会が待っていた。
「アイリス!」
恵美が飛んでいって抱きつく。浩二と竜介もニコニコしながらハグをかわす。
「いつ着いたの」
「京都には一時間ほど前。東名を素っ飛ばしてきたのよ。府警でアオキと外事の担当に挨拶して、すぐこちらへ来たの。表の道はマスコミでクレイジーよ」
「それだけ急いでくるのは、やはりIDのジェットに同乗しているFBIはボブね」
「当たり前じゃない。真っ先に行きますと手を上げたわ」
「仕事だからね、キミ、デートではないんだよ」
恵美はわざと腕を組み、眉を寄せて、しかめっ面をしてみせる。
わっと笑いあっていると、浩二が咳払いをして注意した。
エドとジャネットが入って来た。ジャネットは黒のセーターとトレーニング・パンツに着替えている。
「エミはFBIに顔が利くんだな。ひょっとしたら本物のシークレット・エージェントじゃないのか」
エドが笑いながら話かける。
アイリスが進み出た。
「FBI日本支局のアイリス・タナカです。お目にかかれて光栄です。ゴールドバーグさん」
「エドと呼んでくれ。秘書のジャネットだ。それからあの酔っ払いはデニス・グリーン、美人はナオミ・モローだ」
デニスはグラスを掲げ、ナオミは笑顔を見せた。
アイリスはそれぞれに会釈をして、エドに向き直った。
「IDのジェットは一時過ぎに関空へランディングします。待機しているID日本支社の車でキョウト府警に到着する予定が二時。ブリーフィングのあと、遺体の処理について協議が行なわれる予定です。司法当局の許可あり次第、NYへ送り返されることになると思われます」
「分かった。君はここに待機するのか?」
「いえ。FBIのエージェントが一名、同行しておりますが、彼は日本語が不得手ですので、後ほどキョウト府警で合流いたします。協議が済み次第、ID関係者の方々はこちらへご挨拶に来られる予定と理解しています」
エドは頷いた。
「用があれば、何でもこのジャネットに言ってくれ。もちろん私もこの別荘内にいるから」
「有難うございます」
エドは立ち去りかけて、ナオミの前で立ち止まった。
「見たのかね?」
「キャサリンの映像? イガラシは不在だったけど、タツオが見せてくれたわ」
「ふん。それで?」
「気の毒だったわ。急に立ち上がったせいね、あれは」
「ご満足いただいたわけだな」
「そう。お世話様でした」
エドはぷいと顔を背けると、居住棟の方へ向かった。ジャネットが後につづく。
アイリスが恵美を突付いた。
「あのふたり、険悪ね。キャサリンの映像ってなに?」
「あとで」
ちょうどその時、何人かの作務衣の男女が現れて、テーブル・セッテイングを始めた。ランチの用意をするのだろう。
「山手に素晴らしい石垣があるんだ。見に行かないか。現場も通るよ」
浩二がアイリスを誘った。
「OK」
ナオミがラウンジ・チェアに根がはえたようなデニスを見たが、彼は首を振って断った。
広間を玄関に向かいながら、恵美はひとり残るデニスを振り返った。
グラスを手放さないほど酔っ払いたいのは、映画が撮れる祝杯か、それとも何かを忘れたいのだろうか。

石垣をよじ登ったり、降りたりしている忍者を見つけて、アイリスは仰天した。
「ニンジャだわ! 本物なの、エミ!」
忍者たちは一行を認めると、姿勢を正して礼をした。みんなは手を振った。
「違う。エドのスタッフ」
「何をしてるの?」
「トレーニング、多分」
「どうしてあんな格好を?」
「昨夜、ディナーの後で、アトラクションを見せてくれたのよ。マジで凄いわよ」
竜介が目を輝かせて言った。
「エンターテイナー?」
「本業は護衛や警護とか、エドは言っていたけど、金持ちのすることは分からないわ」
恵美は鼻を鳴らした。
石垣の頂上に着くと、アイリスは眼下に広がる市街に嘆声を上げた。ナオミが説明した「サトリ」には肩をすくめただけだった。
さすがにヘリの姿は消えている。
芝生の上でみんなは輪になった。
「アイリス、青木警部はカメラに写っていた映像について何か言っていた?」
「後でまた会うから、詳しくは聞かなかったけれど、転落シーンが記録されていて、事件性がないのはハッキリしているとのことだった」
恵美は出来るだけ詳細に映像に残るキャサリンの様子を描写し、エドとデニスの反応を説明した。
「で、落ちるキャサリンの足が白いのに気がついたの」
「シャワーのあとなら素足だし、当然じゃない」
「肉体の白さじゃない。人工的なもの」
恵美は言ってから、竜介を意味ありげに見た。
「僕は白足袋だと思う」
「シャワーのあとで何故履くのよ」
「だから彼女はシャワーを浴びてないの」
「でも、ガウンを着て、タオルで頭を乾かしてるのなら・・・」
アイリスは口をつぐんだ。恵美の言いたいことに気がついたのだ。
「落ちたのはキャサリン本人じゃないってこと?」
みんなの顔を見回す。浩二は半信半疑、ナオミと竜介は面白そうで、恵美は自信満々といったところか。さすがにアイリスは一笑にはしない。
「もしそうだとしたら、身代わりを演じたのは誰?」
「背格好からだけだけど、ジャネットなんかぴったりね」
そこまで考えてはいなかったらしく、みんなからはへえーと驚きの声が上がる。
「だけど東京に出張していたとエドが言ってなかった?」
浩二が指摘した。
「帰ってきたところを見たわけやないもん」
恵美が口をとんがらす。
話に夢中になっているので恵美たちは気がつかなかったが、忍者たちが石垣の頂上まで登りつめ、こちらの様子を見詰めている。
「と言うことは、エドに結びつくわね」
ナオミは、がぜん興味をそそられたようだ。
「そう。これはあくまで想像だけど、ジャネットはエドの指示で、身代わりを命じられた。ところが慌てていたのか、うっかりしたのか、裸になったが、足袋だけ脱ぎ忘れた」
忍者たちはゆっくりと近づいてくる。
「エドは彼女のミスに気づいて、大きく息を呑んだ。キャサリンではないと知っていたエドだから分かったんだわ。デニスはやはり天才的な映画監督よ。エドの動揺が彼女の映像にあるとピンときたのに違いない。おそらく何かエドに臭わしたんじゃないかしら」
「例えば?」
「分からないけど、映像をチェックしようかとか、キャサリンではー」
恵美が突然、喋るのを止めた。
ほんの七、八メートル離れて、何時の間にか腕組みをした忍者たちが立っていた。
六人いるので、昨夜のメンバーらしい。男ひとり、女ひとりの白人が混じっている。
奇妙な静けさの中で、お互いが視線を交わす。
「僕、お腹すいたよ。そろそろ戻らない」
竜介が沈黙を破って、明るく声を上げた。
「そうね」
恵美が言って、みんなは石段の方へ動き始めた。
浩二が親指を立て、
「昨夜は素晴らしかったよ」
と声をかけると、リーダーらしき忍者が黙って頷いた。
石段を降りきって、恵美が振り返ると、忍者たちの姿は見えず、御堂のあたりで何か唱和する声だけが降ってきた。

ランチの用意で広間が落ち着かない。デニスはスコッチのボトルを片手に自室へ引き上げた。
部屋は庭に面し、ガラスと障子で二重になった窓がある。
椅子に腰を下ろし、
「Fucking garden!](クソッタレの庭め!)
と呻いた。
エドからキョウトの別荘への招待を受けた時は二つ返事でOKした。評判の庭も見たかったし、何よりも「ショーグン」の出資話がまとまるのではと期待したのだ。
ナオミとはスイス人の画家、ギーガーの作品を三点、購入した時に知り合った。ミステリアスな女性で、ひと目で惹かれた。何度か落とせそうになったのだが、その都度、うまく逃げられてしまった。レズかなと思ったが、そうでもないようだ。
このディナー・パーティーの話をどこから知ったのか、久しぶりに彼女から掛かってきた電話が、飛び込み参加の依頼だった。
エドは言下に断ったが、どう気が変わったのか、結局了承してくれた。その返事をナオミにした時に「シシガタニの陰謀」の話を聞かされてしまった。
八百年以上も前に、シシガタニには「シュンカン」と呼ばれる僧侶の別荘があり、当時のサムライのリーダーたるヘイケ・ファミリーを打倒する計画が練られたところだという。陰謀は発覚し、「シュンカン」は捕らえられて孤島へ流刑になり、悲惨な最期をとげたらしい。
因縁がある土地では、何をするにしても、得てしてトラブルが起こりやすいことをデニスは経験で知っていた。
どうやら彼の危惧は現実になりつつある。
これ見よがしにバスタオルで頭をゴシゴシする女性の映像を見たデニスは、その些細な身のこなしから、すぐ彼女がキャサリンではないことに気がついた。
なんとエドの秘書ジャネットじゃないか。
デニスは単純に映像美だけを売り物にする監督ではない。個々の人間が持つ独自の動きに対する並外れた観察力を持っており、それを演技指導に生かしたので、映画界きっての名監督のひとりと評価されるようになったのだ。
彼は出会った人間の特徴を瞬時につかみ、その動きを完璧に記憶することが出来た。
デニスの目から見れば、キャサリンのスタンド・イン(代役)、ジャネットはあきれるほど無能で、現実の撮影現場なら、即刻クビにしただろう。
ヘッド・ラッシュのふりをして転落した時は、彼は危うく失笑するところだった。
エドが動揺したので、デニスは現実に引き戻されたのだ。
デニスはキャサリンのような女は大嫌いだった。彼女がどうなろうと知ったことではない。
ハリウッドの煌びやかな夢の世界の底に横たわる、おぞましい澱を知り尽くした男である。
マフィアがらみの殺人も二回目撃している。犯人の顔立ちは、今でもはっきり憶えているが、司法当局に連絡する積もりはまったくない。青臭い正義感はとっくになくしてしまった。
エドがやりたいことをやればいい。
ただこの程度のアマチュアの映像トリックが見抜けない男と思われるのは我慢できなかった。
そこでつまらない一言をつい口にしてしまったのだ。
世界一の金持ちになった感想はどうだい、と。
俺は分かってるぞ、と控えめにからかった積もりだったが、言ったとたんに後悔した。
エドの気質では、爆弾を投じたも同然だった。
案の定、広間に現れたエドは、怒りで手を震わせていた。
みんなが自室に引き上げたあと、デニスに向かい合った彼の形相は凄まじかった。
ーどういう意味だ、今の言い草は。
ーどうって、言葉どうりだ。事実だろ。
ー場所を考えろ。
ーおめでとうとは言わなかったぜ。
ーあんなことを言われて、私が喜ぶとでも思ったのか。
ー気分を害したのなら誤まる。すまなかった。ただ正直言って、俺はあのビッチが消えてくれて、
最高に嬉しい。あいつは最低の女だ。
エドは黙ったままデニスを見詰めていたが、ふっと肩の力を抜いて、となりに坐った。
ーそんなことを口にするな。誤解されるぞ。
デニスは驚嘆した。表情が一変している。ジキル博士とハイド氏を演じて、映画史上最高といわれるのは名優フレドリック・マーチだが、エド・ゴールドバーグも負けてはいない。
ーデニス、こうなりゃ、「ショーグン」は私が全額出してやる。
ー本当か。絶対損はさせない。
ー分かってる。いい映画を作ってくれ。
ひょっとしたら口封じの代償の積りかと思ったが、気にはならなかった。すくなくとも今朝までは。
ナオミがゲスト・ハウスの映像に関心を持ち出したのだ。彼女の頭の良さは身にしみて知っている。それにあのエミとかいう小娘だ。負けず劣らずカンがいい。
ひょっとしたらナオミをたきつけているのは、彼女ではないか。
キャサリンとジャネットがどう入れ替わったのか、分からないし、知りたくもない。ただこの別荘に留まっているのはマズイ気がする。マフィアのチンピラが殺されたのとはわけが違う。
エド自身が、映画制作の出資を持ち掛けたことを、今では後悔しているのは間違いない。弱みがあることを認めてしまったのも同然だからだ。
これはヤバイかもしれん。
デニスは出て行こうと決心した。
襖の外でジャネットの声がした。
「デニス、エドが映画のことで話があるから、ちょっと来てくれと言っているわ」

広間には、サンドイッチやサラダ、飲み物など軽いランチが用意してあったが、デニスの姿は見えなかった。
作務衣の男性がふたり控えている。笑顔を絶やさないし、礼儀正しいが、明らかに空気が違う。
「忍者たちに話を聞かれたかしら?」
恵美は心配そうだ。
「大丈夫よ。低い声だったし」
アイリスが元気づける。
「野外は案外声が通るのよ」
竜介が余計なことを言う。
アイリスはサンドイッチを少しつまむと、「行かなきゃ」と立ち上がった。
「ボブの耳には一応入れておくから」
「分かった」
アイリスが慌しく出て行くと、みんなは顔を見合わせた。
「部屋に戻るかね」
浩二が尋ねた。
「話をするのなら外の方が良くない?」
恵美が言うと、竜介が、「城壁はゴメンよ」と念を押した。
「茶室の方へ散歩すれば?」
ナオミが勧めて、決まった。
あまり食欲がない。早々に立ち上がった。
入れ替わりのように伊賀上らと代わった刑事たちが、作務衣の女性に案内されて入ってきた。食事を勧められたのだろう。
庭園のあちこちで人々が働いているのは昨日と変わらない。
「エミ、落ちたのはキャサリンじゃないというあなたの推理はそれなりに説得力があるわ。でも現実に彼女の溺死体が引き上げられているのよ。そこはどう説明する?」
ナオミが尋ねた。恵美がどう答えるか、面白がっているように見える。
恵美は顔をしかめた。
「うーん、風呂で溺れさせたとか」
「刑事はシャワーが使用された形跡があると言ってたじゃない。風呂のことは何も言わなかったわ」
「そうか。第一、あの大柄な女では二、三人がかりでないと無理ね」
「外傷はなかったんだろう。彼女が無抵抗で殺されるとは信じられないよ」
と浩二。
「水か何か飲み物に薬をしこんで、体の自由を奪ってから、というのは?」
「キャサリンが何を飲むのか、どうして前もって分かるの? それに飲みさしのコップでもあれば、警察は絶対調べるわ」
竜介がしたりげに言う。
「何よりもあのゲスト・ハウスはステージ上のセットと同じよ。監視カメラという観客がいたんだから。犯人はどうしてゲスト・ハウスへ忍び込めたの。ライブラリーはガラス戸だから丸見えだし、日本間の入り口も、ちゃんと写っている」
「・・・・・」
「それに映像には転落する女性しか録画されてない。その人がジャネットだったら、浮き上がってきた溺死体がキャサリンだったのは何故?」
ナオミはたたみ掛けるように聞いてくる。
「こういうのはどう?パトロールが引き上げたのはジャネットで、建物の向こう側はカメラの死角だから、そこでキャサリンの死体と替わったとか」
「パトロールも共犯説?それよりキャサリンの身体をどうして建物の外へ持ち出せるの。ギャラリーはガラス戸だし、日本間側の引き戸も写っているのよ」
「そうか」
「それに動機は?エドは結構ご機嫌だったようにみえたがね」
浩二も首をかしげる。
「ひょっとしたら足袋じゃなかったかもね」
と竜介は涼しい顔で言った。
何を今さら、と恵美は肘鉄を見舞う。
「ア、痛ッ!」
恵美は両手を上げた。
「分かった。ギブ・アップ。ナオミ、助けて」
庭の手入れをしている作務衣のふたりが、立ち上がって、礼をした。何となく見張られているような気もする。

広間からエドとタツオ青年が、池の西側でぶらぶらしている四人を見詰めていた。
エドは座って飲み物を手にしているが、タツオは側らで立ったままだ。
ジャネットが急ぎ足で入って来ると、青年は目礼して出て行った。
「デニスは帰ったわ」
エドの傍へ来て、代わりに立つ。
「抜け穴はどうだった?」
「映画の『大脱走』みたいだと喜んでいた」
「変わったヤツだ。明日になれば、表から悠々と帰れるのに」
ジャネットはエドの視線を追った。
「何を話してるのかしら」
エドは表情を変えないまま、さらりと言った。
「タツオの話では、エミがお前の足に、気づいたようだ」
「ビッチ!」
ジャネットは口をゆがめて、吐き捨てた。
「彼女は本当に頭がいいな。コウジとリュウスケはなんとでもなるが、女ふたりは手におえん」
「エド、私がー」
「止めろ! 勝手なことは許さん!」
エドが鋭く遮った。
ジャネットは黙り込んだ。
「お前の口座に百万ドル振り込んだ。ここが片付けば、何処なりと行けばいい」
「エド」
ジャネットはしゃがみ込み、エドの腕に手をかける。
「お金なんか要らない。そんなためにしたんじゃない。お願い。愛してくれとは頼まないわ。どうか追い出さないで」
エドはさり気なくジャネットの手を払った。
「・・・・・・日本人は世界のどの民族よりも、竜を生き生きと巧みに墨で描く。ガリョウテンセイ(画竜点睛)という言葉がある。竜を描くときは、眼を最後に残しておくんだ。画家が最も緊張するのは、眼に瞳を入れる瞬間だ。小さな点に過ぎないが、それで竜に生命が宿る。ガリョウテンセイを欠くーそれがまさにお前のしたことなんだよ。もう取り返しがつかないのさ」
エドは立ち上がって、出て行った。

ナオミは口元に笑みを浮かべた。
「とっつき安いところから、解きほぐしていきましょう。先ず、ジャネットは何者か」
「秘書だとエドは言ってるけど」
「らしくないわ。夜の秘書なら別だけど。彼女の体形はアスリートよ。昨夜、ニンジャ・パフォーマンスの若者たちのことを聞いた時、エドがー私の七人のサムライーと呼んだのを憶えてる?」
「でも忍者は六人だった」
と竜介。
「そう。最初はクロサワの名作にひっかけて言っただけかなと思っていた。だが違っていたようね」
「七人目の侍はジャネットかもしれないな。彼女の体格ならキャサリンは充分取り扱える」
浩二が納得する。
「ジャネットを初めて見たのは、私がエドと刑事たちの通訳を広間でしていた時、夜の十二時前後だったわ」
恵美が言った。
「それまで、私たちの誰も彼女を見てはいない。トウキョウから帰ったばかりだとエドが言ったから、何も疑問に思わなかったけど、でも、もしそれがウソだったとすれば・・・」
ナオミの言葉で、恵美は勢いづいた。
「ということは、例えば彼女が一日早く密かに戻っているか、あるいは東京なぞ行っていないとしたら、前もって、いくらでも忍び込むチャンスはあった、そうよね」
ナオミは頷いた。
「前日ならゲスト・ハウスは真っ暗だったはずよ」
「ちょっと待って」
竜介が口をはさんだ。
「前夜から忍び込んでいたのなら、何処に隠れていたの。昼間、私たちも立ち寄ったし、キャサリンは何時間も過ごしているのよ」
みんなは池越しに書院造りのゲスト・ハウスを見詰めた。答えはすぐ分かった。
「屋根裏ね」
恵美が言った。
「メンテナンスのために屋根裏に上がれる穴は必ずある。日本間なら、押入れの天井にあるのが普通だ。忍者なら一日や二日、待機するのは何でもない」
浩二が続けた。
「これでジャネットの忍び込みはクリアしたわね。次はどうしてキャサリンの溺死体は池に移動したのか」
美しい建物を見ながら、みんなは黙り込んだ。
「メンテの穴が天井にあるなら、床にあってもおかしくはないわね。多分浴室のあたり」
恵美がつぶやく。
「同じことをみんなが考えていると思う」
ナオミが言った。
「だけど水面まで三メートルはあるわ。夜だし、床下は暗いとしても、白い身体が落下して、水しぶきが上がれば、ぼんやりとでも映像には残るわよ」
「カーテンじゃないかしら」
恵美がポツリと言った。
「カーテン?」
「あの浮御堂のような建物を支えているコンクリートの支柱は三本ずつ横七列、二十一本もある。支柱と支柱の間はそんなに広くない」
浩二は目で数を確かめている。
「床の穴は当然、柱列の間、おそらくこちらからは奥側にあると思うわ。ほとんど光りは届かないし、穴のふちから黒いカーテンを下ろし、その陰でキャサリンの身体を垂直に落とせば、水しぶきは写らない」
「意識のない体は相当重いわよ。いくらジャネットでも、ひとりで出来る?」
竜介は首をかしげる。
「あの腕を見た? 彼女、相当鍛えているわよ。というか、もともと格闘技のアスリートじゃないかしら」
恵美が断言した。
「OK」
とナオミは続ける。
「ジャネットの忍び込みとキャサリンの身体の移動は一応説明出来る。後は最大の謎、彼女はどうしてゲスト・ハウス内で溺死したか、ね」
「どう考えても、バス・ルームしかないでしょう。シンプルに水が使えるのはそこだけよ」
恵美が言って、全員が頷いた。
「シャワーは使用した形跡があるわけね。でも池の水とは水質が違うわ。解剖しなくても、鼻から出る水泡で分かると思う・・・・・誰か浴室を見た?」
ナオミが尋ね、みんなが首を振った。
「エドは日本の風呂だと言ってたわね。間違いなく、ヒノキの浴槽よ。エミ、そんな場合、シャワーはどう取り付ける?」
恵美が考え込むと、浩二が口を開いた。
「エドの美意識からすると、シャワー・ヘッドが壁からつきだしているのは耐えられないと思う。ひょっとしたら、キャサリン用にシャワー・ブースがあるかも」
恵美が同感というように大きく頷く。
「私も賛成。そんなに大きくないはずね」
竜介が吹き出した。
「シャワー・ブースで、どう人ひとり溺れさせれるの。スカスカで水は流れてしまうわよ」
「だから、それをこれから考えるんじゃない」
恵美が言い返すと、竜介はフンとそっぽを向いたが、ニヤニヤしながら振り返った。
「閃いたわ、方法が。絶対コレよ」
「え、ホントかい」
浩二が勢い込んで尋ねたが、恵美は見るからに信用していない目つきだ。
「大きな防水のバッグを用意するの。ホラ、よくテレビで見るけど、アメリカ軍が戦死者を収納するのに使っているようなヤツ。キャサリンを閉じ込めてから、ポンプで池の水を汲み上げ、小さく開いた穴から注ぎ込めばいいじゃない」
「はあぁ?」
恵美が素っ頓狂な声を上げたが、ナオミと浩二は意外に真剣な顔で考えていた。
「リュウスケ、それはかなりいい線よ」
ナオミが言って、浩二も頷いた。
恵美が強く首を振った。
「堀さん、いくらジャネットの腕っ節が強くても、キャサリンも必死で抵抗するわよ。叫び声も上げるだろうし、深夜だから誰か聞きつけるわ」
「頭からかぶせれば、自分から入っていくわよ」
「猫じゃあるまいし」
思わずみんなで笑い出してしまった。
「楽しそうですね」
声がした。タツオ青年が茶室の前に立っている。
何時の間にか茶室に近づいていたのだ。
「お茶をいかがですか」
タツオ青年は屈託のない表情だ。
「嬉しい。いただこうかな」
竜介が真っ先に茶室に入っていく。顔を見合わせたが、残りの三人も続いた。

今日の茶掛けは「無」だった。
漢字が読めないナオミに恵美が通訳する。
「そのまま訳せば、noーthing, 何もないということかな。禅語よ」
「どういうことなの」
「私に訊かないでよ」
「うまく説明出来るか分かりませんが」
と浩二が話し出した。
「昔、名僧が弟子に、犬にもBuddha nature(仏性)があるものですかと訊かれました。それに対する答えがMU(無)です。つまり仏性はイエス、ノーで答えられるものではない、と言うことかな」
「ウーン、うまく逃げたなって私は思うけど」
「その茶掛けはエドが選びました」
茶を点てながらタツオ青年が言う。
「すると今朝のエドの心境はMUに相応しいのね」
ナオミは愉快そうだ。
「どうでしょうか」
青年はすましている。
茶を点て終り、「どうぞ」と軽く頭を下げた。
良質の抹茶の香りと丸みのある苦さを味わう。おいしい。
「結構なお点前です」
浩二の礼は心からである。
「恐れ入ります」
釜の沸くかすかな音がしみいるほどの静けさだ。
飲み終わった茶碗を観ながら、ナオミが言った。
「ジャネットは秘書じゃないわね」
顔を上げてタツオ青年を見る。
「本当の秘書はあなたでしょう」
タツオ青年は黙ったまま、茶掛けに目をやっている。
「答えはMUか」
とナオミは微笑んだ。

タツオ青年に送られて茶室を出た。
「どうしよう」
浩二が数奇屋棟の方をうかがった。
「まだ動きがないから、ボブもアイリスも来ていないな」
「もう一度ゲスト・ハウスを見ておきましょうか」
ナオミが意味ありげに言う。
「どんなシャワーやろか」
恵美がささやいて、みんなは池を逆周りにゲスト・ハウスへ向かい出した。
「今日はあまり人の気配がないな」
浩二が辺りを見回しながらつぶやいた。
「タツオは若いけれど、しっかりしている。ここを任されてるのは彼だと思う」
ナオミは確信した口ぶりだ。
「でしょう。ひと目見たときから、どこか違うと思っていたの」
竜介は得意そうだ。
「ひとは持ってないものに憧れるのね」
恵美がすまして言う。
「何よ、ちょっとそれ、嫌味?」
「ああ、もう、ふたりともいい加減にしないか」
浩二があきれている。
「みんな、本当に仲がいいのね」
ナオミはニコニコ顔だ。
「ええ、そうですかあ?」
恵美がとぼけた返事をし、竜介がぷいと横を向いた。
「じゃあ、タツオが現れたので、中断した私たちの推理を続けましょうか」
とナオミが言った。
「ナオミ、それだけど・・・」
浩二がおずおずと切り出した。
「こんなこと続けていて、いいのかな。何だかエドを事件の黒幕のように決め付けてしまっているけれど、これ、凄く彼の名誉にかかわることだと思うんだ。世間の評判はともかく、正直言って、彼は私たちとタニヤマの店には大変好意的だったし、間違いなく紳士だった。それを裏切っているようで、気持ちが重いんだよ」
「コウジ」
とナオミは立ち止まり、いとおしげに彼の腕に手をかけた。恵美の胸がうずいた。
「あなたの言うことは良く分かる。当然だわ。ひとの命にかかわることだもの。私たち、少し軽々しく喋りすぎたかもしれない」
ナオミは真剣な眼差しで浩二を見詰めた。
「CIAのスパイかって尋ねたことがあったわね」
竜介が驚いたように、ふたりの顔を見比べる。
「イエスとも言えるし、ノーとも言える。私はCIAの情報本部長を良く知っているの。何か国家の安全に関わるようなことを見聞きしたら、個人的に伝えます。勿論、何の義務もないし、報酬も貰っていない。言ってみれば、善意のボランティアかな」
「だからペイトリオットって言ったんだ・・・」
嬉しそうに喋り出した浩二は、恵美の視線に気づいて、続く言葉を呑み込んだ。
ナオミはニコッとした。
「ここだけの話、たまにフランクが、本部長のことだけど、ささやかな情報を何気なく、独り言のようにつぶやいてくれるの。おかげで投資の判断に助かることがあるけどね」
ナオミは石垣の方をチラット見た。
「実は組み立てられたサトリが、御堂に収まる前に衛星写真に写ってしまったの。フランクにはまた頭痛の種がひとつ増えてしまったわけ。まさか禅的なシンボルとは、ヤンキーの強面爺さんには分かるはずもないし」
「・・・それでナオミにお声がかかったと」
恵美が言った。
「そう。もっとも私も、この庭園は見たかったのも事実。デニスが招待されたのが分かったので、彼に頼んで一緒に呼んで貰おうとしたら、最初はあっさり断られちゃった。この私がよ!」
ナオミは恵美の両腕を掴んで、ワザと強く揺すぶった。
恵美がきゃっと笑い声を上げ、浩二は、ほっとしたように笑顔になった。
「エドの気が変わったとデニスから再び連絡が来て、ここにこうしているわけだけど、理由はキャサリンを見てピンときたわ。私、彼女を呼ぶエサだったのよ」
「まさか」
「間違いない。最初キャサリンは私と喋ることになによりも熱心だったじゃない。エドに招待されているのに、失礼な話よね。適当に返事をしていたら、関心なくしたみたいだったけど」
ナオミがゆっくりとゲスト・ハウスの方へ歩き出したので、三人も続いた。
「だけど・・・」
竜介がナオミに話しかけた。恵美や浩二にくらべると、たどたどしい英語だが、珍しく真剣だ。
「何だか私たちで勝手に色々推理しているけど、もとはといえば監視カメラの映像が残っていたからじゃない。エドはどうしてカメラ自体を止めなかったのかしら。理由は何とでもつけられる。パーティーがあってゲストが来るからとかさ。オーナーが言うんだから、誰も不審におもわないわ。だったらキャサリンを襲うのにも、小細工はいらないでしょう。映像がないんだから」
ところどころで竜介が英語に詰まると、恵美が助け舟を出した。
「そうやな」
浩二が相槌を打った。
「その通りだ。ずっと簡単だし、リスクも少ない。ジャネットも大っぴらに忍び込めるし」
ナオミが口を開こうとすると、
「見て!」
竜介がゲスト・ハウスを見て叫んだ。
「おまわりさんは引き上げたわよ。今は誰もいない」
「チャンスね・・・今のリュウスケの疑問、私なりの答えはあるけど、とにかく浴室を見てみましょう」
ナオミが足を速める。
恵美はぶるっと身を震わせた。
「何だか怖い」
浩二と竜介も顔が青い。
ゲスト・ハウスが近づいてくる。
「あっ、ジャネット」
恵美が悲鳴のような声を出した。
見ると右手の石垣の方から、硬い顔をしたジャネットが歩いて来る。彼女も同時に気づいて一瞬、ギョッとなったようだが、すぐ笑顔に変わった。
「散歩ですか」
「茶室でタツオからお茶をご馳走になっていたの」
ナオミは落ち着いているが、京都人たちは棒のように固まっている。
「彼は、もうほとんどセンセイ・クラスです」
「ほんと。素晴らしいわ」
ジャネットは三人を見回した。
「何か不自由なことはありませんか」
「あ、あ、全然、OKです」
返事をした浩二は、恵美が見てもガチガチになっている。
「そうですか」
そこで話が途切れてしまった。何となく一緒にゲスト・ハウスへ向かって歩き出す。
ジャネットが一緒では、シャワー・ルームを見るのは無理だろう。
「あのう」
恵美が声をかけた。
「FBIのアイリスはまだ戻ってませんか?」
ジャネットは首を振った。
「いえ、まだです。IDの人たちもですよ。エドも気にしてるんですが」
ゲスト・ハウスへ着いた。やはり警官の姿は見えなかった。
供えられた花束が増えている。
「キャサリンのために御花を有難うございました。先ほど、届いたようです」
京都の三人は頷いた。
「警官は引き上げたの、ジャネット」
ナオミが尋ねる。
「え、昼過ぎにやっと」
「ちょっと中を見ていい?」
「はい?」
ジャネットも驚いたようだが、京都組はもっと驚いている。
「いいでしょう」
「はあ、でも中はまだそのままにと言われてますので」
「何も触らないわよ。ただ見るだけ。あなたは知らぬ顔をしてればいいの」
喋りながらナオミはずかずかとライブラリーへ入っていく。
ジャネットは唇を噛み締めたが、あきらめたように後を追った。浩二、恵美、竜介も続く。
ナオミは真っ直ぐ日本間に向かう。境の襖は開いていた。まだ敷いたままの寝具が見える。
靴を脱ぎ捨てると、ナオミはつかつかと入っていく。
ジャネットも慌てて靴を脱いだ。
池に面した二面は聚楽壁だが、東側には押入れと中央には床の間、その横、少し奥まって襖一枚の出入り口がある。
ナオミはさっと襖を開くと、立ちすくんだ。
壁面と床は真新しいヒノキ板だ。右奥には縁に出られる引き戸がある。左奥にはやはりヒノキの浴槽、その右にはトイレと化粧台、そして左の壁面に、密封型の白いシャワー・ブースが設置してあった。
前面は半円で、両開きの透明のドアが中央でピタリと閉じていた。
宇宙船に備え付けたら似合いそうな、美しく洗練されたデザインだ。SF映画に出てくる異空間へワープして転送してくれる装置のように見える。
「オヤ、オヤ」
ナオミが近づいた。
「和風の風呂場にちょっと唐突ね。エドらしくない。ひょっとしてスペシャル・ゲストのキャサリン用だったりして」
ジャネットの表情は変わらない。
「わが社の新製品です。素晴らしいシャワー・ブースですよ」
腹をくくったのか、彼女は淡々と説明し始めた。
ブースの白い側面にある小さなメタリック・シルバーのスイッチを押すと、ドアが中央から分かれて、なめらかな動きで両サイドの側壁内に収まった。
「この両開きの透明なドアは、しっかりしたボリカーボネートです。ブースにある内部のスイッチでも開閉出来ます」
「たかがシャワーを浴びるのに、何故密閉するの」
ジャネットはニッコリした。
「ブースの中をご覧下さい。左右と中央に、ぐるりと取り巻くように数多くの穴が開いていますね。全てシャワーのノズルが内装されているんです」
ナオミはのぞき込んだ。
「ほんとうだ」
「勿論ノズルは頭上にもあります。右手にあるスイッチ・ボードで操作すれば、従来どおりの頭からに加えて、身体の左右、後ろからと、四つの方向から水平にシャワーを浴びることが出来ます。水圧の強弱、多彩なムーヴメントも可能ですから、本当に陶然となりますよ。ただドアはしっかり閉じておかないと、あたり一面水びたしになりますからね。上部の換気扇が自動で湯気を逃がしますから、息苦しくなることはありません。おひとつ、如何ですか」
ジャネットは口角を異様に吊り上げて笑みを浮かべるが、目は笑っていない。
「天国に連れて行ってくれそうなシャワーね。考えておくわ」
「よろしく」
引き上げかけたナオミが振り返った。
「下からはシャワーは出ないの」
ジャネットは平然と見返した。
「それは、ちょっと無理だと思います。排水口がありますからね」

第八章

エドの居間棟の前でジャネットと別れ、四人は広間に戻った。
デニスの姿は見えない。
「いきなり言い出すんだもん。びっくりした」
恵美が胸を押さえている。
「不審に思ったんじゃないかな」
浩二は心配顔だ。
みんなはゲスト・ハウスを見詰めた。
「あのシャワー・ブースを見るまでは、正直言ってまさかと思っていたけど、どうやらエドは本当にとんでもないことをしでかしたみたいね」
ナオミは厳しい表情だ。
「私、物凄く鼻がいいの。シャワー・ブースの排水口から、かすかに水道水でない生水の匂いがした。リュウスケが言った通りだった。エドは防水バッグの代わりに、特製のシャワー・ブースをキャサリンのために用意したのよ。ポンプで池の水を汲み上げて、排水口からブースに満たしたんだわ。ドアは、おそらく内部からは開けないように出来るはず。あのハイテク・シャワー・ブースは、見事なデザインの人間処刑室なのよ。何とオソロシイことを考えるのかしら」
四人はやりきれない気持ちで、しばらく黙っていた。
重い空気に耐えかねたように、浩二が口をきいた。
「やはり実行犯はジャネットになるかなあ。あんな美人なのに」
「顔は関係ないでしょう。逆に、彼女の浴室での行動を想像すると、ぞっとするわ」
恵美が不機嫌そうに言った。
竜介がナオミを見た。
「キャサリンがシャワーを浴びなかったら、どうしたかしら。日本の風呂が珍しいからとためすかもしれないし」
「たとえ風呂に入っても、女性なら、あのシャワーは必ず使うわ。気配でジャネットは素早く屋根裏から降り立った。足袋をしていたのだから、作務衣だったのでしょう。密かにブースに近づいて操作する。シャワーが止まって戸惑うキャサリンを尻目に、ポンプを操作する。水が上がってくるスピードは結構速いと思う」
「キャサリンは何が起こったか、分からなかっただろうな」
「最初はシャワー・ブースの機能の一つと思ったかもしれない。だが水の勢いは強いし、生臭い匂いもする。慌ててドアの開閉スイッチを押すが、開かない。やみくもに全てのスイッチを押しまくったり、ドアを叩いて叫んだりしているうちに、水はドンドン増えてくる。突然、エドが自分を招待した理由に気がつく。その瞬間、彼女をおそった恐怖、絶望、憎悪の感情は凄まじかったでしょうね」
恵美は、自分の身体を固く抱きしめた。
「キャサリンが果てると、ジャネットは大急ぎで床穴から、恵美の言ったようにカーテンか何か遮蔽物を垂らし、カメラの目を遮った。ブースからキャサリンを運び出すとその足を持って、垂直に池に落としたの。水しぶきがたたないようにね」
ナオミの説明が細かく、あまりにも真にせまっているので、恵美は一瞬、この人、現場を見ていたのかしらと思ってしまった。
浩二や竜介も聞き入っているが、どうやら同じことを考えているらしい。
ナオミも察したらしく、
「オー、ノー。まさか私は見ていたわけじゃないですよ。あくまで想像です」
と強調した。
「あ、いや、そんなことは、これっぽっちも思わなかったよ」
と浩二が慌てて弁解したのは、かえって白状したようなものたが、ナオミは苦笑しただけだった。
「あとはカーテンを引き上げて床穴を閉じ、脱いだ作務衣と一緒に屋根裏に隠し、ガウンを着て、バスタオルで頭と顔を拭いながら縁に出て行ったのね。慌てていたので、足袋を脱ぎ忘れるミスをしてしまった。溺れるふりをしてから、水中をキャサリンの死体へ戻り、押すか引っ張るかして、自分が落ちた辺りまで移動させたのでしょう。浮き上がってきたのは、想定外だったと思うわ。ジャネット自身はカメラの死角から陸へ上がり、おそらくエドの居住棟へ裸のまま、密かに戻ったのじゃない。水から上がった途端、足袋に気がついたと思うけど、きっとエドには黙っていたのね」
「凄いわ、ナオミ。絶対その通りだと思う。間違いないわ」
恵美が嬉しそうに言った。
「私も賛成だな」
浩二も言って、竜介は頷いた。
「ね、ナオミ、エドがどうしてこんなことをしたのか、思い当たる動機って何?」
恵美が尋ねたが、ナオミはしばらく黙っていた。
「インテリジェンス・データベースの創始者、サムとは永遠のライバルだった。同じIT産業で天下を争ったふたりは、殴り合いの寸前までいったことが、何度もあるのよ。共通していたのは、独裁者という点だけで、性格も美意識もまったく違う。それでもお互いに相手をリスペクトしていたのは間違いない。おかしな言い方だけど、サムの引退が最もこたえたのは、エドだったと思う。彼の生きがいは、世界一の長者のタイトルをサムから奪い取ることだった。お金は問題ではない。それが消えてしまった」
ナオミはかすかにため息をついた。
「エドは前立腺に腫瘍があったのは知ってるよね。完治したと公表しているが、私はあやしいと思う。残された人生の時間が少ないと計っているふしがあるのよ。エドにとってキャサリンは、結果的にサムを引退に追い込んだ張本人。このまま彼女が大きな顔をして、IT産業界に君臨していくのを見ながら、人生を終えるのは耐えがたかったんじゃないかしら」
眼前の芝生に人の動きがある。
「サムもエドも、ITの広野を開拓した怪物だった。でもこれからこの世界で勝ち進んでいけるのは、キャサリンのような冷徹な経営者よ。それはみんなが分かっている。サムは納得して引き下がったが、エドの美意識はそれを許すことが出来なかった」
ナオミは竜介を見た。
「あの映像という目撃者があったから、警察はキャサリンの過失だと思い込んでしまった。そうでなかったら、もっと徹底的に調べたはずだわ。エドも私もアメリカ人だから、IDの連中が考えそうなことは手に取るように分かるの。悲しんでいる人間なんていやしない。とにかく一刻も早くキャサリンの遺体を持ち帰って、後始末に掛かりたいの。彼女があやまって池に落ちた映像があるなんて、夢のようだと内心大喜びしているのは間違いないわ。彼らにとって最悪なのは、事件性が疑われて、キャサリンを動かせなくなること」
ナオミは沈んだ表情だったが、眼は持って行き場のない怒りに燃えていた。
京都の三人も憮然としている。軽い気持ちで始めた推理ごっこが、人間の底知れない心の暗闇にたどり着いてしまったからだ。
浩二がため息をついた。
「だからあの映像は必要だったというわけか。脚本、監督、エド・ゴールドバーグ、主演はキャサリンを演じるジャネット・リー。名監督のデニスなら、さぞかし見るに耐えん映像でー」
四人はハッと顔を見合わせた。
「そうよ。やはりそうだったんだわ。デニスはとっくに見抜いていたのよ」
恵美が呻くように言った。
「勿論、そうだ。デニスのような人間描写の巧みな監督が、ニセモノのキャサリンに気がつかないはずがない。すぐ彼に逢わなくちゃ。いったい何処にいるんだ」
動き出そうとする浩二の腕を、ナオミがぐいと止めた。目で芝生を指している。
エドとジャネットが左手から出てきて芝生の上で立ち止まった。右手を見ている。誰かを待ち受けているようだ。
すぐ男女が急ぎ足で現れた。
「ボブだわ」
竜介が弾んだ声を上げる。
FBIニューヨーク支局のボブ・マコーミックとアイリスだ。ふたりとも広間から見ている恵美らに気がついて、手を振った。
手を振り返しながら、ナオミが続けた。
「エドが本当にキャサリンを謀殺したのなら、絶対許せないことだわ。ただ、・・・・・」
恵美がナオミを見る。
「ただ・・・?」
「エドはそれなりに、折り合いをつけようと努力していたようには、見えたけど。ゲスト・ハウスへ送っていったのも、明らかに何か話す機会を作ろうとしていたようだし。内容は分からないけどね」
重苦しい沈黙の中で、みんなはエドとマコーミックが話し合っているのを見詰めていた。
やがてエドとジャネットは居間棟の方へ取って返し、アイリスはそちらへ行くからと手まねで合図してエントランスへ向かった。
すぐにふたりは飛び込んできた。
少し見ぬ間にマコーミックは一段と逞しくなっている。みんなは再会を喜びあい、ナオミを彼に紹介した。
「ね、聞いて。私たち、キャサリンが殺されたのではないかと疑っているのよ」
恵美が意気込んで言う。
「殺された?」
アイリスとマコーミックが目を丸くする。
「エミ、決め付けるのはまだ早い。何の証拠もないのよ」
ナオミが慌てて制し、あたりを見回した。
「アイリスが出てから、色々話し合ってね、ひとつの可能性にたどりついたの。でもそれは、後でゆっくり話します。それよりIDのメンバーはどうしたの?」とマコーミックに尋ねる。
「アイリスがエミから聞いた映像の話ですが、実は警察内部でも違和感があると指摘が出ていたのです。ただIDの連中は一刻も早く、遺体を持ち帰りたがっていました。所見で鼻口の泡沫から植物性プランクトンも検出されているし、外傷や特殊な死斑もなく、自然水の中で溺れたのは明らかでしたからね。警察庁もそれで幕引きをしてしまいたいのです。ところがアメリカと東京からの頭ごなしの態度に府警が面白くなく思っていたところへ、アイリスが何気なく話題にしたタビの話が火をつけてしまいました。当初は決定的にアクシデントを証明すると思われた映像が、逆に犯罪性を立証する可能性も出てきたわけです。とにかくミーテイングは大荒れになりましてね、結局最終的な判断が自分に任されたのです」
「それで?」
「明日、もう一度、府警本部と合同で現場検証を行います。現在、科捜班が録画コピーを徹底的に分析していて、結果次第ではオリジナルを押さえることになるかもしれません。そのあと、FBI本部と協議して、決断します」
急展開にみんなは顔を見合わせた。
「エドにはそのことは言ったの」
ナオミが尋ねる。
「勿論です」
「どうだった、反応は?」
「徹底的に調べてほしいと非常に協力的でしたよ。JUNのCEOだから、どんな気難しい人物かと思っていたら、とても気さくな男で驚きました。アイリスがガール・フレンドだと言ったら、えらく嬉しがって、ちょうど部屋がひとつ空いたので、泊まればよいと招待してくれました。明日朝早いので助かります」
「部屋が空いた?」
浩二がビックリした。
「誰の部屋やろ」
「デニス?」
恵美が眉をひそめる。
「彼、帰ったの」
竜介もいぶかしそうだ。
「誰が帰ったのか、エド言ってた?」
ナオミが尋ねた。
「いえ、それは聞いてないです」
事情が分からないマコーミックは戸惑っている。
「ね、どういうことなの」
アイリスが恵美に尋ねる。
恵美が部屋を見回した。
「部屋の中はどうも話にくいのよねえ。ちょっと表へ出ない?」
遅すぎたようだ。聞き慣れた声がした。
「やあ、旧交を暖めているのか」
いやにハイ・テンションのエドが入ってきた。ジャネットはいない。
「君たちは協力して密輸事件を防いだヒーローらしいな」
ニコニコしながらみんなを見回すが、ナオミには視線を合わさない。
「彼との付き合いが始まるきっかけになりました」
アイリスがマコーミックを見やる。
「僕と恵美が婚約したのもそうですよ」
浩二が言った。
「なんだ、それじゃ悪人たちに感謝しなくちゃならないな」
竜介がひとり面白くなさそうにしている。
「ボブから聞いたと思うが、FBIのカップルも泊まることになった。明日の朝からキョウト警察ともう一度現場を検証するらしい」
「デニスはどうしたのです?」
ナオミが尋ねた。
エドは氷のような目で初めて彼女を正面から見た。
「帰ったよ。映画が気になるんだろう」
「変ね。何故私に黙って発ったのかしら」
「急いでいたからな」
「玄関から出たの? まだ結構マスコミが張ってるんじゃない」
「我々もここへ入るのが大変でした」
マコーミックが言った。
エドはイライラして答えた。
「言ってなかったが、石垣の背後に秘密の抜け穴がある」
「抜け穴!」
みんなはビックリして、顔を見合わせた。
「そうだ。人ひとりが立って歩くのに不自由はない。元のオーナーが石垣を造成した時につくったようだ。山すそに沿って伸びていて、人目のない空き地に出ることが出来る」
浩二は思い出した。朝食の時、デニスが早く帰りたがっていたので、そっと抜け出せる方法はないのですかと尋ねると、ないことはないみたいだがと返事したのは、この抜け穴のことだったのだ。
だがいくら急いでるとはいえ、ナオミには一言ありそうなものだが。
「ただし、陰気で、あまり気持ちのいい抜け穴ではない。一度通ったことがあるが、二度とゴメンだ。空き地の出口には頑丈な鉄の扉がついていて、鍵がかかっているから、外からは開かない。勧めはしなかったが、デニスが帰りたがったので、ジャネットに案内させた」
いぶかしそうに浩二が尋ねた。
「最初にご案内していただいた時には全く気がつきませんでした。その抜け穴の入り口って、石垣のどの辺りにあるんですか?」
「一段目の石垣にある階段のすぐ横だ。私が最初、下見に訪れた時には仮の板戸がはまっていた。そのままでは見苦しいので、フェイクの扉を付けさせた。勿論、本物の石で偽装しているので、見た目には分からない」
「ミステリアスで面白そうな話ですね。その元オーナーは何のために作ったのです?」
マコーミックは興味があるらしい。
エドもこれは簡単に済みそうにないなと覚悟したらしい。一息入れて、腕を組んだ。
「君たちは戦争中、キョウトが原爆投下の第一ターゲットだったことを知っているか」
さすがに京都の三人は、自分たちが生まれ、育った都市が原爆投下の候補地のひとつであったことは知っていたが、第一目標だったとは初耳だったようで、ほう、と意外そうにした。
FBIのふたりは知っているらしい。ナオミは目を丸くした。
「ええ、ウソでしょう。冗談よね、エド」
「私が冗談を言っているように見えるかね」
エドは不快そうに吐き捨てた。
「原爆を投下する半年以上も前から、科学者と軍人たちは目的地の選択に掛かっていた。圧倒的多数で最適と判断されたのがキョウトだ。理由は地形だよ。三方を山で囲まれた盆地は、原爆の威力を最大限に引き出せる。ほとんど決定的だった」
「信じられないわ。長い年月の中で育んだ、貴重な文化財で満ちている歴史都市じゃないの。一度失ったら取り返しのつかない人類の財産だったはずよ」
「戦争は国の命運をかけた殺し合いだ。お互いに、何十万、何百万と犠牲者を出している。軍人が考えるのは、どれだけ効率良く、敵を殺せるかだ。国中が頭に血が上がってるのに、相手の寺や神社、美術品のことを気にかけるかね。我々アメリカ人はそんなに慈悲深い民族だったか。もっとも日本が先に原爆を手に入れていたら、遠慮なく我々の頭上に落としただろうがね」
ナオミは唇を噛み締めて、黙り込んだ。
「すまないな。君たちには不愉快な話になったな」
エドは申し訳なさそうに浩二や恵美を見た。
「戦争は人間を狂気にしますよ。でも我々が今ここにこうしておられるのは、結局京都が投下目標からはずされたからですね。誰が科学者と軍を押さえたのですか?」
浩二が尋ねた。
「当時の陸軍長官だ。確かスチムソンという男だ」
「少なくとも、ひとりは文明人が、わがアメリカ軍にもいたわけね」
ナオミが皮肉っぽく言ったが、エドは無視した。
「この男はもう戦後を見ていたんだ。アメリカを中心とする自由主義諸国とソ連をリーダーにする共産主義諸国との対決が始まるとね。彼はキョウトが日本人にとって心情的に特別な存在だと分かっていた。原爆で吹っ飛ばしてしまうと、大きな反米感情が残り、この国をソ連サイドに押してしまうのではと危惧したのさ」
浩二はうなづいたが、
「で、それが抜け穴と関係あるのですか?」
「皮肉なことに最初に原爆の第一目標とされたことで、キョウトは普通の爆撃目標からはのぞかれた。焼け野原になってから落としても、原爆の効果は分からないからね。だから他の大都市が焼夷弾爆撃をこうむる中で、キョウトだけは無傷だった。市民には勿論その理由は分からなかった。やはり神社仏閣や文化財が多い歴史都市だからだろうと考えたんだ。最初は半信半疑でも、最後には確信になった。私が聞いた話では、アメリカの爆撃機が上空を飛んでいくのを、のんびり眺めていた人間も多かったらしい。知らぬが仏だね」
「その話は、私も祖父から聞いた憶えがあります」
と浩二が言った。
恵美には話しが読めてきた。多分、その抜け穴とやらは原爆に関係があるのだ。
「戦後アメリカはそのオイシイ話に乗った。キョウトが空襲を受けなかったのは、アメリカの文化人が、この街の重要性を訴え、軍も理解をしめしたからだー日本人がそう思うのなら、思わしておこう。バカバカしい。戦争中に軍人が敵国の異文化の保存に関心を持つなんて聞いたこともない」
エドは話を切って、庭園を見た。
「だが一部の人間は真相を知った。原爆が自分たちの頭上へ落とされる寸前だったことをね。この信じられない見事な庭園を造った男もそのひとりだったのさ。彼は不安に襲われた。何もキョウトは例外じゃないんだ。いやむしろ次は真っ先に狙われるかもしれない。当時、米ソが核戦争をおっぱじめるんじゃないかという危機感は、今では想像も出来ないほど深刻だったんだ。もし次の世界戦争が起これば、原爆をつんだミサイルが世界中を飛び回るだろうとみんな恐れていた。庶民はどうすること出来なかったが、桁外れの金持ちはプライベートな避難所やシェルターを真剣に考えていたんだ・・・・例えばニューヨークに住んでいたジュリエットという女性だ」
エドをのぞく全員がピクリとした。
「ジュリエット・クレーンですか?」
マコーミックが訊いた。
「知っているのかね」
エドが意外そうに見た。
「ええ。先ほど、ちょっとお話した、屏風を使った密輸事件ですが、被害者が彼女でした」
「ああ、そうだったのか。それじゃみんな彼女が大富豪の遺産を受け継いだ娘なのは知っているな。アメリカとソ連が角突き合わせている時代に彼女はコネチカットの山中に大邸宅を購入している
が、それが万一、核戦争が起こったときの避難所用だったというから恐れ入るね。結局彼女は一度もそこを訪れなかったが、半世紀近くの間、ちゃんと維持されていたらしい。何時彼女が避難しに来てもいいようにね」
恵美はちらっとナオミを見たが、氷のように無表情なままだった。
「ははあ、すると抜け穴はこの庭園を造った男の核シェルターというわけですか」
「そうだよ、ボブ。冷戦時代の落とし子というわけさ」
「何時の世も庶民は所詮置いてけぼりですな。ところで僕もアイリスも、例の映像は府警では見るヒマがなかったんです。便宜を図って貰えませんか」
その前に私たちの話を聞いて、と恵美が眼で訴えたが、ふたりは気づかなかった。
「いいとも」
「出来れば、見ながらあなたご自身で当日の様子を説明していただけると大変助かります」
「勿論だ。最初からその積もりだ。ついて来たまえ」
マコーミックとアイリスは、エドと一緒に消えてしまった。
「私たちの推理をご披露するタイミングを逃がしちゃったわね」
ナオミはゲスト・ハウスを眺めた。
「ね、エド、ハイだったわね」
誰にともなく恵美が言った。
ナオミが振り向いた。
「私もそれが気になるの。明日もう一度現場検証するとボブは伝えたのよね。その前にジャネットが私たちのゲスト・ハウスでの行動を逐一報告しているのは間違いないわ。もしあのおぞましいシャワー・ブースが本当に処刑室なら、排水溝の下水へのパイプに、池から水を汲み上げる別のパイプが接続されているはず。重要な証拠になるわ。なのに何故あんなにご機嫌なの」
「エドはシャワー・ブースをどうする積もりだったのかしら」
「IDや警察の連中が引き上げるやいなや、取っ払って破壊するつもりだったのでしょう。縁起が悪いとか見るのが辛いとか言ってね」
ふと思いついたように恵美がぱっと顔を輝かせた。
「ゲスト・ハウスの屋根裏、まだジャネットが持ち込んだ物や、脱いだ作務衣が置いたままじゃないかしら。キャサリンの身体が浮いてきたのが予想より早かったので、取りに戻るチャンスを逃がした可能性もあるわ」
「そいつは大いに考えられる。ずっと、人目があったからな。でもジャネットの作務衣やカーテンらしきものって、証拠になるかい? 屋根裏に置き忘れたと言えば、それまでだろう」
浩二が首をかしげる。
「作務衣を着たままキャサリンを抱えたはずよ。詳しく調べれば彼女の体毛か何か付着している可能性もあるわ。でも、夜の間に始末されてしまうかも」
「ひょっとしたら、夜に火をかけて燃やしてしまう積もりじゃない」
竜介があっけらかんと言ったので、三人はぎょっとして顔を見合わせた。
恵美はゲスト・ハウスの方をうかがった。
「今誰もいないみたい。ちょっと見てきます」
「駄目だ」
浩二がぴしゃりと言った。
「どうして?」
「何があるか分からない。男の役目だ」
「コウジ、さっき押入れの襖が少し開いていたの。二段になってなかった。ひとりではあの天井の高さは届かないわ」
ナオミが言う。
「じゃ、私も行って、浩二さんに抱え上げてもらえばいいわ」
「恵美、浩ちゃんがここは男の出番だと言ったでしょう。僕がついていって上げる」
竜介が眼をキラキラさせている。
「だって・・・」
「リュウスケはマーシャル・アーテイスト(武道家)よ。いざという時、私たちより頼りになると思わない。ここは任せましょう」
ナオミがきっぱりとケリをつけ、恵美は不承不承頷いた。
「コウジ、セルは持っている?そう、私たちは池のこちらで誰かゲスト・ハウスへ近づかないか見張っている。ジャネットかタツオの姿が目に入ったら二回鳴らすから、少なくとも天井を探るのは中止して、すぐ帰って来て」
「了解」

日が陰りだしたゲスト・ハウスのまわりは静まり返っていた。人影は見えない。
浩二と竜介は目だけはくばりつつ、散歩するふりをしてたどり着いた。
振り返って見る。ナオミと恵美が池の際に立っている。異常はないようだ。
辺りを見回し、さっとゲスト・ハウスへ飛び込んだ。
外から丸見えのガラス戸にたじろぎながら、急いでライブラリーを通り抜け、襖を開けて日本間に入り込む。ここなら人目につかない。
少し迷ったが、脱いだ靴は手に持った。
日本間は格天井である。
ナオミが言ったように押入れの襖は十センチほどの隙間がある。
「ジャネットはよっぽど慌ててたのね」
浩二が襖をそっと開けた。
「おやまあ、ここまで格天井だわ」
覗き込んだ竜介があきれる。
寝具は出したままので、押入れは空っぽだ。ふたりは入って、靴を足元に置いた。天井を見上げる。
「ジャネットはどうして上がったのかな」
「多分忍者の忍び刀を持ってきたのよ。壁に立てかけ、鍔(ツバ)に片足をかけて上がるの。下げ緒の一方の端を刀に結びつけ、もう一方を口に咥えて天井裏に上がってから、下げ緒で刀を引き上げてしまえば、あとには何も残らないわ。忍者が使うテクニックのひとつよ」
「流石に詳しいな。上がり口があるなら壁際やけど」
目で探っていた浩二が視線を止めた。
「あそこがあやしい」
ふたりは顔を見合わせた。竜介は浩二よりスリムで小柄だ。体重差は少なくとも十キロはある。
「上がるのは私ね」
ニヤリとする。
「しょうがないな」
浩二はしゃがんで竜介の太ももをぐっと抱きかかえ、よいしょと持ち上げた。
「ウフン」
竜介が身もだえする。
浩二がよろっとした。
「ちょ、ちょっと、何してるのや。さっさと見てくれよ」
「う~ん、もっとしっかり持って」
鼻声で言う。
「急いでくれ、重いがな」
竜介が格縁で囲んだ天井板を押した。
「うん。動く」
かちっと音がして天井板の一方の端が上がって、開いた。
「暗いわ」
竜介がポケットからセルを取り出す。
「もう少し上げて」
浩二が全力を出して持ち上げ、竜介がセルのライトを点けて天井裏を探った。
「浩ちゃん、もうええ」
やれやれと浩二が竜介を下ろした。
「どうや?」
「何もない」
「そうか」
浩二はがっくりした。
「嘘や」
「え?」
「ある。くちゃくちゃの作務衣とカーテンらしい布、それになんと、忍び刀まで」
「やったな」

「あっ、エド!」
ナオミと恵美が同時に気がついた。
エドとFBIのふたりが、警備室のある数奇屋棟から出て来た。ゲスト・ハウスの方へスタスタと向かっている。
エントランスの方から出てくると思っていたので、ナオミは慌てた。送信しようとして、セルを取り落とす。バウンドして転がっていく。
「エミ、代わりに送って。早く」
恵美が急いで送信を押すが、エドたちはゲスト・ハウスの陰に消えた。

セルが二回鳴り、浩二と竜介は慌てて押入れを出ようとしたが、とたんに玄関の扉が開く音がした。
竜介がぐいと浩二を引っ張り、ふたりは押入れの襖を閉めて、息をこらした。
エドの低い声がする。誰か連れているらしい。FBIの二人だと思うが、タツオかジャネットの可能性もある。
ふたりは押入れの中で壁際に寄り添うようにへばりつき、外の気配をうかがった。
どうしてもっと早く連絡してくれなかったんやと浩二は腹立たしい。
気がつくと竜介がじわり、じわりと身を寄せてくる。
浩二は身をずらした。
竜介はすぐ間を詰めてくる。
離れろよ、と浩二は露骨に体を揺すった。
いきなり竜介はぐいと浩二を抱きしめた。
(アッ!)
もがいて逃れようとするが、すぐ外にいるエドらにさとられては、と思うように動けない。
首筋に竜介の熱い息がかかる。
「やめろよ」
浩二は声を潜めてささやいた。
「シーッ」
竜介は手で浩二の口をふさぎ、耳もとで言った。
そのまま、ペロペロと耳を愛撫する。
(な、何をするんや、コイツは)
委細構わず、竜介の柔らかな手が、浩二の胸元から下へ、ゆっくり、優しく、うごめきながら降りていく。
「ちょ、ちょっと、アカン、アカンて」
押し殺した声で必死に訴えながら、抵抗する。
息を殺してもみあっているうちに、浩二の男性自身が意に反して、盛り上がり始めた。
(こりゃ、まずい)
狼狽した浩二が身体を強く動かしたはずみに襖に触れて、ゴトッと音がした。
あっとふたりが身を硬くする。日本間もシーンとしている。
誰か押入れに近づく気配がした。
竜介がいきなり浩二にキスをした。
がらりと襖が開く。
厳しい顔つきのエドが覗き込んだが、一変して破顔した。
「これはおふたりさん、お邪魔をしてしまったようだな」
浩二は真っ赤になっているが、竜介はすましたものだ。
エドの側らに目を丸くしたマコーミックとアイリスが突っ立っている。
「ま、人にはそれぞれ事情があるからな」
エドが訳知り顔に頷くと、
「こちらが浴室だ」
とFBIのふたりを案内した。
マコーミックは愉快がっているようだが、アイリスは不快そうな表情を隠そうともしない。
浩二は竜介を睨みつけた。
竜介は委細構わず、浩二を引っ張って一緒に浴室に向かう。
「浩ちゃん、あのマットの下は?」
と耳打ちした。
浴室で化粧台の前にだけマットが敷いてある。
キャサリンを池に沈めた落とし口があるとすれば、その当たりが最も可能性が高い。それを確かめなければパズルは完成しない。
今は腹を立てている時ではないと浩二も思い、何気なく近寄って、足先でマットを持ち上げようとした。粘着テープで止めてあるので、なかなか動かない。
やっとこじ開けて、ちらっと足元を見た。落とし口の蓋らしい一部がのぞいている。
目を上げると、エドとばったり目が合った。本当の目的を気づかれたに違いない。
浩二は腹をくくった。
「エド。とてもおかしな話ですが、私たち、気づいたのは恵美が最初ですけど、映像に記録されているゲスト・ハウスの縁から転落する女性はキャサリンではなく、ジャネットじゃないかと疑っているんです」
「アイリスが警察に知らせたタビの話の出どころは、やはりエミか。彼女は本当にクレバーだな」
「そうなんです。で、そんなことが可能か色々考えてみました。思うにジャネットはここの屋根裏でキャサリンを待ちうけ、風呂か何かで彼女を溺れさせ、このマットの下の床の穴から落とし、自分は風呂上りの格好で縁に出て、誤って落ちた様に見せかけたのではないかと探偵気取りでひとつの仮説を立ててみたわけです。何故そんなことをしたのかまでは分かりませんが」
浩二はシャワー・ブースのことは何も言わなかった。あたかもジャネットが勝手に行動し、エドは何も知らないかのように慎重に喋った。
そんなはずがないのはFBIのふたり以外、みんな腹の中で分かっている。
だが今はこの場を切り抜け、しかも見つけたばかりの屋根裏の証拠品の存在をマコーミックとアイリスには知らせておかなくてはならない。
「そこで竜介を誘って、好奇心を満足さすために、押入れの格天井の板を上げてのぞいて見たんです。勝手に探ったりしてすみません」
「そんなことはかまわんさ。で、あったのかね、何か?」
「ええ、作務衣や何かごちゃごちゃあるみたいですが、暗くてよく見えませんでした」
「それだけでは、何の証拠にもならないだろう。誰かが突っ込んだのかも知れないし」
エドは鼻で笑った。
「そうですよね、ま、お遊びみたいなもんです」
浩二は頭を掻く。
マコーミックはどうやら彼が全てを喋っているわけではないとピンときたようだ。
「とにかく不審な遺留品が出てきたようなので、エド、取りあえず明日予定していた現場検証をすぐ掛かることにします。お騒がせして申し訳ないですが、ご了承下さい」
やった!と、 浩二は心の中で手を打った。
「もうすぐ暗くなるがね」
「構いません。これも仕事なので」
マコーミックはセルを取り出して、操作した。
「そうか。それではみんなに用意するように伝えておく」
エドは言い捨てて、ゲスト・ハウスから出て行った。
「浩ちゃん、エド、慌てているよ」
竜介は嬉しそうだ
マコーミックはセルを切ると、
「府警の連中は中央の鼻を明かすチャンスだと思って張り切っているぞ。三十分もすれば鑑識とやってくるよ」
「ちょっとあなたたちの推理をもっと詳しく教えて。コウジは奥歯にものがはさまったような言い方だったじゃない」
アイリスが言った。
「問題はこのシャワー・ブースです」
浩二は急いでみんながたどりついた結論を説明した。屋根裏の探索の様子も詳しく話し、
「そういうわけで、さっきのアレはエドをごまかすためだから。君たちじゃなく、ジャネットかタツオの可能性もあったし」
と弁解した。
「分かったよ。エミには言わないよ」
マコーミックはにやにやして請合ってくれたが、アイリスは釈然としない様子だった。
四人はライブラリーに戻った。
何時の間にか、夕闇が迫り、庭園は薄暗いとばりが下りてきている。
数奇屋棟には明かりが灯っていた。
「静か過ぎるな」
マコーミックがぽつりと言った。
「人っ子ひとりいないわね」
竜介がいぶかしげに見渡す。
「ナオミがデニスがいないのを気にしていたわね」
アイリスがつぶやく。
「あとで抜け穴の入り口をエドに聞こう」
マコーミックが応えた。
みんなはしばらく黙って庭園を見詰めていた。
「この時間に数奇屋棟の当たりに人の動きがまったくないのは変だな。夕食の仕度もあるはずなのに」
浩二がぶつぶつと言い、辺りを見回した。
「スタッフの姿が全然見えないな」
「アイリスから聞いたが、ここにはエドに仕えるニンジャがいるらしいね」
マコーミックが尋ねる。
「七人。ジャネットがおそらくリーダー」
竜介が素早く応えた。
「タツオを入れると八人」
浩二が続けた。
「彼はアスリートじゃない」
竜介が断言した。
「暗いわね。明かりをつけましょう」
アイリスがスイッチに近づこうとすると、
「駄目だ」
マコーミックが止めた。
「電気がつくと外が見にくい」
それから不意に切迫した口調になった。
「ナオミとエミは何処にいる?」
「さっきは池の端に立って、見張りをしてくれていた」
浩二がセルを取り出して恵美を呼び出す。
「出ないぞ」
思わず声を震わせる。
その時、突然、数奇屋棟の建物の明かりが全て消えて、闇に沈んだ。

「エドが戻って来るわ」
エミが言った。
「コウジたちがボブらと合流したのかな」
「私たちも行かない?」
「そうね」
ふたりがゲスト・ハウスへ向かい出すと、建物に明かりが点いた。
警護室のある棟からタツオ青年が現れて、ニコニコしながらやってくる。
「先ほどはお茶をご馳走様」
ナオミが声をかけた。
「とんでもありません。お粗末でした」
タツオ青年はふたりの前で立ち止まった。
「冷えてきましたね。温かいコーヒーは如何ですか?」
確かに肌寒い。タツオ青年はゲスト・ハウスへの道をさえぎるように突っ立っている。
「そうね。いただきましょう」
ナオミが応えて、きびすを返し、恵美も続いた。
広間へ着くと、少々お待ちくださいとタツオ青年は言って、姿を消した。
ふたりはラウンジ・チェアに腰を下ろした。
「夕食用のテーブル・セッテイングもしてないわ」
ナオミは辺りを見回した。
「人の気配がまったく無いわね」
「昨夜はディナー・パーティーがあったからで、これが普通じゃないですか」
「何だか空気がおかしい。私のカンは良く当たるのよ」
ふたりは黙り込んで様子をうかがった。
タツオ青年はなかなか戻って来ない。
得体の知れない不安が湧いてくる。
「コーヒーはいいわ。コウジたちと一緒になりましょう」
ナオミが立ち上がった途端に明かりが消えた。
「アッ」
数人の黒い影が飛び込んできて、二人を取り囲んだ。

「待て!」
マコーミックが叫んだが、浩二はライブラリーを飛び出して、数奇屋棟へ向かい、竜介も後を追って駆け出した。
「仕様がないな」
マコーミックはアイリスを見た。
「ここはいいわ」
拳銃を抜き出す。
「府警に連絡を!」
マコーミックも拳銃を手にし、辺りを警戒しながらライブラリーを飛び出した。
アイリスはセルを取り出した。
「アオキ警部?こちらアイリス。現在鹿ケ谷のエド邸にボブといますが、様子がおかしいのです。鑑識とは別に至急応援を要請します。到着時、入り口の門は閉まっている可能性が強いです。その対応も考慮しておいて下さい」
アイリスは数奇屋棟に気を取られながら喋っている。
日本間の南側のドアが音もなく開いた。
「緊急事態発生の場合、容疑者は刀などの凶器を所持している恐れあり。そう、刀よ! 気をつけて」
アイリスがセルを切った途端、ぷっと音がして、彼女は悲鳴を上げた。
拳銃を持つ手に鋭い吹き矢が刺さっている。
黒い人影が彼女に躍りかかった。

浩二はエントランス・ホールに飛び込んだ。
「恵美! 恵美!」大声で呼びかける。「ナオミ!」
竜介が追いついた。
「どう?」
浩二は首を振って、土足のままズカズカと上がっていく。竜介も続いた。
広間は無人だった。ラウンジ・チェアがひっくり返っている。ふたりは茫然と顔を見合わせた。
マコーミックが入ってきた。ひと目見て顔を引き締める。
奥へ進もうとする浩二を押し留めた。
「僕が先頭だ」
とささやく。ペンライトを取り出して点けた。
マコーミックを先頭に慎重に進む。
宿泊棟にたどり着いた。
マコーミックが拳銃を構えたまま、ひとつ、ひとつ、襖を開けて確かめる。どの部屋も空室だ。
厨房を通り過ぎて、管理棟の警備室まで来た。
不意に明かりがついた。
男たちは目をしばたき、顔を見合わせた。
そろって警備室の入り口を見る。
全ての建物の電源をコントロール出来るのは、ここしかないはずだ。
木の扉のノブに手をかけ、マコーミックは警戒しながら開いた。
暗い室内で全てのモニターが、別荘の外壁の様々な空間を無心に写している。どこにも人影は映っていない。
コンソールの前にひとりの男が坐り、こちらに背を向けたままモニターを見詰めていた。
「FBIだ。銃を持って君を狙っている。手を頭の後ろで組み、ゆっくりとこっちを向け」
マコーミックが言った。
男は言われたとおりに手を頭に上げ、静かに椅子を回してこちらを向いた。
タツオ青年だった。
仮面をつけているように無表情だ。
「立て」
マコーミックは命じ、近づいて素早く身体をまさぐった。武器がないのを確かめて、銃を下ろす。
浩二と竜介が飛び込んできた。
「恵美とナオミは何処にいる」
浩二が詰め寄る。
タツオ青年はうっすらと笑みを浮かべた。
「ご心配なさることはありません。おふたりは無事です。この別荘内でちゃんと保護されています」
「じゃ、そこへ連れて行ってくれ」
「申し訳ありません。今しばらくの間だけ、こちらでお待ち下さい。エドは恵美が気に入っています。危害を加えることは絶対ありません」
マコーミックはモニターに目をやった。警察はまだ到着していないようだ。
彼はセルを取り出し、アイリスにかけた。

アイリスはふたりのニンジャに木立の中を引き立てられていた。足元は苔なので柔らかい。
取り上げられた拳銃を突きつけられており、ひとりは忍び刀を手に持っていた。抜き身の刃がギラギラと不気味に光る。
打ち込まれた吹き矢は引き抜いたが、傷がうずく。
「何処へ連れて行くの」
アイリスは英語で訊いた。拳銃を持ったニンジャは白人のアメリカ人のようだったからだ。
「おとなしくしておればすぐ開放してやる」
やはり英語で答えが返ってきた。
「日本の警察がすぐこの別荘を取り囲むわ。バカなことはやめなさい。今からでも遅くないから」
「黙れ!」
と刀を持ったニンジャが言った。こちらは日本人のようだ。
石垣が見えてきた。
暗闇にそそり立ち、のし掛かってくるような圧迫感がある。
中央の登り口の石段から左へ石垣に沿って動き、立ち止まった。
刀を持ったニンジャが石垣の隙間に手を突っ込んで何か操作した。
すると高さ二メートル、幅一メートルほどの石垣の部分がするすると後退してから、右の方へ移動して消えた。
地獄の入り口のような真っ黒な空間が出現した。
アイリスはおびえた。本能的な恐怖だった。
「嫌っ!こんなところは絶対入らない!」
銃を持ったニンジャがアイリスの腰を強く蹴った。
「あっー」
暗闇に突き飛ばされたアイリスの足元から地面が消えた。
アイリスは悲鳴を上げながら落下した。

エドは集団の先頭に立っていた。
恵美とナオミが五人の忍者に取り囲まれて続いている。
ジャネットだけがセーター姿で、忍び刀を背に斜めにかけている。
FBIの男が浩二と竜介を追ってエントランス・ホールへ消えたのを確かめて、管理棟を離れたのだ。
ゲスト・ハウスの前まで来て、立ち止まる。
FBIの女の方はすでに排除されているのは知っている。
エドはジャネットに目配せした。
ジャネットが恵美の腕をぐいと掴み、忍び刀をスラリと抜いた。
ひゃっと恵美が身体を固くする。
「エミ、ダーリン、心配するな。コウジにはすぐ会える。少しの辛抱だ」
恵美はジャネットに押されるように小橋を渡り、縁を南側の引き戸に向かう。
「ナオミ!」
恵美が悲痛な声で呼びかけた。
毅然とした姿勢を崩さないナオミは恵美に笑顔を向け、
「大丈夫よ。じっとしていなさい」
と応えた。

アイリスは冷たい水に包まれた。息を止め、無意識に手をかき、足を強く蹴った。
すぐ顔が水面に飛び出した。
水の冷たさが彼女のFBI魂を目覚めさせた。動物的な恐怖感はもうない。水は流れていず、生臭くなかった。川ではない。湧き水だろう。
手探りでペンライトを取り出し、点けた。
一気に世界がよみがえり、素早くあたりを見渡す。
洞窟だがセメントが吹き付けてある。正面に金属製のドアらしきものがあるのは、さっき開いたフェイクの石垣の裏側に違いない。
右手の方に人ひとりが通れるぐらいの抜け穴が続いている。
アイリスが浮いているのは、タイルで覆われた大きな水槽のようなスペースだった。万一に備えての貯水槽だろう。
タイルの縁には何とか手が届く。ペンライトを口にくわえた。上半身を持ち上げ、右足を掛けて、水中から抜け出そうとする。
濡れた手がすべり、アイリスは再び水中に沈んだ。
水面を振り仰ぐと、大きく見開いた目で彼女を見詰めている蒼白な男がいた。ゆっくりと近づいてくる。
アイリスは水中で悲鳴を上げた。口から泡が吹き出し、ペンライトが落ちていく。
死に物狂いで男を蹴飛ばすように離れ、タイルの縁にしがみ付いた。無我夢中でよじ登ると、荒い息をつきながら振り向いた。
底に落ちたペンライトが、水中に漂う男の黒い影を浮き出している。
アイリスは息を呑んだ。
誰だか分かった。ナオミが気にしていたデニスに違いない。
水が澄んでいるため、底からのペンライトの明かりでも何とか辺りは見える。
ペンライトのためにもう一度、水中に潜るつもりはさらさらなかった。
アイリスは金属製のドアの周りを必死で探し始めた。ドアを移動させるレールは壁に埋め込まれている。内部にも開閉出来るスイッチが必ずあるはずだ。

ジャネットの腕は女とは思えないほど、力強かった。
どう見ても、身体能力では敵わない。
振り切って池に飛び込むのは、恵美には不可能だった。
ふたりは南側のドアを抜け、浴室に入った。
無表情のまま、頭をかしげて、シャワー・ブースへ入れと促がす。
強張った顔で、恵美はジャネットを見詰めた。
「大丈夫だよ。エドは閉じ込めておけと言っただけさ。今更アンタと水遊びしてもしょうがないだろう」
「お願い。ここに座って、大人しくしている。だからそんなとこへは入れないで」
ジャネットは面倒くさそうに舌打ちした。チラッとエドが立ち去った方向を見やる。
「ここでアンタのお守りをしているヒマはないんだ。これ以上、ぐずぐず言うんだったら、手っ取り早く片付けるよ」
ジャネットは忍び刀を軽く振った。眼が冷たく光っている。
(この人、本気やわ)
恵美はぞっとした。
「じゃあ裸にならなくていいのね」
わざと気楽そうに言う。
「お好きなように。最もアタシにはそんな趣味はないけどね」
ジャネットはそっけない。
ナオミは肩をすくめ、シャワー・ブースに入った。
ジャネットは油断なく刀を構えながら、左手でブースのメタリック・シルバーのスイッチを押した。
両開きの透明なドアがスゥッと閉じて、中央でピタリと閉まる。
忍び刀を鞘に戻すと、ブースの背後に手を入れてコンセントを抜く。
そのまま恵美には一瞥も与えず、ジャネットは出て行った。
ほっとして、ブーズの壁にもたれる。
自分の息遣いしか聞こえない。
(早く浩二さんが来てくれないかな)
誰かが入ってくる。
恵美は身を起こした。
ジャネットがひょいと顔をのぞかせた。
白い歯をむき出し、笑っている。
「ハロー、アイム・バァーック!(帰ってきたわよ)」

「アイリスが出ない。どうしたんだろう」
マコーミックはイライラしている。
「こいつに構っていてもしょうがないな」
タツオ青年にはき捨てると、管理棟から庭園に飛び出していった。
「ここにいた方がいいですよ」
タツオ青年は浩二に重ねて言う。
「君は信用出来ない」
浩二は言い捨ててマコーミックの後を追った。
「あなたはいてくれますよね」
タツオ青年は悩ましげな目で竜介を見る。
「見損なわないでよ」
竜介はフンと横を向くと、浩二に続いた。
出たところでマコーミックと浩二が山手の方を見ているので、危うくぶつかりそうになった。
「どうしたの?」
「あれを」
石垣の上空が明るくなっている。
「火事?」
「いや、ライトだ。コウジ、あの辺りにヘリが降りられそうな空き地があるか」
「ぴったりのがある。御堂の横だ」
「御堂?」
「エドのスピリチュアル・シンボルだ。でかい鋼鉄の球が祀ってある」
「何だか良く分からんが、そこにはヘリが降りられるんだな」
「間違いない」
「何でそんなこと話してるのさ」
竜介が尋ねると、浩二が黒い空を見上げた。
パタパタパタというヘリ特有のローターの回転音が近づいてくる。
「エドが呼んだのね」
マコーミックは舌打ちした。
「ファック!みんなあそこにいるのに違いない。タツオに足止めくったな」
三人はいっせいに石垣を目指して走り出した。
ゲスト・ハウスの横を駆け抜けながら、マコーミックはライブラリーを横目で見た。
誰もいない。
一瞬、念のために日本間と浴室をチェックしてはと思ったが、ヘリコプターの爆音がますます大きくなり、その考えは捨てた。

「アタシの白足袋に気づいたの、アンタだってね」
顔を斜めにして恵美を見ながらジャネットが言った。
(知ってるんだ。タツオが言ったんだな)
なんのために帰ってきたのか分かった。目の前が暗くなる。
「おかげで全部パァよ。アイツの為に人殺しまでしたのにね」
きつく下唇を噛む。その絶望的な眼差しに恵美は心底怖くなった。
「アッサリお払い箱さ。それもこれも、みんなアンタのせいだ。このでしゃばり女め」
ここは下手に出て、必死に謝るしかない。
「ゴメンナサイ。そんな積もりはなかったの。誰も気がついてないことを見つけたので、ついペラペラと喋ってしまって。どうか許して」
シャワー・ブースからの恵美の声はくぐもっている。
ヘリの音が聴こえてきたので、ジャネットが天井を見上げる。ブースの中の恵美も気づき、エドはヘリで逃げるのかとピンときた。
「ね、あれ、エドのヘリでしょう。早く一緒になったほうが良くはない」
言った瞬間に後悔した。
ジャネットは両手を広げてシャワー・ブースに飛びつき、顔を押し付けるようにして恵美をにらみつけた。
恵美は思わず一歩下がる。
「余計なことを言いやがって。アタシは捨てられたんだよ。アイツはもうアタシを連れて行く気はないんだよ。ほんとにアッタマにくる女だね、アンタは」
恵美は茫然とした。しくじってしまった。もう駄目だわ。
ジャネットはブースから離れて恵美を見詰める。
「決めた。アンタをキャサリンと同じ目に合わしてやるわ」
「このゲス女!」
恵美は叫んだ。
「とっととここを開けろ!」
ブースのドアに身体を激しく、何度も叩きつける。
ジャネットは化粧台の前のマットをぱっとめくった。床に正方形の蓋があらわれる。ぐいと引き上げ、手を床下に突っ込んで操作した。
足元の排水口からゴボゴボとした音が上がってくる。
恵美はぎょっとして見下ろした。
いきなり水が勢い良く溢れ出した。生臭い水の匂いが立ちのぼる。
ジャネットは化粧台によりかかった。
「せいぜいもがき苦しむがいいや。ゆっくり拝見させていただくよ」

石垣の石段の下までやっとたどり着いた。
見上げると二段目の石垣の右手の夜空が明るい。
「やっぱりあそこだ」
浩二が呻くように言った。
マコーミックが浩二と竜介を見た。
「君たちは危険だ。ここからは僕独りだ」
「私も行く」
「駄目だ」
「ボブ、相手が何人いるか分かっているのか」
マコーミックはため息をついた。
「アイリスがおればなあ」
ヘリの音がどんどん近づいてくる。
「ぐずぐずしておれん。よし、コウジ、行くぞ」
マコーミックは石段を駆け上がり、浩二が続いた。
「どうして僕のことは聞いてくれないのさ」
竜介がぶつぶつ言いながら続いた。
最初の石垣を昇りきった。左右をうかがうが、誰も待ち伏せている気配はない。
「嫌な感じがする」
マコーミックが言った。
「簡単すぎる。ここが無人なのは変だ」
「FBIとはことを構えたくないのかも」
竜介が希望的観測を口にしたが、誰も応えない。
二段目の石垣の石段にたどり着いた。石段の幅はぐっと狭くなる。
見上げると御堂の円錐形の屋根だけが見えている。
点いているライトのせいで、辺りはかなり明るい。
三人はさすがに慎重に昇り始めた。マコーミックを先頭に、浩二と竜介が並んで続く。
誰も石段の上から顔を覗かせる者はいない。
「おかしいな」
マコーミックは拳銃を両手で構え、一歩一歩上がっていく。
もう少しで石段を上がりきれるという時、ギリギリという不気味な音が御堂から聞こえてきた。
いきなり御堂の前面が扉ごと外れて、バターンと前に倒れた。
金の台座に鎮座した黒い鋼鉄のサトリが現れた。
中央に刻みこまれた金の梵字の『ア』がサトリの心臓のように輝いていて、今にも鼓動を打ち始めるように思えた。
三人は茫然と立ちすくんでいた。何が起こっているのか分からない。
台座の前部がガタンと手前に傾き、サトリはドシンと床に落ちた。
そのままゆっくりと石段の方へ転がってくる。
バリバリと、倒れた御堂の前面を踏み潰す。
逃げるひまはない。
数秒後には三人とも押しつぶされてしまうだろう。
ー誰も襲ってこなかったはずだー
マコーミックは目を閉じた。

ブースの水位は恐ろしい速さで上がってくる。
もう足が底に着かない。
ニヤニヤしながら眺めているジャネットが目に入った。
あと一、二分で水は天井に届く。
恵美は悲痛な叫び声を上げた。

ガシッ、と鈍い音がした。
静かになった。
マコーミックは恐る恐る目を開いた。
すぐ目の上に黒いサトリが宙に浮いて止まっている。
奇跡が起こったのだろうか、それとも自分はもう死んで夢を見ているのか。
マコーミックは振り向いて後ろを見た。
浩二と竜介がポカンと口を開けて見上げている。
どうやらまだ生きているらしい。
何故サトリは空中に静止しているのだ。
辺りを見回してやっと分かった。
石段の両サイドの石垣の幅がサトリの直径より少し狭いのだ。
転がってきたサトリは石垣に挟まれた形で止まり、宙に浮いているように見える。
エドは無用の犠牲者は出したくなかったのだ。この仕掛けを造った時にサトリのサイズを正確に決めたのだろう。
少なくともこれで石段の上部は塞がれ、時間稼ぎは出来る。
ー呆れたヤツだー
ホッとしたマコーミックは思わずニヤリとした。
ビシッと音がして、小石が飛んできて体に当たった。
笑顔が凍りつく。
ビシッ、ビシッ、ビシッといくつも小石が飛んでくる。
「うわ、わ、わ」
後ろで竜介があえいだ。
サトリの重量が両側の石垣を削っているのだ。
ーどうしてもうちょっと大き目に造らなかったんだよ!ー
ガリガリ、ガリガリと音は大きくなり、サトリはゆっくりと回転を始め、沈み出した。
「走れ!」
マコーミックはわめいて石段を駆け下り始めた。
浩二と竜介も文字通り転げ落ちるように走っている。
ズダーン!
背後で大きな音がして、石段が揺れた。サトリが落ちて転がり始めたのだ。
ガッ、ガッ、ガアッー。
凄まじい音が追ってくる。
とても石段の下まではたどり着けない。

ブースの水は天井に届いた。
恵美はもがいている。
もう息がもたない。
口を開けた。どっと水が入ってくる。
もう駄目だ。意識が遠のいていく。
浩二さん、タスケテ、タ・・ス・・ケ・・テ・・・・・

「コーナー!」
と叫んでマコーミックは石垣と石段が接するきわに身を投げ、両手両脚を出来るだけ伸ばして隅に身体を押し付けた。
ガ、ガ、ガッー!
ほとんど同時に側らをかすってサトリが通り抜けていった。
浩二か竜介の悲鳴が上がるのを覚悟する。
何も聞こえない。
顔を上げてみる。
ふたりとも左右の隅に別れて同じように身体を伸ばして横たわっている。どうやら無事らしい。
浩二と、ついで竜介がそろそろ半身を起こした。呆けたような顔をしている。
「みんな、大丈夫か」
マコーミックが声をかけた。
ふたりがゆっくりうなづいた。
「き、奇跡やな」
竜介が搾り出すような声で言った。
「インディの映画、二度と見ん」
浩二がつぶやいた。

サトリは二段目の石段を駆け下りるとスピードを上げ、一段目の石垣の上から飛び出して、庭園に放物線を描いて落ちた。
見事な苔の絨毯をめくり上げ、樹木をなぎ倒しながら、地形にそって緩やかなカーブを描いて池の方に突進していく。

アイリスはペンライトのおかげで簡単にスイッチを見つけ出した。いずれにせよニンジャたちは少々の時間稼ぎをしたかっただけらしい。
アイリスはためらわずにスイッチを押した。
とたんに頭上がズシンと揺れ、ばらばらとセメントの破片が落ちてきた。
心臓が飛び上がった。
何かまずいスイッチを押したのだろうか。
だが音もなく金属のドアが手前に下がり、左手にスライドして、入り口が現れ、アイリスは飛び出した。
すぐ目の前に巨大な黒い球が地響きを立てて落ちてきた。
アイリスは腰を抜かし、茫然とサトリが遠ざかるのを見送った。

ジャネットは眉をしかめた。
浴室に微妙な震動が伝わってくる。
樹木がバリバリと裂ける音も聞こえる。
しかもだんだん近づいてくる。
映画で見た巨大な怪獣が登場するシーンに似ている。
ーまさかー
鼻で笑った。
浴室から縁に出て山手の方を見た。
丸く黒いかたまりが真っ直ぐ彼女に向かって飛んでくる。
ジャネットが最後に見たのは金色に光る眼だった。
サトリは彼女を弾き飛ばし、浴室と日本間の一部を叩き潰しながら池に落下した。

強い衝撃があって、シャワー・ブースが傾いた。
どこか破損したのだろう、水がみるみる引いていく。
恵美は水を吐き出し、激しく咳き込んだ。
霞む目を見開いて辺りを見回す。
浴室の半分が引きちぎられたように、消滅していた。

マコーミックらは石段を駆け上がった。
ヘリは着陸態勢に入っていて、ローターが風を吹き上げている。
黒塗りの小型ヘリだ。
エドがナオミの腕を捉えた忍者と共に着陸を待ち構えている。
マコーミックらとの間には五人の忍者が立ち塞がっていた。
全員が抜刀している。
マコーミックは拳銃を構えた。
「エド!」
ローターの音に負けないように、声を張り上げる。
「彼らに武器を捨てるように言ってくれ」
エドが振り向いた。大声で応える。
「ナオミを連れて行く積りはない。ニンジャは君らが近づかない限り、何もしない」
ヘリがゆっくりと着陸した。ローターは回転したままだ。
アイリスが石段から顔を出し、様子を見て取ると、マコーミックの側に駆けつけた。
「デニスを見つけた。死んでいる」
「恵美は?」
首を振る。
「エド! 恵美はどうした?」
「ゲスト・ハウスにいる」
叫び返すと、エドはひとりでヘリの操縦席に近づいた。
浩二が身をひるがえして、石段を駆け下りていく。
エドとヘリのパイロットが言葉を交わしている。
パイロットは抗議しているようだったが、しぶしぶヘリを降り、代わりにエドが乗り込んだ。
不意に竜介がすたすたと忍者たちに近づいて行く。
「リュウスケ!」
驚いたマコーミックが叫んだ。
竜介が振り向いた。
ヘリから吹き付ける風で乱れた髪が、色白の顔にそよぎ、口許に微かに笑みを浮かべて、竜介は身震いするほど美しい。
忍者のひとりがつかつかと歩み出、忍び刀を眼の高さに上げて突きつけた。
「止まれ。それ以上動くな」
華奢で美貌の竜介を完全にあなどっている。
次の瞬間、竜介は忍者の懐に飛び込んだ。
あっと言う間に刀はもぎ取られ、忍者の身体は一回転して地面に叩きつけられた。
何が起こったのか、投げられた忍者自身が分からなかったに違いない。
息もつかせず、竜介は残りの忍者の間を駆け抜けながら、左右に忍び刀を振るった。
疾風のようなスピードである。
四人の忍者には散開して、構えるひまもなかった。
いくら刃を潰してあるとはいえ、鋼鉄の刀である。瞬く間に全員が忍び刀を取り落とし、肩や腕を押えてうずくまった。
エドが感に堪えないように、首を振って叫んだ。
「なんとリュウスケ! 君は凄い剣士だな。どうしてもっと早く教えてくれなかったんだ。残念だよ」
エドはヘリのコックピットからナオミをおさえている忍者に手を放すように合図した。
ホッとしたように忍者は手を離す。
自由になったナオミは、落ち着いた様子でヘリに近づいた。
「エド、もう充分でしょう。ヘリを降りて下さい。あの茶室で、お茶でも飲みませんか」
エドはパイロット席に坐ったまま、じっと正面を見詰めていた。
「君は日本文化にも詳しいようだな。コバヤシ・イッサを知っているか」
ナオミはうなづいた。
「ええ」
「私が好きなハイクがある。・・・ 世の中は 地獄の上の 花見かな」
エドはニヤリと笑ってナオミを見た。
「どうだい、一緒に花見と洒落ないか」
ナオミは微笑んで、首を振った。
エドは破顔一笑した。
「また、フラれたか。あばよ」
轟音をとどろかせてヘリは飛び上がったが、そのまま上昇せず、真っ直ぐ池に向かって突っ込んでいく。
忍者たちが茫然と見送っている。
ヘリが水面に激突する音が響いた。

第九章

ナオミと恵美が池を眺めていた。
ゲスト・ハウスは南側が一部崩壊した無残な姿を見せている。
ぐるりと辺りを見回して、ナオミが語りかけた。
「色々問題のあった人だけど、エドほど日本美術を理解していた外国人はいないわ。ここに全ての情熱を注ぎ込んでいたのね。自分の聖地にする積もりだったのよ。キャサリンから見れば、血迷っているとしか思えなかったでしょうけどね」
「だからと言ってー」恵美は壊れたゲスト・ハウスを見る。「あんなことをしていい理由にはならないわ」
「勿論よ。うーん、やっぱり病気が狂わせたのじゃないかしら。ひょっとしたら最初はタツオやジャネットらと面白半分で話していたのが、引っ込みがつかなくなり、突っ走ってしまったのかもしれない。もうどうでもいいやってね」
鹿ケ谷の別荘で世界長者番付の一位と二位の超富豪とその秘書、また著名な映画監督が相次いで亡くなった事件は大きなニュースになり、日本で話題になった「俊寛の呪い」が、そのまま{Shunkan’s Curse}として世界的に広まった。
ネットやマスコミで事件性がセンセーショナルに報じられたが、それを裏付ける決定的な証拠は現れず、四人のアメリカ人の遺体は司法解剖されることもなく、本国に戻った。
京都府警で恵美、浩二、竜介は訊かれるままに、事実を全て青木に話したが、大変でしたなと労わられただけである。三人の名前がマスコミにリークされることはなかったし、彼らも何食わぬ顔をしていた。ことに美術品に関わる人間は、どんな場合でも口の堅いのが身上なのだ。
警察もFBIもナオミの存在は無視することに決め込んでいるようである。
「お金があると真実は藪の中に消えていくのね。あ、そんな積りじゃなくて・・・」
恵美は慌ててナオミの腕に手をかけたが、彼女は笑いながら恵美の手をポンポンと叩いた。
「人は誰でも秘密をかかえているの。お金が便利なのは、それを隠せるからよ」
ニンジャたちはいずれも入院中だが、トレーニング中に負傷してと口裏を合わせ、とぼけきっている。
「暗闇の抜け穴でジャネットに置き去りにされたデニスはパニックになり、湧き水のプールに誤って落ちてしまったみたいね。エドは彼女の案内でデニスが抜け出したものと信じていたようだけど」
「ジャネットは何故勝手なことを?」
「二年前、彼女はオクラホマ大学レスリング部のオリンピック候補選手だった。エドに引き抜かれ、このキョウトの別荘でニンジャ・グループのリーダーに抜擢されたの。肉体関係もあったようよ。有頂天になったのも無理はないわね。JUNのCEOの妻の座に手が届いたんだと信じ込んだのだから。エドもおそらくそれをほのめかして、計画に引きずり込んだのでしょう。タビを脱ぎ忘れたジャネットを見たエドは激怒したのに違いない。キャサリンもそうだけど、あのタイプの人間は部下のミスを絶対許さないのよ。手のひらを返すようなものだったんでしょう。殺人まで犯したのに、すげなくされて、ジャネットは絶望したと思うわ。あの時、彼女の心中は愛憎入り混じって激しく揺れ動いていたのでしょう。それがあなたに向かったのだわ」
「ボブとアイリスは真相を公表したかったのじゃない?」
「それは無理だと割り切っている。当事者はみんな亡くなっているし、肝心のバス・ルームもほとんどぶっ壊れちゃったしね。どちらの政府も、IDもJUNもこれ以上騒ぎを大きくしたくないのよ。今の世の中、二年も経てば、エドもキャサリンも世間から忘れさられているわ」
「ある意味、ジャネットも可哀相な人ね。エドに目をつけられなければ、オリンピック選手として大活躍していたかもしれないし。彼女の身体はエドのすぐ近くに浮いていたってホント?」
「そう。まるで手を握り合っているようにね。偶然か、それとも最後の力を振り絞ってエドに寄り添おうとしたのか」
恵美はぶるっと身を震わせた。
「ところでアイリスの傷はどう?」
「指の動きには問題ないみたい。それよりしばらくボブと公然と一緒に過ごせるので、うきうきしているわよ」
ナオミは微妙な表情で恵美を見やった。
「JUNの弁護士に聞いたのだけど、エドはこの別荘をタツオに残したらしいわ。美術品も全て含めてね」
「エエッ!」
恵美は仰天した。
「ウソでしょう。本当なの・・・・・まあ、何であんなヤツに」
恵美は口をぎゅっと結んで首を振った。
「やっぱり信長と蘭丸だったのかしら」
「ノブナガとランマル? 何のこと?」
「衆道と呼ばれてね、昔は大名、feudal lord,のことね、彼らは美少年を身近に置く習慣があったのよ」
「それって、あの・・・」
恵美がうなづいて、
「中でも有名なのが、信長とー」
と言いかけたが、そのまま口を閉じた。
伊助が手に風呂敷包みを持って、キョロキョロ辺りを見回しながら、やってくる。
「あ、恵美ちゃん、京美(京都美術倶楽部)の会でこの茶碗を売ってくれとぼんが言うてるわ」
と手渡した。
「すみません。確かに」
「ありゃあ、あの建物は酷いことになっているな」
ゲスト・ハウスを見て言った伊助は、ナオミに視線を移した。ミランダに似ていると浩二や恵美から聞いていたので、表情は変わらないが、さすがに息を呑んでいる。
「私の先輩、イスケ・モリモトです。こちらはナオミ・モローさん」
「よろしく」
「あなたがナオミさんですか。噂どおりキレイな人や」
差し出された手を握りながら、御所で見かけたのはこの人じゃないかなと伊助は思った。
「ありがとう」
そのまま伊助はぼんやりしている。
「伊助さん」と恵美がそっと手をかけた。
はっと気がついた伊助は慌てて手を離した。
「いやあ、エライすんまへん。ぼうっとしてました。どうしたんやろ、今日は。おかしいな」
伊助は首を振った。
「また、店へもお越し下さい、ナオミさん」
「ナオミと呼んで」
甘えるような声だった。
「ハイ、ナオミ」
「必ず行きますわ、イスケ」
伊助は嬉しそうな顔をした。
「伊助さん、車?」
「そうや」
「京美まで送ってくれる?」
「ああ、ええで」
じゃ、私はこれで、と恵美はナオミに頷き、伊助と共に歩き出した。
途中で伊助が何気なく振り返った。
ナオミは手を振った。
ーすぐまた会えるわ、パパー

タツオ青年はエドの居室に座っていた。
生前のままで、何一つ動かされたものはない。タツオが許さなかったのだ。
壊れた御堂から下ろされたご神木の円柱が二本、部屋の一隅に粛然と鎮座していた。
歌麿の「利兵衛じじい」の版画がタツオ青年の目の前にある。
手ごめにあわんとしている娘の顔が恵美に重なる。
エドの夢をつぶした女だ。
ーエド、カタキはきっと取りますよー

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