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貿易屋・恵美の大冒険    パート3。完結編          ーまぼろしの大坂城屏風・消えた極楽橋の謎ー

貿易屋・恵美の大冒険
 
 パート3。完結編         

ーまぼろしの大坂城屏風・消えた極楽橋の謎ー

 慶長五年(一六〇〇)の秋、関ヶ原の役からしばらくしての大坂城

 この時期、秀吉の築き上げた天下無双の大坂城には、日本の城郭史上、類を見ない二つの奇観があった。
 ひとつは本丸の北端と二の丸の間の堀に架けられた極楽橋である。
 ただの橋ではない。
 現在の大坂城にも、北側に二の丸に向かって極楽橋が架かっているが、何処にでもある普通の橋で、豊臣時代のそれとはまったく違う。
 秀吉の極楽橋には立派な門があり、壁と屋根のあるいわゆる廊下橋で、しかも屋根の上には欄干のある望楼まで乗っていた。
 当時大坂城を訪れていたイエズス会宣教師ルイス・フロイスが詳しく記録しており、それによれば、橋の建物は技巧をつくした装飾や大量の金箔で飾られていて、目を見張るような豪華さだったらしい。ー一万五千金という大金を費やしたーとフロイスの著述にある。
 突拍子もない、空前絶後の美術品のような橋であった。
 もうひとつは秀吉の死後、家康が西の丸に築いた天守閣である。
 さすがに本家よりは小粒だが、立派な天守には違いない。つまり秀吉と家康のそれぞれの天守閣がふたつ、大坂城の本丸と西の丸にそびえていたことになる。
 言ってみれば、自宅の庭に他人が母屋を建てたようなものだ。
 この人もなげな横暴さが、石田三成を打倒家康に駆り立てた一因であったのは間違いない。
 大坂城西の丸にあった家康の天守閣について残っている資料はほとんどない。
 唯一それらしいものを描いた屏風が現存する。
 大坂城天守閣が保有する、俗に黒田屏風と呼ばれる大坂夏の陣図である。慶長二十年(一六一五)の大坂落城の様子を詳細に一双の金屏風に表したもので、自らも参戦した福岡藩主黒田長政の命で製作された。
 戦闘のみならず、避難する民衆の女、子供までが暴行、略奪に巻き込まれる悲惨な戦場の様子がリアルに描きこまれ、『戦国時代のゲルニカ』とも言われる傑作である。
 その屏風の右隻の左端に秀吉創建の天守閣がそそり立つが、その手前にいささか小ぶりの四層の建物が描かれており、これが家康が建てた天守閣ではないかと言われている。
 今その天守の最上階の窓から、家康が本丸の北端に望楼をのぞかせている極楽橋を見詰めていた。日ごろ表情の乏しいこの男にしては、珍しく顔をしかめている。
 家康は極楽橋が嫌いであった。
 秀吉の趣味的ワールドの結晶である。厄介なことに、登城、下城には必ず通り抜けなければならない。否が応でも、たかが橋ひとつに巨額を費やす秀吉の度量の大きさと懐の深さを、その死後まで思い知らされることになる。
 事実、家康自身が並外れた存在だった秀吉を意識してしまい、他の武将たちも同じように感じているに違いないと不快になる。
 もっとも家康は決して秀吉が嫌いではない。実直な彼自身とは違い、何をしでかすか分らない凄味があり、そのくせ時に見せる茶目っ気は人の意表をつき、警戒心を溶かしてしまう。
 この男は間違いなく天下を取る、そう確信した家康は素直に臣下の礼をとったのである。
 天正十六年(一五八八)、信長の姪、茶々を側室に迎えた頃から秀吉は変わりだしたと家康は思っている。天性の明るさが影をひそめるようになったのだ。
 淀殿と呼ばれるようになっていた茶々が、秀頼を産むと秀吉は血迷ったとしか思えない行動をとる。
 自身が豊臣政権の後継者と認め、二代目関白にした甥の秀次を謀反の疑いありとして高野山に押し込め、切腹させてしまった。
 その妻妾や子供たちは三条河原に引き立てられ、斬殺される。秀吉は豊臣家にたったひとり残っていた成年男性の親族を自らの手で刈ってしまったのだ。
 淀殿が秀吉を動かしたのではないかと家康は疑っている。
 秀吉亡き後の秀頼の地位をおびやかす存在を恐れ、それなりに知恵をしぼったのだろう。秀吉にとって、信長の姪という存在はそれほどまでも大きかったのだろうか。
 秀次が生存しておれば、家康が政権を握る機会は永遠に巡ってこなかったかもしれない。
「殿」
 そっと呼びかけられて、家康はわれに返った。本多正信が控えている。家康の背後から黙って近づくことが許されているただひとりの男だ。
「片桐殿が参上されておられます」
 頷くと、家康は近頃とみに脂肉のついた身体を軽やかに動かしながら階段を降りていった。
 豊臣家の重臣、片桐且元も実直な男であり、家康はそこが気に入っている。三成よりずっと冷静な判断が出来、今後の豊臣家の運命は家康の意向に関わっていることを誰よりも良く理解していた。
 三成軍に加わっていたが、家康は改易するどころか、加増している。これから長く続く豊臣家との交渉に必要な人間と評価しているのだ。
「これは内府様」
 家康の顔を見ると、且元は少し身をずらし、折り目正しく礼をした。
「ご多忙のところ、わざわざお越しいただいて申し訳ない。秀頼様のご機嫌は如何かな」
「母君さまのお手を煩わせることもなく、お元気にお過ごしなさっておられます。これもひとえに内府様のお気遣いの賜物と一同歓んでおります」
「さようか。それは何より、重畳、重畳」と家康は笑顔をみせた。
ー殿に笑顔は似合わぬな。気味が悪いわー
 何時も身近に控えている正信が、一瞬思ったぐらいだから、且元は不安げな眼差しになった。
「ところで且元殿、実は北面の極楽橋のことだがなー」
 家康が切り出して、且元は表情を固くした。家康があの橋のことを不愉快に思っているらしいことは、薄々感じていた。
ーまさか打ち壊せとは言うまいなー 
 そんなことになれば、淀殿を納得さすのに、又ひと悶着起こる。且元はうんざりした。
「太閤殿下が御建てになったものは数々あるが、あの橋ほど見事なものは、かの唐国(からくに)にもないであろう。まさにこの世で極楽を垣間見る境地になる。のう、そう思わんか」
 意外な言葉が家康の口から出て、且元は目をパチクリした。話はどうも悪い方へは向いていないようだ。
「さようでございます。仰せのとうり、あの橋を渡るときは、まさしく極楽に導かれる想いでございます」
 気が楽になった且元は、われながら大仰に誉めそやした。
「そこでじゃ、この城内にあれば眼福の馳走をいただけるものどもは限られておる。ここは思い切って太閤殿下をお祀りする京の豊国神社の唐門として寄進するのはどうじゃな。すれば都の人々も、諸国から上がってくるものたちも、殿下の偉大さを身近に触れることが出来ようぞ。あの彩りの美しさは何よりもの供養になると思うが」
 と家康は且元の目をのぞきこんだ。
 且元は感動していた。家康が秀吉の極楽橋に、このような深い愛着を持ってくれているとは思いも寄らなかった。嫌っているように見えたのは、どうやらとんでもない勘違いだったようだ。
「誠にご高配のほど、恐れ入ります。これは嬉しいことをお聞かせくださいました。茶々様もきっとお喜びなされましょう。至急に仰せの通り手配仕ります」
 且元が喜色満面を隠そうともせず、早々と退出すると、正信は首を振って家康の顔を見た。
「殿もなかなか人がお悪うござるな」
 家康はじろりと見返したが、何も言わない。
「確かにお眼ざわりのものはこの城から取り除けましょうが、あの極楽橋が豊国神社の唐門となれば、都の大評判となり、太閤をお慕いするものは増えこそすれ、減りはしませぬぞ。いささか当家にとって不都合な事態とはあいなりませぬか」
「二、三年もすれば、又移せばよい」
「はて、あれだけのしろもの。いったい何処へ?」
「島流しじゃよ」
 正信は仰天した。
「人ではなく、唐門を島流しとは聞いたこともござらん。いづれの島へ?」
 家康は涼しい顔をしたまま、黙っている。
 殿のお考えになっていることはさっぱり分らん、と正信は嘆息した。 

 一六四四年の春、南アフリカ喜望峰の西南海上、オランダ東インド会社ガレオン船「リューワルデン」号

 数ヶ月前、長崎の出島を出航し、バタビア(ジャカルタ)に寄港してからアントワープに向かって出発したオランダ東インド会社の三本マストのガレオン船「リューワルデン」号は順調な航海に恵まれ、アフリカ南端の喜望峰へたどり着いたが、ここ一両日、猛烈な暴風雨に翻弄されていた。
 強風が吹き荒れ、雨は横殴りに船乗りたちを叩きつける。二日間、全員が一睡もしていない。
 海底に引きずり込もうと、荒れ狂う波が、四百五十トンの船体に襲い掛かる。
 洪水のように海水が船上をかき回し、男たちが必死で命綱や船体にすがり付いて、流されるのを防ぐ。すでにふたりが悲鳴とともにさらわれていったが、みんな自分の身を守るのが精一杯だ。
 ヨーハン船長は後甲板の舵輪の側に突っ立ち、血走った眼を行く手の海面にそそいでいた。
 船首のバウスプリットが天を突き刺すようにグゥーッと持ち上がっていったかと思うと、いきなり波間に滑り落ちていき、ドーンと大波が砕け散る。
 甲板を洗う波に流されまいとヨーハン船長は、操舵手のヘンドリックと共に舵輪にしがみついた。
「くそったれ! 何時まで吹きやがるんだ。もう持ちませんぜ」
 ヘンドリックが喚いた。
 ヨーハン船長は黙って全身の神経を風に集中していた。何度も暴風雨をくぐり抜けてきた海の男だけが感じとれる微妙な気配がある。
 彼は船首近くのフォアマスト最上部の帆桁にぽつんと張られた帆を見上げた。嵐のため、他の帆は全てたたんである。はちきれんばかりに強風を受けているが、心なしか息をついているようだ。
 船長は視線を行く手に戻した。上下に揺れる水平線が薄明るくなっている。
 ヘンドリックに、見ろ、と眼でうながした。操舵手の顔にぱっと喜色が表れる。
「どうやらヌケられそうですね」
 前部や中甲板にいる男たちも、気がついたらしく、どよめきが上がっている。
 ヨーハン船長は大声で怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎! 何を浮ついているんだ。これからが大事だ。気合を入れろ!」
 水夫たちは静まったが、見違えるように生気が戻っている。
 船長も油断なく目を海上へやっているが、彼の足元深く、乾物庫に納まっているお宝に、つい想いがいってしまう。
 オランダ船が日本からヨーロッパへ持ち帰る輸出品は、銀が主で、その他は海産物、陶磁器、樟脳などである。だが今回、「リューワルデン」号は、アントワープの美術商、「コルハウ」から特別の注文を受けていた。
 大小取り混ぜた、十二双の金屏風である。
 なかには神秘の国、日本の最大、最高の名城、「オオサカ城」を描いた八曲の大きな屏風もあるという。
 ヨーハン船長は、屏風の現物は見ていない。「リューワルデン」号に積み込まれた時には、すでにスキひとつない見事な木の二重箱に入れられた上、油をしみこませた帆布で被われていた。何故ここまでするのかと船長は呆気に取られたが、日本側の商人は、屏風は水を被れば修復不可能とツバを飛ばして力説し、それならと彼は特別に乾物庫に納めたのである。
 送り状に記載された屏風の値段を知ると、ヨーハン船長はニンマリした。
 東インド会社の貿易船の船長は、日本へのひと航海で莫大な報酬を得る。命がけの仕事だから当然だが、積荷が高価だと、手数料もぐんと跳ね上がるのだ。
 ヨーハン船長は故郷で彼の帰国を首を長くして待つ妻子を思い浮かべたが、それはすぐ愛人ブリジットの豊満な姿態に取って代られた。両手でも摑みきれないような乳房、くびれた胴にプリッとはちきれそうなお尻。船長は四つん這いになったブリジットの尻をピシャリ、ピシャリと引っ叩きながら、突きたてるのが気に入っていた。
 出島で遊んだ貧弱な身体で、顔だけを白く塗りたくった日本の娼婦たちとは雲泥の差だ。
ー待ってな。腰が抜けるほど可愛がってやるぜー
 ドンッと波が船尾左舷を直撃した不気味な振動が伝わってきて、船長はぎょっとした。
 「リューワルデン」号は傾きながら左へ回頭し、横腹を進行方向へ向けてしまう。
「くそっ! プーピングだ」ヨーハン船長は呻いた。
 プーピングとは気まぐれな波が船尾で砕け散り、船首の向きを一瞬に変えてしまうことである。船が大波を乗り切れるのは、直角に立ち向かうからだ。横っ腹にくらうと、ひとたまりもなく転覆する。
 船長とヘンドリックは同時に「リューワルデン」号が横腹を向けてしまった右舷の海面を見た。
 ふたりとも恐怖で凍りついた。
 よりによって、最後の一撃とばかり巨大な波が立ち上がり、迫ってきている。
 ヘンドリックはとっさに舵輪に飛びつき、船首を戻そうとした。ヨーハンも必死で舵を一杯に切った。
 船首は微動だにしない。
「ダメです、船長。動きません」
 ヘンドリックは悲鳴を上げた。
「黙れ! あきらめるな!」
 船長は歯を食いしばって、波を見た。
 青黒い波はあざ笑うに、波頭を泡立てながら近づいてくる。
ー駄目だ。間に合わん。転覆するぞー
 船首が動き出した。ゆっくりと右へ回頭を始めている。
「さっさと動け! このバカ船! 回れ! 回れ! 回れ!」
 波は見上げるばかりになり、巨大な壁のように覆いかぶさってくる。
 地獄が口を大きく開け、「リューワルデン」号を呑み込もうしている。
 船長はちらっと甲板の男たちを見た。固まったまま、茫然と波を見上げている。すでに死人の群れだとヨーハンは思った。
 目の隅でヘンドリックが十字を切るのが見えた。
 ヨーハンは眼をつぶり、祈った。
ー神様、もしこの船を救って下さったら、二度とブリジットには会いませんー
 波が轟音を立てて降りかかった。
「リューワルデン」号は船体を揺らせ、呻きながら傾いていく。
 甲板は大きく斜めになり、ヨーハンは必死で舵輪にすがりついた。
ーお終いだ。俺は死ぬんだー
 彼は覚悟した。
 永遠に続くかと思われた降り注ぐ海水が突然消えた。
 ヨーハンは眼を開いた。
 傾いた左舷のすぐ下に泡立つ海面が見える。
 一瞬、船はどうしようかと戸惑っているようだった。
 やがて海面が遠ざかり出した。「リューワルデン」号は姿勢を立て直し始めたのである。
「うわーつ! やったぞ!」
 ヨーハンは思わず歓喜の声を叫んだ。船と男たちは嵐に耐え、地獄の入り口から生還したのだ。
 甲板からも騒ぎ立てる声が聞こえる。
 ヨーハン船長はすぐ威厳を取り戻した。舵輪から手を離し、すっくと立って様子を見る。
 どうやらさすがの暴風雨も、今の大波で力尽きたようだ。後甲板から身を乗り出し、矢継ぎ早に指示を出した。
「全員、持ち場の破損状態をチェック、すぐ報告しろ。ギンセル、バラモン、レイス、船体の水もれ、積荷の確認に急げ。ぼやぼやするな!」
 水夫たちは活き活きと動き出した。
 一息ついて舵輪を握るヘンドリックを見る。
「正直、もう駄目だと思いました。船長、奇跡ですね」
 ヨーハンは頷いたが、先ほどの神様との約束を思い出した。
 有難いことだ。願いを聞き届けてくださったのだ。
 だが一方で、彼は早くも後悔していた。何故とっさにブリジットの名を出してしまったのか。
 これからの人生、あの肉体を抱くことが出来ないなんて耐えられない。生きている価値がない。あんないい女は二度と見つからないだろう。
 天啓のように素晴らしいアイデアが閃いた。そうだ、ブリジットが改名すればよいのだ。金貨十枚も教会に寄付すれば、坊主たちがうまく取り計らってくれるだろう。心が軽くなった。
 空はすっかり明るくなり、風も落ち着いてきている。
 ヨーハン船長は叫んだ。
「全帆張れ! 遅れを取り戻すぞ。アントワープまでまっしぐらだ!」
   
  一九四五年春、ナチス・ドイツによる併合下のオーストリア、エッゲンベルク城

 日本で秀吉が関白の位をきわめた頃、地球の反対側のオーストリアでも、同じように一介の商人から名門、ハプスブルク家の貴族、ついには総督へと一代で登りつめた男がいた。
 ハンス・ウルリッヒ・エッゲンベルクである。
 秀吉もハンスも社会の底辺から身を起こし、みずからの才覚と勇気で戦乱の世を巧みに切り抜けて、頂点に立ったのだ。
 才能豊かで、外交手腕にたけたハンス・エッゲンベルクは、陰の実力者として、ヨーロッパ最強のハプスブルク王朝の皇帝フェルディナンド二世の信頼を一身にあつめ、中部オーストリアの総督に任命される。
 ただの総督ではない。
エッゲンベルクが総督となった地域は、彼の独立した領土であるとフェルディナンド二世皇帝が認めたのである。このような地位が、ハプスブルク家でない人間に与えられた例は、あとにも先にもない。
 領主としての地位に相応しい象徴を、とエッゲンベルクは中世の趣きを色濃く残す都市、グラーツに城を築く。
 エッゲンベルク城である。
 一見したところ、城というより城館に近い。きらびやかな装飾はなく、どちらかと言えば素っ気ない三階建ての長角の館で、屋根はこの地方独特の赤茶色であり、四隅に三角屋根を持った塔が経っている。
 ハンスの宇宙観を基にした設計で、四つの塔は火、空気、水、土の四代元素を表し、三階の連続する二十四の広間は一日を、建物に開けられた三百六十五の窓は一年を示しているユニークな建物である。
 内部は一転して、美の宝庫であった。
 代々の城主は芸術愛好家が多く、華麗な絵画や見事な美術品でエッゲンベルク城の内部は華やかに飾られている。エッゲンベルク家の男系は長く続かず、城は一九三九年にオーストリア最古の博物館「ヨアネウム」に管理を移されることになった。
 美しい庭園と豊かな芸術品を抱えたエッゲンベルク城は、オーストリア有数の博物館として、輝かしい未来が約束されていたはずであった。
 ところがー。
 トン、トン、トンと慌しく、扉がノックされた。
 城のライブラリーを利用した執務室で、椅子に坐り、どっしりしたテーブルに肘をついて、両手で白髪の頭を抱えていた五十過ぎの男がはっと顔を上げた。
ーまた、トラブルじゃないだろうなー
 鼓動が早くなる。
 男の名はヘンドリック・スペッツといい、「ヨアネウム」から城の美術品の管理に送りこまれてきたキュレイター(博物館・美術館の管理責任者)であった。
 彼は古美術・芸術を眺め、触れているだけで至福の時間を過ごせる人間である。十八歳で「ヨアネウム」に仕事を得るという人生最高の幸運をつかんでから、何千、何万もの作品を取り扱っているが、初めてこの城館に入って感じた、天国に来たようなときめきを、昨日のように憶えている。
 三階の二十四の部屋の天井と壁は、古代神話や歴史、聖書からとられた見事なバロック絵画が描かれていた。ヘンドリックはどの部屋に入っても、時のたつのを忘れた。
 その上、全ての部屋には、見事な調度品とそれらを彩る美術品で溢れていたーそう、二日前までは。
「はい」
 ヘンドリックが応えると、ドアが開いて助手のバーバラが顔をのぞかせた。
 そばかすのある丸くて白い顔が、青くなっている。
「ヘンドリック、少佐が呼んでます」
 立ち上がりながら、彼は尋ねた。
「何処にいるんだ?」
「あのー、 インドの間です」
 ヘンドリックの顔もバーバラに負けず劣らず、青くなった。
 エッゲンベルク城に悪魔が現れたのは一ヶ月前である。
 ソ連兵の一隊だった。
 いきなりやってきて、ここをしばらく接収すると宣言し、居座ったのである。
 ヘンドリックはわけが分からなかった。オーストリアは、数年前、ドイツに強引に併合された、いわば被害者である。ベルリンは陥落寸前で、ナチの兵隊なぞ何処にもいない。何故彼らが、こんなローカルな古都に滞在する必要があるのだろう。
 三十名ほどの小隊を率いているのは、モロトフという少佐で、顎のとがった細い顔の男だった。
 いきなり書類のようなものを突きつけ、口早にロシア語で喋ったので、ヘンドリックは呆気にとられた。一時間ほど片言でやり取りして、やっと彼らの意図が理解出来たのである。
 全員が武装しており、ヘンドリックとしては、どうするすべもない。
 当初、彼らは友好的だった。顔が会えば、笑顔で挨拶してくれる。城内をすみからすみまで探索していたが、美術品にはそれなりの配慮をしてくれていたので、ヘンドリックはひと安心した。少しでも気を和らげてくれるかもと、苦しい食糧事情のなかから、チーズ、ソーセージや飲み物まで、時には差し入れしていたのだった。
 二日前、三台のトラックが到着して、やっと撤退するのかと見守っていると、兵隊たちがいきなり美術品を片っ端から積み込み始めたのである。
 小隊が派遣されてきたのは略奪のためだった。ようするに火事場泥棒である。
 ヘンドリックは激しく抗議したが、彼らはうって変わって冷たい表情で、黒い銃口を突きつけた。ただの脅しではないことは、その眼差しが告げていた。彼は黙って引き下がり、ライブラリーに閉じこもってしまった。数々の美術品が持ち去られているのを見ることは、自分の身を引き裂かれるように辛かったのだ。
 唯一の救いは、壁面に取り付けられた、あの東洋の至宝のような絵画には一切手出しをしていないことだった。
 三階へバーバラと急ぎながら、ガランとしてしまった城内の様子にヘンドリックはショックを受けていた。
 インドの間は三つの小部屋に分かれている。
「どの部屋にいるのかな?」
「三つ目です」
 ヘンドリックは背筋が冷たくなった。何故少佐が彼を呼びつけたのか分ったのだ。
 十七、八世紀のヨーロッパの人々は、インドより東方のアジアの国々のことは、ほとんど分かっていなかった。中国や朝鮮、日本の名前ぐらいは知っていても、その家並みのたたずまいや住んでいる人々の文化、風俗などを識別することは不可能だった。
「インドの間」と呼んだのは、あくまで東インド会社が持ち帰った、東洋の珍しい品々で飾り立てているというだけの意味合いにすぎない。
 インドの間の一つ目の壁面は様々な陶磁器の皿でおおわれており、二つ目は布飾りの間である。
 モロトフ少佐のいる三つ目の間は八枚のパネル状の絵で飾られていた。金地の上に大きな城のような建物とその城下町の人々の賑わいを精緻に描いたものだ。
 十七世紀に東インド会社のガレオン船が、必死の思いで遠い、遠い海の彼方からやっと持ち帰ってくることに成功した貴重な美術品だった。
 エッゲンベルク家が途絶えて二世紀近くたった今、ヨーロッパでこの絵の由来を知っているのはキュレイターの自分だけだとヘンドリックは確信していた。
 彼とバーバラが入っていくと、少佐は部屋の真ん中に突っ立ち、絵をにらみつけていた。手には軽機関銃を持っている。
 ヘンドリックを見ると、ぐいと絵の方に頭を振り、
「ヤポンスキー?(日本?)」
 と尋ねた。
「ナイン(いいえ)」
 ヘンドリックは首を振り、
「キーナ(中国)」
 と答えたが、ドイツ語では不十分かと思い、「China」と英語でつけ加えた。
 モロトフ少佐は黙ったまま、彼に目を据えている。ヘンドリックは落ち着いた素振りで、見返したが、膝はガクガクと震えていた。
 にらみ合っていたのはせいぜい三十秒ほどだろうが、ヘンドリックにはとてつもなく長く感じられた。もう耐えられないと思ったとき、少佐はニヤリと笑い、ヘンドリックにとってつけたような敬礼をし、無言で部屋を出て行った。
 足早に階段を下りていく靴音が聞こえ、しばらくして騒がしくエンジンをふかしながらトラックが立ち去っていく気配がした。
 ヘンドリックは顔を両手で覆い、ガックリと膝をついた。
 勿論、「キーナ」ではなく、「ヤーパン(日本)」の絵だった。もとは八曲の屏風で、それを八枚のパネルにばらばらにし、壁にはめ込んである。描かれている建物は、確かオオサカ城といった。
 ロシア人が四十年前のツシマ海戦(日本海海戦)の惨敗で、どれだけ日本人を恨んでいるか、良く分かっている。正直に答えれば、たとえ絵画でも機関銃で蜂の巣にしただろうことは間違いない。
 美術品の略奪を防げなかった悔しさと貴重な屏風を救った嬉しさで、ヘンドリックは声を上げて泣いた。
 バーバラが、そっと肩に手を置いた。

 第一章

 カリフォルニア、サン・ディエゴ市内から北へ三キロ、ブラックス・ビーチと呼ばれる海岸を見下ろす高台に停まった車から日本人のハネムーナーが降り立った。
 雲ひとつない八月の照りつける太陽の熱気も、真っ青な太平洋から吹き上がってくる潮風がやわらげてくれる。
「うわぁー」と崖っぷちに近づき、腰に手を当てて周りを見回した女性が歓声を上げた。
 姓が谷山に変わった恵美である。
「気持ちいいわあ。素敵ねえ、浩二さん」
「そうやろ。来て良かったやろな」
 得意げに言いながら、手にビーチ・マットとタオルを持って出てきたのは谷山浩二である。
「空にはハング・ライダー、海ではサーフィン、アメリカやねえ」
 恵美は振り返って、にっこりする。薄く口紅をつけただけの形の良い唇から白い歯をのぞかせ、眼を細めて笑う彼女は身震いするほど可愛い。
ーホンマにええ女になったなー
 今朝、モーニングを食べる前に愛を交わしたばかりなのに、もう浩二は股間が熱くなる。
 一昨年、京都、新門前にある古美術商、「谷山」のオーナーである浩二と従業員の恵美は、続けざまに大きな事件に巻き込まれた。
 最初はニューヨークで、半世紀以上、一歩も部屋から出ることなく、人生を過ごした大富豪のひとり娘、ジュリエットの美術品と宝石の盗難事件であり、それから半年もたたないうちに、今度は京都、鹿ケ谷にあるIT長者、エドワードの豪華な別荘での「俊寛の呪い」といわれた怪事件だった。
 もともと惹かれあっていたふたりだが、生死の危機を共に切り抜けてから愛情が深まり、今年の春に結婚式を挙げたのである。
 お互いに相手の息子や娘を気に入っていた双方の両親は大喜びだったし、ふたつの事件で親しくなったFBIのボブやアイリス、国際的な美術商のナオミまで駆けつけて祝ってくれたが、友人のシェフ、直樹のレストランでの披露宴で、浩二を片思いするゲイの竜介が突然号泣し、新婚のカップルは凍りついてしまった。
 本人は、つい感動してと慌てて弁解していたが、事情を知っている連中が、酒のサカナにしていたのは間違いない。
 何かと忙しい春の観光シーズンを控えていることもあり、ふたりはカリフォルニアへのハネ・ムーンを七月まで延ばしていて、やっと一昨日にロサンゼルスに到着したばかりだった。
 昨日は映画ファンのふたりにとっては聖地の本場ユニヴァーサル・スタジオを堪能し、今日は浩二が強く望んで、レンタ・カーで二時間ほどドライブし、このビーチへやってきたのである。
 駐車場の横に海岸へ下りていく木の階段があった。
 ふたりともざっくりしたTシャツにショート・パンツの軽装で、マリンシューズを履き、恵美はパーカーをはおっていた。ビキニとスイムパンツは一緒にバッグに入れて、恵美が持っている。
「下に脱衣所なんかあるの?」
 階段を降りながら、恵美が先をいく浩二に声をかけた。
「あ、う、うん」
 おや? と恵美は首をひねった。浩二はごまかすのが下手だ。恵美にはすぐ分る。
 どうもちゃんとした脱衣所はないらしい。まあ、人目を避けて、着替えるところぐらいはあるんだろう。
 アメリカにいる開放感か、恵美もずいぶん大胆になっている。昨日もユニヴァーサル・スタジオで数え切れないほど、キスを交わした。大阪のUSJではとても考えられない。
 結構調子よく降りてきたつもりだったが、浜辺に到着するまで十分ほどかかってしまった。
「アー、足がガクガクするわ。こりゃ帰りはきつそうやな」
 浩二がぶつぶつ文句を言う。
 平らで優しげな浜辺が左右に広がり、高い崖が屏風のように、なだらかに湾曲しながら取り囲んでいる。
「ここの砂、気持ちいいわ」
 サーファーの姿が見える左手の浜辺へ向かおうとする恵美の腕をつかみ、「こっちや」と浩二は人の気配があまりない右手へ歩き出した。
 そういうことかと恵美は浩二にピッタリ寄り添い、二人はお互いの身体に手をまわして、歩きながら長いキスをした。
 ふたりの三十メートルほど先を、上半身裸のショート・パンツの白人男性が歩いている。
「ねえ、このビーチ、来たことあるの? 崖下にあって目だたないし、ちょっとした穴場で・・・う、わ、わ、わ・・あのひと、パンツ脱いだ!」
 前方を行く白人男性がいきなりパンツを脱ぐと、そのまま手に持って、全裸のまま歩き続けている。
「アメリカ人のヘンタイがいるやんか。止めよう、こんなとこ」
 恵美は立ち止まって浩二を引っ張った。
 彼はニヤニヤして、驚いてはいない様子だ。
「どうしたん?」
 口に出して訊いたとたんに、察しがついた。
「あ、なぁーんだ。そういうことか。こっち側はヌーディスト・ビーチなんやね、もう、最初からちゃんと教えといてよ」
 裸の男が向かっている先には、二、三十人ほどの人影がくつろいでいる。遠目だが、身に何かつけているものは誰もいないようだ。
「ヌーディスト・ビーチにはいかがわしい目的の人間が集まるところもあるようだけど、ここは純粋にナチュラリストばかりで知られているとこなんや。いやらしい雰囲気はまったくないよ」
「よう知ってるんやね」 
 恵美はちょっと嫌味を言ってやる。
「気が進まないなら戻るけど、こんな経験、滅多に出来ないよ」
 恵美はじっとヌーディストらしき人影を見詰めていたが、相変わらず決断は速い。
「いいわ。とにかく行ってみようか」
 と言って歩き出した。
「浩二さん、ここは初めてやないんやろ。キャロラインと?」
「そうや」
 浩二は恵美と恋仲になってからは、ずっと彼女一筋である。もっとも、どさくさまぎれに竜介に唇を奪われたことはあったが。
 過去の女性経験は全て恵美には話してある。
 キャロラインは浩二の初体験の相手で、アメリカのエア・ラインのフライト・アテンダントだった。
 六っ年上だが、魅力的な女性で、関係は数年続いた。浩二がセックスで女性の肉体の機微を良く心得ているのは、キャロラインの薫陶?のたまものである。
「ロスでデートしたときに連れてきてくれたんや。変な意味でなく、開放感があって、とても気持ちがいいよ」
 その言葉はウソではないが、浩二の本心は違う。
 浩二は初めて恵美と愛し合ったとき、その裸身に接して驚いた。
 キャロラインは常に身体のケアを気にかけているだけに、グラマラスでセクシーなボディを維持しており、さすがに白人女性のスタイルは違うなと感嘆したのだが、恵美もけっして負けてはいなかった。
 キャロラインの豊満さには一歩ゆずるとしても、恵美には小股の切れ上がった、引き締まった美しさがあった。
 なによりも肌が違った。しっとりとして、吸い付くような、それでいてシルキーな滑らかさがある。キャロラインなら地団太を踏んで口惜しがりそうだ。
ー日本の女性は世界一やー
 子供っぽいとは思うけれど、アメリカ人にちょっと自慢してみたい。
 なんとか恵美をくどいて、とロスからのドライブ中はわくわくしながらやって来たのだが、恵美がさほど抵抗感がないようなので、かえって足取りが重くなってきた。
 自分ひとりが勢い込んでいたのが、なんだかバカバカしく思えてくる。
 今なら迷い込み、ヌーディストに驚いて引き返すアジア人のカップルに見えるだろう。
 浩二ひとりがぐずぐず考えているうちに、もう近くまで来てしまった。
 ちらりと恵美を見ると、興味津々といった様子である。
「なんだかドキドキするね」
「やっぱり戻ろうか」
 と思わず期待を込めて言ったが、
「ここまで来て、引き返すのはカッコ悪いやん」
 あっさり切り返され、逆に浩二が引っ張られるような感じで、ヌーディストのグループに足を踏み入れてしまった。
 カップルが多く、若者や、中年からけっこうなお年のひとたちまで様々だ。
 眼があうと笑って会釈してくれるが、決してジロジロ見詰めることはない。
 人はいるけど、いないような気楽さがあって、ふたりはたちまち肩の力が抜けていった。
 崖下に適当なスペースを見つけ、ビーチ・マットを敷くと腰を下ろした。
「な、どうてことなかったやろ」
「ほんまや。混浴の温泉へ来たみたい」
「それはないやろ」
 浩二は吹きだした。
 キョロキョロしていた恵美は、浩二を見て微笑んだ。
「ウチラだけ服着てるの、なんか変や。かえって恥ずかしいわ。それに汗かいたから泳ぎたいし。ね、脱ぎましょう」
「え、ほんまにええんか」
 浩二が言い終わらないうちに、恵美はすっくと立ち上がり、パーカー、Tシャツ、パンツにマリンシューズをあっと言う間に脱ぎ捨てた。
 さすがに周りの視線がいっせいに注がれた気配がする。
「さあ、行くわよ」
 恵美は海岸へ向かって駆け出した。
 浩二も慌てて身に着けたものを脱ぎ捨て、あとを追った。
 黒い髪をなびかせ、自然体で駆けてゆく恵美は、野生動物のような躍動感にあふれている。
 浩二は感動していた。妻の裸身を見せびらかせて自慢したい、そんな浅はかな気持ちはとっくに消えている。
 海に飛び込んだ恵美は、鮮やかなクロールで沖に向かって泳いでいく。
「Oh, she is a great swimmer」(彼女、凄い泳ぎ手よ)
「Amazing!」(素晴らしいな!)
 背後から感嘆の声が上がったが、浩二は波打ち際で突っ立ったままだった。
 恵美は中学、高校と水泳部の選手だった。高校では京都府下のレコードを持っている。
 学生時代は映画一辺倒だった文化系の浩二は、せいぜい二、三十メートルほどしか泳げないプール育ちで、海には恐怖感がある。
 沖に向かって泳ぐのは、彼にとって狂気の沙汰で、ハラハラしながら恵美を見詰めるしかない。
 恵美の頭が小さくなって、どこまで行くのかと不安が頂点に達しようとする時に、やっとこちらに戻り始めた。
 上がってきたら叱りつけてやろうと思っていた浩二は、海面から立ち上がって、微笑みながら近づいてくる彼女に息を呑んだ。
 紺碧の海を背にした肢体は、濡れた黒髪が白い裸身にまつわりつき、形の良い乳房とくびれた胴、はちきれそうな腰と太ももが、太陽の光りを受けて輝いている。
ーボッティチェリのヴィーナスの誕生やなー
 茫然としている浩二に近づいてきたヴィーナスはキスをした。しょっぱい味がする。
 声にならない羨望のため息が、背後から伝わってきた。
 今や、恵美はブラックス・ビーチのクィーンだ。
「どうしたの? 泳がないの」
 恵美が浩二の手を取って、海にいざなう。
「うーん、海は・・・」
 恵美はニヤッとする。
「大丈夫よ。岸と平行にしか泳がないから」
 浩二はついていくしかない。
 どうやらこの日は、ハネムーンのハイライトになりそうだ。
 だが岸辺の一隅から邪悪な視線が執拗に恵美にそそがれていることには、ふたりとも気がついていなかった。

 浩二と恵美はロサンゼルスのダウンタウンにあるボナベンチャー・ホテルにステイしている。
 銀色に輝く円形のタワーをいくつか束ねたような建物が印象的なホテルである。
 ブラックス・ビーチの翌日、ホテルのバンケット・ホールで、全米浮世絵愛好会が主催する「第二十五回ウキヨエ・オークション」が開催された。
 ふたりがハネムーンを七月まで延ばしたのは、このオークションに参加したかったのも理由のひとつである。
 十ドルさえ払えば誰でも参加出来るオープンで気楽なオークションだ。格式あるサザビーズやクリスティーズのように、出品にも厳しい審査はない。
 だから浮世絵といっても、江戸後期から幕末、明治、昭和初期あたりの版画から、日本観光のお土産で買った複製版まで混じって出てくる。高い旅費を払って、わざわざ日本からやってくる業者はあまりいないので、お宝が出れば、意外に安く手に入れることが出来る。
 浩二もホームランとはいかなくても、二塁打ぐらいの掘り出し物があれば、旅費が浮くかもとひそかに期待しているのである。
 受付は九時から始まり、十ドルを払って、名前と住所の登録を済ませると、直径十五センチぐらいの丸い番号札が貰える。競りにはこの札を掲げるのである。
 出品物の下見は別室で午前中に行なわれ、ランチ休憩をはさんで、午後からオークションのスタートとなった。
 会場には八十脚ほどの椅子がおかれ、空席はほとんどない。
 浩二と恵美は最後部の列に坐った。あまり目だちたくないからである。
 日本人、それもどうやら業者らしいと見られると、競りがやり難くなることが多い。本場の専門家が眼をつけたものなら価値があるものに違いないと勝手に憶測し、競りに参加する者が増える。結果として意外に落札価格が高値になってしまうことがあるからだ。
 正面には低いステージがあり、大きなモニターが置かれている。
 会場を見渡せる左の壁際に、高いテーブルを前にしたオークショナーが立っていた。
 ロット・ナンバーが呼び上げられると、競りにかけられる版画の映像がモニターに映り、係員が現物を呈示する。
 オークショナーが声を上げた。
「Lot number 101. Kunichika. Portrait of Kabuki player. Year of 1885. Some stains, otherwise excellent condition. How much may I start to?」(ロット・ナンバー101。 国周。 歌舞伎役者の肖像。 1885年  いくつか染みがありますが、状態は良好。いくらから始めましょう?)
「Fifty dollars」(五十ドル)
 席の中ほどから女性の声が上がる。
「Fifty dollars is bid. Thank you.  Say to seventy five?」(五十ドルつきました。有難うございます。七十五ドルは?)
 別の場所から丸い番号札が挙がった。
「 Seventy five dollars is bid. Can I say one hundred?」(七十五ドル出来ました。百ドルいけますか?)
 最初に声をかけた女性が番号札を軽くふる。
「Thank you. One hundred is bid. How about one twenty five?」(有難うございます。百ドル出来ました。百二十五はいかが?)
 もう動きはない。
「Can I say one twenty five?・・・・・Fair warning and last call. ・・・Sold to the lady of number 25」(百二十五ありませんか?・・・・・よろしいですか、ラスト・コールですよ。・・・25番のレディにおちました)
 オークショナーは丁寧に、ゆったりとしたペースで競りを進めた。
 恵美は目を丸くして浩二を見た。
「のんびりしたオークションやな。うちらの交換会とは全然違うのね」
「そりゃシロウトさん相手やからや。商売人の競りは生活がかかった鉄火場やから」
 参加者は心からオークションを楽しんでいるように見える。時々笑い声が聞こえたり、拍手がおこったりした。
 恵美はうらやましく思った。骨董や美術を扱う業者の交換会や道具市の競りは緊張感があり、それなりに刺激もあって、面白いが、やはりキツネと狸の化かしあいのような所もある。しかも一点、一点の競りにかける時間が速い。瞬時の迷いで獲物を逃がすこともある。一日市場にいるとぐったりと疲れてしまう。
 たまにはこういう海外のオークションに出かけてくるのもいい。浩二さんに頼んでみようと恵美は決めた。
 浩二と恵美は手頃な版画を数点買った。別に買えても、買えなくてもいいと気楽な気分で競っていたので、案外安値でおちた。
 ふたりが本当に狙っていたのは江戸時代後期の浮世絵師、英泉の三枚続きの版画であった。三人の花魁を描いている。退廃的な美人画で知られ、春画の名作も多い。一般的ではないが、好事家のファンには根強い人気がある。二十五万前後でさばける自信はあった。
 このオークションなら、まず高値はつかないだろう。
 一ドル百円として、とにかく千ドル、十万までは競ろうとふたりで決めていた。
 競りは百ドルから始まり、ポンポンとテンポよく上がっていって、四百ドルで止まった。
 恵美も浩二も関心がない様子で眺めているだけだ。
「四百五十ありませんか?・・・よろしいですか」
 オークショナーが会場を見回した。ラスト・コールの声をかけようとしている。
 それでも恵美は素知らぬ顔だ。
 思わず浩二が恵美を肘で突付こうとしたとき、恵美の手がすっと動いた。
 オークショナーが目ざとく見つける。
「四百五十出来ました。有難うございます。五百どうですか」
 相変わらず絶妙のタイミングで仕掛ける恵美に、浩二は舌を巻いた。競り相手が、どうやらおとせそうだと気を緩める一瞬をつくのである。
 気落ちしたのか、四百ドルをつけたビダー(競り手)は小さく首をふった。
ーやったな。四百五十なら旅費ぐらい軽く浮かせるぞー
 浩二は内心ニンマリした。
「五百出来ました」
 思いがけず、弾んだオークショナーの声がして、恵美と浩二はぎょっとした。新しいビダーが現れたのだ。
「有難うございます。六百いけますか?」
 ベテランのオークショナーはカンがいい。競り合いになりそうだとにらんで、レイズを一気に百ドルに上げた。
 もう隠しても仕方がない。恵美はオークショナーに合図した。
「六百出来ました。七百はいかが?」
 恵美はオークショナーの視線を追った。どうやら新しいライバルは、右方向にいるらしい。
「七百出来ました。八百は?」
 分かった。ふたりの前列の右端に坐っている白人の若いカップルだ。男の方が手に持った札を挙げた。
「八百、有難うございます。九百いかがですか?」
 オークショナーはもうハッキリ恵美に視線を向けてきた。競りは恵美と白人の若い男とのマッチ・レースになったのだ。他人のケンカほど面白いものはない。どこかのんびりしていた空気が急に熱くなった。会場は息を呑んで二人のやり取りを見詰めている。
 これだけ注目を集めると、お互い面子がかかってくる。
ーまずいことになったわー
 相手も簡単に引き下がりそうではない。最悪の展開だった。
 オークショナーが自分に視線を据えているので、恵美は小さくうなづくだけである。
「有難うございます。九百出来ました。千ドルいけますか?」
 オークショナーが若い男を見た。
 恵美が浩二と眼をあわした。相手が千ドルを受ければ、次は千百になり、リミットを越える。
ーどうする?ー
ー行けー
 浩二の指示は明快だった。痩せてもかれても貿易屋「谷山」の四代目である。アメリカで素人に勝負を挑まれ、負けるわけにはいかなかった。
「千ドル出来ました。有難うございます。千百はいかが?」
 恵美がうなづき、競り値は千二百、三百、四百と延び、とうとう恵美は浩二を見て、もう止めようとうったえた。儲けどころではない。売れないリスクのほうが大きい。
「千五百はいけますか?」
 オークショナーが尋ねる。浩二は腹をくくった。
 恵美の手を握って、任せろと合図し、
「二千ドル」
 と声をかけた。
 一気に五百ドル上げて値をつけたのである。
 会場がざわついた。
 競り市では「飛ぶ」と言う。
 商売人なら誰でも、競り値は互いに小刻みに上げて、出来るだけ低く手に入れたい。一気に飛ぶのは高く買いすぎる恐れもあり、勇気がいるが、そのかわり相手を気迫で圧倒出来る。
「二千ドルつきました」
 オークショナーは若い男を見た。五百も飛ばれた以上、もう百刻みは不可能である。
「二千三百、いかがですか?」
 さすがに若い男からの反応は消えたようだ。
「二千ドル、ワンス、二千ドル、ツワイス、ラスト・コール・・・二千ドルでおちました」
 会場からは嘆声と勝者への拍手が起きた。
 恵美があきれたように浩二を見たが、笑い出した。
「旅費を稼ぐどころじゃなかったわね」
「仕方がないよ。日本人としては引き下がれないよ」
「好きよ。そんな浩二さん」
 恵美は軽く浩二の頬にキスをした。
 何気なく若い男の方に目をやると、こちらを見ていて、笑顔で会釈した。恵美も軽く頭を下げた。悪い感じはしない。その隣りの連れの女性の方は冷たい視線を向けている。
 ふたりは立ち上がった。もうたいしたものは残っていないし、どっちにせよ、予算は使い果たしてしまった。
 午前中、下見の会場だった別室が決済場になっている。番号札を出し、おとした品物を受け取り、カードで支払いを済ませた。
 会場の外の廊下に出ると、競り合った若いカップルが立っていた。浩二と恵美を待っていたようである。
 ふたりとも映画のオーディションを受けてもおかしくないような顔立ちだ。贅肉のない身体を、カジュアルだが、いいテイストの装いできめている。女性は背が高く、すらっとしたパンツ姿で抜群のスタイルである。ちょうど版画が入りそうなサイズのポートフォリオを提げていた。
 男性がニコニコしながら握手を求めてきた。
「ジム・ビーンです。ナイス・ビッド! 見事に負けました。ディーラーの方ですね」
 浩二は握手しながらうなづいた。
「やっぱり。さすがだ」
「コウジ・タニヤマです。いや、正直ギブ・アップ寸前でした」
「タニヤマ? ひょっとしてキョウト、シンモンゼンのタニヤマさんですか」
「はい。ご存知ですか?」
「勿論ですよ。日本のアートに興味があるもので、『タニヤマ』を知らないアメリカ人はいませんよ」
 店の現状が身にしみている浩二は、いささか面映いが、悪い気はしない。
 興奮気味のジムは連れの女性を紹介した。
「ドロシーです」
「ハロー」
 ほほえんで軽く頭を下げたが、眼は笑っていない。
 浩二も恵美を見た。
「ワイフのエミです。」
「よろしく」
 恵美はわざと日本語で言って、頭を下げた。
「コチラコソ」 
 ジムはにこやかに日本語で返す。
「おや、日本語を喋られるのですか」
 浩二が尋ねると、
「チョット、ダケデス」
 ジムは親指と人差し指で小さな隙間をつくってみせた。
「思うにー」とジムは浩二と恵美を見比べながら、「おふたりはハネムーナーでは?」
「はい。分かりましたか」
「いやいや、オークション・ルームはおふたりの熱気で燃え上がってましたよ。素敵な奥様だ。ミスター・タニヤマはラッキー・ガイですな」
 浩二は苦笑しただけだったが、恵美は、軽薄そうなヤツと、最初の好印象がガラリと変わった。
「これはいい人にお会いしました」
 ジムはチラッと辺りを見回し、改まった様子で切り出した。
「実はちょっと面白い版画を持っているのですがね」
「ほう、どのような?」
「ホクサイのアカフジです。ファースト・プリントですよ」
 ジムは鼻の穴をふくらませて言った。
 ちょっと面白いどころではない。浩二は耳を疑った。
「北斎の赤富士の初刷り? 失礼ですが、本当ですか?」
「はい、間違いないです」
 有名な北斎の富嶽三十六景のうちでも赤富士として知られる「凱風快晴」は特に人気が高いが、先ず市場に出ることはなく、ことに初刷りで状態が良ければ、億は間違いなくいくだろう。
ホンマかいな、こんな若造が、と恵美は自分の年をほっておいて、ジムの顔をジロジロ見詰めた。
「へえ・・」
 浩二も信じられないような様子だ。
「いや、不審に思われるのも当然です。まぼろしの赤富士と呼ばれるぐらいですからね。実は最近サンフランシスコで高齢の大富豪が亡くなれたんですが、この方の膨大なアート・コレクションを整理している際に見つかったのです。もともとその方の父上の遺品の中に混じってたらしく、受け継いだまま、眠っていたのです」
「コレクションの整理はあなたが管理しておられるのですか、ミスター・ビーン?」
 その若さで、と言外に匂わせて浩二は尋ねた。
 ジムはちらっとドロシーと視線をかわした。
「これは内密にしていただけますか。もう引退しましたが、私の父はメトロポリタン・ミュージアムの東洋美術のキュレーターでした。その縁で、あちこちから遺されたコレクションの評価を依頼されることがありまして」
「なるほど。で、それをお売りになりたいと?」
「そうです」
 素性の知れない人間から持ち掛けられたうまい話は百パーセント信用するな、と浩二は祖父や父からくどいほど聞かされていた。だがジムが言っていることは、信憑性があるように思える。
「どうして私のような一介の業者に話をされるんです。サザビーズかクリスティーズに出品されたほうが確実だし、高い評価がつくと思いますが」
「お言葉ですが、謙譲が過ぎますよ。父は私に『タニヤマ』は十九世紀からつづいている名店だと教えてくれました。サザビーズのような大きなオークション・ハウスに持ち込むとは避けたいんです。あまりおおやけにはしたくないと相続人が望んでまして」
 勿論、相続人が表に出ない現金を必要としている場合も実際あるが、関係者が密かに持ち出した可能性も否定出来ない。
 正直なところ今の「谷山」では、自力でそんな高額の商品を買い取れる資金はない。しかし『赤富士』なら飛びついてくる美術館や宗教団体、コレクターはいくらでもいた。斡旋するだけの手数料ビジネスでも一千万ちかく稼げるのも夢ではない。
 確かにリスクはあるが、ビッグ・ビジネスのチャンスだ。さすがに「谷山」やなあ、と業者仲間を見返してやりたい気持ちもある。
 迷っているなと浩二の横顔を恵美は気掛かりそうに見た。最初の警戒心が薄れている。それどころか、版画がホンモノらしいなと信じ出している。
 一番危険な兆候だった。うまくいったことばかりを考え、冷静な判断が出来なくなるのである。 
 浩二の背中を恵美がちょっと突いた。振り向くと、気をつけて、と目顔で訴える。
 浩二は黙って顔を戻すと、ドロシーが提げているポートフォリオを見た。
「今お持ちなんですか?」
「はい」
「拝見することは出来るんですか?」
「勿論ですとも」
 ただここでは、という風にジムは廊下を見回した。
「ではちょっと私たちの部屋へ行きましょうか」
「いいですよ」
 それは、と恵美が口を開く前に、三人はもう背を向けて歩き出していた。
 浩二はクリント・イーストウッドの熱狂的なファンで、出演作は全て見ている。
 クリントが大統領警護官に扮した「ザ・シークレット・サービス」は、中心となる舞台がボナベンチャー・ホテルなので、ロスに滞在する時は必ず泊まる。
 フロントやスタッフにも顔見知りが多く、今回もハネムーン・ステイということで、チェック・インした当日は部屋にフラワー・アレンジメントとワインが用意されており、恵美が飛び上がって喜んだ。
 二十四階のスイートを取っている。
 全面ガラスでロス市街が見渡せ、ゆったりとした室内は明るい。
 「楽にしてください」と言いながら浩二はドロシーからポートフォリオを受け取り、坐ってテーブルに広げた。
 取り出した二枚折りの台紙を慎重に開く。ドロシーが横に立って見守っている。
 中に入っていた赤富士の版画をひと目見た浩二の表情が曇った。
「ミスター・ビーン、からかっては困ります。これはファースト・プリントどころか、今出来の複製でー」
 カチャッとかすかな音がしたので、目を上げた浩二は凍りついた。
 開いたバタフライナイフを、ベッドの端に腰掛けた恵美の青白い頬に押し当てたジムが薄笑いを浮かべている。
 同時に浩二の頬にも冷たいブレードが押し付けられ、顔をよせたドロシーが無表情に、「動かないで」とささやいた。
 ジムが口を開いた。
「すまないね、ミスター・タニヤマ。断っておくが、我々は君たちを傷つけるつもりはない。抵抗しない限りはね。だが君がちょっとでも変な動きをすれば、驚いてナイフを持つ手に思わず力が入ることもある。見れば分かるように、この刃先は非常に鋭い。ほんのちょっぴり彼女の美しい顔に切り傷をつけて脅すつもりが、頬を切り裂き、口の中までザクザクにしてしまうかもしれない。もう舌をからませる甘いキスが二度と出来ないのはごめんだろう」
「同じことよ、マダム・エミ」
 ドロシーが恵美に言った。
「ミスター・タニヤマはセクシーでカッコいい耳をしている。ふたつとも揃っているほうがいいよね」
 浩二は恵美を守るためなら、どんな要求も聞くつもりだった。
「分かった。恵美、絶対抵抗するな」
「はい。浩二さん、あなたもよ」
 ふたりは視線をからませた。
「結構、結構。ドロシー」
 ジムが目配せすると、ドロシーはナイフを口にくわえ、パンツのポケットから手錠を取り出した。一方を浩二の手首に、他方を彼の坐っている椅子のひじ掛けにはめる。
 再びナイフを手にすると、空いた方で浩二のポケットをさぐり、セルを取り出した。床に放り出し、踏みつけて壊す。
 ジムは器用に手首を回転させて、バタフライナイフを閉じると、ベッド・サイドテーブルに置いた。
 恵美にも、出せ、と手を突き出す。彼女からセルを受け取ると、同じように靴で踏み砕いた。
 浩二も恵美も、内心、ほっとした。少なくとも命を奪うつもりはないようだ。
「ミスター・ビーン。帰りのフライト・チケットとパスポートさえあればいい。金でも何でも持っていってくれ。そうだ、あの英泉もだ。警察にも言うつもりはない。私たちは京都に戻りたいだけだ」
「勿論、無事に戻れるとも。金も英泉もいらない。ちょっとお遊びに付き合って欲しいだけだよ」
「お遊び? 何のことだ?」
 ジムはニヤニヤしながら恵美を見た。
 浩二はふたりを見比べて、はっとした。
 思わず身を乗り出す。椅子がガタガタと揺れ、ドロシーがナイフを構えた。
「お願いだ。それだけは止めてくれ。自分は何をされてもいいから」
 ジムは恵美から目を離さない。
「あいにく、そんな趣味はないんでね」
「浩二さん、駄目!」
 恵美が日本語で鋭く叫んだ。
「こんな山猿が何をしようとかまへん。相手はケダモノやから。私たちにはもっと大事なものがあるでしょう。それを忘れないで」
 浩二は恵美の眼をのぞきこんだ。驚くほど強い意志の力が光っている。
 彼は肩の力を抜いた。同じように日本語で返す。
「そうやな。そのとおりや。恵美、愛してるよ」
 浩二はゆっくりと身を椅子にあずけ、黙ってジムを見た。
 ふん、とジムは肩をそびやかした。
「仲のいいことだな。それも今のうちだぞ」
 恵美を見下ろし、
「脱げ」
 と命じた。
 恵美は機械仕掛けのマネキン人形のように無表情に立ち上がり、パンツとショーツを取ると、ベッドに仰向けに寝て脚を開いた。
 そのまま微動だにしない。
 天井を見ている顔には何の感情も浮かんでいなかった。
 浩二は奇妙な違和感を覚えた。無力な子羊のはずなのに、この場を支配しているのは恵美のように思えたからだ。
 気おされしたようにジムは突っ立っていたが、のろのろとパンツを下ろし、下半身をむき出しにする。
 驚くほどの巨大さだが、だらりと垂れ下がったままだ。
 部屋が静まりかえった。
 ジムが戸惑ったようにドロシーを見た。
「どうしたの。それがあなたの仕事でしょう」
 ドロシーの声は冷ややかだ。
「ファック!」
 ジムが呻いた。
 突然、サイドテーブルの電話が鳴り、全員がびくっとした。
 出るな、とドロシーが手で合図した。
 電話は鳴り止まなかった。
「しつこいな」
 ドロシーが顔をしかめる。
 どうやら電話をかけてきている人物はあきらめることを知らないようだった。
「電話に出て追い払いなさい」
 たまりかねてドロシーが浩二に言った。
「余計なことを喋れば、どうなるか分かってるわね」
 ジムがサイドテーブルからバタフライナイフを取り上げ、くるくるとまわしてブレードを出し、
 再び恵美に突きつける。
 浩二は手錠で結び付けられている椅子を引きずるようにして電話に手をかけた。
 ドロシーがその手を押さえる。
「耳から少し離して、相手の声を聞かせるように」
 浩二はうなづき、電話をとった。
「はい」
『コウジ! お楽しみの邪魔をしたかな。そうならすまないね』
「ボブ! とんでもない。掛けてくれて嬉しいよ」
『セルに掛けたんだが、君もエミにもつながらないぜ。どうしたんだ?』
「タイミング悪く、両方とも電池切れなんだ」
『そうかい。エミもそこにいるのかい?』
「ああ、元気だよ」
『実はFBIの仕事でロスに来ていてね、今、下のロビーにいるんだ。これから上がっていくよ』
「えっ、いや、それはちょっと困るんだ。あとにしてくれないか」
『何だ、もう喧嘩でもしてるのか。顔だけ見れば、すぐ退散するよ』
「あ、ボブ、ダメだ! 待ってくれ、本当に・・・」
 ボブは一方的に電話を切ってしまった。
 どうしょうもなかったよ、と浩二は手を広げてドロシーを見る。
「あんたたち、ツイていたね」
 ドロシーはバタフライナイフを口にくわえ、素早く浩二の手錠をはずした。
 ナイフと手錠をポケットにしまい、
「行くよ」
 ジムに言い捨てるとポートフォリオを取り上げ、ドアに向かう。
 ぶざまな格好でパンツを上げながらジムがばたばたと後を追った。
 ふたりが消えた途端、恵美はベッドから飛び起きて浩二にすがりつき、わっと泣き出した。
「浩二さんを絶対傷つけたくなかった! ああするしかなかったの。ごめんなさい」
 泣きじゃくる恵美を浩二はしっかり抱きしめた。
「分かってる。分かってるがな。ホンマに辛かったやろ」
 ドアがノックされた。
「ボブやな」
 恵美は、涙をぬぐいながら立ち上がって、ドアに小走りで向かう。
 浩二は慌てて叫んだ。
「恵美、下、まだスッポンポンのままやで」

 ホテルのロビーには小さな噴水があり、五階まで吹き抜けのアトリウムで、見上げるとロスの空が見える。
 ユニークな形のガラス・エレベーターが壁にへばりつくように取付けられている。ロビーを見下ろしながら上昇し、アトリウムの屋根を抜けると、いきなり空中に放り出されたような感覚になり、高所恐怖症ならたじろぐ。ホテルの名物になっている。
 映画「ザ・シークレット・サービス」のクライマックスでは、このエレベーター内でクリントが犯人役のジョン・マルコヴィッチと格闘になり、暗殺者は銃弾が砕いたガラスの穴からアトリウムの屋根へ落下して、最後をとげる。
 噴水を囲むように置かれたロビーのソファに浩二と恵美が、FBI捜査官のボブ・マコーミックと向かい合って坐っていた。
「エミでも泣くことがあるんだね。びっくりしたよ」
 マコーミックがからかうと、恵美は口をとんがらせた。
「口惜しかったのよ。あんなやつに馬鹿にされて」
「電話でのボブの口振りが何時もと違って強引だっただろう。どうやら部屋の状況が分かってくれているんじゃないかとは思ったんだけど。本当に助かったよ」
 浩二はあらためて頭を下げた。
「いや、運が良かったんだよ。ここのエレベーターはシースルーだから、君たちふたりとあのカップルが一緒に上がっていくのを偶然見たんだ。ちょっと気になったんで、セルにかけて確かめようとしたんだが、ふたりともつながらない。これはまずいと思って、フロントから部屋にかけた。なかなか出なかったのでひやひやしたよ。やっとコウジがとった時は本当にほっとした。だが声の調子が硬い。これは脅かされているとピンときたから、FBIの名をわざと出して、すぐ上がっていくと一方的に宣言したんだ。奴らも受話器に耳を寄せて聞いてたんだろう」
 浩二がうなづいた。
「現行犯で逮捕できなかったのは残念だけど、何よりも君たちの安全をはかるのが最優先だからね」
「ボブが結婚式で私たちのハネムーンの予定を聞いていたけど、まさか本当にニューヨークから来てくれるとは思わなかったもの。とても嬉しいわ。あのふたりをひと目見て怪しいと思うなんて、さすがFBI。命の恩人ね」
「うーん、実を言うとー」
 マコーミックは顎をなぜた。
「僕は任務であのカップルをつけてたんだ。君たちが奴らとエレベーターに乗り込んでいるのを見た時は驚いたよ。で、ハネムーンでロスに来ると言っていたのをやっと思い出したのさ」
「なあ~んだ。感心して損したわ」
「そう言うなよ。電話一本で君たちを救ったんだぜ」
「最初はオークションの競りで打ち負かした恨みかなと思ったんだ。ちょっと強引なやり方だったんでね。でも落とした版画も金もいらないと言われ、狙いは恵美を辱めることだと分かってパニックになってしまった。救ってくれたのは恵美の冷静さだったよ」
「とんでもない。浩二さんさえ無事なら私はどうなってもよかったよ。それだけ」
「恵美、君に何かあったら、僕は生きてられないよ。分かってるだろ」
 恵美は微笑み、二人は手を握り合った。
 アホくさとマコーミックはため息をついた。
「おふたりさん、続きは部屋でやってくれないかな。こっちはひとりなんだぜ」
 三人とも笑い出したが、恵美はふっと真顔になった。
「あの山猿、昨日ブラックス・ビーチにいたわよ。ひょっとして私たちをつけていたのかしら」
「エェーッ!」
 浩二は仰天した。
「どうしてオークション会場で言ってくれなかったんだよ」
「だって最初は分からなかったのよ。ほら、あの、パンツを下ろしたので、やっと・・・」
 恵美は赤くなった。 
 マコーミックは爆笑した。浩二が面白くなさそうなのが愉快だ。
「やつはよっぽどのデカチンなんだな。と言うことは、君たちはブラックス・ビーチのヌーディスト・サイドへ行ってたのか。ふ~ん」
 ボブは微妙な視線で恵美を見た。
「おい、おい、ボブ。君がいたら行かなかったぜ」
「残念ながら僕はこのホテルで女の方に張り付いていたよ。ひょっとしたら彼らの狙いはオークションよりも、エミだったのかもしれないな」
「あんな山猿に恨みを買う覚えは無いわ」
「やつはチェスの駒かもしれないぜ」
「じゃあ指し手は誰?」
 全員が黙ってしまった。
「FBIが出てくるのなら、奴らは相当なワルなのか」
 浩二が尋ねた。
「ーとは、言えないな。少なくともマルコヴィッチのような暗殺者でも、シリアル・キラーでもない。もしそうなら僕が飛び込んでたよ」
 恵美が浩二の膝を突いた。
「ボブが出てくるのら、きっとアート関係よ。ね、そうでしょう」とボブをうかがう。
 マコーミックはNY支局の美術犯罪班捜査官だ。
 犯罪班といっても、実際は彼ひとりで動いているようなものである。
 意外なことに、FBIにACT、美術犯罪班が出来たのは最近のことである。一九九五年まではアメリカの美術館や博物館から、どんな貴重な美術品や遺物を盗んでも、連邦犯罪にはならなかった。ただの盗難品扱いだったのである。
 捜査官たちはマフィア、銀行強盗、汚職政治家、麻薬犯罪など、世間の耳目をあつめる犯罪に集中しがちで、専門的な知識と地道で長期間にわたる捜査が必要とされる美術犯罪は日の当たりにくい存在だった。
 九〇年代から美術品の価値が高騰し始め、二〇〇五年にかけて総額十億ドルを越える絵画盗難が発生し、マネーロンダリングの手段にも使われ出して、ついにFBIも重い腰を上げ、美術犯罪班が出来たのだ。
 それでも現在フルタイムで潜入捜査をつづけているのは、マコーミックひとりである。
「ま、そうだな。これは内密にしておいてほしいんだけど、一年程前から少し気になる動きをしている組織が現れたんだ。今のところ、犯罪にかかわっているらしい形跡は一切ない。だから我々も表だって動き難いんだけどね」
「また美需品を利用した密貿易?」
「違う」
「分かった。国際的なアートの偽造グループ!」
「ハズレ」
「もう、勿体ぶらないで教えなさいよ」
「問題は遺産として相続されたアート・コレクションの動静なんだよ」
 浩二と恵美ははっとして顔を見合わせた。
「ジムはまんざら嘘っぱちを並べたてたわけではないんだな」
「ほう。彼はコウジに近づくために、そんなことを喋ったのか」
「父親が元メトロポリタン・ミュージアムのキュレターだと言ってたわ」
「そいつは嘘だな。昨年、ニューヨークとサンフランシスコで亡くなった富豪がね、それぞれ結構な価値のある美術品のコレクションを残したんだが、そっくり同じ組織に寄贈されたことが分かったんだ。ニューヨークにオフィスがあるんだが、ET Philosophical Research Society, 略してETPRSだ」
「そのまま訳せば、地球外生命体哲学科学的探究協会とでも言うのやろか」
 恵美は浩二に日本語で尋ねる。
「スピルバーグの映画のようにETをExtra Terrestrialのことだとすればそうやけど、えらいベタなネーミングやないか」浩二はマコーミックを見た。
「SFの世界に出てくるような名前の団体だね。どこかで聞いたことがあるような気もするんだが・・・・・何か宗教的なものと関係がないかい?」
 マコーミックは首を振った。
「分からない。あったとしても強くない。オフィスはマンハッタンにあるんだ。たいして大きくない。内装はシンプルだが、センスはいい。今どき珍しく、高価そうな美術や芸術、科学の本で壁面は埋め尽くされている。ちょっと圧倒されるような雰囲気がある。この組織は金を持っているぞ。財務も法務関係も隙がない」
「ボブが行ったのか」
「ああ。ニューヨーク・タイムズの美術評論担当と偽ってな。寄贈された美術品について訊きたいと申し込んだんだ。応対は丁寧だったが、とりつくしまもなかったよ。会員の紹介が無いと駄目だと門前払いだ。スタッフは七、八名いたが、若い男女ばかりで、みんな容姿は文句のつけようがない。僕はこれがカルトっぽくて気になった。君らにジムとドロシーと名乗った二人もその中にいた」
「どうしてロスに来てるんだ」
 マコーミックはちょっと黙り込んだ。
「ETPRSには気味が悪いところがあるんだ。どこかにヘッドがいて、指示を出しているはずなんだが、うちのIT部門のチェックにまったくひっかからないんだよ。まるでネットやセルを使っていないみたいなんだ」
「うそだろう。今の世の中、ありえないよ。何か特別な技術でも開発したのかい」
「逆だよ。手間ひまがかかるのを厭わない連中なんだ。盲点を突かれたね。アナログの世界に戻ったのさ。重要な連絡は人と人が直接会って交わしているらしいんだ。ヒチコック映画の時代だよ。電子通信の記録には何も出てこない。きれいなもんだ。だからこちらも昔ながらの尾行に頼らざるを得ないんだよ」
「だからあのカップルを張っていたのか」
「ETPRSはあちこちのオークションに積極的に参加している。ほとんどは出品して売っているのだが、買い入れもしている。それを追っかけていれば、そのうち、誰か上の人間と接触するのではと期待していた。今までは目立った動きは何もなかったんだが、今日、『ウキヨエ・オークション』は思いがけない奴らの一面を見せてくれたわけだ」
「なるほど。そういう話を聞くと、先ほどの暴力行為はちょっと異常だね」
「そこが怖いところなんだ。テロを含めて現代の組織犯罪は非常に多様化している。まったく平和的で無害そうな団体、個人もだが、突然信じられないような凶悪な暴力事件を起こすんだ。本当に異常な世の中になってきたよ。何が起こるか分からない。あのふたりはおそらくセルを持っていないし、カードも使わず、現金で動いていたはずだ。それでは尻尾を掴まえようもない。断言してもいいが、彼らはもう二度とマンハッタンのオフィスには現われないね」
「その支配者はよほどカリスマ性があるんだな。人を意のままに操り、献身的な忠誠心を利用している」
「では、そいつが私を襲わせた指し手なのね」
 恵美はぶるっと身を震わし、浩二は、再び手を握った。
「ロスに来た理由はもうひとつあってね。グリフィス天文台があるロスフェリスって知っているだろう」
「ああ、おしゃれな街だ。ヴィスタってね、今どき珍しい、クラシックな映画館がある。こいつがとてつもなくいい感じでね・・」
 ほっておけば話がそれていきそうなので、マコーミックがさえぎるように続けた。
「そこにPhilosophical Research Societyという協会がある。ETがついていないだけでまったく同じ名称なんだ。創立されたのが1934年だから古いし、ネットで見るかぎりオープンで、あやしげなところはない。民族固有の文化、芸術、宗教、哲学などを手に入れた貴重な文献で研究しているらしい。Lovers of Wisdom(英知の賛美者)と自分たちのことを呼んでいるよ。ニューヨークのETPRSとは関係ないと思うが、何か情報が得られるかもしれないので、ちょっと寄って・・
・どうしたんだ、コウジ?」
 考え込んでいる浩二を見て、マコーミックが尋ねた。
「そのロスフェリスのPRSだがね、ひょっとしてマンリー・P・ホールって人物が関わっていないか?」
「関わっているも何も、創立者だよ。どうして知ってるんだ?」
「やっぱりそうか。長ったらしい協会の名前にどこか聞き覚えがあったのでね。ホールは以前、うちのお客さんだったんだよ。それもトップ・クラスのね」
「そう言えば、その名前、昔の古物台帳で頻繁に見かけたわ」
 と恵美も言う。
 今はパソコンで処理されているが、以前は骨董品を扱う業者は必ず「物品売買譲渡譲受帳」を記載する必要があった。簡単に古物台帳と呼ばれるが、所轄警察署が指定したものを使用し、署長印が押してある。
 商品の詳しい内容と体裁、その仕入先と値段を記載することになっている。「谷山」では分かっているかぎり販売先も明記していた。
 数十冊近くが保管されており、恵美は興味本位で全てチェックしたことがある。
 著名な政治家や財界人、ハリウッドの有名なスターたち、パリに住む日本人の世界的なファッション・デザイナーなど、あの人がこんなモノを買ってたんだと、調べていて飽きなかった。
 中でも1950年代からの三十数年、ホールの名前は購入者として数百回近く出ており、頻出度は飛び抜けていた。
 浩二は続けた。
「お祖父ちゃんがとても仲が良かったんだ。父から聞いたんだが、ホールとは信じられないような商売をしていた。お祖父ちゃんが勝手に品物を選んで送っちまうんだ。それも美術品というよりジャンク(ガラクタ)に近いシロモノばかりだったらしい。売り掛けがそこそこ溜まると、すぐ千ドル送金してくれる。返品やクレイムは一度もなかったというから驚くだろう。一ドル三百六十円時代の千ドルだぜ。何処からそんな信頼感が生まれたんだろう」
「フリーメイソンは友愛がモットーだからな」
「フリーメイソンだって? ホールが?」
「それもただのフリーメイソンじゃないぞ。彼は権威あるスコティシュ・ライト(スコッチ儀礼)の最高審議会からGrand Inspector General(最高大総監)を授けられている。これはフリーメイソンの最高位だ。大統領が演説に彼の著書を引用しているぐらいだ」
「へえ~、そんな偉い人とは知らなかった。実はね、お祖父ちゃんもフリーメイソンだったんだ」
 今度はマコーミックが眼を丸くした。
「こいつは驚いた。タニヤマって昔は本当に凄かったんだなあ。あ、失礼」
 浩二は首を振った。
「今では考えられない時代だったということさ」
「ちょっと、ちょっと、確かにフリーメイソンって映画や小説に良く出てくるけど、一体何なの? 私にも分かるように説明してよ」
 恵美がむくれて割り込んだ。
 マコーミックが恵美に向き直った。
「ひとことで言えば七、八百年の歴史を持つ秘密結社かな。発祥は中世イギリスの石工職人の組合とかテンプル騎士団の一部がかかわったとか色々言われていて、はっきりしない。映画や小説では、おどろおどろしく取り扱つかわれることが多いけどね。宗教的要素は多いが、宗教ではない。友愛会の中の友愛会だ、と言う人もいるし、世界支配をたくらむユダヤ人と富豪が支配していると決め付ける者も多い。これはどこの社会でも同じだけど、ロウワー・クラスはごく普通の人々で、フリーメイソンの集まりも親睦会に近いだろう。アッパー・クラスは分からない。何もかもオープンなら、それはもう秘密結社じゃないからね」
 浩二が続ける。
「京都にも三条通りの岡崎道にグランド・ロッジと呼ばれる支部がある。父と車で通ったときに教えてくれたんだ。何の変哲もない目だたない小さなビルだが、壁に定規とコンパスを組み合わせた不思議な飾りがあって、それがフリーメイソンのシンボル・マークだとあとで知った。子供だったから、はっきりとは言えないけど、お祖父ちゃんはすくなくとも商売熱心なだけで、陰謀とは縁の遠い人だったことは間違いないね。今から考えると、ホールの信頼を得るために、無理してフリーメイソンに入ったんじゃないかな。規則とか儀式とかは苦手だったからね」
「ところで君たちの今後のスケジュールはどうなってるんだ?」
 マコーミックが尋ねた。
「明日、もう一泊して、帰国する予定だよ。伊助さんに店をまかせっきりだからね」
「ではやはりここの警察に届ける気はないんだね」
 浩二は恵美を見た。彼女は小さく首を横に振った。
「これ以上ゴタゴタには巻き込まれたくないんだ。せっかくの旅行だからね。ジムとドロシーもどうせ偽名だろうし」
「ああ。オークション会場で登録した氏名と住所を念のためにチェックしたが、でたらめだったよ。だが、必ずこのツケは払わせてやるさ」
「期待してるよ」
「頑張って、ボブ」
 恵美も微笑んだ。
「僕はロスフェリスのPRSにますます興味が湧いてきたよ。明日行ってみる。何か分かったら知らせるから」
「ああ、頼むよ」
 マコーミックはにやりとした。
「今度ブラックス・ビーチへ行くときは僕も誘ってくれよ」

 FBI日本支局のアイリス・タナカは、東京、青山にあるマンションの自室の便器に座っていた。
 手に持っていた妊娠検査薬をおそるおそるのぞき込む。
「ファック!」と呻いた。
 妊娠を示す青い線がはっきり出ている。
 のろのろ立ち上がって、便器の水を流した。
 生理が少し遅れていて、もしやと気になって調べたのだった。
 先月のボブとのデートに違いない。
 最初は口で受けたが、二回目は油断して、そのまま入れてしまったのだ。
 ボブは地方検事、アイリスは弁護士が夢である。
 アイリスの育った家庭では、授かった生命を堕ろすのは罪だと考えていた。彼女自身にもその気はない。
 最悪の場合はシングル・マザーでもかまわないが、両親は激怒するだろう。
 一番いいのは結婚することだけど、ボブが踏切るかどうか、アイリスには自信がなかった。
 
 
  第二章

 タツオが、京都、新門前にある古美術店「谷山」のドアを開けて入ってきたのは、浩二と恵美がハネムーンから帰京して三日目だった。
 恵美は驚いて手に持っていた信楽の茶碗を落としそうになった。
「今日は」
 とタツオは微笑んだ。
 すっきりした小千谷ちぢみを着て、白鼻緒の草履を履いている。
「はあ」
 中途半端な返事をして、恵美はとまどいながら頭を下げる。
「オーナーおられる?」
「少々お待ちください」
 奥のオフィスでパソコンに向かっていた浩二は、勢い良く入ってきた恵美に顔を上げた。
「来た、来た、来たわよ、あいつ」
「誰や?」
「タツオ青年」
 浩二も驚いて立ち上がった。
「ほんまか。何の用や」
「分からん。オーナーに会いたいって」
 一昨年の秋、「俊寛の呪い」として知られる大事件が、IT企業「JUN」のCEOで、世界の大富豪の三本指に入る、エドワード(エド)・ゴールドバーグが保有する京都、東山の景勝地、鹿ケ谷の豪華な別荘で起こった。
 京都市内にありながら九千坪を超える庭園と贅を尽くした数寄屋造りの建物棟が広がる夢のような別天地である。エドが購入と建物の整備に費やした費用は百億を軽く超えている。
 その日は、地元から浩二、恵美に堀竜介の三人、海外から「JUN」と覇を競うIT企業「インテリジェンス・データベース」のCEO、キャサリン・ビルボー、ハリウッドの名映画監督、デニス・グリーン、美術商のナオミ・モローの三人、合計六人のゲストが招かれて滞在中であった。
 天才肌でエキセントリックなエドは、ライバルで非情なキャサリンを憎悪しており、彼女を殺害する計画をたてていたのである。
 用意周到な完全犯罪は成功したかに見えたが、些細なミスで恵美に見破られ、覚悟を決めたエドはヘリで石垣の上から飛びたち、自ら命を絶ってしまう。
 犯罪行為があったことを示す証拠や痕跡は消えてしまい、関係者の思惑が一致して、素早く幕引きが行なわれ、事件はタブロイド紙や週刊誌を大いに潤わせただけであった。
 タツオ青年は三人が別荘に到着した時に迎えてくれ、滞在中はそれなりに世話をやいてくれた男である。ナオミがエドの陰の秘書はタツオ青年ではないかとほのめかしていたが。
「どうしよう? 断ろうか」
 浩二が考え込んでいるので、恵美が声をかける。
「もともとエドが我々を巻き込む気はなかったのは間違いないし、タツオ青年も実際手を下したわけやない。恵美が嫌いなのは分かるけど、追い返すわけにもいかんやろ。とにかく会ってみよう」
 浩二がオフィスから出て近づくと、タツオは笑顔を浮かべた。何の屈託もない様子である。
「ああ、谷山さん、ご無沙汰しております。初めて寄せていただきましたが、とてもいいお店ですね」
「いやいや」
 浩二はあいまいな返事をした。
 タツオは姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「谷山さん、恵美さん。その節は、おふたりにご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした。心からお詫びいたします。もっと早くお伺いすべきでしたのに、思いがけずあの別荘を引き継ぐことになり、手続きや後始末に振り回されておりました。お気付きだったでしょうが、エドはあなたたちを大変気に入っていました。あの別荘の完成度があれほど高いのは、おふたりのご協力が大きかったからだと私も思っています」
 よくぺらぺらと歯の浮くようなことが言えるものだと恵美はあきれて聞いていた。
「いやあ、本当に残念なことでしたね。エドさんには可愛がっていただき、楽しい想い出も数々あります。鹿ケ谷の美しい別荘に招いていただき、大喜びしていたのに、あんなことになるとは思いもよりませんでした。貴方も大変でしたでしょう」
 ふたりは神妙な表情で黙った。浩二さんも負けてへんわと恵美は小気味がいい。
「立ち話もなんですので、まあ、奥の方へ」
 浩二が言って、タツオをオフィスへと導き、恵美もお茶を出す用意にとりかかった。
 ソファに向かい合って坐り、とりとめもない会話を交わすうちに、恵美がお茶を出し、浩二の隣りに腰をかけた。
 細面の美青年だったタツオは、二年近くの間に見違えるようになっていた。少し肉がつき、貫禄が出ている。美貌は変わらないが、眼力が具わってきた。
 竜介がタカラヅカの華やかなトップ・スターなら、タツオは歌舞伎の人気若手といったところか。
「おふたりは今年の春にご結婚なさったそうですね。おめでとうございます」
「有難うございます」
 浩二が応え、恵美は黙って頭を下げた。
「今更ですが、斉藤辰男と申します」
 出された名刺を見て、浩二は、「あ、タツオさんは、この辰男ですか」とうなづいた。
「エド同様、タツオと呼んで下さい。うちのスタッフなぞ、タツとしか言いません」
 顔がほころぶ。
「OK.私も浩二で結構です」
 タツオがチラと視線をよこしたので、恵美も黙っているわけにはいかなかった。
「では恵美で」
 笑顔を造ったつもりだが、強張った表情になったのが自分でも分かる。
「あなたは本当に酷い目に遇われましたね。エドは決してそんな積もりはありませんでした。全てはあのバカ女が暴走したせいです。どうか彼のことを悪く思わないで」
「もう、その話はー」
 と恵美は、眉をひそめて、手を振った。
 そうは言っても、もとは一つ穴の狢でしょうが、と苦い固まりを無理に飲み込む。
「では、あらためてよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
 ちょっと間が空き、浩二とタツオはお茶をのんだ。
「タツオさんはどちらのご出身ですか」
 浩二が尋ねた。
「ワテは大阪だす」
 ひょうきんな表情で言って、カラカラと笑う。イントネーションは完全な大阪弁である。
「そんな感じじゃないですね」
 恵美が思わず口を開いた。
「もっとガサツな方があってまっか?」
「いえ、そんなつもりでは」
「いいんですよ」
 もう表情は元に戻っている。恵美は簡単に防衛線を破られたのだが、本人は気づいていなかった。
「生まれは大阪の南です。父親は知りません。母の話では、僕が産まれて三日後にはいなかったそうです。無理もないですよ、あの女では」
 タツオが意識して女と呼んだのは間違いない。
「母が用意してくれたのは食事だけです。不思議に食べる物だけは豪華だったな。僕の物心がつき、なんとか自分で面倒をみれるようになると、母は頻繁に家をあけるようになりました。全然寂しくはなかったですよ。テレビという素晴らしい先生がいたからね。一日中かじりついて見ていました。分からないことがあると、図書館へ行く。親切なお姉さんがいて、丁寧に教えてくれる。僕の本好きはこの頃からです。おかげで小学校へ入ると、まわりはバカばっかりに見えた。友達が出来るはずがないですな」
 タツオは浩二と恵美を交互に見ながら、歯切れ良く喋る。表情が生きいきと動き、語り口調に心地よいリズムがあって、二人は知らず知らず引き込まれていった。
「中学へ入るとテレビは卒業しました。あれは小学生で充分です。代わりに映画館に入り浸るようになりました。浩二さんも映画がお好きなんでしょう。エドから聞きましたよ。池波正太郎の『映画を見れば得をする』、読みました?まさしくあのとおりですね」
 浩二は大きくうなづいた。完全にタツオのペースに巻き込まれている。
「高校生の頃には、人を動かしているキー・ワードは分かったつもりでした。金、セックス、宗教です。イヤなやつですね、われながら。母の金回りがいいのも、男から稼いでいたからで、中学時代から分かっていました。いじめにはあわなかったですよ。小遣いはたっぷり持っていたし、要領が良かったですからね。高校を出ると、すぐアメリカへ飛びました。母はあっさり送り出してくれましたよ、あとは勝手にやりなってね。母とはそれから一度も会ってません」
 恵美はまるで正反対の自分の両親を思い浮かべた。タツオの話は理解出来ないのに違いない。
「アメリカはどちらへ?」
 浩二が尋ねた。
「最初は西海岸です。ロスやサンフランシスコに数年いました。具体的に社会の仕組みに触れたのはここですね。いい勉強になりました。それからニューヨークへ移り、日本レストランで働いているときにエドと知り合ったのです。僕の人生にとって運命のひとだとすぐ分かりましたね」
 タツオはお茶をひと口含んだ。
「僕はバイセクシュアルです。お気づきでしょうが。別に恥ずかしいことだとは思っていません。エドは素晴らしい人ですよ。冷め切った眼で世界を観ていた僕を揺すぶって、覚ましてくれた男です。でも病には勝てなかった。でなければキャサリンなぞ歯牙にもかけなかったでしょうに」
 タツオは一瞬、遠いところ見る目つきをした。
「エドが教えてくれたことは、簡単には説明出来ません。純粋で完璧な美の境地ですね。そこへ到達するには何が必要か、今でも這いずり回りながら、探しています。ですから今後ともおふたりには是非色々教えていただきたいのですよ」
「私たちでお役に立つことがあれば、喜んでお手伝いいたしますよ」
「有難うございます。そう言っていただければ、嬉しいな」
 タツオは肩の荷がおりたように、ほっとして笑顔を見せた。
「それでさっそくなんですが、浩二さんは御堂にあったご神木を憶えておられますか。サトリが乗っていた台座をささえていた二本の木の円柱ですが。エドはあれに目を留めたのはコウジだけだと嬉しそうでしたけど」
「憶えてますとも。エドは秀吉の大坂城にあった建物の一部だと説明してくれましたが、本当ですか?」
「庭園を造った織物会社の会長がそう言っていたようです。元々は決定的な証拠の書付があったのだが、長い年月の間に失われてしまったらしい。一応検査して貰ったのですが、桃山時代の建築に使われていても不思議ではない年代の木材だと保証してくれました」
「焼け焦げや傷跡は?」
「まったくないですよ。きれいに切断されている」
「ではその建築物は、大阪城が落ちる前に解体して持ち出されたんだ。家康はそれこそ徹底的に大坂城は破壊しましたからね。石垣まで埋めてしまったぐらいだから」
「そうなると、この円柱は現存する秀吉大坂城の唯一の遺物ですね」
「想い入れのある人なら、ご神木として大切にされるのは分かりますな」
「でも何故柱の一部を切り取ったのです? 残りの建物は?」
「それは私も知りたいですよ。大阪城の遺構がひっそりとどこかで残っているかもしれない。ロマンがありますね」
「一度調べてみましょうか」
 恵美が言った。
「そうやな。恵美、宿題や。タツオさん、彼女ね、大学では英文科だけど、「古美研」に入ってたんで、美術史や考古学の先生とコネがあるんです」
「そりゃ、凄いや。よろしくお願いします」
「はい」
 と素直に頭を下げる。
「で、そのご神木をー?」
「そうそう。いくらご神木といっても、このままでは単なる円柱に過ぎません。僕はこの貴重な木材を使って、エドのために仏像を彫っていただきたいと思っているのです。浩二さんなら、きっと信頼出来る仏師をご存知だと思いますので」
「ほう、なるほど。それはいい考えですね。腕のいい仏師の心当たりならあります」
「ああ、それは嬉しい。ずっと気にかかっていたことなんですよ。阿弥陀如来をお願いしたいと思っています」
「分かりました。一度、仏師と一緒にご神木を拝見したいのですが」
「何時でもご都合のいい日時を、その名刺の電話番号にご連絡下さい。固定電話を使ってくださいね。僕は携帯電話が嫌いなので。良ければ、恵美さんもどうぞ」
 事件から二年近く経っているとはいえ、まだ記憶は生々しい。だが鹿ケ谷の別荘の現状がどうなっているのか知りたい好奇心が勝った。
「はい、寄せていただきます」
「良かった」
 タツオはにこりとしたが、うかがうような目つきで浩二を見た。
「堀さんは如何なさってますか」
「ああ、元気ですよ。タツオさんのこと、伝えておきます」
「お願いしますよ。彼にも頼みたい仕事があるんです」
「じゃ、声をかけてみます。彼も我々と一緒ならお伺いしやすいでしょう」
「助かります。何せ最後はシカとされましたからね」
 タツオが首をすくめて頭をかいたので、思わずふたりは笑ってしまった。何とも邪気のない表情をする。
 エドはキャサリン殺害の完全犯罪が暴かれそうになったとき、生き恥をさらすより死を選ぼうとした。それを邪魔されるのを嫌い、人質代わりに恵美を連れて行ったのだが、浩二らには分かるはずもない。タツオ青年は、エドは彼女を傷つけるつもりはないからと止めようとしたのだが、みんなは無視して救出に飛び出した。それどころか竜介からは、捨て台詞を投げつけられている。
「大丈夫ですよ。竜介は子供といっしょで、あとはケロッとしていますからね。今度も喜んでついてきますよ」

 辰男が帰ると、浩二と恵美はぐったりとソファに身体をあずけた。
「何だか疲れたな。もうタツオ青年なんて軽々しく呼べないね」
 恵美はうなづいた。
「悔しいけど、うまく丸め込まれてしまった感じ。たいした役者ねえ。人たらしの名人、秀吉もこんな風だったのかな。商売するのはええけど、浩二さん、気をつけてね」
「勿論や。つかず離れず、というとこやな。そやけど、彼、ナオミのことを訊かなんだな。関係修復にかかってるのやったら、持ち出してくるはずやが」
「ナオミはあんな目にあったんやから、いくらなんでも無理や思てるのとちがう」
「そういや、伊助さんはまた彼女のお供かいな。あのふたり、ほんまに仲がええなあ」
 アート・ディーラーとして世界を飛び回っているナオミ・モローはCIAの善意の協力者でもある。
 半世紀以上もニューヨークのアパートメントの自室から一歩も外出せずに人生を過ごしたジュリエット・クレーンのメイド、ドロレスが産んだ双子の娘のひとりだが、すぐ母親から離され、スイスのキュレイターの夫婦の養女となって育ったのだ。本当の父親が「谷山」の古老、森本伊助であることは知っている。
 ところが当の伊助は、ドロレスが産んだ娘はミランダひとりだったと今も信じ込んでいる。
 このところ、ナオミは京都に頻繁にやってくる。滞在するのは何時も鴨川沿いの超高級ホテルのロイヤル・スイートだ。この街が気に入っているのは確かだが、楽しみは伊助に会うことであるのは間違いない。
「今日は貴船の川床や言うてたかな。伊助さんも嬉しそうにしてたわ」
「双子やいうのに、ミランダとはあんなに性格がちがうんやな」
 恵美は黙っていた。ナオミの気の強さも相当なものである。彼女自身が言ったように、もしふたりの育った環境が入れ替わっていたら、どうなっていたか分からないと思う。
「実の娘とはほんまに気づいていないのか。ミランダとそっくりらしいやないか」
「伊助さんにとっては辛すぎることやっただろうし、考えたくもないのと違う? ナオミもそのことは良く分かっているから、今はまだ何もほのめかしてはいないと思うけど。きっと本当の父親と出歩けるのが幸せなんやわ」
「伊助さんも若く見えるし、年の離れたカップル言うてもおかしくないなあ」
「あれ、浩二さん、ちょっと妬いてる?」
「あ、アホな。何言うてるねん。さ、仕事、仕事」
 
 京都市中を流れる鴨川を北へどんどん上がっていくと、鞍馬川になり、やがて貴船川にたどり着く。貴船は昔から京の奥座敷として知られ、ことに夏場は蒸し暑い市中をのがれて涼を求める人々で賑わう。
 山沿いの川に置かれた床で、足を清流に浸しながら料理を食べる趣向が喜ばれ、「貴船の川床」として有名である。張り出している木の枝が緑の屋根になり、ひんやりと涼しい。
 ナオミのすらりとした白い足がぴしゃ、ぴしゃと川面を叩くのを、伊助はうっとりと眺めていた。
「どうしたの、イスケ」
 面白そうにナオミが上目遣いに見る。
「きれいな足だなあと思って」
「そおぉ」
 少し強く叩くと、しぶきが思いのほか飛び散り、二、三の客が振り向いた。首をすくめる様子が少女のようで、伊助は笑った。
 ナオミがスーパー・セレブ相手のアート・ディーラーだとは浩二や恵美から聞かされているが、伊助には実感が湧かない。 
 今日だって着ているのは、何処ででも買えるようなノースリーブの白いシャツに膝までのピンクのパンツ、それにあっさりしたサンダルである。どうもスーパーで買い揃える伊助の夏姿に合わせてくれているとしか思えない。
 もっとも何を着ても、ナオミの美貌は目だつ。
 伊助と身長もそう変わらないのだが、並んで歩く時は必ず寄り添い、腕を絡めてくる。欧米で活躍するナオミにはごく自然な行為なのだろうが、伊助は少々面映い。
 だがすれ違う男性の、それも同世代に多いが、羨望というより、ほとんど憎しみに近い視線を感じると心地よい快感になる。
 日本美術の固有名詞は、ナオミはさすがに良く知っているが、会話となるとカタコトに近く、ふたりは英語でやりとりする。
「ナオミは、故郷のスイスのことはあまり言わないね」
「だってほとんどいないもの」
「世界中を飛び回ってるようだけど、ホテル暮らしは疲れないかい」
「もう慣れたわ」
「でも京都は好きなんだろう」
「ウン。ここへ来るととても癒されるの。故郷に帰ってきたような感じ」
「家を買って住む気はないのかい」
「もう少し年をとれば、考えるかもしれないけど。ねえ、それよりもっとイスケのことを聞かせて」
「変わった人だね、君は。こんなお爺さんの話なんかどこが面白いのか分からないな。それにもうずいぶん喋ったじゃないか」
「そうだ。コウジの映画好きはイスケのせいだってね」
「そんなこと喋ったのかい、オーナーは」
 たとえナオミとの会話の中でも、伊助は浩二を呼び捨てにはしない。
「彼は小さい時から良く店に出入りしていてね、ちょっとした人気者だった。アメリカ人は子供好きだからね。当時は『タニヤマ』が外国人向けの美術店だということは良く知られていて、日本人の客はほとんど入ってこなかったんだよ。だから彼はアメリカの文化と気質を身近に育ったんだ」
「イスケも同じようなものでしょう」
「私は高校を出てからだから。それまでは縁もゆかりもない世界だった。浩二さんは妙に私になついてね、何時も付きまとってくるんだ。まだ安月給だったから、休みにふたりで遊びにいくのは映画ぐらいしかなかったんだよ。観るのは当然ハリウッド映画だったね」
「どんな映画を?」
「最初に一緒に観たのが『スター・ウオーズージェダイの復讐』でね。結局これが今までのふたりのベスト・ムービーだよ。What else?」
 それ以外に何があるんだ、という顔を伊助はした。
「まだ恋愛映画には興味がなかった年頃なので、SFに怪獣もの、戦争映画や西部劇、それにアクション映画、ようするに男の子が熱中するものばっかりだったな。ところが浩二さんが大きくなり、別々に観るようになって、ふたりに共通の趣向があるのが分かったんだ。ミニチュアだよ」
「ミニチュア?」
「特撮といって現実に撮影が不可能なシーンに使われる模型さ。今では味気ないコンピューターに取って代わられているけどね。沈むタイタニックや宇宙船、脱線する列車や燃えるお城、ゴジラが踏み潰す町並みなどさ。男の子は結構好きなんだよ。女の子だってドール・ハウスに夢中になる時期があるだろう」
 ナオミの顔に微妙な揺らめきが浮かんだが、話に夢中の伊助は気がつかなかった。
「じゃあコウジのガールフレンドは外人だったりして」
 伊助はにやりとした。
「オーナーの初体験の相手はアメリカ人のフライト・アテンダントだよ」
「エミは知っているの?」
「ああ。彼らは夫婦間には秘密はなしというアメリカン・スタイルだからね」
「イスケはどうなの?」
 伊助は虚をつかれた。
 どう返事をしていいのか分からない。
 妻以外の女性を抱いたのはドロレスだけである。
 思いがけず、浩二と恵美には知られてしまったが、心の奥底で大事に秘めている想いだ。
 ナオミが自分を好きなのは分かる。心底から親愛の情を示してくれる。
 その愛情の正体が分からない。
 だが時々得体の知れないものを彼女に感じる。
 伊助はナオミを見詰めた。
 瞳のアンバー(琥珀)がキラッと光り、金色に変わる。狼の目になった。
 眼を離すことが出来ない。
 周りの話し声や瀬の音が消えた。
 ナオミの瞳から何かがあふれ出し、伊助に流れ込んでくる。
 足を水につけた女性が嬌声を上げ、彼はハッとわれに返った。
 ナオミがおかしそうに見返している。
「は、はあ。返事出来ないところを見ると、イスケには秘密ありね。そうでしょう」
「ど、どうかな。あまり年寄りをからかっちゃいけないよ」
 かろうじて返事をしたが、伊助は狼狽していた。
 ナオミが顔を寄せる。甘い息がかかる。
「教えて、ねえ」
「もういいったら!」
 伊助は思わず大きな声を上げた。
 周りの客が振り返る。
 びっくりしたナオミが、みるみるべそをかき出す。
「ごめんなさい」
 伊助は慌てた。
「ああ、すまない。大声を出して悪かった。勘弁しておくれ。ちょっとほかの事に気をとられていたんだ」
「本当に?」
「本当だとも。こんどゆっくり説明して上げる。さあ、機嫌を直して」
「びっくりしたわ。イスケがあんな声を出すなんて」
「自分でも驚いているよ。子供の頃以来なかったことだ」
 ナオミがもっと聞きたがっているのは分かったが、今は話す気にはなれなかった。
 とにかく早く話題を変えようと伊助は映画村を持ち出した。
「映画といえば京都にもユニヴァーサル・スタジオのようなアトラクションがあるんだ。同じように映画会社のスタジオを使ってね。スケールは比べものにならないけど、のぞいてみるかい」
「面白そう。いいわ」
 ふたりは立ち上がった。妙に生暖かい風が食事と涼を楽しむ人たちの間を抜けていった。

 夏休み中なので家族連れが多く、太秦にある映画村は混み合っていた。
 江戸の建物や明治の通りなどが再現されている。ところどころで忍者のショウや殺陣を使った模擬撮影などのアトラクションが人を集めている。
 ここは失敗だったなと伊助は後悔した。気を使ってだろう、ナオミは面白そうにきょろきょろしているが、本心から楽しんでいるようには見えない。
 もう引き上げようと出口に向かいかけて、人通りのないセットの露地の奥に気になるものが眼に入った。
 日本家屋の模型のようなものがちらっと顔を出している。
 ナオミをうながして向かった。
 思ったとおりだった。江戸時代の街並みが十平米ぐらいのスペースにミニチュアで再現されている。何かの映画に使われたのか、あるいは展示用に製作したのか、いづれにせよコンピューター・グラフィックス全盛の今日、邪魔者扱いされて野ざらしのまま、セットの片隅に放置されているのに違いない。
 汚れや傷みが目立つ。
 伊助は小さくため息をついた。ミニチュアが可哀相でならない。
 帰ろうとナオミを見ると、思いがけなく一心に見入っている。
 興味があるのかしらと思うと嬉しくなって、ついタブーを忘れてしまった。
「何だ、ナオミもミニチュアが好きなのかい。そう言えば昔、マンハッタンに住むアメリカ人の女性でドール・ハウスが好きな人がいてね・・・」
 振り向いたナオミが唇に笑みを浮かべた。
 伊助の心臓が飛び上がった。
 ミランダがいた。初めて会ったとき、彼に見せてくれた笑顔だ。
 どうして気がつかなかったのか。
 いや、分かっていたのに、あえて押さえ込んで、考えないようにしていたのだ。
 年令は確か四十過ぎだ。ぴったり合う。
 ドロレスは双子の娘を産んでいたのだ。
 ナオミはおそらく赤ん坊の時に、スイスに養女に出されたのに違いない。
 彼女の愛情は父親へのそれだったのだ。胸の鼓動が激しい。眼の前が真っ暗になる。
 浩二や恵美は知っているのだろうか。
 勿論そうだ。恵美は頭がいい上に、おそろしくカンがいい。すぐ見抜いたのだろう。
 知らなかったのは自分だけだ。何とおめでたい男だ。
 ひとこと言ってくれれば良かったのに。
 持って行き場のない怒りで、伊助の腕が震えた。
「大丈夫? 顔色が青いわ」
 ナオミが心配そうにのぞき込む。
「大丈夫だよ。暑いからちょっと疲れただけだ」
 かすれ声で、やっと答える。
「それはいけないわ。早く帰りましょう」
 ナオミが腕を組んでくる。
 震えが分からないように、伊助は腕を必死に身体に押し付けた。
 ナオミがちらっと視線を向けたが、何も言わなかった。

 ナオミと別れ、自宅に戻った伊助は茫然としていた。
 妻はまだ買い物から帰っていない。
 怒りはおさまって、当惑だけが残っている。
 伊助はー当時は普通だったがー二十歳で結婚している。妻となった女性は、「谷山」の二代目源次郎が縁をとりもってくれたのである。一度映画を観て、食事をしただけだったが、店の主人の薦めでは否応はなかった。
 無口で大人しい女だったが、よく気がつき、かいがいしく働いて、さすがに源次郎の見立てに狂いは無かった。子供はふたりでき、どちらも女の子で、嫁いで家を出ていた。
 今は夫婦ふたりの静かな暮らしである。
 自分がまいた種とはいえ、ミランダの事件は悪夢だった。浩二と恵美がうまく口裏をあわせてくれたので、伊助はたまたま居合わせて、とばっちりをくったのだと妻は信じている。
 ミランダはナオミのことを、まったく知らなかったのだろう。でなければ黙っているような女ではない。
 一方、ナオミが育った環境は良く分からないが、その理性的な行動力や豊富で幅広い人間関係からみれば、早い時点で実の母親を取巻く状況と自身の出生の秘密を知っていた可能性は高い。
 この一年で、彼への接近が加速度的に増え始めたのは、ジュリエットが亡くなったのが大きな契機になったのは間違いないだろう。
 いったいどのような人生を送ってきたのだろう。
 娘と分かった今、奔流のように新しい感情が伊助を浸し始めていた。
 これから残された時間、もっと、もっとナオミと共に過ごしたい気がする。ミランダと一緒にいると、時々感じた緊張はまったくない。何時も明るく、よく笑わせてくれる。
 ナオミと伊助には圧倒的な経済的格差があり、逆であれば微妙な問題も出てくるだろうが、その心配は一切ない。これからは積極的にナオミと出かけよう。そうだ、行ったことの無い国々を一緒に旅して回るのもいいな。
 現金なもので伊助はわくわくしてくる。
 すると急に先ほどの彼女との別れが気になってきた。
 突然のことで混乱していた伊助は、つい、つっけんどんな応対になりがちだった。
 ナオミからも笑顔が消え、口数が少なくなった。何時ものように頬にキスしてくれ、笑って別れたが、どことなく気まずい空気だった。
 彼女は恵美に負けず劣らずカンがいい。ひょっとして伊助が見せた動揺の原因に気づいたのではないか。
 今頃はきっと悩んでいるだろう。
 明日はこっちから連絡して誘ってみよう。
 
 翌朝、何度掛けても彼女のセルには繋がらなかった。
 伊助はナオミの泊まっているホテルに電話をしてみた。 
 「ナオミ・モロー様は今朝早くお立ちになりました」
 メッセージは何も残されていなかった。

 第三章

「ハワイに平等院があるのをご存知ですか?」
 浩二が並んで歩いているタツオに話しかけた。
 彼らの後に続いているのは恵美、竜介と仏師の山田定覚である。
 東山の麓にある鹿ケ谷の別荘にタクシーで到着した浩二らを、重厚な木の門前で出迎えてくれたのはタツオ自身だった。
 恐縮がる浩二に、皆さんのお顔を知っているのは私だけですからとタツオは明るく答え、恵美と竜介は顔を見合わせた。
 ね、彼、変わったでしょう、と目顔で語る恵美に、竜介も軽くうなづく。
 高い塀に囲まれた門から伸びる樹木の中の砂利道を彼らは進んでいる。
「いや、それは知りません。レプリカですか?」
「寸分違いません。もっとも風土の関係で、鉄筋コンクリート造りですがね。オアフ島のコオラウ山脈の高台にあります。日本人墓地の礼拝堂として建てられたのですよ。タツオさんは『パール・ハーバー』という映画はご覧になっていませんか」
「アア、あれはロスで見ましたが、ひどい映画ですな。考証がメチャメチャだ。作戦会議なんか青空の下で、鳥居に軍艦旗なぞぶらさげてやっている。エドは完璧さにこだわる男だったから、ありえないと激怒していましたよ」
「では日本の風景として平等院が映ったのを憶えてられませんか。あれがハワイの平等院なんですよ。外国の観客はともかく、日本人はだませません。日本ではあのシーンはカットされて上映されました」
 含み笑いをしながらタツオは答えた。
「憶えてますとも。平等院の背後に大山脈が広がっていましたからね。CGかなと思ってましたが。で、そのオアフの平等院がどうしたのです」
「建物はコンクリートでも、お祀りしているご本尊の阿弥陀如来は、ここ京都で完成した木製の本物です。それを彫ったのが、この山田仏師なんです」
「そうなんですか」
 タツオは歩きながら振り返って、山田仏師を見た。
「父と一緒に御姿を造らせていただきました」
 小柄な仏師はぽつりと言って、軽く頭を下げた。
 六十歳は超えていると思われるが、歩く動作に無駄がない。
 目つきも顔立ちも穏やかで、飄々としている。
 タツオが言葉をつづけようとしたが、砂利道が終わり、視界が大きく開けた。
 一行は立ち止まった。
 エドの、今はタツオの庭園が広がっていた。
 ギラギラと輝く太陽が照りつける濃紺の池の周りを、様々なトーンの緑の樹木が取り囲み、むせ返るような夏の息吹が押し寄せる。
 山田仏師はさすがに興味深そうに見回している。
「まだ、こんな広大な庭園が、いくら東山近くとはいえ、市内に良く残っていましたなあ」
「九千坪以上あるらしいですよ。一世紀近く、人目に触れなかったんですからね。京都人でも知っているものは、ほとんどいません」
 浩二が応えたが、目は池を越えて正面の東岸にそそがれている。
 以前池に浮かぶように建っていた豪華な書院造りの建物は影も形もない。
「壊れたゲスト・ハウスとライブラリーは撤去しました。美しい建物でしたが、つらいことしか思い出しませんので」
 みんなの視線を追って、エドが説明した。
ーこれで証拠は完全に消えちゃったわけねー
 恵美はすました顔のタツオをうかがい見た。
「池に落ちたサトリはどうされたのですか?」
 浩二が尋ねた。
 エドは庭園の山裾深く、そびえる石垣の頂上に御堂を建て、サトリと名づけた直径二メートルはある鋼鉄の球を祀っていた。禅の悟りを形象化したとされる円相を立体化したのだと彼は説明していたが、万一の場合は動き出して、同幅の石段の最上部を塞ぎ、進入者を防ぐようになっていた。
 浩二や竜介、マコーミックが、恵美を拉致したエドに迫ろうとした時に作動させたのだが、サトリはその並外れた重量で両側の石垣を削りながら転がり落ちてしまい、そのまま山裾の庭園の樹木をなぎ倒しながらゲスト・ハウスを直撃し、池に飛び込んでしまったのだ。
「池から引き上げていません。その方がいいだろうと思いまして」
 タツオはどうとも取れる言い方をした。浩二や竜介の気持ちが分かるだけに、はっきりと理由は言いたくないのだろう。
 三人はあらためて庭園を見回した。
 池の左手、北側の雁行しながら山裾に向かって伸びる数寄屋造りの建物棟はそのままだった。
 意外なほど人が多い。
 ほとんどが若者だが、日本人、白人に混じって黒人の姿もチラホラする。
 最も浩二らを驚かせたのは、微妙に起伏し、見事な苔で被われていた地面が、平らな芝生に変わっていたことである。二年前の、神秘的とも言えた別世界のような趣きは消えていた。まるで緑豊かなリゾートのようである。
 「苔がない!」
 恵美が非難がましく呻いた。
 タツオも苦渋の表情を浮かべた。
「そうです。この辺りの苔は枯れてしまったのですよ。あれだけの大事件でしたからね。警察、FBIやCIAまで、入れ替わり立ち代り、ここを引っ掻き回したのです。それが済んだら池に落ちたヘリの残骸と破壊されたゲスト・ハウスの撤去で作業員とメカがどっと入ってきました。僕は「JUN」のスタッフとの応接に没頭していました。エドはこの別荘とその維持費として少々の株を遺してくれましたが、彼らにしては一介の日本人の若造が、何故こんな恩恵をこうむるのか、どうしても理解出来なかったのでしょうね。最終的には「JUN」の経営には今後一切口出ししないと一筆入れることで納得してくれましたが」
 タツオは一息ついてから、顔をゆがめた。
「最悪なのは「インテリジェンス・データベース」の連中でした。キャサリンを悼んでいるものなど誰もいないくせに、視察と称して物見遊山代わりにやってきましてね。意趣晴らしをしたいのか、やりたい放題でした。やはりこちらも遠慮せざるをえませんでしたから。でもさすがにゴルフ・クラブを持ちこんで、苔の上から池越えショットを試みたりする酷い奴らが出てきたのには頭にきてね。叩き出してやりました。それでなくても繊細な苔が耐えられはずはなかったのですよ」
「もともと、この庭園は完成してから三十年間、閉鎖されていたので、見事な苔の奇跡が生まれたのだと、最初仰ってましたものね」
 浩二も口惜しそうに言った。
「そうです。人間は、自然が長い間かかって育てたものを、あっと言う間に破壊する生き物です。バカですよ」
 とタツオは吐き捨てた。
「世界は愚行で溢れています。どうして我々はこれまで培ってきたウイズダムを生かし、理性ある社会をつくれないのだ。あまりにも無知で、その上、粗野な人間が多すぎる。通信と交通の発達で世界中が鼻を突き合わすようになり、エゴを振り回す人間ばかりが増えています。浩二さん、僕は今こそ日本民族がリーダー・シップを取るべきだと思いますよ。我々は森羅万象に神が宿ると自然を尊び、すべての宗教におおらかで、美を心から愛する民族です。世界がこれから正道を進むには、日本に学ぶべきです。そのためには我々も積極的に行動を起こし、邪魔をし、害をなすものたちは、エリ・・・」
 タツオはふっと口を閉じた。
「いや、これはついスピーチになっちゃいましたね。許してください」
「でも、僕は共感を覚えるな」
 やっと竜介が口をきいた。
「竜介さんにそう言っていただけると嬉しいですよ。ご神木はお茶室においてあります。幸いあの辺りはあまり変わっていません」
 タツオは池に向かって右手、南の方へ向かう。
 すれ違う若者たちは笑みを浮かべ、会釈する。
「若い人たちが多いですね」
 恵美が声をかけた。
「はい。彼らのような若者がこれからの日本を、いや世界を担っていかなくてはなりません。知性や感性を磨き、理知が支配する社会をね」
「それには、ここは抜群の環境ですね」
「ここは瞑想と休養の地ですよ。修養するところは、別に建てています」
「どちらにですか?」
「東大路の馬町です」
 意外だった。もっと街はずれか、郊外を予想していたのだ。
 東山山麓を南北に走る京都の大動脈のひとつ、東大路を南へ下り、清水寺への参道を通り過ぎたあたりが馬町で、周辺には妙法院や知積院などの名刹がある。
 京都市民にとっては、それなりに思い入れのある土地である。
 あまり知られていないが、大戦中に京都はアメリカ空軍により数度の空爆を受けており、その最初が一九四五年一月十六日深夜の馬町だった。死者四十数名、被災家屋百四十一軒と記録されている。
ーあんなところに、よく場所があったなー
 いったいタツオはどれほどの資金を持っているのだろうか。恵美ばぶるっと身を震わせた。
「ハワイ平等院の阿弥陀如来をお父さんとご一緒に彫られたのは何時ですか?」
 タツオが山田仏師に尋ねた。
「大阪万博の二年前ですから、一九六八年ですね」
「当時は凄い評判になったでしょう」
「別に」
 仏師はそっけない。
 浩二が見かねてあとを続けた。
「宇治の阿弥陀如来像は平安時代に仏師定朝が彫り上げた傑作で国宝ですね。寄せ木造りの木彫り像としては最大のものです。それをまったく同じ総ヒノキ、純金箔を使って昭和の仏師が再現しようとするのですから、そりゃ大きな話題になったと思われるのは当然です。でもね、タツオさん、九百年ぶりに金箔にさんぜんと輝く、巨大で見事な阿弥陀如来像が完成した時、見に来たのは近所のお年寄りと子供たちだけだったと伊助に聞きましたよ」
「まさか。信じられないな」
「新聞、テレビもいっさい報道しませんでした。そもそも彼らは何も知らされなかったんだから、取材にくるはずもないですよね」
「もったいないことをしたものですね」
「その頃の『谷山』は日本人を顧客とはみていなかったのですよ。タイムかライフのような海外の有力誌が扱うというなら喜んだでしょうが」
 喋っているうちに茶室に到着した。
 ふたりの着物姿の若い女性が出迎えてくれる。
 茶室の一隅にご神木が鎮座している。
「山田さん、どうぞご検分になってください。皆さんはどうぞおくつろぎを。粗茶ですが、点てさせていただきます」
 タツオは水屋に引っ込んだ。
 山田仏師は一礼してから、いとおしむようにご神木に触れる。
「うーむ、立派なヒノキだな。いい御姿が彫りこめそうだ」
 とつぶやく。
 若い女性たちがお菓子を運んでくる。一同はそれぞれ座り直した。
 支度をして現われたタツオは、
「ア、どうぞお膝を崩して、楽になさってください」
 と声を掛けた。
 夏なので風炉である。
 隠れたところに空調があるようで、室内は涼しい。
 浩二はさっそく胡坐をかきながら、仏師を見て、
「タツオさんは三斎流です。見事なお手前をされますよ」
「ほう、細川三斎の。確か松江の不味公がお取り立てになった武家流派ですな」
 さすがに詳しい。
 タツオは折り目正しく、それでいて流れるような動きである。
 静まり返った茶室に、沸く炉と、茶をたてる茶筅が、心地よい音色を流している。
 あの時もこうだったな、と恵美は二年前を思い出す。
 仏師の代わりにエドとナオミがいた。
 ナオミがジュリエットの娘ではないかと気づいたのも、この茶室での振舞いからだった。
 三斎流について熱く語っていたエドは、もうこの世にはいない。
 今回は珍しく、ナオミは慌しく出発してしまい、伊助は妙に元気がない。
 ふたりの間に何かあったのだろうか。
「竜介さんには屏風を作っていただきたいのです」
「どのような屏風ですか?」
「山田さんが彫られる如来様の背後に置きたいのですよ。蓮をあしらったシンプルな金屏風がいいですね。ほら、中央が広くて、左右の狭い扇が観音開きになった特殊な三曲屏風があるでしょう」
「あ、なるほど。それは面白いな。光背代わりというわけですね」
 竜介はご神木を見詰めていたが、仏師に尋ねた。
「このサイズから彫りこめるとなれば、如来様は六、七十センチでしょうか」
「そうですな。ぎりぎり七十でしょう。それだと如来様をお乗せする蓮台がとれませんが」
 山田仏師はタツオを見た。
「ご神木はもうひとつあります。そちらを蓮台にどうぞ」
 仏師はうなづいた。
「蓮台をいれると総身長は百三、四十になるな」
 竜介は考え込んだ。
「予算はおまかせします。ベストなものを造ってください」
「山田さんが正確な寸法をお出しになった時点で、屏風のプランを作ってお持ちします」
 竜介が言うと、タツオはにっこり笑った。
「必要ないですよ、竜介さん。全ておまかせします。あなたがいいと思われたら、それで結構です」
 竜介にしては珍しく赤くなった。
 ちらっと横目で見た恵美は小さくため息をついた。
ーどうしたんや、男たちは! どいつもこいつもタツオに惑わされてるやないかー
 視線を戻すと恵美を見詰めているタツオと合った。
 一瞬、挑みかかるような閃きが見えたが、彼はすぐ目をそらした。
 こいつは絶対何かたくらんでいるー恵美は確信した。

 FBI捜査官のボブ・マコーミックはニューヨークからインターステート78高速を使ってニュージャージーへ入り、ジョン・F・ケネディ・パーク・ウエイに下りて、ショート・ヒルズの高級住宅街に四十分ほどで到着した。
 様々な趣きの優雅な一軒家が緑に囲まれて点在しており、静かで落ち着いた雰囲気である。
 人や車にはまったくすれ違わない。
 目指す邸宅はコロニー風の赤茶や白の入り混じったレンガ造りの美しい二階建てだった。少なくとも半世紀は経ている。
 車を降りて蛇行する小道を玄関にたどり着き、ベルを鳴らすとすぐ年配で小太りのメイドが現われた。
 案内されたリビングの美しい木目の床には、赤を基調のアイリッシュチェーンのカーペットが敷かれ、磨き上げられたアンティークの木製の家具が、趣味良く配置してある。
 年代物のマントルピースは、冷え込む夜の長さを忘れさせてくれそうだ。
 アイリッシュ系のマコーミックは、ふるさとへ帰ったように、心も身体も馴染んでいくのを感じた。
 部屋の一隅に黒い木枠のガラス・ケースがあり、手のひらに乗りそうな小さな彫刻物が数多く並んでいる。トラや馬、犬、うさぎなどの生物、奇怪だが、面白く、愉快な怪物たち、仙人に相撲取り、さまざまなテーマが、たかだか数センチの大きさの象牙や木に、信じられないほど精緻に彫り込まれている。
 マコーミックは引き込まれるように見入っていた。
「なんだかお分かり?」
 振り返ると、白髪の小柄な老女が、微笑みながら立っていた。
 背筋はすっと伸びて折り、厳つい顔だが、眼は優しい。
「すばらしいネツケ(根付)のコレクションですね。たいしたものだ」
 おや?というような嬉しそうな輝きが老女の眼に現われた。
「キャリー・ディッカソンです」
 差し出された手は柔らかかったが、力強い。
「ボブ・マコーミックです。今日はお会いくださり、有難うございます。素晴らしいお住いですね。とっても落ち着きます」
「あなたもアイリッシュ?」
 マコーミックはニコニコして、うなづいた。
「その若さでネツケを知っているなんて、頼もしいわね」
 根付は、印籠や煙草入れを帯から吊るして持ちく時に抜け落ちないよう、紐の端につける留め具である。明治の開国以来、来日する外国人の間で爆発的な人気を呼び、名品はほとんど海外に散っている。
「ひょっとしてここに飾ってある鶴のネツケ、カイギョクサイ(懐玉斎)ですか」
 キャリーの眼はさらに大きく開かれた。
「ネツケはともかく、カイギョクサイを知っているFBIって、何者なの?」
「NY支局のアート・クライム・チーム(美術犯罪班)で働いています。チームといっても僕ひとりですが。大学で日本美術を研究したものですから、ネツケは興味を持っていました。カイギョクサイの鶴の実物を見たのは初めてなんです」
「さわってもいいわよ」
「本当ですか。じゃ、お言葉に甘えて」
 マコーミックはガラス・ケースのドアをそっと開け、根付を取り出した。
 懐玉斎は幕末から明治にかけて活躍した天才根付師である。動物を主題とする作品の造形の見事さとその卓越した技法で、海外の根付愛好家の間では広く知られ、なかでもresting craneと呼ばれる(休んでいる鶴)は有名で、五十万ドルはするといわれている。
 マコーミックは見惚れた。
 このわずか数センチの物体に注ぎ込まれたアーティストのエネルギーと情熱を想うと鳥肌がたつ。完璧な美の芸術だった。
「有難うございました」
 ネツケをケースに戻して、マコーミックはほっとため息をついた。
 キャリーは笑って、彼にソファを勧めた。
「みんな逸品ばっかりですね、ディッカソンさん」
「キャリーと呼んで」
「はい」
「あなたはボブでいいよね」
「勿論です」
「これでも少なくなったのよ。子供たちが持っていっちゃってね」
 ではあの鶴の根付も、そのうち子供たちの誰かにいくのだろう。マコーミックはうらやましさとねたましさを感じた。
「どのようにして集められたのですか」
「最初は日本に旅行したときにね、あとはこちらのオークションとかでも買ったけど、信用出来る業者が京都にいてね、いいものが手に入ると、写真と手紙で知らせてくれたの」
「ひょっとして、『タニヤマ』ですか?」
 キャリーはあきれたように背中をソファにあずけた。
「ボブ、あなたは何でも知っているのね。すいぶん昔の話よ。ゲンジロウと言ってね。なかなか商売人よ。でも眼は確かだったし、値段も何時もフェアだった。私のコレクションのほとんどは彼のおかげよ。もうあんな人はいないわ」
「ゲンジロウは二代目ですね。今は四代目でコウジといいます。僕は彼とは友人なんですよ。ついこの間、ロスにハネムーンで来て一緒でした」
「そう、四代目? 私も年をとるはずだわね・・・・・・で、兄の遺産について調べているの?」
「はい」
「電話でも言ったけど、私はあまり知らないのよ。兄は無口な人だったし、別々に住んでいたしね」
 キャリーの兄、パトリック・ディッカソンは最高裁の判事だったが、昨年、亡くなり、その遺産のうち、美術品のコレクションがETPRSに寄贈されたのである。
「昨年の九月に亡くなられたんですね。散歩の途中で倒れられたとか」
「その通り。通りがかったカップルがすぐ救急車を呼んでくれたんだけどね。打ち所が悪かったみたい」
「おひとりでお住いだったんですか」
「そう。ここ数年はね。メイドもいたし、別に不自由じゃなかったようよ」
「非常に素晴らしいアートのコレクションを持っておられたでしょう」
「絵画でしょう。印象派が多かったんじゃないかしら。ターナーの作品が数点あって、あれは結構お値打ちものだったはずよ。最初はどこか美術館に寄贈するようなことを言ってたんだけどね」
「弁護士によると亡くなられる数ヶ月前に遺言を変えられて、NYにあるET Philosophical Research Societyと名乗る団体を指名なさったんですが、この間の事情について何かご存知ですか?」
「まったく知らないわ。兄が自分のコレクションをどう処分しようと、彼の勝手だから」
「実は最近この団体が、寄贈された作品の一部を、オークションで売ってお金にかえているんですがね」
「兄は寄贈する時に何か条件をつけていたの?」
「いいえ、弁護士によると何も」
「では問題ないじゃない」
「でも、数千万ドルの価値があるといわれているコレクションですよ」
「若い人。もうこの年になると、お金や物には何の興味もないの。私は何時でもこの世におさらばする用意は出来ているわ。人間、生まれる時も、死ぬ時もひとりぼっちの身ひとつ。なんの未練があるというのよ。私には幸い、いい子供たちがいるから、あとは任せて、サヨナラ、グッバイ、アディオスよ」
 キャリーは顔をそらせて、カラ、カラ、カラと笑った。
 マコーミックもつられて笑った。彼はこの老婦人が好きになった。
「そうだ。同じアイリッシュ同士。あなたの拳銃で、私が知らない間に撃ってよ。そのほうが手っ取り早いわ」
「とんでもないおばぁちゃまですな。あなたはそれでいいかもしれませんが、私はこれからの人生がパァになります。ごめんこうむります」
「やはり、駄目か。じゃ、それはあきらめてと。若い人、今夜はデートかな?」
「僕のガール・フレンドは今トウキョウにいます」
 マコーミックはアイリスからかかってきた電話を思い出した。妊娠したらしいと言う。
 明らかに彼女の選択肢には堕ろすことは入っていないようだった。
 彼はアイリスが嫌いではない。子供も欲しい。
 ただすぐ結婚したいという情熱が湧いてこないのだ。
 ロスでエミに会ったのもいけなかった。見ているのが息苦しくなるほど、彼女はいい女になっていた。
 このところ、毎晩のようにエミが海岸に素っ裸で立つ姿を思い浮かべ、つい自分で慰めてしまうのだ。狂おしいほどエミを求めてもだえ、そのあと、激しい自己嫌悪に襲われる。
 このままではおかしくなりそうだ。
 結婚して、すっぱりエミのことは忘れるべきなのか。
 でもこんな気持ちでプロポーズするのは、アイリスにとってあまりに酷い仕打ちだろう。
「何か悩みがありそうね。どう、この年寄りに付き合って食事していかない? うちのメイドは素晴らしいシェフだから」
 マコーミックはキャリーを見た。何かいい知恵をくれるかもしれない。
「ええ。でも・・・」
「とって食べやしないわよ」
「OK」
 マコーミックはうなづいた。とたんに思いついたことがあった。
「お兄さんはフリーメーソンじゃなかったですか」
「そうよ。どうして分かったの?」
「こいつは勘です。ロスにETPRSと非常に似通った名前の協会があるんですが・・・」
 ボナベンチャー・ホテルで恵美を救った翌日、マコーミックロスフェリスにあるPhilosophical Research Societyを訪れた。
 一九三八年に建てられ、ロサンゼルスの歴史的モニュメントになっている協会の小ぶりなビルは、いかめしい名前に相応しくない、アプリコット・カラーの積み木を組み合わせたようなデザインで、からっとした空気に良く溶け込んでいた。
 巨大なライブラリーを中心に、資料室や研究室が広がり、アカデミックな雰囲気がありながら、オープンで明るく、NYのETPRSとは晴天のハリウッドと霧のロンドンぐらいに違っている。
 事務長のアン・グランディは、五十過ぎの気さくな、話好きの女性だった。
ーET(地球外生命体)まで対象にされちゃ、ウチは負けねー
 アンは笑いながら、その協会は知らないし、何の関係もないと明言した。
 PRSは非営利組織であり、主に会員の寄付と会費で維持されているらしい。メンバーはアメリカ全土に広がっており、フリーメーソンの名士や有力者も多いが、さすがにその名前は公表出来ないとアンは首を振った。
ー私たちは人類の理想的な未来は、歴史的なウイズダムの蓄積にあると信じている。そのためには宗教や国境を越え、全ての民族が積み重ねてきた英知を自由に研究し、これからの社会に役立つ人材を育てなければならない。だから偏狭で偏った思想を持つ組織の干渉や、宗教関係者からの圧力を必死ではねつけているの。純真な研究者にとって、ここはシェルターのようなものよー
 マコーミックが意外に思ったのは、カリキュラムのレクチャーに日本文化が大きな比重をしめていたことだった。
ーそう。これは創立者のホールの影響よ。彼はアジアに高い関心を持っていたけど、ことに日本は特別だったの。神社と寺、それに教会も混在し、しかも人々がそれぞれにリスペクトを持ちながら自由に行き来しているのよ。これは異文化に対する人々の寛容度の広さをしめしているわ。当時の欧米の人々は、この日本人の”曖昧さ”を笑っていたけど、ホールは違っていた。将来、キリスト教やイスラム教などの一神教を中心に、地球規模の宗教と文化の衝突が必ず起こると信じていたわ。七十年以上も前よ。凄いと思わない。見てよ、今の世界をー
 そう単純なものでもないだろうとマコーミックは考えたが、黙っていた。
ーホールがキー・ワードだと思っていたのが、「恥」よ。日本人が自己の行動の規範にしている感覚ね。キリスト教では神が十戒を強圧的に命じるけれど、日本人は自分で心に問うの。恥ずかしいことをしていないか、とね。禅的ワールドかなー
 アンの話は面白かった。
 きっと自分はここへ戻ってくると彼は思った。
「その協会には興味があるね。もっと早く知っておけばよかったわ」
 マコーミックの話を聞いたキャリーが言った。
「まだ、遅くは無いですよ」
 老婦人は若者を軽くぶった。
「ホールというのはマンリー・P・ホールのこと?」
「はい」
「PRSは知らないけど、兄はホールに師事していたことがあるわ。無口な兄にしては、珍しく熱っぽく語っていたから憶えているの。何十年も前のことだから、何を言っていたのか、すっかり忘れてしまったけど。フリーメーソンに入ったのは、きっとその縁ね」
 昨年ETPRSはサンフランシスコで亡くなった富豪からもアート・コレクションを寄贈されている。こちらもPRSかホールに結びつくかもしれない。関係者に当たってみる必要があるなとマコーミックは考えた。
 影が伸びてきて、リビングに差し込む日差しが柔らかくなった。
「夕食前に散歩をしない」
 キャリーは立ち上がり、マコーミックを伴って裏庭に出た。
 高い樹木の森がゆったりと下方に向かい、間をぬうように細い散歩道が伸びていた。
「言っちゃ悪いけど、FBIのあなたの仕事って気楽そうね」
「僕はまだ人を拳銃で撃ったことがないんですよ。当てる自信もないです」
「まあ、さっきは本当に撃ってもらわなくて良かったわ」
 笑い声を上げ、ふたりはぶらぶらと散歩道を下っていった。

 
 第四章

 烏丸通りと今出川通りが交わる四つ角の南東に御所とその御苑、北東にD大学のキャンパスが広がっている。
 大学の構内は、重要文化財に指定されているアメリカン・ゴシック調のレンガ造りの建物が点在し、のちに増築された校舎の外観も調和を壊さないように配慮されているので、どこか外国のようなたたずまいである。
 夏休みも終わり、構内は活気を取り戻している。
 恵美と竜介が校舎の間を縫うように、キャンパスのはずれにある考古資料室に向かっていた。
 ふたりとも際立った容貌なので、すれ違う学生たちが視線をちらちら送ってくる。
「恵美が僕を引っ張ってくるなんて珍しいね」
「浩二さんはお客さんが来る予定だし、私とじゃ嫌?」
「とんでもない。そっちが嫌かなと思っただけ」
「浩二さんの唇を奪ったことなんか、何とも思ってないわよ」
「やっぱりそこへ持っていくのね。だから、あれはエドをごまかすための、とっさの思いつきだったって言ってるでしょう」
 恵美は竜介を見たが、何も言わなかった。
 間もなく行く手の校舎の陰に、二階建てのプレハブのような建物が現われた。
 まさかあんなしょぼいのでは、と恵美を見た竜介に、
「あれよ」
 と彼女は断言し、不意に立ち止まった。
 どうしたのかと竜介が振り返る。
「堀さん、ちょっとマジな話。タツオをどう思う?」
「ははあ、その話をしたかったのか。どうって済んだことは済んだこと。ビジネスと割り切ればいいんだよ」
「浩二さんが、すっかり気を許しているようなので不安なのよ。すぐ人を信用してしまうところがあるから」
「それが浩ちゃんのいいとこだからしょうがないじゃない」
「もう、そんな気楽なことを言って。あいつ、何かたくらんでいるような気がするの。大層に演説めいたことを喋ったでしょう、堀さんが共感を覚えたほどの」
「あれは実際いいことを言ったわ。僕は別にへつらったわけじゃない」
「最後に何か言いかけて、突然話を切ったわ、憶えている? 自分たちの行動を邪魔するものは、えり・・・と言いかけたの」
「そうー、だったかな」
「えり・・・をどう続けたかったと思う? 流れからいえば本心が出かかったのよ」
「えり、えり・・・襟を正して懲らしめる、は?」
「そんなの、日本語として変。英語じゃないかな」
「うーん、では・・・エリートでも容赦はしない、はどう?」
 恵美は顔を引き締めた。
「私はエリミネート、といいかけたのだと思う」
「エリミネート?」
「除去する、よ」
「何ぼなんでも、ちょっと過激すぎない」
 竜介は顔をしかめても美しい。
「そうかな」
 恵美は首をひねった。
「浩ちゃんに言った?」
「言った。考えすぎやって。無茶苦茶、不機嫌になった」
「ホラ、みてごらん。浩ちゃんだって、『谷山』の昔の勢いを取り戻そうと必死なんだから。この仏像の仕事は大きなチャンスよ。僕も屏風で儲けさしてもらうつもり。だって鹿ケ谷の別荘ではあれだけひどい目にあったんだし」
「その割には、すべてをお任せしますってタツオに言われると、紅くなって、舞い上がっていたわね」
「何を馬鹿な。僕は冷静でした。誰も彼も色眼鏡を掛けて見るのはあんたの悪いくせよ」
「私は別に疑い深いだけの女やないわ。それなりに、その人の本性はちゃんと見ています」
「それはあてこすり?」
「あてこすられるようなとこがあるわけ?」
「どういう意味よ」
 場所柄もわきまえず、ふたりが遣り合っていると、考古資料室のドアが開いて、ごま塩頭で眼鏡をかけた男性が顔をのぞかせた。
「ぎゃあぎゃあうるさいなと思えば、山崎やないか。そんなところで何をしとるんや」
「あ、乾先生、お久しぶりです」
 と恵美は小走りで駆け寄り、
「この方、お友達の堀さんです。有望なインテリア・デザイナーなんですよ」
 ケロリとした顔で紹介する。
 竜介もにこりとして頭を下げた。
「ほう、それはうらやましい。こっちはホコリまみれで、ガラクタに囲まれておりますわ」
「いや、どれもこれも過去の貴重な遺物じゃないんですか」
「そりゃ、研究上の資料としてみればですな、そうですが、ありていに言えば残骸ですからな。ま、どうぞ」
 なるほどね、と資料室に足を踏み入れた竜介は納得した。
 中央に不似合いなほど立派なガラス・ケースが鎮座していて、なかに埴輪の馬と兵士が飾られているが、まともなのはそれぐらいで、周囲の壁の棚を埋め尽くしている須恵器や木簡類、床に所狭しと置いてある大小の壷や鉢は、満足な形状のものはほとんどないようである。
 室内は遠い、遠い過去から持ち込まれてきた、得体の知れない匂いが染み付いていた。
「堀さん、私は女子大生の時に古美研にいて、乾先生に大変お世話になったの。先生は考古学だけでなく、古美術もお詳しいのよ」
「そっちは趣味みたいなもんです。こんな可愛い娘が骨董なんぞにはまりおって、嫁の貰い手がなくなるぞと心配しとったんだが、古美術の名店、『谷山』に嫁ぐとはなあ。世の中、うまく出来ておりますな」
「もう立派に店を切り盛りされています。この若さでたいしたものですよ」
 竜介もそつがない。恵美はくすぐったそうな顔をした。
「電話で尋ねていた秀吉の大坂城のことやけど、わしよりずっと適任者がおる。おい、盛田」
 部屋の奥には観音開きの扉があり、そのひとつが開いて小柄な女の子が出てきた。
 パタ、パタ、パタと乾教授の傍により、「ハイ、先生」と見上げる。
 丸顔で髪はおかっぱ、度のきつい丸めがねを掛けている。Tシャツに短パンをはき、スリッパを引っ掛けていた。
 アニメっぽい女の子やな、と恵美は思った。
「さっきちょっと話したやろ、この人たちや。この娘さんが女子大の方にいた山崎、いや今は谷山さんやな。それからあっちのかっこええお兄さんは堀さんや」
 教授は女の子の肩を抱いた。
「このアラレちゃんみたいな女の子は文化史を専攻してる盛田です。こう見えてもバリバリの歴女でしてな、ことに大坂城のことやったら分からんことはない」
 盛田は、丸めがねを掛け直しながら恵美を見てニコッとし、「コンチハ」ぺこっと頭を下げる。
 竜介に向き直り、舐めるように見上げると、ぽかんと口を開け、
「クサッ!」
 とつぶやいた。
 竜介の青白い顔が真っ赤になった。ワナワナと身を震わせている。
「く、く、くさいとは何よ! 失礼な! ちゃんと毎日風呂に入ってます! 着てるものはクリーニングしたばかりよ。いったい、どこがくさいのよ。くさいのはこの部屋でしょうが!」 
 堀さん、マジで怒ってるわ、とさすがに恵美も驚いた。
 パニックになった盛田は、ア、ワ、ワ、ワとわけの分からない言葉を発し、手を振りながら、その場をくるくる回っている。
「盛田、止めろ。ストップ!」
 教授の一喝で、小柄なアラレちゃんはぴたっと止まると、しょんぼりうなだれた。
 竜介もきょとんとしている。
 教授はごま塩頭を自分でパチパチと叩いた。
「いやあ、堀さん、これは大変失礼しました。くさっ、は、彼女が感動した時に発する口クセですわ。言わば彼女の感嘆詞で、決してあなたが臭いとか、そんな意味ではないです。まあ、こんな部屋に出入りするのは私を筆頭にむさくるしい連中ばかりですからな。掘さんのような男性が現われて、彼女が心を動かされたのも無理はない。こんな部屋で資料に埋もれて過ごすのが好きな、風変わりな子ですが、根は物凄く純粋ですねん。どうか勘弁してやって下さい」
「ゴメンナサイ。アタシが失敗しました」
 盛田は頭が膝に届くぐらい深く頭を下げた。
 竜介はとっくに表情を和らげている。
「そんなことなら、全然OKよ。僕もかっとしちゃって、大人げなかった。こっちこそゴメンなさい。さあ、握手して仲直り」
 差し出された竜介の手を、恐る恐る握った盛田の顔がトマトのように赤くなった。
「ふーん」
 と教授が興味深そうな顔をする。
「実はこの盛田は、『女神の手』と呼ばれている、我々の世界ではちょっとした有名人でしてな」
「女神の手?」
 竜介が教授を見る。
「おふたりともご存知やろうけど、旧石器時代の石器と称するものを次々と掘り当てた『神の手』事件がありましたな。あらかじめひそかに埋めておいた石器を、人の面前で発掘して、新発見に見せかけるという、児戯に等しいインチキやったが、あれで考古学の信用はガタ落ちになってしもうた」
 乾教授は残念そうに唇を噛み締めた。
「だけどこの盛田は違います。発掘現場で遺物を見つける確率が飛び抜けて高い。独特なカンがあるみたいです。本人は、土が呼んでいる、と神がかり的なことを言っとりますがな。現場で、彼女のクサッ、と言う声が聞こえると、全員がわらわらと何を置いても集まります。ここにも彼女のお蔭で見つけられた貴重な遺物がたくさんありますわ」
「へえ~、それは凄い」
 盛田はモジモジして、今にも消え入りそうである。また突飛なことをしでかさないかと怖れるように、教授がぐいと肩を押さえ、そのまま奥の扉に向かう。恵美と堀もついていった。
 ドアを開けると、もっと濃厚な匂いが押し寄せてきた。
 路に転がっていても誰も見向きもしないような、雑多な遺物がぎっしりと載ったスチールラックが部屋を埋めていた。壁際にそって資料ファイルのケースが並んでいる。
 ノートパソコンや様々な用紙が乱雑に置かれた畳一畳ほどのテーブルと折りたたみ椅子が数脚あり、教授と盛田に恵美と竜介が向かい合って腰を下ろした。竜介は浅く掛けている。
「これが電話でお話していたご神木です。何の変哲もない、ただの円柱の部分でしょう。正直なところ、笑われるだけかと思ってたんですが」
 恵美が写真を取り出して、テーブルに置いた。
 教授はちらっと見て、すぐ盛田に渡す。
 恵美はこれまでの経緯を簡単に説明した。
「写真に書き込んである数字は実寸ですか?」
 確かめながら盛田が紙の上で素早く計算している。
「ええ。きっちり測りましたよ」
 計算した答えを、盛田は教授に見せ、意味ありげな視線を交わした。
「直径が四九三ミリですから、円周は一五四八ミリになります」
「同じか?」
 教授が言った。
「一ミリ違うだけですから許容範囲です」
 思いがけないふたりの様子から、期待を込めて恵美が尋ねた。
「その建築物は大坂城の何か、心当たりがあるんですか」
 盛田は分厚いレンズ越しに恵美をじっと見た。
「アタシは極楽橋に使用されていたと思います」
「極楽橋?」
 恵美と竜介が同時に言った。
「極楽橋って言えば、堀に架かってるものでしょう。橋のどこに使われていたの?」
 竜介が不審そうに尋ねる。
「ただの橋ではないんです。廊下橋です。簡単に言えば橋の上に屋根がある建物が跨るように載っているんです。その建物の一部ではないかと考えます」
 盛田は竜介に対しては、目を伏せがちに硬くなって答える。顔は上気したままだ。
 教授が操作していたノートパソコンをくるっと回して、画面をふたりに見せた。
「これですわ」
 古い金屏風の一部分だろう。豪壮な城の建物や堀の石垣が描かれている。
 その石垣の上の瓦葺の建物からきらびやかな廊下橋が、堀を渡って手前の岸に架けられていた。
 橋の入り口は唐破風様式の唐門で、側面は朱や緑の花模様の彫刻で飾られている。
 屋根の上には桧皮葺の屋根と朱の欄干を持つ望楼まであり、まるで宝塚のステージに出てくるような華麗な廊下橋だった。
 城に相応しいとはとても思えない。
「先生、こんな詳細に極楽橋が描かれた大坂城図の屏風は見たことありませんよ!」
 恵美が素っ頓狂な声を上げた。
「当たり前や。今この屏風の存在を知っているのは、日本でもほんの一握りの関係者だけや。近々マスコミに発表して、シンポジウムを開くけどな」
「どこで見つかったんです?」
「グラーツや」
「グラーツ?」
 教授はニヤニヤして、いかにも恵美を驚かせているのが嬉しそうだ。
「オーストリア第二の都市や。ウイーンから百五十キロ離れている。その郊外には世界遺産に登録されているエッゲンベルク城があるが、そこに貴重なお宝が眠っているのを世界の誰もが気づかなかった。当のグラーツ市ですらな」
 教授はノートパソコンを置き直し、テーブルをはさんだ双方から見えるようにして、マウスを操作した。
 画面に赤茶色の高い屋根が急角度でそびえる三階建てで、貴族の邸宅のような城館が現われた。
「これがエッゲンベルク城や」
「なぁーんだ、ディズニーランドのシンデレラ城のようにカッコよくないのね」
 竜介がつぶやく。
 教授がじろりと一瞥したが、話を続けた。
「山崎ー、谷山さん・・・」
「先生、ここでは山崎でいいです」
「ーあなたも良く知っているように、安土桃山から江戸初期にかけてヨーロッパへ渡った屏風で知られているのは、キリシタン大名たちが派遣した天正遣欧少年使節が持参した『安土城屏風』や。織田信長がローマ法王に寄贈したといわれ、日本の政府や民間の関係者たちが必死に捜しているが、どうやらヴァチカンには残っていないようやな。そのほかには、明治時代に東大の教授がポルトガルのエヴォラ図書館に残っていた屏風の残骸を発見している。これは骨組みだけで、絵は失われていた」
 教授は言葉を切った。
「日本文化を代表すると言ってもいい屏風が海外で発見されるというのは、そんなに珍しいことなんですか」
 竜介が意外そうな面持ちで尋ねる。
「そうです。当時は貿易量が少ない上に、基本的には木と紙だけの製品ですからな。取り扱いが難しい。あの六曲や八曲もある大きな折り畳み式の図体は、紙で繋がっているだけや。繊細で、優雅な日本の工芸が極めたもんです。何も分からん外国人の手にかかると、あっと言う間に傷んでしまう」
「そう。昔は『谷山』でも屏風を買ったアメリカ人からよくコンプレイン(文句)を受け取ったと聞いたわ。飾ろうとしたら、簡単に壊れたってね」」
 恵美が竜介に話しかけた。
「日本人は本能的に屏風は絵の描いてある方だけしか、たためないことは知っている。無理に裏面に曲げようとすると、紙製のオゼ(蝶番)を傷めるからよ。外人に屏風を売ったときに必ず注意するんだけど、それでも年に二、三人はやらかしていたらしい」
 教授がそう、そう、とうなづいた。
「無知による手荒い取り扱い、鼠やゴキブリの被害、劣化した絵の具の剥脱、ちょっと考えただけでも、何百年も前の異国は、デリケートな屏風にとって、生き残るには苛酷な環境だったことは分かる。だから遠いオーストリアのエッゲンベルク城で、それも豊臣時代の大坂城図の屏風が、四百年近く前に描かれた良好な状態のまま残っていたのは、奇跡としか言いようが無い」
 教授は一息ついて、盛田を見た。あとを続けろということらしい。
「十六世紀から十七世紀にかけて、日本に来たヨーロッパの人々も、屏風には大きな関心を持っていましたが、地球を半周して本国に持ち帰るのは難しいと認識していました。徳川時代に入ると日本とヨーロッパ間の貿易は、オランダの東インド会社が独占することになります。これは莫大な利益をオランダにもたらしました。東インド会社はアラブ、ペルシャから日本まで広がる当時としては驚異的な貿易ネットワークを築き上げたのです。日本、インド、ペルシャなどのアジア諸国とヨーロッパ諸国の取り引きを意のままに行なえるのですから、これほど旨みのあるビジネスは無かったと思います」
 盛田はたんたんと話している。恵美や竜介は屏風の機能や画家たちについては詳しいが、江戸時代の海外との関わりは知らなかったので、熱心に耳を傾けた。
「東インド会社はアジア貿易ネットワークの拠点をバタビア(インドネシアのジャカルタ)においていました。彼らは出島にあった商館を通じて京都や大阪へ屏風を注文することもありましたが、これらは貿易用ではなく、シャム、カンボジア、セイロン、インドなどの王様、高級官僚などへの豪華な献上品でした。今でも商社がやっていることです。東インド会社が屏風をどう捉えていたか、良く分かります」
 盛田はチラッと教授を見た。それでいいという風に彼はうなづいた。
「一六四二年、オランダにある東インド会社の本部はついに屏風を貿易の対象にすることにし、出島の商館長が、当時はオランダに属していたアントワープの美術商の特別注文として屏風、二十から二十四双買い付けの指示を受け取ります。内容は分かりませんが、『大坂城図屏風』が、入っていたことは間違いありません。翌年の秋、約半分の十二双が完成し、出島から始めての「貿易用屏風」が出荷されます。バタビアに寄港したあと、四百五十トンのガレオン船『リューワルデン』号はアントワープへ向かい、長い航海の旅に出発します」
「ガレオン船って?」
 竜介が尋ねた。
「海賊映画を見られたことはないかな。『パイレーツ・オブ・カリビアン』とか。十六世紀から十八世紀にかけて活躍した三本マストの大型帆船ですわ。海賊に襲われないように、たとえ商船でも大砲を積んで重装備をしていた時代です」
 教授が説明し、竜介は、ああ、と納得してうなづいた。
 盛田が続ける。
「危険で困難な航海の末、一六四四年『リューワルデン』号は無事アントワープに到着しました。これが最初の奇跡です。何故なら残りの屏風を積んで出航した次のガレオン船は台湾近辺で難破し、乗組員もろとも海底に沈みます。さらにその翌年に新たに注文された二十四双の屏風はバタビアには着きましたが、行方が分からなくなりました」
「へえ~、どうなったの?」
 と竜介。
「分かりません。人気があったので、おそらく盗難にあったのでしょう。とにかく、あまりのリスクの高さに辟易した東インド会社はたった数年の試みでヨーロッパ向けの屏風のビジネスは断念しました。その後、十九世紀半ばに徳川幕府がオランダ国王に屏風を寄贈するまで、ヨーロッパに渡った屏風は一本もありません」
「結局、最初の出荷分しか届かなかったわけね。じゃ『大坂城図屏風』以外の屏風は分からないの?」
 恵美が尋ねた。
「出てくる可能性がまったく無いとは言えませんが、おそらく消滅してしまったと思います。『大坂城図屏風』が残ったのは、また奇跡が起こったのです」
 盛田の説明は、最初の印象とは違い、はきはきしていて、分かりやすい。
 ここで教授が割って入った。
「信長配下の小者から朝廷社会の関白太政大臣になった秀吉の物語は、日本人なら誰でも知っておるな。ほとんど同じ時期に、地球の反対側のヨーロッパでも一介の商人から貴族社会の頂点に上り詰めた男がいる。最強といわれたハプスブルク王朝で、オーストリア中部の総督になったハンス・ウルリッヒ・エッゲンベルクだ。秀吉もハンスも、己の才知と弁舌と行動力のみで、庶民が望みうる最高の権力を手に入れた。秀吉が死んだ時に、ハンスはちょうど三十歳だった。このいわばオーストリアのトヨトミ家ともいえるエッゲンベルク家が、なんと『大坂城図屏風』を買い入れたのだ」
 教授はまるで自分が当の購入者であるかのように胸を張り、誇らしげに言った。
 竜介が顔を伏せて、くすっと笑い、恵美が横目でにらみつけた。
 盛田を叱りつけたことを根に持っているわけではないだろうが、教授はやはり恵美に向かって喋りかける方が多い。
 盛田が話しを続ける。
「ハンスは自分の権威の象徴としてエッゲンベルク城をグラーツ郊外に築きましたが、普段は家族と共に市内にある屋敷で過ごしていました。彼は一六三四年に亡くなっています。エッゲンベルク家が何時『大坂城図屏風』を購入したかは分かっていません。屏風がアントワープの美術商『コルハウ』に届いたのが一六四四年頃です。エッゲンベルク家の遺産目録から推察するとハンスの孫にあたるザイフリートが『コルハウ』のウイーン支店を通して買い求めた可能性が強いです。それから約半世紀以上、屏風はずっとエッゲンベルク家の屋敷にありました」
 屏風の話はなかなか面白いが、それがどうご神木にたどり着くのか、恵美はじりじりし出した。
「これからが第二の奇跡です。十八世紀に入り、エッゲンベルク城はザイフリートの孫娘、エレオノラに引き継がれます。彼女は城をロココ調に改装し、アジアの美術品で装飾した『インドの間』を三室設けました。その内の一室に、屋敷にあった八曲の『大坂城図屏風』を八枚のパネルに分割して、壁面に埋め込んだのです」
 教授が、またパソコンを操作した。次々とカラフルでエキゾチックな室内の写真が現われる。部屋はキャビネットと呼ばれる小間で、せいぜいマンションのリビングぐらいの大きさだ。壁面には明らかに西洋人の画家の手による怪しげな中国風俗がパネル様に描かれ、その合間に解体された「大坂城図屏風」が一枚ずつはめ込まれている。
「まあ、立派な屏風をバラバラにして壁にはめ込むなんて、ほんとに外国人のすることは分からないわ」
 憤懣やるかたないといった様子で、竜介が口をとがらせる。
「アノー」
 恐る恐る盛田が言った。
「デ、デモ、そのおかげで、この屏風は現在まで無事生き残ることが出来たのだと思います」
「はあ?」
 竜介が眼をむき、盛田が首をすくめた。
「私もそう思う」
 恵美がきっぱりと言った。
「このぐらいの大きさの本間(ホンケン)八曲の屏風だと、百年近く経てば、まず間違いなく蝶番にあたるオゼが緩んでしまうわ。日本なら仕立て直しをすれば簡単なんだけど、三百年も前のヨーロッパではなすすべも無いはず。そのうち、オゼが裂けはじめ、破損品扱いになる。いったん形が崩れると紙製品は脆いわ。『大坂城図屏風』以外、一点も見つかっていないのは、良く分かる。多分、エッゲンベルク家の屏風も継ぎ目から離れかけていて、その孫娘はパネルにして生かそうとしたのではないかしら。女性が考えそうなことよ」
 乾教授がまた、パチッと頭を叩いた。
「そうか。ちゃんとした屏風を切り離したのではなくて、もともとバラバラになりかけていたというわけか。さすが貿易屋はんやな。それは気がつかなかったわ」
 竜介も納得したようだが、面白くなさそうである。
「実はエレオノラでエッゲンベルク家の血筋は途絶えます。二十世紀に入ってからはヨアネウム博物館により管理されていました。そして屏風の最大の危機が、第二次世界大戦末期に訪れます。ソ連兵の一団がエッゲンベルク城に侵入し、占拠するのです。彼らの目的は城中の美術品を根こそぎ略奪していくことでした。天井や壁面に描かれた絵画は、さすがに手のつけようがありませんでしたが、指揮官だった男が、『大坂城図』のパネルに目をつけました。彼は日露戦争で、大国ロシアの誇りが、アジアの小国にズタズタにされたことを深く怨んでいたのです。もし日本の屏風だと分かれば、おそらく破壊する積もりだったのでしょう。キュレイターが一歩も引かなかったため、指揮官は立ち去りました。これが最後の奇跡です」
 恵美と竜介は、ほぉっとため息をついた。
「日本には秀吉の大坂城とその城下を描いた屏風はわずか四点しか存在していません。それなのに、この情報が氾濫している現代で、オーストリアにある貴重な屏風の存在は、日本ではまったく知られていませんでした。つい最近、ドイツ・ケルン大学の日本学科の教授より関係者に連絡があり、大騒ぎになりました」
「どうしてそんなに大坂城の屏風は少ないの?」
 竜介は不思議そうである。
 教授が盛田に代わって答えた。
「やはり幕府の眼を恐れたんでしょうな。徳川の築いた新しい大坂城があるのに、豊臣の大坂城をデンと描いた屏風を飾っておれば、噂になるやろし」
「ではこの秀吉の大坂城を描いた絵師は、実に大胆不敵な人物であったということになりますね」
「アタシは大阪城図は東インド会社が特別に注文したのだと思います」
 盛田が言い、へえ、とみんなが彼女を見た。
「屏風は高価な商品でした。会社は仲介の商人に、ある程度の図柄の指示はしたはずです。イエズス会の宣教師フロイスが大坂城のレポートを詳しく本国に送っていますし、時代は少し降りますが、一六六九年にオランダで刊行され、ヨーロッパに広まった「モンタヌス日本誌」では、大坂城を『世界七不思議』に次ぐ八番目の不思議として紹介しているぐらいですから、日本人が思う以上に当時のオランダでは、秀吉の大坂城は知られていたのではないでしょうか」
「いったい誰だったんだろう、描いたのは」
「名のある絵師ではないと思うわ」
 恵美が断言した。
「写真で見る限りではきちっとした絵の修業は出来ていない。おそらく大量の注文をこなしていた町絵師よ。荒いところがある。ヤバイ図柄でも、どうせ外国に行っちまうんだからと、金で引き受けたのに違いない。秀吉の大坂城と城下を描いた古い下絵があって、丸写ししたのでしょうね。資料としては超一級でも、技量は平凡ね」
「ほう、山崎、すっかり美術商の嫁はんやな。さまになってるやないか」
「先生、からかわないで。で、盛田さん?」
 と促した。話はやっと核心に近づいたようだった。
「最大の話題は、極楽橋が詳細に描かれていたことです。しかも大坂城図には珍しく北側から俯瞰していますので、正面がバッチリです。これが研究者の間でささやかれていたある伝説の真否に終止符を打ちました。跡形も無く破壊されたと思われていた秀吉の大坂城の遺構が現存していたのです」
「ええっ、本当なの。どこにあるの?」
「竹生島です」
「竹生島? 琵琶湖の?」
「そうです。宝巌寺(ほうごんじ)の唐門です」
 竹生島は琵琶湖北部にある周囲二キロほどの小さな島である。宝巌寺と竹生島神社、あとは数件の土産物屋があるだけで、寺社関係者も含めてすべてが島外から通っており、夜は完全な無人島になる。
 恵美は学生時代、一度渡ったことがあり、唐門のことは憶えていた。桃山時代の国宝ということだったが、実に堂々たる門で、こんな辺鄙な小島に相応しくないなと感じた印象がある。
「一六〇〇年の関ヶ原の役後、極楽橋は解体され、京都の豊国神社の唐門へと移築されたことは分かっています。二年後、神社の社僧が日記に内府(家康)の命により「極楽門」を竹生島へ寄進のため、再び壊し始めると記しています。ですから宝巌寺の唐門がそれではないかと言われていました。ただあまりにも情報が少なく、確証が無かったのです。それに大坂城の玄関口を飾っていたにしては、少し小ぶりではという疑問もありました」
 教授がパソコンの画面に唐門の写真を出した。
「宝巌寺の?」
 恵美が尋ね、教授がうなづいた。
 現地で見たときは気がつかなったが、確かにずんぐり、むっくりしている。
「新発見の屏風が全てを解決してくれました。フロイスが描写したとおり、金を用いた鮮やかな色彩と鳥や樹木など種々の彫刻で飾られた極楽橋が描かれていたのです。そして正面の姿が宝巌寺の唐門と酷似していることが分かったのです。彫刻の特徴も一緒でした。ただ大きさが違っていました。あきらかに屏風に描かれた橋の方が高いのです。そこで、私たちはあらためて宝巌寺の唐門の正確な検証を行ないました。すると内側の扉の上部を切り詰め、低くした痕跡を発見しました。オリジナルの門の高さは少なくとも十メートル近くあったと思われます。移築する際に島の小規模な神社にあわせたのでしょう」
「門の左右の外側は円柱だわ。当然これらの上部も切り詰められたということね」
 恵美が意気込んで言った。
 盛田がニコリとした。
「その通りです」
「あなたが最初に円周を確かめたのは宝巌寺の円柱と比べるためね。では、あのふたつのご神木はー」
「そうや。豊国神社で解体された時に切り捨てられた円柱の切れ端に間違いない」
 乾教授が宣言した。
 竜介が思わずパチパチと拍手した。
「凄い! 凄いわ」
 つられて盛田も嬉しそうに手を叩いたが、教授と恵美を見て、慌てて止めた。
「これでも考古学者のはしくれや。科学的に証明出来ないものをとやかく言う気はない。せやけど、この屏風には何かを感じるんや。運命的なものをな」
 盛田が大きくうなづいた。
「秀吉の大坂城を描いた屏風がヨーロッパへ渡り、ハンスのエッゲンベルク城で三百五十年の歳月を生き延び、今再び我々の前に現われた。それによって極楽橋の遺構が確認され、切り詰めた円柱の部分まで出てきた。山崎の電話を受けた時、わしがどれほど驚き、興奮したか、分かるやろ。この屏風を発見し、知らせてくれたケルン大学の教授の言葉が今も印象に残ってる。時空を超えて、秀吉の力が働いたのに違いない、とな」

 D大学から恵美と竜介を乗せたタクシーは四条大橋を東に渡り、左に曲がって縄手通りに入った。
 新門前にある「谷山」の店へは一方通行になるので、通りの角で降りて歩くつもりだった。
「あれ? 浩ちゃんやない?」
 竜介が言ったので目を上げた恵美は、タクシーの横をすれ違って行く浩二を認めた。
 浩二はひとりではない。
 恵美はリア・ウインドウ越しに、連れの女性の後ろ姿を見た。
「アイリスよね?」
 恵美が尋ね、竜介がうなずいた。
「京都に来てるんや」
 と恵美が不審そうにつぶやく。
 タクシーを新門前通りの角で止め、恵美は降りたが、竜介は車中にいる。
「浩ちゃんがいなければ、店に行っても仕方ないし、僕はこのまま乗って行く」
「そう。じゃ、お疲れ様」
「またね」
 新門前通りを店へ向かいながら、恵美は首をひねった。
 結婚してからは、浩二はどんな些細なことでも、すぐ話てくれる。
 アイリスならアイリスと言えばいいのに、どうして客などとぼかしたのか。
 店のドアは閉まっていた。外出中のサインが出ている。
 そうや、今日は伊助さんが休みだったと鍵を開けて店内に入った。
 些細なことだ、バカバカしいと思いながら、釈然としない。
 馴染んだ店先なのに、違った店に入ったような気がする。
 恵美は憮然と立ちすくんだ。

 第五章

 京都で歌舞伎興行がかかるのは四条大橋東南にある南座である。十二月の顔見世は全国からファンが駆けつける。
 四条通りをはさんだ北側に「オレノパン」というベーカリーがあり、その奥にイートインをかねたカフェがある。祇園、切通しにある懐石風フレンチの名店、「奥村」が経営しているので、落ち着いた雰囲気があり、芝居の余韻を楽しむ女性たちや祇園町の舞妓らを見かけることが多い。
 浩二はオーナーシェフの奥村直樹とは、大の仲良しなので、頻繁に利用している。
 今日も顔見知りのスタッフと軽口をたたいた後、浩二は当惑気味に、向いあって座っているアイリスを見た。
 数日前、アイリスから恵美に内密で話があるとメールで届いたのだった。内緒ごとをつくるのは気が進まなかったが、何か思い詰めた様子が伝わってきたので、無下に断ることも出来ず、取りあえず、恵美にはお客が来るからとだけ言っておいたのだった。
「ロスのハネムーン、大変だったらしいですね」
 アイリスは日系なので日本語は不自由ないが、あえて英語を使ってきた。
「そうなんだ。酷い目にあったよ。ほんとにボブが機転をきかせてくれて、助かったよ」
 浩二も英語で答える。
「エミをレイプするのが目的だったと聞いたけど」
「あきらかに計画的だった。でもいったい誰が、そんな酷いことを彼女に対して考えついたのか、分からないんだ。気味が悪いよ」
 日本語を使っていないので、周りの耳は気にしなくていい。
 コーヒーが運ばれてきて、会話が途切れた。
 浩二がひと口飲み終わると、アイリスが、ぽつりと言った。
「私、妊娠してるんです」
「あ、そうなの。」
 なんと間の抜けた返事だと浩二は自分に腹が立った。
「ボブ、だよね?」
「はい」
「おめでとう、って言っていいのかな?」
 心配そうな浩二を見て、アイリスは初めて笑った。
「有難うございます」
 浩二も笑顔になる。
「いよいよアイツもパパになるのか。結婚は何時するの?」
「今のところ何も」
「ふーん。彼には、まだ言ってないの?」
「言いました。驚いていました。セックスは、お互い気をつけていたので・・・・体のことは気遣ってくれましたが、迷っているようでした。堕ろすことは考えていないことは伝えました。男として最も訊きたいことだろうと思いましたから」
 アイリスは感情をまじえず、淡々と話している。
 浩二は黙り込んだ。この手の話は恵美の方が相応しいはずだ。何故自分に持ってくるのだろうか。
「コウジ、ボブがエミを想っているのは気づいてましたか?」
 アイリスのストレートな質問に、浩二は鼻白んだ。
「気があるのは分かっていたが、私たちもこうして結婚したのだし、君たちにもベビーが出来たのだから、そういうことは言わないほうがいいと思うがね」
「彼はシリアスですよ」
 浩二はむっとした。
「そんなことは知らないよ。我々は心から愛し合っている。アイリス、何を言いたいんだ。話のポイントが分からないよ」
「気分を害されたのならあやまります。でもあなたたちとロスで会ってから、ボブの心は私から離れていってしまったように思います。もし、ロスで何かあったのなら、教えていただけませんか」
「バカバカしい。あるはずがないじゃないか。ボブと会っていたのも、せいぜい数時間ぐらいだ。恵美はずっと私と一緒だった。のろけるわけじゃないが、恵美は私以外は目もくれないよ」
 アイリスは唇に笑みを浮かべた。
「そうでしたね。ごめんなさい。私、動揺しているのだと思います。つまらないことばかり、あれこれ考えてしまって・・・・」
 浩二は途中からアイリスの話をほとんど聴いていなかった。
 ハネムーン最後の日、恵美とは半日、別々だったのを思い出したのだ。
 ロサンゼルスには「谷山」の大事な取引先が二軒あり、最終日の午後はその訪問に当てていた。
 恵美も同行する予定だったが、前日のレイプ未遂事件の影響が出たのか、見るからに疲れており、浩二がきつく言って、ホテルで休ませることにしたのだった。
 携帯を壊されてしまったので、外出中は連絡を取ることも出来なかった。
 夕方に急いで帰ってくると、すっかり元気になっていたので、安心していたのだが。
 そう言えば、ロスフェリスのPRSへ行ったはずのボブからの連絡もなかった。
ーいや、待てよ。ひょっとしてボブがホテルの部屋へ電話をかけ、恵美がひとりで休んでいるのを知って、急いで会いに戻ってきた可能性もあるなー
 恵美がヌーディスト・ビーチへ行ったことを聞いたボブが一瞬見せた物欲しげな表情を、浩二はハッキリ覚えていた。
 気がつくと、アイリスがいぶかしげに見詰めている。
 浩二は慌てて口を開いた。
「アイリス、そんなに心配することはないよ。ボブもちょっと迷っているだけさ。男はそうなんだよ。色々考えて怖気づくんだ。恵美に直接聞いてみればいい。もう店には帰っているはずだから」
 口に出して喋っているうちに、浩二は落ち着いてきた。
 恵美が自分を裏切るようなことをするはずがない。つまらないことを思いついたものだ。
 アイリスのことを笑えない。男女の仲は奇妙で、オカシクて、時には苦しい。どんなに愛し合っていても、ほんの些細なことで、疑い出す。
「私も会いたいわ。でも時間がないの。今度、副大統領が来日するでしょう。奥様がお忍びで京都見物に来られるので、その警護の打ち合わせを京都府警としていたの。これから急いで東京へ帰らなくちゃならないーコウジ、あなたと話せて良かった。なんだかすきっとした。本当に有難う。またすぐ来るから」
 アイリスは伝票をつかんで立ち上がった。
「あ、だめだよ」
 手を出す浩二を抑え、「恥ずかしいから、エミには黙っていてね」とウインクした。
 恵美に見られたことを知らない浩二はうなづいてしまった。

 昨年、蒐集した美術品をETPRSに寄贈していたもうひとりの人物は、西海岸の上流階級に深く関わっていた弁護士のエリオット・ガードナーだった。数年前に引退した彼は、サンフランシスコの超高級住宅街、パシフィックハイツに構えた邸宅で老後を過ごしていた。
 入浴中に意識を失って亡くなったが、そのカリフォルニア随一と言われた浮世絵コレクションは、遺言で、そっくりETPRSのものになったのだ。
 マコーミックの調べたところでは、ホクサイのアカフジがコレクションの中に含まれていたのは間違いない。
コウジがジムに見せられたのは、明らかなコピーだったようだが。
 妻子はおらず、近親者は甥と姪が、それぞれマイアミとシカゴにいたが、ほとんど行き来はなく、エリオットとETPRSの関係を知っているようには思えなかった。
 マコーミックはロスフェリスのPRSに電話をかけてみることにした。
「ハロー。グランディです」
 相変わらず明るい。
「ボブです、アン。憶えていますか」
「勿論よ、イケ面のGーメンさん」
 さすがに映画の都のおばさんだな、とマコーミックは苦笑した。
 Gーメンは四〇から五〇年代のハリウッド製フィルム・ノワールで頻繁に使われたスラングで、FBIをさす。GーMEN,すなわちGovernment menで、お役人のことである。
 当時有名なギャングだったマシンガン・ケリーが逮捕された時、[Don’t shoot, G-men!](撃つな、お役人!)と叫んだことで、有名になった。
「どんな御用なの?」
「お会いした時のお話では、フリーメーソンであることは、当人の生存中は明かすことは出来ないとのことでしたね」
「その通りよ」
「故人の場合は問題ないんですね」
「問われればね。あえて公表はしませんが」
「昨年ニューヨークでパトリック・ディッカソンという最高裁の判事が亡くなりましたが、妹さんの話では、フリーメイソンで、しかもマンリー・ホール氏に師事されてたとのことです。ひょっとしてPRSのメンバーでしたか?」
 アンは即答した。
「はい。非常に古いメンバーだった方です。フリーメイソンではスコティッシュ・ライトの三十一位、大審問長官でした」
「最高位から三番目ですね。では、もうひとりお尋ねします。サンフランシスコのパシフィックハイツにお住いだったエリオット・ガードナーという弁護士です。この方もお亡くなりになっていますが、如何ですか?」
 キーボードを操作しているかすかな音がした。
「エリオット・・・?」
「ガードナーです」
 しばらくしてアンが応えた。
「彼もメンバーでしたね。やはりフリーメーソンで、二十七位の殿堂の指揮官でした」
 マコーミックは受話器を持ってないほうの手の指をパチッと鳴らした。
「ちょっと変だなと思いませんか? フリーメイソンで、そちらのメンバーだった判事と弁護士が、そろって貴重なアートのコレクションをETPRSに寄贈しているのです。どちらも遺言を書き換えたのは最近です。ふたりとも今のところ、死因に不審な点はないようですが、ETPRSとの繋がりは何時、どうして始まったのでしょうね・・・・メンバーの方々の個人情報は、そちらでお勤めの方なら、誰でも見ることが出来ますか?」
「それはパスワードを知っていればね」
「アン。ここ十年ぐらいの間で、PRSで職を得、二、三年か数年で辞めた人物を教えて貰うわけにはいきませんか」
 アンは長い間黙っていた。
 マコーミックは彼女の葛藤が手にとるように分かった。
 美術館や博物館、研究所など文化的な施設で働いている人は、同僚を疑ったり、告げ口をすることを、極端に嫌う傾向がある。性善説を信じる人が多いのだろう。
 マコーミックは辛抱強く待った。
 アンがやっと口を利いた。あきらかに気がすすまない様子だ。
「そんなことだけで、人を調べるのはどうかしら。それぞれ事情があるわけだし」
「残念ながら、昔から人々は美術品の犯罪に関しては鷹揚なんですよ。身近で銃やナイフを振り回されるわけではなし、被害者は美術館や博物館、大富豪や資金の豊富な団体ですからね。どこか違った世界で行なわれている趣味的な犯罪のようで、実感が乏しいのです。映画で描かれても、浮世離れしているでしょう。泥棒がおしゃれなスーツ姿できめていたりしてね。でも本当の姿は薄汚く、ドロドロしたものですよ。ことに最近は凶悪な犯罪者やテロリストたちが、人類が共有する貴重な文化遺産の美術品を利用して資金を稼ぎ、社会に害をなしているケースが増えています」
 アンは黙って聞いている。
「アン。どうか分かって下さい。私は何の根拠もなく、ETPRSに関心を持っているわけではありません。詳しいことは言えませんが、彼らは明らかに寄贈して貰ったアートを、目立たぬようにオークションで売りさばいて金に換えています。正当な目的のためとは思えないのです・・・・前回、僕があなたにお会いした時ですが、実は、その前日、僕の友人でロサンゼルスへハネムーンに来ていたカップルの女性が、ETPRSのメンバーの一人に危うくレイプされそうになりました」
「まあ、それは本当なの!」
「はい。たまたま僕が居合わせたので、犯人は逃走して、彼女は無事でしたが。ETが頭についているだけで、同じ名称のこの組織は、あなたがたとは月の表と裏のように、極端に違っています。あなたからお聞きしたことは、決して洩らさないとお約束します。ただ情報として知りたいんです。ひょっとしたら、それが将来、何らかの犯罪を防ぐ役にたつかもしれません。被害者だけでなく、加害者を出さないようにするのも、私たちの役目ですからね」
 アンはため息をついた。
「分かったわ。あなたには負けたわ」
「有難うございます」
「でもねえ、ご存知のように、ここは特殊な哲学研究所でしょう。スタッフは長年働いている専門知識の豊富な顔見知りばかりよ。仕事の内容も良く分からず、ふらっと入ってきて、すぐ止めていく人はゼロに近いわ。運転手や掃除をされる人々は別だけど、彼らは滅多にオフィスに入ってこないし」
 マコーミックの期待の芽がしぼみ出した。
「う~ん・・・・ちなみに襲われたカップルは日本人ですけど」
 受話器の向こうで、アンがはっと息を呑んだ気配がした。
 しばらくためらっていたが、せきを切ったように喋り出す。
「十年ほど前よ。我々のライブラリーに毎日のように通ってくる日本人の若い男性がいたの。おだやかで感じが良く、物凄くハンサムだった」
 気に入っていたのに違いない。アンの口調に熱がこもっている。
「その上、とても頭がいいの。ホールの著書を夢中で読んでいたわ。三ヶ月もすると、私たち全員が彼を愛していた。誰もが彼と話したがった。だって会話が楽しいのよ。そう、どんどん話がころがって、広がっていくのね。彼がここで働き出すようになるのは、時間の問題だった」
「プライベートで、彼がどんな仲間と付き合っていたか分かりませんか?」
「まったく知らないわ。暇さえあれば、美術館や博物館をまわるか、本を読んでいた印象しか残っていない。ここの仕事だけじゃ、楽でなかったと思うけど、苦労しているようには見えなかった。アフター・ファイブまで、我々も干渉できないし」
「何年ぐらい働いていたんですか?」
「彼が持っていたのは十八ヶ月のJビザだったんだけど、切れるころには私たちが手をまわしてね。結局、五年近くいたと思う。見聞を広めたいからと、東海岸へ旅たったときは、大変だった。女性たち、といっても結構な年令のオバサン連中が、人目もはばからず涙、涙でね」
 アンはくっ、くっと笑った。
「その後、連絡は?」
「二年ほどして、日本に帰りますと電話があったきりよ。元気でいてくれるといいけど」
「名前は何といいます?」
「ミスター・サイトウ、我々はタツオと呼んでいたわね」
 マコーミックの心臓が跳ね上がった。突然、旧知の名前が出てきたのだ。東海岸へ向かったのなら、おそらくエドとはニューヨークで知り合ったのに違いない。
「もうひとつだけ、お願いします。『JUN』のエドワード・ゴールドバーグが一昨年京都で変死したのはご存知ですね?」
「病気を苦にしてとか言われてたわね。うちのメンバーではなかったわよ」
 アンが機先を制して言った。
「そうですか」
「フリーメーソンに入りたかったんだけど、断られたと噂で聞いたことがあるわ」
「なるほど。いや、どうも有難うございました。とても助かりました」
「お役にたったかしら」
「ええ、あなたが考えられてる以上にね」

 浩二が店に戻ると、恵美はオフィスにいてPCの画面を見ていた。乾教授がすぐ転送してくれた極楽橋の絵である。
 顔を上げて、にこりとする。
「どうやった、大学の先生は?」
 浩二も画面をのぞきながら隣に座った。
「分かったわよ、あのご神木の正体が」
「ええ、ほんまかいな。そんなに簡単に? 凄いなあ」
「とにかくタイミングが良かったのよ。信じられないほど、幸運が重なった話なの。乾先生いわく、秀吉のパワーが働いたんだって」
「へえ~。で、大坂城のどの建物?」
「橋よ。極楽橋」
「橋だって!」
 浩二が素っ頓狂な声を上げた。
「そう」恵美が画面を指でポンと叩いた。
「廊下橋の入り口の唐門の門柱の一部というわけ」
 恵美は乾教授と文化史を専攻するオカシな女の子との出会いから、全てを詳細に語った。
 浩二も興奮を抑えきれない様子だ。
「こんな屏風がオーストリアに残っていたとはな、まさにミラクルや。先生やないけど、不思議な縁で結ばれているような気がするね」
 浩二は自らマウスを操り、画面を動かして見惚れていた。
 恵美はちら、ちらと横目で彼をうかがう。アイリスのことは自分から言って欲しかった。
 男は屏風に夢中で、いっこうに切り出す気配がない。
 恵美はさりげなく尋ねた。
「今日のお客様って誰やったの?」
「え?あ、そうや。こっちにも面白い話があるんだ。山田仏師がこんなものを写して、持って来た。ご神木だよ。側面に何か墨で書いてあると言うんや」
 浩二は一枚の写真を見せた。どうやらご神木の一部のクローズアップらしい。汚れのようではあるが、良く見るとひらがなに見えなくも無い。
「かなり薄れていて見難いが、何とか判読出来たのがこれやと見せてくれた」
 浩二は一枚の半紙を取り出した。
 
   あみだ     大かう         二十五
                             十五
                           二十
                            二十 
「ふ~ん。これがどないしたん?」
「かなり時代のある墨跡やから、昔のもので、意味はないと思うが、削ってしまってええもんか、施主に聞いてもらえまへんかと言うんや」
「意味も分からへんし、わざわざ聞くこともないと思うけど」
「そやけど、ひょっとしてタツオが知っていて、あとでごちゃごちゃ言われるのも厭やしなあ」
 アイリスの話が出てこないので恵美はイライラしてきた。
「それなら、鹿ヶ谷へ行って聞いてきたらええやん」
 われながら素っ気ない言い方をしてしまう。
 浩二も戸惑ったようだが、
「そうやな・・・そうしょうか。極楽橋のことも言わんならんし」と短く、つぶやいた。
 恵美は浩二の方に向き直った。
「山田さんとお茶してたの?」
 一瞬、間があり、「うん」と返事して、慌てて立ち上がると、忙しげに店先に出て行った。
 あまりにも見え見えで、恵美はかえって悲しくなった。

 マコーミックは、ダイヤの指輪を指で挟み、眺めていた。
 年代モノの凝った石留めに支えられたダイヤは、大きくは無いが、透き通った美しい輝きがある。
 キャリー・ディッカソンのエンゲージ・リングだ。
 最初の訪問で、ふたりはすっかり本当の祖母と孫のように親しくなった。
 キャリーはマコーミックの素朴で、一本気な性格に惚れ込み、彼は老婦人の気品ある磊落さと尽きせぬウイットに魅了されたのである。
 ふたりは飽きず語り合った。
 夕食とその後のお茶だけでは足りず、結局マコーミックは泊まっていく羽目になった。
 彼はアイリスとの全てを正直に打ち明けた。
ー何も悩むことは無いわー
 キャリーのアドバイスは簡単、明瞭であり、マコーミックにはそれが有り難かった。
ーあなたとアイリスは出会い、セックスし、彼女のおなかには新しい生命が出来た。二人でお喋りしてると楽しいし、黙ったままでも気詰まりじゃないんでしょう? その上、お互いをちゃんとリスペクトしている。それをウマが合うというの。シンプルだけど、とても大事なこと。生まれも育ちも違う他人同士の男と女が顔を突き合わせて何十年も暮らすのよ。断言するわ。アイリス以上のパートナーはいないわよー
 マコーミックは冷や汗をかきながら、エミの肢体を想像し、つい自分で慰めてしまうことを告白した。キャリーはまた、身をよじって笑った。
ー大いに勧めるわ。イマジンすることは誰にも侵せない特権。罪悪感なんかさらさら関係ない。気が向けば、その日本ムスメを頭の中で重ねながら、セックスを楽しめばいい。みんな普通にやっていることよ・・・あなたにだけ、秘密を教えるわ。私の夫は素晴らしい男性だった。心から愛していたの。百回生まれ変わっても、彼と一緒になりたい。死ねば傍に行けると思えば、待ち遠しくてしようがないの。ピストルで撃ってと言ったのは冗談じゃなかったのよ。でもね、(キャリーはクスクスと笑った)顔はブルドッグそっくりだった。時には目をつぶって、美男俳優のケイリー・グランドを思い浮かべながら抱かれたこともあったわ。ケイリーが、レストランで友人との会食で、勘定が近くなると、必ずトイレに消えると聞いてからは、止めたけどねー
 マコーミックはベッドに入ると、瞬時に眠りに落ちた。久しぶりの熟睡だった。
 翌日、車に乗り込んだマコーミックにキャリーはくるんだハンカチを押し付けた。ひらくとダイヤの指輪が入っていた。
ー私が夫から貰ったエンゲージ・リング。アイリスにあげてー
 マコーミックは車から飛び出し、必死になって返そうとしたが、老婦人はがんとして受け取らなかった。こんな大事なものを、と彼は食い下がったが、彼女はきっぱりと首を振った。
ーあっちの世界で、また新しいのを彼から貰うわ。だから、それはあなたにバトンタッチー
 突然、セルが鳴り、マコーミックは、あやうく指輪を落としそうになった。
 キャリーからだった。
「ハロー、キャリー。今、ちょうどあなたのことを考えていたので、びっくりしましたよ」
「くどいてるの?」
「そのつもりです」
「バカね。アイリスと喋った?」
「いえ、日本に会いに行きます・・・渡すものがありますので」
「そうー良かった」
「あなたのおかげです」
「きっと、うまくいくわよ。ところで、ボブ、兄のパトリックのところで働いていたメイドがいたでしょう」
「ええ」
「弁護士に問い合わせたら、連絡先を教えてくれたので、電話してみたの」
 マコーミックはセルを持ち直した。わざわざ掛けてくれたのは、何か情報があったのに違いない。
「時々出入りしていた人物がいたようなの。一度泊まっていったことがあったらしく、朝早く玄関ですれ違ったことがあるというのよ。とても目立つ容貌の東洋人の青年だったらしい」
「名前は分からないんですか?」
「メイドの話では兄が電話でタツオと呼びかけていたことあったので、ひょっとしたらそれかな」
 マコーミックはふうっと大きく息をついた。
「多分、その男だと思います」
「そう。人付き合いが苦手で、偏屈な兄に取り入ったぐらいだから、何かを持っているのよ。気をつけて」
「はい。キャリー、色々、有難う。本当に感謝しています」
 

 第六章

 暑かった夏も過ぎ去り、鹿ケ谷の別荘もすっかり秋めいてきている。
 池にさざ波を起こしながら吹き抜ける風も心地よく、静かな空を鳥の鳴き声が流れ、ここが南禅寺、哲学の道から銀閣寺へと続く京観光ゴールデン・ゾーンのど真ん中にあるとは、とても思えない。
 山手に向かう数寄屋群の最初がエントランス・ホールで、次が広間の棟である。
 二年前は靴を脱いだが、今はカーペットが敷かれ、靴のまま上がることが出来るようになっていた。
 エドを囲んで、因縁のディナーの集いがあった広間は、座り心地の良さそうなソファとメープルのテーブルがアレンジされた、高級リゾート・ホテルのロビーのように変わっていた。
 庭園が見渡せる全面ガラスの南側はそのままだが、北側は美術や歴史書で満たされた重厚なウオールナットの書架が広がっている。
 広間から見える心地良さそうな芝生では、七、八名の若者たちが、それぞれ談笑したり、寝転がって本を読んだりして、くつろいでいた。
「なるほど。極楽橋の唐門の一部ということだったんですか」
 浩二がパソコンからプリント・アウトした写真を手にとって見ながら、タツオは感じ入ったように何度もうなづいた。
「いやあ、良く調べて下さいましたね。凄いや」
 言葉と裏腹に、浩二は先ほどからのタツオの様子に何となく、違和感を覚えていた。すでに屏風のことは知っていたのではないかという気がしてならないのだ。
「ひょっとしてご存知だったんですか?」
 タツオは謎めいた微笑を浮かべた。
「オーストリアに古い日本の屏風が残っているらしいことは、ある人から聞いてはいました。でもそこに描かれた極楽橋と竹生島の唐門を、ちゃんと検証して結びつけられたのは、さすがですね、先生」
 と乾教授に目をやった。
 テーブルをはさみ、タツオを向かい合って浩二と乾教授、そしてその隣りに盛田がちょこんとかしこまって腰掛けている。
 恵美から教授と盛田がご神木の実物を見たがっていると聞いていたので、朝早くから、浩二はふたりを山田仏師宅まで案内していたのである。驚いたのは、盛田がかすかな墨跡にすぐ気がつき、しかもあっというまに判読したことだった。
 仏師宅を辞し、三人で簡単な昼食をとっている時に、これから施主に会う予定だが、一緒にこられませんかと浩二は誘ってみた。
 ふたりとも話題の鹿ケ谷の別荘は見てみたいだろうし、タツオにとっても、当の教授や担当の弟子から直接話を聞くほうがいいだろうと思ったからである。教授と盛田は二つ返事で承知し、こうして別荘の広間で向かい合っているのだった。
「ある人とはどなたですかな?」
 タツオの反応が予期したほどでもなかったので、拍子抜けしたような教授が無遠慮な質問をした。
「日本人ではありません。外国人です。アートに詳しい方なんですよ」
「ふーん、誰やろな。ケルン大学の関係者ですか」
 タツオもこれはストレートに言ったほうがいいと思ったのだろう、
「申し訳ないが、お名前は明かせません」
 きっぱりと宣言した。
「そうですか」
 いささか落胆した様子で、教授は黙り込んだ。
 ひとりの白人の若者が広間に入ってこようとして、人影に気づき、立ち止まった。タツオが小さく首を左右に振ると、頭を下げて戻っていった。
「ところで山田仏師がご神木に、一見汚れのようだが、墨跡があるといって、写しを持ってきてくれましてね、これですが」
 話題をそらそうと浩二は写真と半紙をタツオに見せた。
「へえ、なるほどね・・・・・まあ、落書きのようだし、誰が書いたのかも分からないんでしょう・・・で、これをどうしょうと?」
「いえ、削り取ってしまっても、差し支えないか、うかがってくれないかと仏師が尋ねているんですよ」
「どうぞ、どうぞ。気にせずにとお伝え下さい」
「分かりました」
「そんなものがあったとは、気がつかなかったなあ」
「ええ、私たちも分からなかったんですよ。でも、ここにいる盛田さんは凄いです。私が何も喋ってなかったのに、あっと言う間に見つけ、しかもすぐ読み取りましたからね」
「ほう、若いのにたいしたもんですね」
 いきなり自分が話の中心になったので、盛田はきまり悪そうにうつむいている。
「それだけじゃないんです。考古学の世界では、彼女のスーパーナチュラルな感覚が有名みたいですよ。『女神の手』と呼ばれているらしいです」
「女神の手?」
 タツオの眼がきらっと光った。
 浩二は教授を見たが、説明したい気分ではなさそうなので、代わりに喋り出した。
「とにかく地中に埋まっているトレジャーのありかを探し当てるのが抜群に優れていて、神の手ならぬ・・・・」
「お話中だかー」
 たまりかねたように教授がさえぎった。
「そんな映画のスーパーマンのような人間がいるわけがない。彼女は遺跡の発掘現場で、遺物の埋まっていそうな場所を見分ける能力が非常に高いというだけです。誤解なさらんで下さい」
「すみません、先生。でも盛田さんは古文書の解読力も凄いらしいですね」
「ああ、本来はそっちの専攻ですからな。よく勉強しとります」
「では、盛田さんは、このご神木に書かれたひらがなの文字や数字はどう思われますか?」
 タツオがやにわに身を乗り出して、尋ねた。俄然、この中学生といっても通るような女の子が気になり出したらしい。
 盛田はごくりとツバを呑み込むと、口を開いた。
「戦国時代、高位の武将で、かなり事務能力の高い男性が書いたと思います」
 タツオが軽くうなづいて言った。
「・・・あみだ・・・大かう・・・これらはすばり阿弥陀如来と太閤秀吉のことでしょう。すると当時の人間も、これらの極楽橋の切り取られた部分を利用して、阿弥陀さまと秀吉公の像を彫ろうとしていたわけだ。数字は多分、その大きさだろうね。二十五寸と考えれば、およそ七十五、六センチだからご本体だけならちょうどだし」
「アタシは違うと思います」
 盛田が臆することなく、はっきりと言った。
「ほう。何故?」
「木彫の対象を記しておくだけなら、円柱トップの切断面に分かりやすく書けばいいことです。ご神木は二本あるわけですから、それぞれに、あみだ、大かう、というように・・・・・一本の側面だけに小さく、それも縦列にチョコチョコと書くのはオカシイです。数字の列も乱れている上、二十がダブっています。対象の寸法を表しているとは思えません」
「なるほど」タツオは楽しそうだ。
「もうひとつ。写真でも分かりますが、字はかなり下の方に書かれていますね。数字などは、ほとんど下端近くです」
「ーふむ」
「ですから、この状態のご神木の側面に書こうとすれば、筆を持った人間は這いつくばらねばなりません。ありえないです」
「では、ひらがなと数字は・・・・」
「はい、この部分が切り離される前、まだ極楽橋の唐門を支えていた円柱の状態の時に記されたと思います」
「何のために?」
 少女のような女子大生は、一瞬、黙り込み、うつむいていたが、顔を上げると挑むように宣言した。
「メモ代わりじゃないでしょうか」
「メモ! 秀吉公自慢の極楽橋の門柱をメモがわりですか? でもそれだと大きな問題がありますよ。先ほどのお話だと、豊国神社から竹生島の宝巌寺へと移築されるさいに、唐門の円柱の上部をカットして低くしたのでしたね。すると元の状態の時に書かれたのなら、このメモはなんと高さ七、八メートルの位置にあったことになる。書くのも読むのもハシゴがいりますな」
 タツオはからかうような口調である。
「字が書かれたのは、人目につかない円柱の裏側です。それにハシゴは必要ないんですよ」
 盛田は屏風に描かれた極楽橋の写真を、あらためて指差した。
「極楽橋の屋根の中央あたりに立派な望楼がのっています。橋の中には通行の邪魔になるから望楼に登る階段は造れませんね。ではどうして出入りしたのでしょうか。アタシは橋の天井と屋根の間に人が立って歩けるくらいの通路があったと思います。入り口の唐門の高さが十メートルもあったんですから、スペースは十分です。橋は二の丸と本丸を結んでいますが、ご覧のように本丸側は櫓の建物にピタリと密着している。出入り口がここにあったのは間違いありません。天井裏の通路は構成上、唐門の裏側までずっと続いていたはずです。ですから通路の端まで行けば、唐門を支える円柱の上部はすぐ目の前にあり、裏側だからメモ代わりにしても通行人からは見えません」
 盛田は一気に喋った。
 タツオの真剣な顔を見れば、彼が心を動かされているのは明らかだった。
「うん。実に面白い。では、あなたはこのメモは何を書き記したと考えます?」
「・・・アタシは・・・ちょっと・・・突拍子もないことで、笑われそうなんですけど・・・」
 タツオと浩二だけでなく、教授も耳をかたむけている。
 盛田は紅くなり、チラと教授を見たが、思い切ったように喋り出した。
「最初にこの墨跡を見た瞬簡に、極楽橋を深夜に出て行く荷駄の列が目に浮かんだのです。回りには警護の武士が大勢いて、たいまつが赤々と燃えています。声を潜め、物音をたてないよう、静かに城を出ようとしています。馬が一様に荷っているのは、頑丈な木箱で、中身は・・・・おそらく秀吉が造った金の大判です」
「は、はぁ~」
 浩二は何とも言えない声を上げたが、タツオの眼は異様なほど真剣だ。
「唐門の上部には立派な透かし彫りの飾りがあります。その飾りの後ろの通路で、誰かが彫り物の隙間から眼下を通り過ぎる荷駄を確認し、傍らの円柱に記したのでしょう。最初の夜は二十の荷駄だったと」
「最初の夜?」
「昼間、堂々と出て行くのなら、こそこそメモする必要はありません。夜も更けてからのシークレット・ミッションだったのでしょう。右端の墨跡、あみだ・・・大かう・・・二十は一気に書かれています。この行が最初に書かれたのは間違いないと思います。それより左へ続く、十五、二十、二十の数字は微妙に並びが乱れていますし、二行目の十五と左端の二十は、最初の二十と明らかに手が違います。ですからミッションは四回、おそらく四夜に分けて実行され、複数の監視者がいたということになります」
「彼らは何者かな」
「城中は非常に密談がやりにくい所でした。出入りする人間が多いので、こそこそ集まると人目につきますし、また、床下、天井裏、襖で囲われた空間は、盗み聞きされやすいのです。大坂城の中で、極楽橋の望楼ほど、謀議をはかるには、最適の場所はなかったのです。水上の空中に浮いているのですからね。しかも近づけるのは屋根裏の隠し通路だけです。櫓側の出入り口を中から施錠してしまえば、誰も近づけません。城中で最も目だつ建物が、実は完璧な密室でした」
「だが、誰でも利用出来たわけではないのでしょう?」
「興味深い古文書が残っています。『鹿苑日録』と呼ばれる、京都、相国寺の僧録司たちが書き残した日記ですが、五奉行が政務をとることがあったと記されています。でも、どう見ても通常の政務に相応しい場所に思えませんね。奉行たちはきっと内密の相談に利用していたのでしょう」
 秀吉は、その子、秀頼が成長するまでとして、政権を五大老・五奉行の協議に任せて亡くなったが、大老筆頭格の家康が、独断専行を繰り返し、それに反発した石田三成らの奉行が兵を挙げ、関ヶ原の戦いへとなだれ込んでいったのは周知のことである。 
「すると、このメモを残したのは?」
「奉行の誰かだと思います。断定は出来ませんが、財務関係は長束正家だったので、そのあたりが中心だったかもしれません。それに前田玄以や増田長盛も戦場には参加せず、大坂城から離れませんでした。このミッションは一六〇〇年六月十六日、家康が上杉征伐に向かって大坂城を出発してから、十月二十一日の関ヶ原の役までの役まで、風雲急を呼んでいた三ヶ月間のいづれかに決行された可能性が高いです。石田三成が破れ、家康が実権を握ると、極楽橋はすぐ解体されてしまいますからね」
 浩二がたまりかねたように口をはさんだ。
「大判がぎっしり詰まっている箱が八十とは凄いですねえ」
「それでも大坂城に貯えられていた総量からすれば、ごく一部だったと思います。何しろ金が腐るほどあるといわれていたのですから」
「それにしても何処へ持ち出したのやろ。戦いが始まろうという時に」
 タツオがにっこりした。
「ここまで彼女に解いてもらえば、彼らの行き先は明々白々じゃないですか」
「え、そうですか」
 浩二は眼を丸くして、タツオと盛田を見比べた。
「だって、『あみだ』と『大かう』だけでは・・・・、あ、ちょっと待てよ。そうか! 『あみだ』は阿弥陀如来ではなく、場所の名前なんだ。それもここ京都、東山にある阿弥陀ヶ峰のことなんですね!  太閤である秀吉はその山頂に埋葬されている。なんだ、言われてみれば簡単なことだ。ほんまにメモそのものやったんや・・・・・ふ~ん、大量の大判は、この町に運ばれていたのか・・・・」
 それから全員が同じことを考え、黙り込んだ。
・・・・ひょっとしたら、その金はまだ阿弥陀ヶ峰の頂上に・・・・
「ワッ、ハ、ハ、ハ・・・」
 と、笑い声を上げたのは乾教授である。
「いやいや、これは愉快だ。みんなとっさに同じことを考えましたな。見事、盛田マジックに引っ掛かったようです。彼女は可能性のひとつを、上手く解説してくれただけですよ。わしもつい引き込まれてしまったぐらいだから、無理もないですが。ま、あんまり真剣に考えんで下さい」
 盛田がうらめしそうに上目遣いで教授を見たので、浩二とタツオも思わず笑ってしまった。
「でも、先生。彼女の説はすごくリアリティがありますね」
 とタツオが言う。
「それはそうです」
 教授は一転して真面目な顔つきになった。
「極楽橋の状態や当時の大阪城の状況に関しては、間違ったことはひとつも言っておらん。それに今更わしが付け加えるのはおかしいが、金を京都へ持ち込んだとしたら、理由は簡単に推測出来ます。当時はたった一日の関ヶ原の役で決着がつくとは誰も思っておらなんだ。万が一、戦雲が大坂城へ及んできた際には、朝廷への工作資金に当てるつもりだったと考えれば腑に落ちる。奉行のひとり、前田玄以は豊臣家の朝廷担当でしたからな。この国は何時も争い事に皇室の権威を利用しようとします」
「でも、いくら裏側でも門の円柱にメモったんでしょう。誰か気がつきそうで、無用心じゃないですか」
「現代の視点で見てはダメです。奉行以外はあの空間へ近づくことは不可能だったはずじゃ。言ってみれば彼らの聖域で、当時の大坂城で最も安全なところだった。あの豪華な建造物が、あっさり消え去るとは夢にも思わなかったに違いない」
「なんやかんや言いながら、先生も結局、盛田さんをフォローしてるやないですか」
 と浩二が突っ込んだ。
「おお、これはいかん」
 教授はごま塩頭をパチパチ叩いた。
「やはり人間、ロマンに憧れるのです。たとえ百万分の一の可能性でもね」
 全員が爆笑したが、タツオの目は笑っていなかった。
「先生、盛田さん。私は大阪の出でしてね、秀吉公には人一倍、想い入れがあります。毀誉褒貶があるのは分かっていますが、子供の頃からの憧憬の人です。今日は本当にいいお話を聞かせていただきました。これをご縁にどうぞお付き合い下さい」
「いや、こちらこそよろしくお願いします」
 乾教授は改まって頭を下げ、紅潮した顔の盛田もぺこりとした。
「おふたりとも、ここをご自由にご利用してくださったらいいですよ。蔵書には結構貴重なものもありますから。それから先生、失礼ですが、ご専門の研究には予算がいくらあっても、充分とは言い難いと思います。ぶしつけですが、ささやかなご援助を大学を通じてさせていただきたいと思います。何かのお役にたててくだされば嬉しいです」
 教授も盛田に負けず劣らず顔を輝かせた。
「それは有難いお申し出です。考古学を学ぶ一同になりかわって、お礼申し上げます」
 タツオは浩二を見た。
「今日は、恵美さんはご一緒じゃなかったんですね」
「ちょっと手が離せなくてね。残念がってましたが」
 何時もの恵美らしくなく、浩二が誘っても首を振ったのである。
 アイリスが来た日から、なんとなく変なのだ。何かわだかまりがあるような気がする。
 ひょっとして彼女と縄手通りを歩いているところを見られたのではないだろうか。
 さっさと説明して、誤解があるのならといてしまいたいのだが、内緒にしといて、とアイリスに念を押されたことが重石になっている。こういうところは、浩二は妙に律儀なのだ。
 それに彼女が、恵美とマコーミックの仲を疑っていると聞けば、いらぬ波風が立たないともかぎらない。
「Peace begins with a smile. 平和は微笑みから始まる、マザー・テレサの言葉です。僕は、微笑みは食事を共にすることから始まる、と思います。来週か再来週の日曜の昼、ここでガーデン・パーティーをして、友好を深めませんか。店に戻られたら、山田仏師、恵美さんや伊助さんに相談なさって、ご都合のいい日をお知らせ下さい」
「伊助もですか?」
「はい。特に伊助さんです。僕はお噂をお聞きしているだけで、まだお目にかかったことがないのですよ。京都古美術界の伝説の主に色々お話をおうかがいしたいので、きっとお連れになって下さい。それからー」
 タツオは乾教授と盛田へ顔を向けた。
「おふたりも、ぜひ来てください」
「宜しいのですかな、お言葉に甘えて」
「勿論ですとも」
「我々は、どちらの日曜日も空いとります。な?」
 教授は盛田を見やり、彼女はコクンとうなづいた。
「結構。浩二さんから連絡あり次第、すぐお知らせします」
 タツオは軽く手を叩いた。
「そうだ、ケータリングは奥村さんに頼みましょうね。浩二さん、お友達でしょう?」
「ああ、それはいいなあ。楽しみです」
「じゃ、決まった。ご連絡を待ってます」
 それから、ぴしゃりと額を打ち、
「肝心な人を忘れていました。竜介さんもお願いしますね。でないとまた、怒られます」
 浩二はタツオの話術の巧みさに舌をまいた。
 いくらタツオが直接関わっていなかったとはいえ、この別荘でのパーティーに、再び招待されるのは、浩二や恵美にはそれなりの心理的な抵抗もある。それをデイナーから昼の開催に変え、伊助を持ち出し、大学の師弟は資金援助をからめて、またたくまにまとめてしまった。
 恵美に話すには最悪のタイミングだ。
 浩二は横を向いて、ひそかに唇を噛んだ。

 アイリスはうきうきしていた。
 自然にハミングが出てくる。
「アイリス、ご機嫌だな」
「何か、いいこと、あったのかい?」
 同僚の冷やかしを、軽く受け流すのも楽しい。
 昨夜、マコーミックから電話があり、来週末に日本にやってくると言う。
 声の調子は明るく、確信に満ちていた。京都で落ち合うことになった。
ーどうして京都?ー
ーみんなにも報告しなくちゃー
 それがどういう意味なのかは、明らかだった。
 昨夜はほとんど寝られなかったが、疲れはまったくない。
 アイリスはてきばきと仕事をこなした。
 私は、今、世界一幸せな女ー彼女はそう信じていた。

 エントランス・ホールで浩二と乾教授らを見送った後、タツオはライブラリーのロビーのように変身した広間に戻った。
 突っ立ったまま、しばらく思案していたが、四つの和室がある隣りの棟に向かう。
 北側に面した部屋の前に立ち止まり、「タツオです」と声をかけた。
「どうぞ」
 襖を開けると、縁側にある椅子に座って、竹林に光悦垣を配した庭を見ていた女性が振り向いた。
 ナオミである。にっこりして、もうひとつの椅子に座るよう、うながした。
 タツオは固い表情のまま、腰を下ろした。ナオミが苦手なのだ。
 何となく心中を見透かされているようで、面と向かい合うと妙に気後れしてしまう。
「どうでした?」
「来週か再来週の日曜日のどちらか、あとで連絡してこられると思います」
「イスケのことは?」
「念を押しておきました」
「そう、有難う」
 ふたりの会話は流暢な英語だが、乾いたトーンでかわされている。
「コウジはひとりじゃなかったようね」
「D大学の考古学の教授とその助手のような学生です。中学生のような可愛い子ですが、際立った能力がある。とても面白い」
「あなたが言うのならホンモノね。会ってみたいな」
「彼らも招待しておいたから、会えますよ」
 ナオミは竹林の方へ目をやった。
「日の落ちるのが早くなったわね」
 タツオも黙ったまま、庭を見ていたが、フンと鼻で思い出し笑いをした。
「教授がオーストリアの城にある大坂城図屏風の話を持ち出しましたよ。僕がすでに知っていたのでガッカリさせたようです」
「それは気の毒なことをしたわ。まさか私から聞いたとはー?」
「言うわけないです。あなたがケルン大学の教授に、この屏風の価値を知らせたご本人だとはね」
「するとあの屏風の絵に、ご神木の由来が分かるようなヒントがあったわけ?」
「はい。大坂城の北の堀にかかっていた極楽橋という、超ゴージャスな廊下橋の唐門の一部だったようです」
「良かったじゃない。お墨付きが出来たわけだし」
 『あみだ』や『たいこう』の墨跡のことは、何れコウジからでも聞くだろうが、今自分の口から、この女に説明してやる気はさらさらなかった。
「ではー」
 タツオが椅子から立つと、ナオミも立ち上がった。
「タツオ。こんどのことは、本当にありがとう。あなたの協力がなければ、不可能だったわ。心からお礼を言います」
 タツオは、これ以上はない殊勝な様子で、頭を下げた。
「とんでもありません。二年前、ジャネットからこうむられた苦しみを考えれば、ほんのささやかな償いに過ぎません。当日は、すべてうまく行けばいいですね」
 襖を閉め、タツオはさっさと自分の居室に向かった。
 ナオミがアプローチしてきた理由が依然として分からない。確かに彼女の計画に、この別荘がピッタリなのは理解出来るが、それだけとは思えない。
 あれほど大掛かりなことをもくろむ真意はどこにあるのか。
ーまあ、いいさー
 タツオは腹をくくった。
 クソ女が、戦争を仕掛けてくるのなら、受けて立ってやる。

 第七章

「え、わしも呼ばれたんですか、ぼん。何でやろ?」
「京都古美術界の伝説の主に会いたいんだってさ。必ず連れて来てくれ、と念を押されたよ」
 浩二が言うと、伊助はまんざらでもない顔をした。
「そんな大層なモンでも、おまへんで」
「そんなことないわ、伊助さん。新門前で『貿易屋』の黄金時代を知っている人間なんて、もう誰もいやはらへんやないですか」
 恵美も調子を合わせる。
 先ほど、アイリスの電話を受けてから、機嫌がいい。
 ボブがどうやら腹をくくって、プロポーズのために来日するようなのだ。京都にも来るという。
ーこの前、浩二さんに相談して、助かったと喜んでいたわ。お礼を言っといてって。ちょっと私にも話しておいてくれたら良かったのにー
 そうしたかったんだけど、恥ずかしいから恵美には黙っててと釘をさされてね、と浩二は説明しておいた。アイリスがわざわざ恵美に電話をかけてきたのは、結婚が決まったので、浩二が恵美に隠し事をしているひけ目を感じさせたくないと気を使ったのだろう。
「それでは、来週の日曜でどうだろうね」
 伊助も恵美もうなづいた。
「竜介と山田仏師には私が連絡しておくから、乾先生の方は恵美、頼むよ」
「そういやボブとアイリスが來週末に来ると言っていたから、ひょっとしたら彼らも行きたがるかも」
「まさか」

 まさか、どころではなかった。
 パーティー前日の土曜の午後、マコーミックから浩二に電話がかかってきた。
「やあ、ボブ、来たのか! ロスでは本当に世話になったね。助かったよ。命の恩人さ」
「おい、おい、あの時は電話、一本しただけだよ。そんな大げさな」
「とんでもない。恵美に何かあったらー」
「ー生きていけないんだろう。相変わらずのベタベタだな。いい加減にしてくれよ」
「次はそっちのノロケを聞いてやるよ・・・結婚するんだろ」
「ああ。FBIニューヨーク支局ACT捜査官一名、エージェント・アイリスにより確保されました」
「ヘイ。彼女は素晴らしい女性だよ。日本とアメリカのそれぞれいいところを持っている。君はラッキー・ガイだ」
「分かっている。手中の珠って、他人から指摘されるまで、案外気づかないものなんだよ」
 二人は、それぞれ想いをめぐらし、ちょっと間が空いた。
「ーところで、今夜はプロポーズのためにとっておかなくちゃならないが、明日、四人でランチをしないか?君の友人のナオキのところが取れるなら最高だが」
「・・・・明日の昼か。ボブ、実はな、ガーデン・パーティーがあって、エミやイスケと出席するんだよ。しかもナオキがケータリングをするんだ。あとリュウスケや知り合いも行く」
「何だか楽しそうだなあ。何処であるんだい?」
「シシガタニサンソウだよ。ほら、エドの別荘だった・・・」
 マコーミックは黙り込んだ。
「会ったときに詳しく話すつもりだったんだが、今のオーナーはタツオだろう、向こうから関係の修復を申し入れてきてね。今、ちょっと仕事を請け負っているんだ。リュウスケもそうなんだよ。とにかく以前のタツオとは別人のようだ」
「関係の修復が彼の本心なら、僕やアイリスが参加しても、歓迎してくれそうだね」
「どうかな・・・・君たちは、その、民間人じゃないからね。正直、分からない」
 マコーミックは、意外なほど切羽詰った口調で訴えた。
「とにかく、一度訊いて見てくれよ。仕事じゃなく、プロポーズのために京都に来合わせたんだとか、うまく取り繕ってさ。ま、それが事実であることに変わりはないし」
「分かった。電話してみるよ」

 タツオは一瞬、戸惑ったようだったが、簡単にOKしてくれた。
「やれやれ、これで二年前のメンバーが全て揃ったことになったな」
 と浩二は恵美を見た。
「ナオミがいない」
「あ、そうや・・・・彼女、どうしたんやろ。忙しいのかな。しばらく連絡がないね」
「イスケさん、このところ、妙に彼女のことに触れないようにしてるね。ひょっとして・・・」
「・・・・・・・?」
 恵美は辺りを見回し、声を潜めた。
「娘やと気づいたのと違うやろか?双子やったと」
「うーん。そりゃ、ホンモノの親娘やからな。何時かは、分かるやろと思うけど。別にかまへんのと違うかなあ。今さらどうしょうという気はふたりともないやろし」
「そうかな。ナオミは、ちょっと・・・・」
「うん?」
「いや、何でもない」

 池を取り囲む緑樹にも秋の気配が色づき始めた鹿ケ谷山荘に、ヴィヴァルディが弦楽四重奏にのって流れていた。
 ミュージシャンは四人とも白人でタキシードを着ている。
 芝生には、三メートル近くある大きな朱塗りの傘をさした、信楽焼の円いガーデン・テーブルが三基セットされ、それぞれ数脚のスツールが置かれていた。
 建物の側らでは、即席のグリル・コーナーとバー・カウンターがあり、ステーキは直樹自身が焼き、飲み物はソムリエが各テーブルを回っている。
 厨房でつくられた料理をてきばきと運んでいるのは、やはり「奥村」のスタッフたちだ。
 招待客たちは三組に分かれて座っており、それぞれのテーブルにホスト側からひとり加わって、あちこちから笑い声が聞こえてくる。

 浩二と恵美、竜介のテーブルにはタツオが座っていた。
「失礼だがアイリスって大変な美人だったのですね。見違えましたよ」
 チラッと目をやったタツオがつぶやいた。
「本当に」
 相づちをうった恵美自身が驚いていた。プロポーズされ、お腹には愛の結晶が出来た、それだけで女性はこうも変わるものだろうか。そろそろ私たちも子供のことを真剣に話し合うべきかなと思って振り返ると、肝心の相手はぼうっとアイリスに見惚れていた。
 先日、沈んだ顔で相談を持ちかけてきたときとは、まるで別人やなと浩二はあきれている。何故ボブがさっさと結婚しなかったのか、分からない。男という生き物は、やはり隣家に咲く花に目がいってしまうのかもしれん。
 つい口元を緩めた浩二は、思いつめたように見詰めている恵美の視線に気がつき、慌てて顔を引き締めた。
 竜介はまったく関心なさそうに、料理を運んできた「奥村」のスタッフと軽口をたたいている。

 マコーミックとアイリスは、伊助と一緒だった。
 細面で、四十前後の白人の男が同じテーブルにいる。
 ブライアン・キースと名乗り、財務関係を担当しているらしい。
 ピンクがかった白い肌で、細面の顔にかけられたメガネの奥の目は、秋の空をうつしたように青い。パーテイーに参加している人間で、ひとり、きっちりとネクタイをしめていた。
「私はMIT(マサチューセッツ工科大学)の建築・計画学部を出て、ニューヨークでは経理事務所に務めていました」
 とブライアンはさりげなくMITを強調しながら、マコーミックに言った。
「ほう、ちょっと畑違いのような気がしますが」
「なあに、数字を扱うことには変わりないですよ」
「タツオとはニューヨークで?」
「私を引き抜いたのはエドです。彼のプライベートな財務管理を任されてね、それでタツオとも親しくなりました」
「なるほど。二年前、エドがここで亡くなられたときはー」
「まだ、NYにいました。それからしばらく、行ったり来たりしていましたが、今はここでタツオと共に働いています」
 タツオのために、ではなく、タツオと共に、と言ったのは、事実上のパートナーをほのめかしているのだろうか。そんなパワーがあるようには、とても思えなかった。
 マコーミックは庭園をゆっくり見回した。
「ここの維持費も大変でしょう」
「まあね。エドが残してくれた『JUN』株の配当だけでは精一杯ですね。その上、ジュクをやるとなれば、資金もいるし、頭が痛いです」
「ジュク?」
「Private schoolのことよ」
 アイリスが説明した。
「ここでですか?」
 マコーミックが訊くと、ブライアンは首を振った。
「ここから二キロほど南です。ウママチという所の近くに土地を買って、建てています」
「へえー、馬町周辺ですか」
 伊助が驚いたように声を上げた。
「はい。もと病院があったところです」
「ああ、知っています。いい場所ですね。妙法院のすぐ近くでしょう?」
 ブライアンはうなづいた。
「どういうタイプの、その・・・ジュクですか?」
 マコーミックが尋ねた。
「そちらはタツオの担当でね。私はあまり知らないのです。オープンしたら案内書をお送りしますよ」
 ブライアンは、この件については喋りたくなさそうだった。
 アイリスが目配せしたので、マコーミックは話題を変えた。浩二に頼んでパーティーに押し込んでもらったようなところがあるので、彼に迷惑がかかることだけは避けなくてはならなかった。
 池の向こう、樹木の間を全身白ずくめの人影が動いたが、招待客の誰も気づかなかった。

 乾教授、盛田、山田仏師のテーブルには、二十代半ばで、髪をショート・カットした日本人の若い女が相手をしていた。長身だが、引き締まった体形をしている。
「私もD大学の文化学科でした。専攻は美学・芸術学でしたが」
 青山好美と名乗った女性が言った。
「では先輩ですね。ウレシイ」
 パチパチと手を叩いて盛田が喜んだ。
「美学というと、ゼミは金田君かな」
 乾教授が言った。
「いえ、中川先生でした」
 青山は答えて、盛田を見た。
「導師から聞いたのですが、あなたは『女神の手』と呼ばれてるんですってね」
「そんなたいしたモンじゃないですよ」
 盛田はきつく首を振った。
「導師とは?」
 教授が尋ねる。
「タツオです」
「導師といえば先生だろう。ここでは呼び捨てにするのかね」
「はい。そのように指導されていますので」
「ふ~ん」
 教授は不快そうだ。

 樹木の中の不審な動きに気がついたのは、ステーキを焼いていたシェフの直樹だった。
「向うの樹の間に白い人影がちらちら見えるで。何やろな」
 お代りを取りに来た浩二にささやき、顎で方向を示した。
 浩二も目を凝らす。
「ほんまや・・・・何人もいるな。遠くで良く分からないが、あれはまるで・・・・・」
 浩二はいきなり伊助のいるテーブルに向かって、「伊助さん、ちょっと」と呼んだ。
 伊助が立ち上がり、やって来た。
「なんですか、ぼん」
「ホラ、あそこ。白いコスチュームを着た人間がいますね・・・・・あれ、また数が増えてきたぞ」
「―頭に被ってるの、ヘルメットでっせ。手に持ってるのは銃みたいやけど」
 人数はすでに十数名近く、身構えながら近づいてくる。
 正体が分かると、浩二と伊助は顔を見合わせた。
「あいつらー」
「インペリアル・ストーム・トルーパーや!」
 白いヘルメットと体を覆うアーマーは、映画「スター・ウォーズ」に出てくる帝国軍突撃隊員のユニフォームである。
 数はどんどん増え、今や数十名はいる。
 池に沿った道を、芝生でパーティーを楽しむ一行に向かって、銃を構えながらひたひたと迫ってくる。
 今やパーティー会場の全員が気がつき、注目していた。
 直樹も手を休め、スタッフたちも立ち止まっている。
 ストーム・トルーパーたちのターゲットは明らかにパーティーの出席者たちだ。
 何事が起こるのかと興味津々で見回しているのは、乾教授と盛田ぐらいで、恵美や竜介、FBIのふたりは緊張している。 
 山田仏師ひとり、泰然としていた。
 恵美はタツオを見た。
 口元に微かに笑みを浮かべ、平然とストーム・トルーパーたちを眺めている。
 アトラクションかなと、とっさに思いついたが、それにしては人数が多すぎる。
 タツオが何を考えているのか、分かったもんじゃない。
 背筋が冷たくなった。
 恵美が口を開こうとしたとき、右手にある入り口へと続く砂利道の方から、グイーン、グイーンと唸るマシンの響きと、バリ、バリ、バリと砂利を踏み潰す音が聞こえてきた。
 樹木の間からゆっくりと現われたのは、高さ八メートルはゆうにあり、折れ曲がった二本の脚で長方形のコックピットを支えた、歩く戦車とも言うべき、チキン・ウォーカー、ATーSTである。
「うわぁ、すげぇ、本物のチキン・ウォーカーや!」
 我を忘れて叫んだのは、浩二である。
 伊助も眼を輝かせている。
 二本の脚を交互に進ませてストーム・トルーパーに向かっていく。
 突然、チキン・ウォーカーの、コックピット前面の銃口が火を噴き、ダッ、ダッ、ダッ、ダッ、ダッ・・・・と激しい銃声上がった。
 銃弾を浴びた芝生があちこちでえぐれて巻き上げられ、木々の幹が砕け散る。
 ストーム・トルーパーはきりきり舞いをしたり、後方へ吹っ飛ばされたりして倒れていく。
 岩石に当たった銃弾が火花を上げ、幹をえぐられた巨木が倒れてきて、兵士たちを押しつぶす。
 物凄い迫力である。
 銃声が止んだ。硝煙が薄れていって、辺りはシーンと静まり返っている。
 ストーム・トルーパーは全て、倒れ臥していた。
 ガチャンと音がして、停止したチキン・ウォーカーのコックピット上部の丸蓋が開くと、ひょっこりチューバッカが顔を出した。犬のような顔をした類猿人だ。
 両手を挙げ、茫然と見上げている一同に手を振った。
 真っ先に手を叩いたのはマコーミックとアイリスで、続いて全員が拍手した。
 何時の間にか手にしたカメラで、盛田は写真を取りまくっている。
 それに誘われるように、砂利道の方からヒョコヒョコと出てきたのは人型ロボットのCー3POである。相棒のポッド型ロボット、R2ーD2も滑るようについて来る。
 小熊のような可愛いイォークが三人(匹?)、弓矢を手に現われると、歓声が上がり、一段と拍手の音が高くなった。
 Cー3POとイォークたちは、それぞれテーブルに行き、ゲストたちに愛想を振りまいている。
 すると弦楽四重奏のカルテットが「ダース・ベイダーのマーチ」を奏で出した。
 全員が期待をこめて砂利道を見詰めていると、黒いヘルメットにマスク、マントをひるがえして、おなじみのダース・ベイダーが現われた。
 おお、と嘆声がもれる。
 辺りを見回したダース・ベイダーは、ひとりの人間に視線を据え、ゆっくりと歩み寄った。
 向かい合った伊助は目を丸くして突っ立っている。
 ダース・ベイダーはヘルメットとマスクを脱ぎ、軽く頭を振った。艶やかな黒髪がさっと両肩からマントに広がり、紅い唇から白い歯がこぼれる。
 ナオミだった。
 ファンタジーの世界から抜け出てきたように、良く似合っている。
 腰からライト・セイバーを取り出すと、それは一瞬のうちに花束に変わり、ざわめきが起こる。
 ナオミがパーティーの出席者を見回しながら、きれいな日本語で言った。
「日本では、喜寿といって七十七歳になられた方を、特に敬います。嬉しいことに、ここにおられる
伊助さんが、ちょうどそのお年になられました」
 伊助に向き直ると、花束を差し出す。
 突然、注目の的になった伊助は、顔を紅くし、呆然としていたが、やっと震える手で受け取った。
 ナオミはそっと頬にキスしながら耳元にささやく。
「パパのためよ」
「分かってる」
 伊助がかすれ声で応えた。
 振り返ったナオミは、優雅なポーズで腰をかがめ、全員に礼をした。
 あらためて盛大な拍手が起こる。
 浩二も拍手しながら、タツオが伊助の出席にこだわっていたことを思い出した。この壮大で、子供じみたアトラクションは、ナオミが伊助ひとりのために企んだのは間違いない。
 恵美と顔を見合わせた。同じことを考えていることが分かった。
(どうやら親娘と認め合ったようね)
 今日のパーティーのメイン・ゲストはイスケであり、影の主催者はナオミだったのだ。

 ダース・ベイダーのコスチュームを脱ぎ捨てたナオミが合流した頃には、テーブルで座っているのは何事か熱心に語り合っている乾教授と山田仏師ぐらいで、あとは三々五々、飲み物片手に芝生の上で喋ったり、歩き回ったりしていた。
 ナオミは待ちかねていた様子の浩二、恵美、伊助に近づいた。
「長いこと連絡がなかったので、伊助さんが心配していましたよ」
 浩二が笑いながら話かけた。
「ごめんなさい。とにかくこの準備に忙しくて」
 ナオミはチキン・ウォーカーの方へ手を振った。
「イスケから、あなた方のベスト・ムービーが『スター・ウォーズ・ジェダイの復讐』だと聞いたので、すぐロサンゼルスに飛んだのよ。あそこにはこんな仕掛けを造るのが、何より好きな連中がゴマンといるの。さすがにチキンのように歩くのは無理で、キャタピラーでのすり足になっちゃったけどね。でも、良く出来てるでしょう?」
「ストーム・トルーパーやダース・ベイダーのコスチュームは?」
「レンタルでいくらでもあるわ。Cー3PO、R2ーD2、それにチューバッカやイォークたちも中身のプレイヤーともども簡単に調達出来るの。パーティーのアトラクションで引っ張りだこなのよ」
「凄い迫力でしたね」
「火薬の特殊効果とスタント役だけは、ハリウッドの専門家を呼んだけどね。吹っ飛んだ木や芝生はフェイクだから安心して」
「よかったね、伊助さん」
 恵美が言うと、伊助は渋い顔をした。
「嬉しいけれど、ナオミがこれでいくら使ったのか考えるとぞっとするよ」
「気にしないで。私も楽しんだのだから」
「兵士たちもプロのエキストラ?」
 恵美が尋ねた。
「そのつもりだったけど、タツオに頼まれて、スタント以外はここのジュクセイを使ったわ」
「ジュクセイ? ああ、塾生か。もうそんなにいるんだ」
「そう。三十人ぐらいかな。みんな、純真な、いい若者たちよ」
 ブライアンと喋っていたマコーミックとアイリスが、別れて近づいてきた。
「ハイ、ナオミ」
「ハロー」
「ハーイ、アイリス、ボブ・・・元気?」
 ナオミは目ざとく、アイリスがはめているダイヤの指輪に気がついた。
「ヘイ、ヘイ、ヘイ、ハニー、それって、もしかして・・・」
 チラッと目でマコーミックを指す。
 アイリスは満面に笑みを浮かべてうなづいた。
「ひやーっ!」と奇声を上げて、ナオミはアイリスに抱きついた。
「オメデトウ! やったね」
 彼女を抱きしめたまま、強く揺さぶるので、恵美が慌てて制止した。
 不審そうなナオミに、恵美はそっと目でアイリスのお腹を見やる。
 おや、まあといった表情をした彼女に、アイリスが微笑んで、こっくりとした。
 ナオミはあらためてアイリスを優しくハグし、マコーミックを睨んだ。
「銃の取り扱いは不得手だと言ったくせに、けっこう素早いのね」
 全員が笑い声を上げた。
 ナオミがアイリスの手を取って、つくづく指輪を眺めた。
「いい指輪だわ。アンテイークね。お母様の?」
 とマコーミックを見る。
「いえ」
 彼は首を振った。
「それについては、少しお話があって・・・・いいですか?」
 マコーミックは浩二たちに断り、アイリスを残したまま、ナオミと輪を離れた。
 声が届かないところまで行って、振り返って見回す。
 浩二たちはアイリスを囲んで、話に夢中になっている。
 驚いたことに、盛田がタツオと竜介に挟まれるようにして、水辺で池を見ていた。
 いったい何の話をしているのだろうか。
 乾教授と山田仏師は相変わらず朱塗りの傘の下で、座って話し込んでいる。
 直樹や奥村のスタッフは、片付けにおわれているのだろう、姿が見えない。
 ブライアンや青山も消えていた。
「このド派手なショウの目的は何です?」
 色づき始めた山並みに見惚れているふりをしながら、マコーミックはすばりと切り出した。
「言ったでしょう。イスケのキジュの祝いじゃない。それだけよ」
 ナオミも視線を池から山麓へと這わせながら応える。
「どう少なく見ても、あの十分ほどの見世物に三十万ドル以上かかっている。あなたにとっては僕のスターバックスのコーヒー代なみかもしれないが、ただの祝いとはとても信じられないな」
「ボブ、あなたにとっては、イスケはただの七十七歳の老人でしょうけど、私にはとても大切なひとなの。信じられないでしょうけど、彼にリアルなSWの世界を見せて上げたかっただけ」
「ここはあなたには決して愉快な場所ではないでしょう。何故です?」
「あれだけの仕掛けを準備し、隠して置ける場所が、ほかに京都にあって?」
「タツオにも頼まなくてはならなかっただろうに、よく我慢出来ましたね」
「私はプラクティカル・ウーマンなの。過去がどうだろうと、現実的なのよ」
 マコーミックは鼻をつまんで、くすんとした。
「お大事に」
「有難う」
「どうしてココにいるの?」
{は?」
「アイリスと逢うだけなら、トウキョウでもニューヨークでも良かったはず。正直、あなたたちをダースベイダーのマスク越しに見たときはびっくりした・・・何に首を突っ込んでいるのか、よければ話してみない?」
「じゃ、僕もプラクティカルに状況を説明します。コウジとエミが、夏に新婚旅行をかねてウキヨエ・オークションのため、ロスに行ったことはご存知ですね。ふたりは滞在先のボナベンチャー・ホテルで浮世絵のコレクターをよそおったカップルに襲われ、エミは危うくレイプされそうになりました」
 ナオミがぴくりと眉を動かした。
「僕が同じホテルに居合わせ、気がついたので、カップルは逃走し、エミは無事でした。奇妙なことに、犯人の目的は彼女への性的暴行だけで、金銭や浮世絵を強奪することは念頭になかったように思われます。というのはー」
「ひとつ質問」
 とナオミがさえぎった。
「どうしてボブは都合よく、同じホテルに居合わせたの? コウジたちと待ち合わせ?」
「いえ。実は問題のカップルを、ニューヨークから密かにつけていたのです。彼らはマンハッタンにオフィスを構える、ある組織のメンバーなんですよ」
「ACTが興味を示すのなら、美術関係ね。面白いわ。その組織の名前を聞かせて」
 マコーミックは樹木から視線を逸らせて、ナオミを見た。
「ET Philosophical Research Society, ETPRSです」
 意外にも、ナオミはナンジャ、ソレ? といった顔をした。聴いたことがないらしい。
「ET? UFOを信じて宇宙に救いを求めるようなカルト組織なの? 教祖はスピルバーグかルーカスだったりして」
 マコーミックは苦笑した。
「あなたなら、てっきりご存知だと思いましたが。宗教的な要素は感じられません。見た目はすごくまっとうな団体です」
「レイプ犯がいるのに?」
「それが不思議なんですよ。らしくないんです。組織の構成員がそんなことにかかわるなんてね」
「・・・・・あなたは何故そのカップルをマークしていたの?」
 マコーミックは悩ましげな表情になった。
「やつらの実体がまったくつかめないんですよ。一応責任者はいるんですが、あきらかにこいつは傀儡です。ヘッドが誰なのか、何処にいるのか、分からない。この団体は重要な連絡には、物凄く贅沢なモノを使っています」
「FBIでも手に入れにくい?」
「はい、難しいです・・・・・時間です」
「時間?」
「ETPRSのIT関係や電話での交信記録を探っても、事務連絡オンリーです。それはもう、徹底しています。現代文明は時間を短縮することに血道を上げています。タイム・イズ・マネーですからね。ところがやつらは時間をたっぷり使うことを気にしないんですよ。ウラの連絡はFedEx(フェデックス)のレターで送り、重要なことは人と人が直接会って決めているみたいです。自転車で走っている人間をハイウェイからキャッチ出来ません。こっちもスピードを落とさなくちゃならない。だから監視を地道に続けて、上のメンバーと接触するのを待つより仕方がないんですよ」
「それはツライわね」
「それでなくても、人手がたりないのに」
「そもそも、どうしてETACTに目をつけたの?」
「ここからが本題です」

「現在の世界を見てご覧。ワールド・トレード・センターのテロ以来、私たちは正気を失いつつあると思わないかな、盛田さん」
 盛田は首をかしげてタツオを見上げた。
「ハイジャックされた飛行機が激突し、ビルが崩壊して何千人もの人々が犠牲になるのを、世界中の人間がリアル・タイムで見た。ショックだったよねえ・・・・・でもね、お茶を飲んだり、時にはお菓子を食べたりしながら、他人の死を眺めていた者も大勢いたんだ。そんなの関係ねえ!、とばかりにね」
 戸惑ったように盛田は竜介を見た。
 竜介が肩をすくめ、
「みんながそうじゃないわよ」
 と言った。
「勿論さ。ほとんどの人が心から犠牲者の冥福を祈っただろう。でも、その中で視線をそむけ、テレビのスイッチを切った者が何人いるかね。残念ながらね、盛田さん、人間は他人の不幸に魅せられるんだよ」
 竜介と盛田は黙ってタツオを見詰めた。
 タツオは真っ青な空を見上げた。
「きれいな空だ。本当に世界は美しい・・・・・今、同じように空を見上げている人間は何人いるんだろうね」
 タツオは目をつぶり、それからふたりを見た。
「IT機器はドンドン進化している。世界に溢れているおぞましい事件には動画を撮っているヤツが必ずいて、我々は否応なしにその映像に取り囲まれている。テロ、戦争、殺人、喧嘩や暴行、罵りあいもね。大ヒットしている映画は破壊と大量殺人を描いたものばかりだ」
 タツオは芝生の上に突っ立っているチキン・ウォーカーをちらりと見た。
「古代ローマ帝国は信じられないような文化を造り上げた。円形闘技場のコロシアムなんか現在の建築技術とくらべても素晴らしい。でもその建物で何万という観衆は飲み食いしながら剣闘士たちの殺し合いを楽しんでいたんだよ。プールにして大海戦を見世物にした出し物さえあったんだ。二千年前と人間の本質は変わらないのさ」
「でもー」
 盛田はきっと顔を上げた。
「アタシは人間を信じています。二千年前とくらべて地球の人口が増えたように、もっと真剣に人類の未来を憂えている人々の数も増えていると思います。アタシは難しいことは分かりません。でも、希望はきっとあります。二千年も人類がムダにしたなんて、あまりにも悲しすぎます」
「あんた、若いのにいいこと言うのね」
 竜介は感動していた。
 タツオも心を動かされたようだった。彼はがっしりと両手で盛田の肩をつかみ、その目をのぞき込んだ。
「そのとうりだよ。今こそ、人類は蓄積されたウイズダムを生かす時なんだよ。それには僕らのような若い力が必要なんだ」
 タツオは竜介と盛田をかわるがわる見た。
「君たちとはとても話が合いそうだ。今日はこんな状態だし、そうだ、明日でもよければ、もう一度、お昼に来てくれないかね。ゆっくり話しあいたいんだよ。どうだろ?」
 盛田はチラと竜介を見ると、少し顔を染めてうつむき、
「アタシは大丈夫ですけど」
 と小さな声で言った。
 竜介は意外そうに盛田を見たが、
「僕も別に予定はないしー」
「じゃ、決まった」
 とタツオは嬉しそうに、身体をしゃんとした。
「あ、でも、これは内緒にね。でないと、他にも来たがる人が出れば、またパーティーになっちゃうしね。いい?」
 ふたりは黙ってうなづいた。

「昨年、ニューヨークとサンフランシスコで、高齢の資産家が相次いで亡くなりました。引退した最高裁の判事と富裕層ばかり相手にしていた弁護士で、悠々自適の一人暮らしでした。彼らは素晴らしい絵画と浮世絵のアート・コレクションを所有していたのですが、どちらも、聞いたこともないような組織、ETPRSに寄贈されてしまったんです。もともとは地元の美術館に内定していたのですが、ふたりとも亡くなられる半年ほど前に遺言を変えたのです」
「遺言には問題なかったの?」
 ナオミが尋ねた。
「はい。しっかりした精神状態で、公正な立会人のもとで変更されています」
「遺族から不満は?」
「判事には妹、弁護士には甥や姪がいますが、預金や証券、不動産とは違って、趣味的なアートのコレクションは、案外、面倒くさがられるんですよ。故人の意思なら、どこへ寄贈されようと関係ないというところでしょう・・・ところで、あの指輪は、判事の妹さんからのプレゼントです。とても素敵なおばあさんですよ。僕は大好きです」
「ほんとに? ニューヨークにおられるのなら一度、お会いしたいな・・・それで、彼らの死因は?」
「判事は散歩の途中で転倒して頭を打ったようです。目撃者はいません。通りがかったカップルが倒れている判事に気づいて、救急車を呼んでくれましたが、すでに亡くなっていたようです。所持品はすべてそのままでした。弁護士は入浴中に意識を失ったようで、湯舟の中で亡くなっていました。こちらは清掃のために訪れたメイドが発見者です。侵入者があった形跡はなく、室内は荒らされていませんでした。大都会では毎日のように繰り返されていることですからね。当時は事件性がないと判断されたのも当然でしょう」
 ナオミは首を振った。
「何がいったい問題なの。分からないわ」
「アートのコレクターが、生涯、心血をそそいで集めたコレクションを無償で寄贈するのは、人類共有の文化遺産として伝えていって欲しいからです。勿論、寄贈者としての自分の名前が残ることにも期待はあるでしょうが。僕は、故人が寄贈先をETPRSに変更したのは、彼らが何か魅力的なビジョンを描いて見せたのに違いないと思っています」
 マコーミックはまた、鼻を鳴らし、ナオミがティッシュを差し出した。
「すみません・・・作品、作家、年代など、特定のカテゴリーで集められたコレクションが大変貴重なのは、作品が纏まってあるからです。比較して研究するのが容易なだけでなく、広く公開して多くの人々が観賞出来ます」
 マコーミックは一息ついた。ナオミは黙って見詰めている。
「ところがです。最近、ETPRSはあちこちのオークションで、寄贈されたコレクションを売り始めました。もうしわけのように購入もしていますが、売却額に比べれば圧倒的に少ないのです。いったん拡散しはじめたコレクションは、もう二度と戻りません。それは決して故人の意思ではないはずです。要するに彼らは金に換えているのですよ」
「なるほど。ボブがヘッドの尻尾を捕まえようと、シャカリキになっているのは分かったわ・・・で、あなたがココにいるということは、ひょっとして・・・」
 ナオミが視線を送った先には、タツオが話に夢中になっていた。
 マコーミックが何も言わないのは、肯定したのも同然だった。
「説明して」
 ナオミが短く言った。
 マコーミックは、ロスアンゼルスのPRSから話を始めた。

「では、秀吉の墓は京都にあるの? 私はてっきり大坂城のどこかだと思っていたけど」
 アイリスが興味深そうに言った。
 浩二と恵美が、口々にご神木の由来を詳しく話したあとである。
「東山の麓を走る東大路を四条、五条と南へ下がって行くと、七条に京都国立博物館があるわ。
その前を東へ上がっていく広い坂道があり、京都人には「女坂」(おんなさか)と呼ばれているの」
「女坂?」
「坂の中ほどに京都女子大学とそれに付属する中学、高校があって、通行人は圧倒的に若い女性が多いからよ。そこを通り越し、どんどん上がっていくと五百六十五段もある巨大な石段が現われる。それを登りつめたところが阿弥陀ヶ峰の頂上で、五輪の石塔が立っています。その下に秀吉の遺骸が眠っているの」
 恵美が説明すると、アイリスが驚いた。
「ええ、本当なの。まさにその場所に?」
 墓といってもシンボリックなものだろうと思っていたのだ。
 恵美は、近くのテーブルに座っている乾教授を見た。
 話を耳にはさんでいたらしい教授は、「おーい、盛田」と呼び寄せた。
 内心、タツオと竜介に囲まれていた愛弟子が気になっていたらしい。
「ハイ、先生」
 二人から離れて、駆け寄ってきた彼女に、
「このひとたちに阿弥陀ヶ峰の石塔の話をしてお上げ」
 と命じた。
「ええ、では、そうですね・・・秀吉は自身の死後について、三つの遺命を残しました。遺体を焼かないこと、阿弥陀ヶ峰の頂上に埋葬すること、神として祀ること、です。良くご存知のように、秀吉の死はしばらく秘められていました。大陸で明・朝鮮軍との戦役の真っ最中だったからですね。ですから実際の埋葬に立ち会ったのは前田玄以とその従者だけだったといわれています。公になってからは、壮大で華麗な社殿が広がる豊国社(とよくにのやしろ)が造営されました。秀吉はとうとう神になったのです」
 浩二も恵美も、豊国廟の場所は知っていても、その顛末は聞いたことがなかった。
「ところが徳川家は、私たち日本人の精神構造からすれば、まことに奇怪なふるまいをします。元和元年の一六一五年、淀殿と秀頼がこもる大坂城を滅ぼすと、家康は真っ先に豊国社をぶっ壊そうとしました。この時は北の政所が必死になって訴えたので、取りやめましたが、その四年後、とうとう徳川家は山上の廟堂だけ残して、豊国社を跡形もなく消し去ってしまうのです。コレ、日本人として絶対オカシイです」
 盛田は阿弥陀ヶ峰の方向を見て、少し声をふるわせた。
「国譲りの出雲大社の神話にしても、北野天満宮に祀られている菅原道真にしても、私たちは滅ぼした政敵の怨念を鎮めるため、神として敬うことで、世の中を落ち着かせようとしてきました。徳川は豊臣を根絶えさせてしまった上に、どうして豊国社まで潰してしまったのでしょう」
 伊助が珍しく口を開いた。
「当時の人間には秀吉は、ホンマに神そのものやったんやないかな。彼を祀る社の存在が徳川には耐えられなかったんやろ。・・・事実、関ヶ原で家康は西軍に属した毛利藩と島津藩の息の根を止め損なった。結果として、二百数十年後、両者は長州と薩摩として、西から東へ攻め上がり、徳川幕府を打ち破ったんや」
 盛田がうなづいた。
「そうなんです。だから長州と薩摩が中心となった明治政府が真っ先に取り掛かったのが、豊国神社の再興だったのです。阿弥陀ヶ峰の石塔と巨大な石段も明治時代に出来上がったものですよ」
 皆が黙っているので、盛田が悪戯っ子のような目つきで見回した。
「何を考えてられるか、当ててみましょうか。ー本当にあの山上に秀吉の遺骸は眠っているのか、確かめようがないから、誰も分からないのではないかー じゃ、ないですか」
 四人ともギョッとしたので、図星だったらしい。
 恵美が、うーんと腕組みして、乾教授に話かけた。
「先生。彼女、ホンマに気味が悪いぐらい、カンがいいですね」
「言っただろう。わしは嘘と坊主は大嫌いじゃ」
 盛田が首をすくめた。
「ちょっと怖い話があるんです。徳川家はさすがに山上の廟堂だけは手をつけなかったのですが、荒れるに任せたため、朽ち果てて無残な様子をさらしていました。明治に石塔を祀るため、整備すると、なんと秀吉の遺骸が見つかったのです」
 浩二が目を丸くして言った。
「へえ、それ本当なの?」
「当時の史学雑誌に歴史学者が見取り図と共に発表しています。それによると遺骸は高さ三尺ほどの、粗末な素焼きの壺に胡坐をかいた状態で入っていたのです。太閤たる人物がこんな凄まじい状態で埋葬されるはずがないですよね。文献によれば、太閤の遺体は衣冠束帯の正装で、黒塗りの棺に納められたことが記され、しかも現場では棺の木片も見つかっています。つまり誰かが墓所を暴き、棺を叩き潰して遺骸を引きずり出し、壺に押し込んで、埋め直したのです」
 秋晴れの空に相応しくない、無残な話である。
「今となっては、誰の仕業かは突き止めようはないわね」
 恵美が暗い表情でつぶやいた。
「おそらく徳川家が豊国社を取り潰した時だろうな。それ以外、考えられないじゃないか」
 浩二が言う。
「断定はでけまへんで、ぼん。それこそ江戸のトゥーム・レイダーかもしれまへん。アンジーほどグラマーやなかったやろけど」
 重くなった空気を振り払おうとしたのだろう、伊助がおどけた口調で言って笑わせた。
 トゥーム・レイダー、墓荒らしのことである。ゲームのキャラクターで人気が出て、アンジェリーナ・ジョリーが主人公、ララ・クロフトに扮した映画も大ヒットした。
「それで遺骸は、ちゃんと埋葬し直されたんですか」
 アイリスが尋ねる。 
 盛田が首を振った。
「壺を地中から取り出そうとすると不思議なことが起こったのです。壺も遺骸もバラバラになってしまいました。あたかも引き上げられるのを拒否するように」
 ほおぅー、とみんなが吐息をついた。
「江戸から、まだ間もない明治です。現場はパニックになったでしょうね。慌てて土をかけて戻すのが精一杯だったようです」
 教授が不思議そうに盛田を見ている。
「盛田さん、本当に良く何でも知っているわね」
 恵美が感心すると、盛田はペロッと舌を出した。
「実は、遺骸が発見された状況は、タツオさんから聞いたばかりなんです。受け売りでーす」
 と頭をかいた。
 それで分かったと教授はうなづいた。
「あの方はその資料は持ってられるのかな?」
「はい。いつでも見に来たらいい、と言って下さいました」
「ーそうか」
 教授は気掛かりそうだった。
 カビ臭い資料室に閉じこもりがちだった盛田にとって、この日はいきなり別世界に放りこまれた、夢のような経験だったのに違いない。何の免疫もない女の子が、タツオや竜介に対等に取り扱われれば、舞い上がってしまうのは当然だ。
 教授は手中の珠を汚された思いがして、憮然とした。
「・・・私、夕方には東京に帰るんだけど、その阿弥陀ヶ峰の頂上に行ってみたいな。ね、一緒に行かない?」
 不意にアイリスが言い出し、恵美の腕に手をかけて誘った。
 恵美も盛田の話を聞いて、何となくそそられているところだった。
「いいね。浩二さんは?」
「・・・うーん、あの階段は、ちょっとシンドイなあ。遠慮しとくわ」
 伊助はとんでもない、と手を振った。
「わしにはとても無理。ふたりとも気をつけや。ことにアイリスはな」
 阿弥陀ヶ峰への五百六十五段の階段は、途中の踊り場をはさんで前半と後半に分かれているが、後半はとんでもない急角度になっており、現代の建築法では禁止されているほどだ。しかも手すりがない。高齢の参拝者はひと目見て、あきらめる人が多い。
 頂上から見下ろすとくらっとするぐらい落ち込んでおり、足を滑らせば、間違いなく下まで転げ落ちる。京都でも有数の歴史的スポットなのに、人影がほとんど見られないのは、この階段のせいである。
「ボブは?」
「行くわよ。間違いなく」
「アタシも行きたい!」
 盛田が目を輝かせて、叫んだが、
「皆さんにはお話もありそうじゃ。今日は遠慮しておこう、な」
 と教授に制止され、不承不承にうなづいた。
 
「間違いなく、タツオはPRSにあるフリーメーソンの名簿を手に入れて、利用しているわね」
 ナオミは厳しい目を竜介と話し込んでいるタツオにそそいでいる。
「僕もそう思います。タツオはPRSの創立者、マンリー・P・ホールの著書を熟読していたようですからね。ETPRSがPRSと関係あるように思わせて、孤独な元判事や弁護士の信頼を得るのは、赤子の手をひねるより、容易だったでしょう。アート・コレクション以外は目もくれなかったのも、うまい手ですね」
「それにしてもETって何の略なのかな? 名前かもしれないわね。タツオのファミリー・ネームはサイトウだし・・・」 
 ナオミはハッと思いついたようにマコーミックを見た。
「ひょっとしたらETは、エドとタツオのことじゃない」
「・・・そうか! そうですよ、きっと。映画の『ET』が有名なんで、どうしても宇宙に結び付けてしまう。そいつを意識してのネーミングだな。エドがどう関わっていたのかは分からないけど、この別荘や維持する資金を残したのは、少なくとも承認していたと見ていいですね」
「PRSからフリーメーソンの名簿を貰えればいいんだけど」
「それは絶対無理です・・・僕は判事と弁護士の葬儀の出席者から、ひとりづつ当たっていこうかと思ってるんですが」
「いい考えだわ。時間はかかりそうだけど」
「覚悟しています」
「タツオには気をつけて」

 パーティーはお開きになった。
 タクシーが三台用意され、最初の一台は教授、盛田、仏師が乗り込んだ。二台目は浩二、伊助、竜介の「谷山」組で山荘を離れた。
 三台目のタクシーがやってきた。
 見送りのタツオが満面の笑みを浮かべ、恵美、アイリス、マコーミックと握手した。
「アイリス、ボブ、もう一度お祝いを言わせてください。おふたりで素晴らしい人生を!」
「有難うございます」
 恵美とアイリスに続いて乗り込もうとしたマコーミックが、一瞬、動きを止め、振り向いてタツオを見た。
「タツオ、ひとつだけお聞きしていいですか?」
 タツオの横で、見送りに立っていたナオミが警戒の目を向ける。
「何なりと」
「以前、ニューヨークにおられたのですね?」
 ナオミが素早く目配せをしたが、知ってか知らずか、マコーミックは無視した。
「ひょっとして、ET Philosophical Research Societyという名を聞かれたことがありませんか?」
 タツオの表情は見事に変わらない。
 少し首をかしげて考えていたが、首を振り、
「いや、まったく聞いたことがないですね」
 と笑みを絶やさず答えた。
「そうですか。有難う」
 乗り込んだ車が動き出すと、マコーミックはちょっと振り返って見た。
 タツオは笑いながら手をふっていたが、ナオミは硬い表情をしていた。

 第八章

 恵美は女坂の手前でタクシーを止め、三人は降り立った。
 どうして墓所なんかに、と戸惑ったマコーミックだが、ウママチの近くと聞いて一も二もなくOKだった。
 女坂をはさんで北角に妙法院、南角に智積院がある。
「ブライアンはジュクの場所を、元病院があったところと言ったのね。では多分そこだわ」
 恵美は女坂を妙法院の土塀の石垣にそって進んだ。
「あれじゃない」
 妙法院に隣接して、新しい白壁と石垣の塀があり、工事現場の入り口がある。日曜日なので、カーテン・ドアが閉められていて、人影はない。
 建物を覆う足場が見られないので、もうほとんど完成している様子だ。
「そうか。明日でも、もう一度戻ってくるか」
「ボブはアイリスと東京に戻らないの?」
「もう一日伸ばして、ここを探ってみたい」
 三人は豊国廟を目指して登り始めた。
 坂のところどころには、いかにも若い女性が好みそうなお洒落なカフェやレストランが目立つ。下宿案内所が点在するのも学生街らしい。
「本当に名前どおり圧倒的に女性が多いね。それも若い娘が」
 マコーミックがニヤニヤしながら言ったので、アイリスが軽く肘打ちを食らわせた。
「今日は日曜なので、まだ少ない方よ」
 喋っている恵美の横を、真っ赤なバスが走り抜けていく。ボディにはMademoiselle Lineと白く大きく書かれている。
「さっきもこの赤いバスは見たぞ。マドモワゼル・ラインって、お嬢様のバスかい?」
 マコーミックがからかい口調で尋ねる。
「そうよ。気がつかなかった?乗客は若い女性ばかりだったでしょう」
「え、本当かい」
 マコーミックとアイリスは振り返ってバスを見た。
「坂の途中にある女子大学と京都駅や私鉄の駅がある四条河原町を結んで運行されてるの。スクール・バスではあるけど、誰でも乗れるのよ。観光客でもね」
「いいな。一度乗ってみたいな」
「朝夕は中学、高校、大学の女学生たちでぎっしりよ。ボブ、乗る度胸ある?」
 マコーミックは一瞬、光景を頭に浮かべ、激しく首を振った。
「ムリ、ムリ、絶対ムリ」
 恵美とアイリスは声を上げて笑った。

「グランディです」
 年令のわりには弾むような声で、変わってないな、とタツオは笑みを浮かべた。
「ハロー、タツオです。ご無沙汰しています」
「ええ、タツオ? 本当にタツオなの! まあ、嬉しい。よく電話してくれたわね。元気なの?」
「勿論です。あなたは?」
「こっちは十年一日のように変わらないわ。みんなも変わりなく元気よ。今、何処にいるの? ひょっとしてロス?」
「いえ、残念ながら日本のキョウトです。 いやあ、懐かしいなあ。お会いしたいですよ、アン」
「・・・私もよ、タツオ」
 微妙なためらいが口調にある。相変わらずバカ正直な女だと苦笑した。確かめたいことがあるが、自分から喋らした方がいい。とりとめもない話を交わしたあと、ホールの教えにそったジュクをオープンしたいので、頑張っていると結んだ。
 アンは黙り込んだ。
 タツオは相手が口を開くのを待った。
「ねえ、タツオ・・・」
「はい」
「ひょっとして、あなたはNYにあるETPRSという組織に関係あるの?」
「いいえ。まったく知りません。そちらの頭文字にETをつけただけですね。何ですか、それ」
 わざと明るい口調で尋ねる。
 アンがホッとした様子は電話でも伝わってきた。
「ああ、良かった。何だか問題ありそうな団体らしいんだけど、FBIがそれについて捜査していてね、うちにも問い合わせがあったのよ。短期間働いていたスタッフのことを知りたがってね。でね、こちらとしても協力しないわけにはいかないでしょう。申し訳なかったけど、あなたのことも言わざるをえなかったの。ゴメンね。でも、とてもいい人だと強調しておいたから、安心して」
 くどくど弁解しているアンの言葉を適当に聞き流して、卓上電話を切った。
 やはりボブ・マコーミックはロスのPRSに接触していたのだ。見た目よりキレる男だなとタツオは思った。
 おいぼれ判事のディッカソンと弁護士のガードナーが、まさかこんなに早く、しかも続けて亡くなったのは予想外だった。ふたりには手を出していない。ボブが、どう嗅ぎまわろうとクリーンなものだ。
 まずかったのは恵美と浩二が新婚旅行でロスに行くと分かって、トビーとグロリアを使って二人を襲わせたことだ。ボブがトビーらに張り付いていたとは夢にも思わなかった。
 バイ・セクシャルのタツオは、男と女の性について知り尽くしている。恵美が結構好きもので、はまればセックスに翻弄されるタイプの女だとにらんでいた。
 タツオは彼女が嫌いだった。せっかくのエドとタツオの計画の邪魔をしたビッチだ。
 惚れ込んだ男の目の前で、巨根の男にレイプされ、乱れまくれば、さぞかし新婚生活が楽しいものになるだろう。溜飲を下げるつもりだったが、誤算はトビーが口ほどでもなく、役立たずだったことだ。
 
 タツオは人を殺したことがある。
 大阪を離れ、ロサンゼルスに居を定めたタツオは、すぐ彼のセックスが大きな武器になることをさとった。
 アメリカの若者のセックスは単純だ。男は猛々しくあれば女が悦ぶと信じ、女もまた、それに応えようと、よがり声を上げ、イッている風を装う。
 レディ・ファーストのアメリカだが、ベッドでは男尊女卑が多い。女性がおもねるのは、不首尾に終わった男性が不機嫌になったり、DVに走るのを恐れるからだ。
 タツオのセックスは男にも女にも優しく、官能的である。
 舌と手を巧みに使って愛撫することにあきることがない。
 パートナーを尊敬し、互いに満足することが真のセックスだと思っている。
 タツオに惹かれ、慕う者は数多くいた。
 ちょっとした出来心で、相手をしたパウロと名乗るラテン系の顔立ちの整った男は、典型的な自己陶酔型のチンピラだった。オールバックの黒髪が自慢で、引っ切り無しに櫛を入れる。
 うんざりして、次のデートを断ったタツオは、いきなり激しく平手打ちをされた。
 それまで人生で一度も暴力を振るわれたことのなかった彼は、肉体的より精神的な衝撃を受け、即座にこの男を殺そうと決意した。
「分かった」
 顔を伏せ、ポツリとつぶやいたタツオに、パウロはにやりとした。
 一発くらわせてやれば、男も女も、喜んで従うようになる。それがパウロの哲学だった。
 次のデートで、タツオの行為はより激しく、情熱的だった。
ーこれからはオレ様の言うがままさー
 パウロは満足した。
 ロスに住むようになって、タツオは自衛用の小型の拳銃は持っていたが、貯金をはたいて殺傷力の高いサイレンサーを手に入れた。
 パウロの行動パターンを調べ、監視カメラのない通りで、車を停めて待ち伏せることにした。
 完璧な状況まで、何週間でも辛抱するつもりだったが、チャンスは意外に早く、三日目の夜にきた。
 パウロが独りでぶらぶら歩いてくるのを認め、車を降りると人通りがないのを確かめる。
 タツオはTシャツにカーディガンを引っ掛け、サルエリ・パンツでローファーのフラット・シューズを履いていた。肩まであるかつらをかぶり、唇に薄く紅を引いている。
 ショルダーバッグを掛け、見た目は完全に女性だった。
 近づいてくるタツオをいぶかしげに見たパウロだが、すぐニヤリとした。
「なんだ、タツオじゃないか。どうしたんだ、その格好・・・クールだぜ」
 歩きながら、タツオは飛びっきりの笑顔になった。
「ヤリたいのよ」
 パウロは悦にいった。薄汚い笑みを浮かべる。
「へえ、そうかい」
 外しようのない距離になったので、タツオはショルダーバッグからサイレンサーを取り出し、パウロの胸に向けた。
「アンタをね」
 にぶい銃声が響き、パウロは弾かれたように、仰向けに倒れた。
 タツオは近寄って、見下ろした。
 パウロは目を見開き、驚愕の表情を浮かべていた。何が起こったのか理解出来ないようだった。
「・・・ど、どうして・・」
 タツオは両手で銃を構え、じっくりパウロの顔を狙って引き金を引く。
 銃弾はパウロの片目から飛び込み、頭蓋骨の中身を路上に撒き散らした。
 タツオは辺りを見回した。目撃者がいれば処理しなければならない。誰もいなかった。
 サイレンサーをバッグにしまい、もう一度、死んでいるか確かめた。
 えぐられた片目さえなければ、パウロは自分がぶちまけたゲロに頭を突っ込んで、安らかに眠っているように見えた。
 タツオはくすっと笑い、何事もなかったように車に戻り、現場を離れた。
 自分自身が驚くほど落ち着いていて、気分は爽快だった。
 生きている価値のない社会の害獣を一匹エリミネートしたのだ。それだけだった。
 翌日、密かに射撃の練習をした郊外の山中に行き、穴を掘ってサイレンサーを埋めた。帰りにあちこちのごみ箱に、女装の衣服やかつら、シューズを分けて捨てた。
 ラテン系チンピラの射殺体に大きな関心を寄せるほど、LAPD(ロス警察)がヒマとは思えないが、慎重に事を運ぶにこしたことはない。
 パウロの記事は、新聞のほんの片隅を埋めただけで、あっと言う間に忘れ去られた。

 ロスでの生活が五年目に入り、そろそろ潮時かなと思いだした頃に、タツオはニューヨークから観光に来ていたケンジロウというスシ職人と親しくなった。
 彼は三年前から「ケン」というスシ・レストランをマンハッタンで経営しており、繁盛していると言う。一緒に働かないかと誘われて、タツオは渡りに舟と飛びついた。
 「ケン」は日本のようなカウンター形式の店で、キャパシティは十二席しかない。高級スシとは聞いていたが、客単価は最低四百ドルで、しかも半年先まで予約が取れないことにタツオは驚いた。
 見よう見まねの手伝いから始めたが、タツオはケンジロウが驚くほどスジが良く、一年も経つと盛り付けを任されるようになった。
 カウンター内で働くタツオの、きりっとした姿に女性客は熱い視線をそそぎ、PRSでつちかった教養と天性のユーモアに男性客は惹きつけられた。
 そのひとりが「JUN」のCEO,エド・ゴールドバーグだった。
 タツオもエドも、会った瞬間、お互いに相手が同じ性的趣向の持ち主だと見抜いた。
 必死に引き留めようとするケンジロウを振り切り、タツオはエドの懐に飛び込んだ。
 エドは、タツオが初めて、そして心から愛した唯一の人間だった。
 彼のエキセントリックで、気難しく、時には非情で、冷たくなる性格も、たまらなく、いとおしかった。
 エドは頻繁に女性ともセックスしたが、タツオは異性には何の嫉妬も感じなかった。
 時には女を交えて、三人でプレイしたこともある。タツオは、エドも女も悦ばせようと献身的な努力をし、それで自身も満足だった。
 ふたりはよく夜遅くまで語り合った。
 エドは日本文化や禅に心酔しており、タツオはM・P・ホールの哲学に傾倒していた。討論が激するとタツオがエドの胸倉をつかんだり、エドが物を投げつけたりしたが、ふたりの結びつきは、その度に固くなった。
 ETPRSを立ち上げたのは、別に深い意図があったわけではない。資料をまとめて管理しておける、いわば私設ライブラリーのような場所が欲しかっただけである。タツオが数年間を過ごしたPRSに、ふたりの頭文字をくっつけただけの仮称にすぎなかった。
 エドが、京都の鹿ケ谷にあった別荘を百億を超える価格で購入し、見事な数奇屋風の棟や茶室を建てて整備したのも、ふたりの終の棲家としてであった。
 エドの前立腺の症状が判明した時、タツオは床を転げまわりながら号泣した。
 一緒に死のうと取りすがるタツオを何とか落ち着かせることが出来たのは、エドの「俺のやり残したことを、お前がやってくれ」の一言だった。
 エドが憎悪していたライバル企業、「インテリジェンス・データベース」のCEO、キャサリンを鹿ケ谷の別荘のパーティーにかこつけて呼び出し、エリミネートしようと持ちかけたのはタツオである。
 ためらっていたエドだったが、タツオに引きずられる形で同意すると、一転して熱心に計画に取り組んだ。キャサリンの警戒心を解くために、映画監督のデニスや美術商のナオミ、地元の京都からの三人をあわせて招待したのである。
 エドは実行犯として、秘書で愛人だったジャネットを、巨額の報酬を餌に引きずり込んだ。オクラホマ州立大学のレスリング・チームのメンバーだった彼女の身体能力をかってのことだが、タツオを巻き込みたくなかったのが大きな理由である。
 タツオはジャネットの体力はともかく、冷静さに疑問を持っており、自分がやった方がいいと強調したのだが、エドは絶対許さなかった。
 ジャネットのおかしたミスに恵美が気がつき、追い詰められたエドは、ヘリコプターを駆って池に突入し、自分自身を消して、タツオを守ろうとしたのだった。

 エドが何と言おうと、やはり実行は自分がすべきだったとタツオは思う。
 そうすれば、少なくとも半年か一年、ひょっとすると今でもエドと一緒にこの山荘で共に過ごせていたに違いない。
 タツオはエドに逢いたくてたまらなかった。
 今はもう跡形もないライブラリーで、差し込む月影に身をまかせ、愛し合い、語り合った想い出は薄れ去るどころか、強くなる一方だった。
 エドのような人間に、これから二度と会うことはないだろう。
 考えていると、頭がキリキリと痛くなって、どうにかなりそうだ。
 駆け出していって、池に飛び込み、エドの元に行きたい。
 心のなかにいるもうひとりのタツオが、それを必死に思い止まらせているのだ。
 先ほどからずっと、合わせた両手の中で、愛しそうに撫で、さすっていたものに眼を落とす。
 妖しげな黄金の光りがキラキラと揺らめく。
 小判の形状をしているが、大きさは優に手のひらサイズはある。
 上下の両端に刻印された桐模様が、秀吉時代に通用していた天正大判であることを証明している。
 エドから貰ったものだ。
 そっと頬に当てる。ひやりとした感触が気持ちよい。
 この庭園を買ったときに、エドを気に入った元の持ち主が円柱と一緒にくれたらしい。
 夏の夜、ふたりで月を見ながら、この大判でバニラのアイスクリームをすくって、舐めあったものだ。
 世界一豪華なスプーンだぜ、とエドが笑ったのを覚えている。
 ひとりの時は、この大判を握り締め、エドを想うのだ。
 盛田という小娘が切り出した「極楽橋」と荷駄の話は衝撃だった。
 その瞬間、タツオは確信した。
 エドが彼女を引き寄せてくれたのに違いない。
 これで計画に必要なピースは揃ったのだ。
 タツオは何としても、彼女を引き込む積りだった。自信はある。
 大判を置くと、ゆっくりと立ち上がり、居室から庭に出た。
 塾生たちはロビーにでもいるのか、誰も姿が見えない。
 「奥村」のシェフやスタッフはとっくに姿を消し、派手なアクションが演じられた芝生は、ハリウッドの職人によって、何の痕跡も残さず片付けられていた。
 チキン・ウォーカーだけが、ポツンと立っている。
 ナオミもホテルへ引き上げたらしい。
 どうやら、大金をかけた、あのバカ騒ぎは、本当に伊助とか言う死に損ないのジジイの為だったらしい。
「狂っとるな」とタツオはつぶやいた。
 この世界はどんどんおかしくなっている。
 だが、一番狂ってるのは、案外俺かもしれん。
 見ているとチキン・ウォーカーが、いきなりコケコッコーと啼きだし、ヒョコヒョコと歩き出すように思えてくる。
 タツオは笑い出した。
 泣いているような笑い声が、高く、低く、無人の庭園を流れていった。
 
 阿弥陀ヶ峰の頂上への石段は思っていた以上にきつかった。
 たどり着いた時は、かなり冷え込んできていたにもかかわらず、三人とも汗をかいていた。
 頂上からの京都市内の眺めは、樹木の茂みに妨げられ、意外に良くない。
 人の気配はまったくない。木立を揺らす風の音が時々聞こえるだけである。
 三人は並んで、そびえ立つ太閤の石塔を見上げた。
「この下、すぐそこに秀吉が眠っているのよ。私たちからわずか数メートル離れたところに」
 感慨深げに恵美がつぶやいた。
「このロード・ヒデヨシというサムライ、彼が四百年前、日本全土を初めて傘下に治めたんだろう。そして死んでから、神としてあがめられるようになったわけだ」
「ボブ、ヒデヨシ自身が生前にそう命じていたのよ。だからトヨクニ・シュライン(豊国神社)が出来たの」
 マコーミックは肩をすくめた。
「そんなことは問題じゃないのさ。世界を大きく変えたリーダーが亡くなると、必ず信奉者が出てくる。自然な流れなんだ。そして神として敬うことで、そのスピリチュアルなパワーが自分を守り、助けてくれると信じるんだよ」
「あの小柄な女子大生が言っていたけど、遺骸はバラバラになったまま、埋め戻されたんでしょう。どうして、もっときちんと葬ってあげないのかな」
 アイリスが不思議そうに言った。
 恵美が石塔を見上げた。
「分からないわ。色々難しい問題があると思うけど、でも・・・・大きな理由は触りたくないんだと思う。そっとしておきたいのよ」
「余計なことをして、ヒデヨシの霊を起こしたくないってこと? すごく日本的な考えね」
 マコーミックは時計を見た。
「アイリス、そろそろ行こうか」
 三人はそろって石塔に礼をし、石段の上まで戻った。
 上がっている時はシンドイだけだったが、見下ろすと足がすくむ。
「タツオの新しいジュクは、ちょうどこの廟堂を見上げるところになるな」
「コウジさんに聞いたんだけど、彼はヒデヨシに人一倍想い入れがあるんだって。それで決めたのかも」
 アイリスがマコーミックに目配せをした。
「エミ、タツオについて、分かったことを知らせておきたいんだ。彼は若い頃、数年間、ロスのPRSにいたことがある」
 恵美は目を丸くした。
「本当に?」
 マコーミックはうなづいた。
「PRSには立派なライブラリーがある。タツオが最初に現われたときは、まだ十代の若者だった。意外だろうが、タツオはマンリー・P・ホールの著書に夢中だったようで、全集を読破し、スタッフたちとも仲良くなった。そこで働き出すのも、自然の成り行きだろう。ただ、プライベートではPRSの連中とは一線を引いていたようだ。五年目になる頃にPRSを止め、東海岸、多分ニューヨークへ移った。そこで何をしていたのかは、まだ分かっていないが、エドに接触する機会があったのは間違いない。おそらく、ふたりともバイセクシャルだ」
 タツオから直接聞いている恵美は大きくうなづいた。
「ニューヨークとサンフランシスコで亡くなった大富豪が、それぞれの貴重なアート・コレクションの遺産を、怪しげなETPRSに寄贈するよう遺言を変えていた話はしたね。実はふたりともPRSの会員で、しかもフリーメーソンだったんだ。タツオはPRSで在職中に、全ての会員のデータは閲覧出来たし、おそらくそれをコピーしておいたのだろう。彼が亡くなった富豪の一人に接触していたのは、その妹が確認してくれた・・・・・正直なところ、これらに事件性があるのかどうか、まだ分からない」
 マコーミックは一息入れて、夕日に沈む街を見やった。
「ナオミはETPRSのETはエドとタツオではないかと疑っている」
「・・・・・やっぱり」
 恵美がつぶやいた。
「いづれにせよ、タツオがこの組織に関わっているのは確実だと思う。しかし彼が君たちのロスでの事件の首謀者である証拠は何もないんだ。それに、そんなバカなことを企んだ理由も分からない」
「タツオは私が嫌い・・・憎んでいるんじゃないかな」
 マコーミックは恵美を見た。
「僕としては気をつけてくれ、とお願いするしかない。君やコウジには『タニヤマ』としての事情もあるだろうしね」
 恵美は黙っていた。マコーミックが言わんとしていることは、良く分かった。
 食っていくのに困ることはないが、古美術業界の現況は決して明るくない。メシの種のモノ(品物)が、さっぱり出回らなくなったのだ。元気があるのは、中国ものを扱ってる業者ばかりだなとぼやく仲間が多い。
 浩二がタツオとの取り引きを、今後も切望しているとは思えないが、ご神木を利用した阿弥陀像制作の依頼は、現在の「谷山」にとってオイシイ話である。
 この話をそのまま伝えれば、浩二としても平常心でタツオに接するのは難しくなるだろう。
 何れにせよ、もう仏師や竜介まで巻き込んでしまっている。
 今は、とても言えないなと恵美は思った。
 ロスのホテルでの経験は、いまだに生々しい。
 頬に押し付けられたブレードの冷ややかな感触は、まだ残っている。
 だがあの後、浩二とのセックスは異常に激しく、燃え上がった。
 さすがに打ち明けてはいないが、今でも行為の途中に、下半身をむき出し、ベッドの上でさらした自分の姿態を思い浮かべると、思いがけないほど昂ぶってしまう。
 そういう時は、自分自身が恐ろしくなる。
「分かったわ、ボブ。安心して。充分、気をつけるから」
 三人は足元に注意しながら、そろそろと降りていった。

 
 第九章

 月曜日の午後一時、マコーミックはジュクの入り口に立った。
 今日はカーテン・ドアが半分ほど開いている。
 人影は見えなかった。
 校舎らしい建物は、すでに完成していた。長方形の二階建てで、壁面はグレイのスチールで、鈍く光っている。一階、二階とも黒いスチール・パイプで縁取られた窓がずらりと並んでおり、寝殿造りに見られるような木製の二枚格子がはまっていた。平安時代そのままに、上部の格子の下を押し出して開くようになっている。
 優雅でシンプルな美しさがあり、マコーミックは一目見て気に入った。
 不意に作業用のヘルメットを被った、ジーンズにジャケット姿の若い男が現われ、近づいて来た。
「何か御用ですか?」
 英語が話せるらしい。
「ボブ・マコーミックといいます。ブライアンさんはいますか?」
 期待していなかったが、男はうなづき、「ちょっと待ってください」と言って、建物の中に消えた。
 少し離れて、建物とは直角に、山側に向かって伸びる、半円の屋根(ヴォールト)を持つた平屋がある。かまぼこ型にぽっかり空いた入り口の奥は、地下へのスロープになっているようだった。
 ブライアンは戸惑った様子で出てきたが、それでも笑顔になって手を差し出した。
「やあ、いらしゃい」
「突然で申し訳ないです。この上のヒデヨシの廟へ行く途中で、通りかかったものだから。ご迷惑だったかな?」
 手を握りながら、マコーミックは言った。
「とんでもない。良く寄ってくれましたね。こんな状態なので、何もお構い出来ませんが」
「どうか、気にしないで・・・・・素晴らしい建物ですね。現代的なセンスに、古代日本の機能をうまく取り入れている。シンプルで美しい」
 ブライアンはにこにこした。
「そう言ってもらえれば嬉しいな。あの二枚格子は僕のアイデアなんですよ。建物内部も色々工夫していてね、ご案内出来ればいいんだけど、まだ散らかっているので」
「完成した時の楽しみにしておきます。全体的に周りの環境に良くマッチしていますね・・・・・ブライアン、あのヴォールトの平屋は、地下への入り口ですか?」
「え? ああ、そうなんです。ガレージやストレージは地下にもっていったんですよ。あそこはまだ工事中で、危険です。とても、お見せ出来ないよ」ブライアンは狼狽気味に手を激しく振った。
「そりゃ、勿論です・・・・・いや、とんだ邪魔をしましたね。それでは、ヒデヨシ様にお参りに行ってきますか」
 マコーミックはブライアンと握手を交わした。
「すまないね。ゆっくりしてもらえなくて」
「とんでもない。また、来ますよ」
 すぐにな、とマコーミックは腹の中でつぶやきながら出て行った。

 建物の二階、二枚格子の細い隙間から、若い白人の男女がマコーミックの様子をうかがっていた。
 男はトビー、女はグロリアといい、ロスではジムとドロシーと名乗って、浩二と恵美を襲ったふたりだった。
 トビーは舌打ちをして、格子から離れた。
「何だよ。山荘で鉢合わせしたらまずいからって、追いやられたのにさ、FBIのヤツ、こっちへ来たじゃないか。タツオも何考えてんだよ」
「ごちゃごちゃ文句たれるんじゃないよ。言われたとおりにしてりゃいいんだよ」
 トビーはふくれっ面をして、そっぽを向いた。

 マコーミックは辺りをぶらぶら散歩した。いくら偉大なヒデヨシ様でも、又あの石段を上るのは真っ平だ。
 確かに行き交うのは若い女性ばかりである。昨日はアイリスとエミが一緒だったので、気にならなかったが、ひとりだと、やはり意識せざるを得ない。気を使って歩くのもバカバカしくなり、寺の境内に入って時間を潰した。
 一時間ほどして、マコーミックはジュクに戻った。
 入り口にいた先ほどの若者に、やあと笑いながら手を振って、
「ブライアンに・・・・」
 むにゃむにゃと口の中でごまかしながら通り抜ける。
 ブライアンが不在で追い返されるようなら、それまでのことだった。
「ちょっと!」
 背後から声がかかり、マコーミックは振り向いた。
 若者が屈託なさそうな笑顔で、ヴォールトの平屋の方を指していた。
「ブライアンさんは地下にいますよ」
「有難う」
 願ったり叶ったりだ。気になっていたのは、地下の方だったのである。
 かまぼこ型の入り口からは大型バスでも楽々通れそうなスロープが、半円を描きながら薄暗い地下へ下っていた。
 スロープの手すりに近づき、マコーミックは見下ろした。思ったより深く、二十メートルはあるだろう。ちょっとした体育館ぐらいはある大きな地下の空洞が広がっている。
 様々な工事用の機具があちこちに置かれて雑然とはしていたが、ブライアンが言っていたような工事中には見えなかった。
 乗用車が一台とステーションワゴンが二台、停められている。
 三分の一ほどを木工作業と金属加工のスペースが占めているのが目につく。
 ブライアンの姿は見えなかった。それどころか誰もいない。
 マコーミックはためらったが、腹をくくるとスロープを降りていった。何とでも言い訳は出来る自信はあった。
 底に着くと、地下空洞の大きさが実感出来た。
 新しいコンクリートの臭いがこもっていて、少しひんやりとする。
 山側に当たる壁に高さ四メートル、幅六メートルほどの大きな入り口があり、頑丈なシャッターが下りている。この背後には何か人目にたつと困るモノが置いてあるのに違いない。
 ブライアンが慌てた原因はこれだな、とマコーミックはピンときた。
 シャッターの横に人ひとりが通れるほどの通用口があった。
 近づいて、耳をすませた。何の物音も聞こえない。
 ドアのノブに触れてみた。カギは掛かっていないようだ。 
 マコーミックはノックをしてから、ドアをそっと開けた。

「ボブはアイリスと一緒に、トウキョウへ戻らなかったの?」
 ナオミは眉をしかめた。
「そう、彼だけ一日伸ばしたの。ジュクの建築現場を見たいと言ってね。入れるはずもないのに」
 恵美が肩をすくめる。
 浩二と伊助は黙って聞いていた。
 四人は「谷山」のオフィスにいた。
 遊びにきたナオミと、昨日の「スター・ウオーズ」のアトラクションの話で散々盛り上がった後、ボブとアイリスの話題になって、恵美が洩らしたのである。
 恵美はロスのPRSとタツオの件は慎重に避けていたし、ナオミも持ち出さなかったので、女性ふたりと浩二や伊助では、マコーミックの行動について、温度差があるのは仕方がなかった。
 伊助はナオミがいるだけで嬉しそうで、ふたりは微妙に馴れなれしい。
 ナオミがひとりでいるとき、恵美は近寄って、小声で聞いた。
「伊助は知っているのね?」
 ナオミは黙ってにっこりし、うなづいた。恵美はナオミの手を取り、ぐっと握り締めた。それで充分だった。言葉は必要ない。
 浩二は女ふたりがタツオについて、何か口をつぐんでいることがあるのでは、と疑っていた。
 理由は察せられないでもない。自分の商売に差し障りになってはと気をつかっているのだろう。
 だがそれも、家族や友人の無事と平和があってこそである。遠慮なく言って欲しいなと、恵美とナオミを交互に見た。
 しばらく思案していたナオミが、「ちょっと、掛けてみようか」とセルを取り出した。

 シャッターの背後に隠された部屋は、ガランとして、誰もいなかった。
 奥行きが十五メートルほどあり、中央に置かれた奇妙な形状のマシーンが目に飛び込んできた。小型のブルドーザーのようだが、ブレード(排土板)の代わりに、エレクトしたペニスのような鋼鉄の円筒が突き出ている。ハデな黄色にペイントされているが、尖端の丸みをおびた部分は黒く、イボイボのような突起が数多く付いていた。
 機械自体の高さは人間の身長ぐらいだが、全長は八メートルほどある。
 まるでアニメに出てくる巨大なセックス・マシーンのようだ。
 マコーミックは、この機械を良く知っていた。
 大学時代、工学を学んでいた仲のいい友達が教えてくれて、ガールフレンドと写真を見ながら大笑いしたことがあったからだ。
 ミゼットマイナーという小型の、だが見かけによらず、非常に性能の高いトンネル掘削機である。大きさが三メートル以下のトンネルを掘るのに使われる。突起のある丸い先端が回転して掘削し、側面に取り付けられているベルトコンベヤーで、掘り出した土砂をマシーンの後方に効率よく片付けていく。人手もあまり必要としない、優れものだ。
 目の前のマシーンのベルトコンベヤーは、土砂で汚れていた。ここで掘削に使われていたのは間違いない。
 マコーミックは辺りを見回した。
 掘削機があるのなら、必ずコンクリートの吹付け機があるはずだ。掘ったトンネルの天井、側壁にコンクリートを吹付け、崩落を防がなくてはならない。
 ミゼットマイナーの陰に、小型の吹付け機を見つけた。
 コンクリートミキサー車がないのは、もうトンネルが完成しているのか、あるいは中断しているのかのどちらかだろう。
 それにしても、トンネルの出入り口が見当たらない。
 壁面に沿って大型のロッカーがいくつかあり、木のベンチも置かれている。ロッカーの数からみて、かなりの人間が出入りしていたはずだが、整然としていて、床にはゴミひとつ落ちていなかった。
 地下にいるはずのブライアンは何処にいるのか。
 突然、セルの着信音が鳴って、マコーミックは飛び上がった。
 急いで取り出し、発信者を確かめる。
「はい」
 声を潜めて応えた。
「何処にいるの?・・・ヤバイ所?」
 ナオミはカンがいい。
「ええ、まあ」
 応えながら、全身の注意を通用口のドアに注いでいる。
「まさか、ジュクに忍び込んでるのじゃないでしょうね」
「・・・・・」
「バカね。すぐ出てから、掛け直して」
「はい・・・・ナオミ、タツオはやはり何かでかいことをたくらんでいますよ。地下にトンネルを掘るマシーンがあってー」
 マコーミックの目の隅で、何かが動いている。
 とっさにセルを切って、マシーンの陰に身を潜めた。
 ロッカーのひとつが、滑らかに横にすべっていく。
 壁面にトンネルの入り口が現れてきた。高さはせいぜい二メートルぐらいの半円に近い。
 白いコンクリートを吹付けられただけの内壁がずっと奥の方へ続き、等間隔で天井に取り付けられた裸電球で照らされている。
 トンネルは水平ではなく、上方へ延びていくスロープになっていた。
 トンネルから出て来た四つの人影を見て、マコーミックは驚愕した。
 タツオとブライアンと共にいるのは、リュウスケとあの小柄な女子大生、モリタだった。
 ブライアンがロッカーの後ろに手を差し入れると、元の方へ動き出して、トンネルを隠した。
 四人は通用口に向かって歩き出した。モリタは上気した顔を上げていたが、リュウスケはうつむき加減で、考え込んでいる。
 マコーミックは覚悟を決めた。
 リュウスケやモリタが何故ここにいるのか、分からないが、このまま見過ごしてしまうのは、危険なような気がしたのだ。
「ああ、ブライアン、そこでしたか」
 マコーミックは、いきなり声をかけて、出て行った。 
 タツオ以外の三人はびっくりして、目を丸くしている。
「ボブ、君は帰ったはずじゃなかったのか」
 ブライアンが顔をゆがめて言った。
「ここは危険だから、近づくなと注意しただろう」
「すまない。もう帰るつもりで、挨拶だけでもしようと寄ったら、君は地下にいると言われてね。ついふらふらと降りてきちまったんだ・・・やあ、リュウスケも来たんだね。調子はどうだい?」
「So-so」(ぼちぼちよ)竜介は強張った笑顔で言った。
「ミス・モリタ、コンニチハ。ゲンキデスカ?」
「ハロー。元気です」
 タツオひとりがまったく動ぜず、ニコニコしているので、マコーミックは舌を巻いた。
「ブライアンをすっかり怒らせてしまったようです。申し訳ない」
 マコーミックはタツオに頭を下げた。
「ボブ、何を言ってるんですか。君なら何時でも大歓迎ですよ。気にしないで」
 ブライアンがむっとした表情で、そっぽを向いた。
 タツオは委細かまわず、マコーミックの肩に親しげに手を掛けた。
「ちょうどいい。私もちょっとお話したかったんです。少しお時間はいいですか?」
「ええ、勿論です」
「良かった。じゃ、ブライアン、先におふたりを別荘までお送りしてくれないかな。私は上でボブと話があるので」
 ブライアンは不服そうだったが、不承不承うなづいた。

「突然切れちゃったわ」
 ナオミが心配そうにセルを見詰めた。
「ジュクに忍び込んでいるの?」
 恵美が尋ねる。
「うん。変なことを言いかけてたのよ。トンネルを掘るマシーンが、どうとかって」
「トンネル? 何のことやろ、いったい」
「掛け直そうか」
「彼の状況が分からないから、止めたほうがいいですよ」
 浩二が言った。
「どうしてそんな強引なことをしたのかな。ちゃんとタツオに頼めばいいのに」
 面白くなさそうだ。
 もう何もかも言ったほうがいいのでは、と恵美はナオミを見た。
 ナオミは目を逸らし、ちょっと首をかしげた。もう少し待てということか。
 気まずい沈黙がきた。

 マコーミックが案内されたのは、校舎らしい建物の一階にある、窓がない殺風景な小部屋だった。打ち合わせに使うような簡素なテーブルと折りたたみのパイプ椅子が数脚あるだけだ。
「少し待っててくれないか。すぐ戻るから」
 そう言い捨てて出て行ったタツオだが、なかなか戻って来なかった。
 一瞬、このまま帰ってしまおうか、と思ったが、折角のチャンスだと考え直し、待つことにした。
 十分ほどじっと座っていたが、痺れを切らして立ち上がろうとした時に、タツオが急いで入ってきた。
「ああ、お待たせして、申し訳ない。色々指示を求められて、きりがないんですよ」
 タツオは持って来た二本の水のペットボットルをテーブルに置いた。
「ここには、こんなモノしかなくてね。でも美味しい水ですよ。良ければどうぞ」
「有難う」
 喉が渇いていたマコーミックは一本取り上げ、一気に飲み干した。
「僕はいいのでー」
 タツオが残りの一本も押して寄越した。
 マコーミックは軽く頭を下げただけだった。
 タツオにこれほど近く、向かい合って面したのは初めてだった。
 年はそんなに違わないはずなのに、息苦しいような圧迫感がある。
 その瞳に見覚えがあった。キャリー・ディッカソンと同じだ。
 生命に執着心のない眼である。
 マコーミックはぞっとした。
 キャリーの瞳の底には慈愛の光りがあったが、タツオにはただの闇しかない。
 マコーミックが銃を取り出して突きつけても、タツオは平然としているだろう。逆にマコーミックが殺されても、眉ひとつ、動かさないに違いない。
 不意にアイリスの顔が浮かんだ。たまらなく会いたい。一緒にトウキョウへ帰るべきだった。
「どうしたのです? 難しい顔をして」
 タツオが不審そうに尋ねた。
「あ、いや、アイリスがどうしているかな、とふと思ったもので」
 マコーミックは正直に答えた。
「・・・・・・」タツオは軽くうなづいて、遠くを見た。
 一瞬、その瞳に光りが宿ったように見えたが、それはすぐ消えた。
「ボブ、君には、先ず謝らなくてはならないことがある」
 タツオはくだけた様子で喋り始めた。
「昨日訊かれたETPRSのことだが、実は知っている。ナオミもいたし、帰りがけだったので、つい否定してしまった。すまない」
「・・・・・」
「あれはエドと僕とのプライベートなライブラリーだった。ETはふたりの頭文字だ。ロスのPRSは君がたどり着いた僕の出発点だ。アンには会っているんだろう?」
「ああ。いい人だね」
「正直で可愛いおばちゃんだ。随分世話になったよ・・・君はホール先生の本を読んだことがあるかい?」
 マコーミックは首を振った。
「読んだほうがいいよ。素晴らしい人だ。欠点は人間を信用しすぎたことだよ。このおぞましい未完成の生物をね」
 余計な口を挟まない方がいいだろうとマコーミックは黙っていた。
「PRSで過ごした年月は実に充実していたよ。あの数年間がなければ、エドに出会うこともなかったし、今、ここにこうしていないだろう。辞めるときには、主要なメンバーのデータはすっかり分かっていた。アッパークラスのフリーメーソンなぞ、聞けば仰天するような名前ばかりだぜ。確かに何人かには連絡をとったが、エドが亡くなって、寂しかったんだ」
「ディッカソンやガードナーだな」
「そうだ。ホール先生とPRSの名前を出せば、みんなすぐ胸襟を開いてくれた。それなりに色々話が出来て良かったが、やはりエドのいなくなった隙間は大きすぎたよ。近頃、その想いはますます強くなっている」
 まんざら出任せを言っているようでもない。タツオが分からなくなってきた。
「美術犯罪班の君が首を突っ込んできたのは、そのふたりのアート・コレクションの寄贈の件だろう。信じられないだろうが、ふたりとも自分から言い出したんだ。将来、ETPRSに美術館を併設するプランを話したらね。勿論、有難くお受けしたさ」
「だが寄贈された美術品を売りに出しているじゃないか。コレクションは蒐集されたこと自体に価値があるのに」
「処分しているのは僕が保持する意味がないと判定した作品ばかりだ。無条件で寄贈された以上、選択の権利は新しい所有者にあると思うがね」
「亡くなった人たちの期待を裏切ることになるじゃないか」
「人は期待通りに動かないものだよ、ボブ」
 タツオはにやりとした。
「君はアイリスの意向に何もかも沿うつもりかね。彼女は君が望むとおりに応える女なのか?」
 マコーミックはタツオをにらみつけた。
「ポイントをすり替えるなよ」
「すまない。君を怒らせるつもりはない。僕が言いたいのは、何も法律に触れることはしていない、ということさ。すくなくともこの件に関してはね」
「ーこの件に関しては、とはどういう意味だ?」
「僕はロスで人を殺したことがある」
 さらりとタツオが言い、マコーミックは仰天した。
「タツオ、君は僕の立場を認識してるな」
「勿論だよ、FBIといえどもお巡りのひとりだとね」
「冗談でした、ではすまないぞ」
「これ以上ないほど真面目だ。その男は暴力で、男も女も自由に出来ると信じるゲス野郎だった。社会の害虫をエリミネートしただけだよ」
「そんな権利は君にはない」
「では、どうする?」
「もっと情報が欲しい」
「いやだ、と言ったら」
「僕をからかっているのか?」
「そう見えるかね」
 タツオはぐいと身を乗り出した。
「ロスでの殺人を喋ったのは君が初めてだ。エドさえ知らない。君には理性と行動力、美に対する感性、そして勿論、強い正義感がある。ボブ、一瞬でいいから、青臭い倫理観を忘れてくれ」
 マコーミックは思わずうなづいた。
「二十五年後には人口は九十億になり、地球の資源が二倍あっても足りないと言われている。例えば水だ。日本人は水が有り余っているように思っているが、世界でどれほど大勢の人間が汚染された水を飲んでいるのか知らない。二十五年後といえば、我々は五十代半ばだ。ひとつ質問だ。九十億の人間が平和に共存している地球になっていると思うか?」
 思いがけない質問だった。マコーミックはしばらく考えた。
「・・・・・僕は人間の理性と知性に賭ける」
「何とかやっていけているということか。甘いな。僕はそれほど人間という生物を信用していない。世界を見ろよ、ボブ。国家のため、民族のため、自由のため、平和のため、平等のため、正義のため、こんな聞こえの良い言葉の下で、何千年も血が流れ、争いが繰り返され、しかも今なお続いているんだ。SNSは人間のエゴと欲望を際限もなく世界中に広げている。恐ろしいことにテクノロジーの進歩で、その気になれば大量虐殺は誰でも簡単に出来る時代だ。地球は増え続ける人間のストレスに耐えられないぞ」
「そんな絶望的な意見を聞かされても、どうしょうもないじゃないか。君は僕に何を言いたいんだ」
「この混沌とした衆愚の世界を救うには、優れた哲学を持った単一の存在が必要だということだよ」 
 タツオは淡々と言った。
「・・・僕には独裁者のことを言っているように聞こえるが」
「その通りだ」
「君の口からプラトンの国家論を聞くとは思わなかったな」
「必ずしも、そうではない」
「では、その単一の存在とは何だ?・・・・・ひょっとして、君のことか?」
「僕だけでは無理だな」
「・・・というと?」
「神と僕が見込んだ人間がついていてくれなくては」
「教えてくれ。君のいう神とは、どんな存在だ」
「トヨトミ大明神だよ」
 マコーミックは待ち構えた。
 ジョーダンだよ、真に受けたのかい、とタツオが笑い出すと思ったからだ。
 タツオの表情はまったく変わらなかった。
 紅いくちびるがぬめぬめと光っている。
 マコーミックは気味が悪くなった。哲学者ぶっているが、この男はオカシイ。
「・・・・・何故ヒデヨシなんだ? 教えてくれ」
「決まってるじゃないか。彼こそが本当のヒーロー、ヤマトの王だよ。トクガワ・ショーグンなんかは敷かれたレールに乗って走っただけだが、それでも二百数十年にわたってこの国は平和を謳歌した。考えてもみろ。当事の支配者層はサムライと呼ばれた武力集団だぜ。それが二世紀以上にわたって争わなかったというのは、まさに奇跡としか言えないよ。こんな文明社会を出現させた民族がほかに存在するか。世界は形骸化した既存の宗教に飽き飽きし、絶望している。今こそヒデヨシ様のパワーを甦らせ、新しいヤマトの王が世界を浄化するのだ」
 タツオは息がかかるぐらい顔を寄せた。驚いたことに、瞳の闇が消えている。
「ボブ、僕たちでこの世界を変えよう。キレイ事は言わない。何もシャングリラを創ろうというんじゃない。普通の人間が普通に暮らせる世の中でいいんだ」
「どうやって?」
「勿論、もうカブトとカタナの時代ではない。崇高な社会の実現を妨げているファクターをエリミネートしていけばいいんだ。ひとつ、ひとつ、取り除いていく。道は遠いが、そのうち、世界の人々が必ず僕らを支持してくれるようになる。国を超え、人種を超えてね」
「・・・・そして地球を救うのは、トヨトミの神を信じるタツオになるわけだ」
「我々だ。手を取り合ってな」
「君の言い分はテロリストと変わらないな」
 タツオの表情が変わった。
「女、子供を巻き込むテロと一緒にするな!」
 だが、タツオの怒りは、現われたときと同じ速さで消えた。
「ボブ、君も司法社会にいて、多くの悪玉が大手を振って、横行しているのを見ているはずだ。異常だとは思わないのか」
「それは認める。それでも現在の民主主義がベストだと信じている。たった一人の人間が世界に君臨するなんて、許せないよ」
「民主主義では何も変わらないぞ。幻想は捨てろ。人類が無秩序と混乱の中でカタストロフィに突き進むのを黙って見ているのか」
「悪いな、タツオ。神がかったような独裁者は絶対駄目だ」
 タツオは椅子に背中を預けた。
「残念だな。本当に残念だ。君とはうまくやっていけると思っていたのだが」
 マコーミックは軽く頭を下げた。
「ロスの話は聞かなかったことにする。これが精一杯の好意だ。じゃ、僕はこれで・・・」
 立ち上がろうとすると、タツオが言った。
「君がここへ、いささか強引な方法で入って来たことは忘れよう。だから、誰にも遇わず、何も見なかった・・・いいね」
 トンネルやリュウスケらのことを言っていることは分かった。
 マコーミックは、そのまま黙って帰るべきだった。だが彼の若さがそれを許さなかった。
 一太刀、返しておきたかったのだ。
「あのミゼット・マイナーで掘ったトンネル、あれは阿弥陀ヶ峰へ通じているのだろう。ヒデヨシの元へ」
 タツオは黙ってマコーミックを見詰めていたが、軽くため息をついた。
「さすがだな、ボブ。恐れ入ったよ。バラバラになったままの御骨を掘り出し、御傍でお守りするのは僕の勤めだよ」
「ちゃんとしかるべき筋に申請してやれば、もっと簡単だろうに」
「不可能だな、それは絶対に。君は日本人を知らない」
「そりゃそうだ。ここは君たちの土地だし、僕は日本人じゃない。まあ、うまくいくことを祈っているよ」
 ドアをあけて廊下へ出ると、男がふたり立っていた。
 ひとりはいかにも腕っ節の強そうな若い日本人だったが、もうひとりの白人はジムと名乗って、ロスで恵美を襲った男だった。
 マコーミックは振り向いて、室内のタツオを見た。
「お見送りはいらないんだがな。帰り道は分かっている」
 タツオは微笑みながら、目礼しただけだった。
 日本人がドアを閉めた。
「やはり日本へ逃げてきていたんだな、ジム」
 マコーミックが言うと、
「トビーだ、俺の名は」
 無愛想な返事が返ってきた。

 竜介はマコーミックやエドと知り合ってから、足繁く英会話教室に通い、この二年で恵美の流暢さには敵わないが、日常会話には不自由しなくなっている。
 ブライアンは車で竜介と盛田を鹿ケ谷の別荘まで送ってくると、ロビーへ案内して、自分もどっかりと竜介の横に腰を下ろした。
 今日は塾生たちの姿が、あまり見えない。別荘は静まり返っていた。
 ロビーの全面ガラスの外に広がる美しい庭園に、現代アートのように見えなくもないチキン・ウオーカーが立っている。
「昨日の騒ぎがウソのようね」
 竜介が言った。
「ああ」
 ブライアンはボンヤリとしている。さえない風貌の男だが、竜介は最初から妙にウマが合った。
「アレはどうするの?」
 竜介は顎でチキン・ウオーカーを指した。 
「知らないよ、あんなガラクタ。それより今日は疲れただろう」と竜介を見やる。
「いや。それよりトンネルにはびっくりした。最初はタツオにからかわれているのかなと半信半疑だったから」
 盛田は所在なげに、ぽつねんと座っていたが、青山好美がロビーに入ってきたので、「ア、先輩」と嬉しそうに声をかけた。
 青山は竜介に会釈をして、彼女の隣りに座った。英語がまったくダメな後輩の話し相手のために呼ばれたのだろう。
 塾生らしい若い女性が、ポットやカップが載ったテーブル・カートと入って来て、コーヒーを入れてくれた。
 青山は何かと盛田の世話を焼き、話かけている。
「ブライアン、君はMITの出身だってね。あのトンネルの設計や工事を担当したんでしょう。凄いや。僕は頭のいい人は無条件で尊敬するよ」
 ブライアンは肩をすくめたが、悪い気はしないようだ。
「ジュクから石塔まで直線距離なら九百メートルちょっとだが、それだと最後はすごい傾斜になって掘削マシーンが使えない。だから遠回りだけど、コースをいったん変え、山脈に沿って南へ登り、また北向きに戻って、やっと石塔の下へたどり着かせたんだよ。距離は伸びたが、スロープは緩やかなので、あの電動の小さなジープが使えるしね」
「ちょっと窮屈だったけど、お蔭で楽々だった。空調もきいていたし、途中にちょっとしたスペースもあったので、あまり圧迫感もなかったし。掘った土砂はどうしたの?」
「ジュクの建設と並行して掘ったからね。入り口の地下空洞をバカでかくしたのも、出た土砂をごまかすためさ」
「土臭くて、陰気なトンネルなら厭だなと思ってたけど、壁はコンクリートの吹き付けでスッキリしていたし、助かったわ」
「ナトムといってね、現在、山にトンネルを掘削するのは、ほとんどこの工法だ」
「でもずっと地中を進むのに、ちゃんとピンポイントで石塔の真下へ到着するなんて凄い」
 ブライアンはちょっと小ばかにしたように竜介を見た。
「それぐらい、どうってことないさ。ここには最先端のテクノロジーがそろっているからね」
 盛田と青山は、立ち上がって書架に近づき、本を抜き出すと、顔を寄せ合うように喋っている。
 その様子をチラと見て、竜介は声を潜めた。
「ブライアン、タツオは本気で、ヒデヨシの遺骨を・・・その、回収しようとしているの」
「そうだろうね。だから、あの小娘を引っ張り込もうとしてるんだろう。『女神の手』とか呼ばれているらしいな。バカバカしい」
 ブライアンは吐き捨てるように言い、腕を組んだ。
「骨なんか、そのまま、ほっときゃいいんだよ。最初は専用の礼拝室を地下に造るから、トンネルを掘削して欲しいと言っていただけなんだ。石塔の直下まで伸ばせとなって弱ったよ」
「到達点の天井から地上の石塔までどのくらい?」
「五メートルだよ」
「どうして遺骨を取り出すの?」
「そいつはさすがに手作業でやるよりしょうがないだろう。下から上へ、少しずつ慎重にね。直径がせいぜい数十センチぐらいの大きさでね」
「危なくないの? 石塔はかなり大きいよ」
「一箇所だけなら大丈夫だろう。だが僕はごめんだね。女神の責任は大きいよ。下手にあちこち掘ると、それこそドサッとくるからな」
 ブライアンはにやっと笑った。
 竜介はぶるっと身を震わせた。
「昨日、パーティーで、タツオの話をじっくり聞いて、僕、本当に感動した。今の世の中、金権まみれで、ろくでなしの政治家ばっかりじゃない。この人は人類の未来を真剣に考えているんだなと思ったわ。思わず自分のようなつまらない人間でも、少しでも役に立つことがあるなら協力すると言ったのよ。彼、とても喜んだ。それはいいんだけど・・・・・今日トンネルに入ってから、怖くなってきた。なんだか思っていたのとは、ちょっと違う気がするのよ・・・・・ねえ、ブライアン、どうしたらいい。今なら抜けてもいいかな?」
 ブライアンはじっと竜介を見詰めた。
「リュウスケ、まだジュクの正体は知らないんだな?」
「正体? 何それ? そんなの、聞いてないよ」
「じゃ、ここを出て行ったほうがいい。今すぐに!」
 ブライアンの口調にびっくりした竜介は立ち上がった。
「だけどー」
 彼は青山と話しこんでいる盛田を見た。
「彼女を放ってはおけないよ」
「あの娘は無理だ。それに、そんなヒマはない」
 ふたりの気配に気づいたのか、青山が目を向ける。
「やあ、お待たせしたね」
 タツオがロビーの入り口に現われ、にこやかに近づいてきた。

 トビーと日本人がマコーミックに両側から寄り添うにして、三人は建物の外へ出た。
 カーテン・ドアは閉め切られ、誰もいない。
 マコーミックはあまり不安は感じなかった。なんといっても、ここは街の真ん中で、初秋の太陽はまだ沈んでいない。
 塀の外からは大勢の若い女性が行き来している気配が伝わってくる。
 入り口の近くまで来ると、トビーが制止した。
 何時の間にか、その右手に拳銃が握られていて、マコーミックはぎょっとした。
 黒い手袋をはめている左手が素早くマコーミックの腋の下にあるショルダー・ホルスターから小型の拳銃を取り出した。
「何をするんだ」
「心配するなよ。あとで返してやるから」
 チラッと拳銃を見ると、
「グロック30かい。なんと可愛いのをお持ちなんだな」
 とあざけるように言って、自分の左ポケットへ放り込んだ。
 右手は拳銃を握ったまま、右ポケットへ入れて、銃口をマコーミックに押し付ける。
「さ、行こうか」
「何処へ行くんだ。教えるまで動かないぞ」
「キョウト駅だよ」
「キョウト駅?」
「そうさ。トウキョウへ帰るんだろう」
「子供じゃないんだ。ひとりで行ける」
「FBIさんよ、勝手に他人の敷地に忍び込んでおいて、帰りはそちらのご都合のいいようにとはいかないんだよ」
 マコーミックは黙った。
 トビーが合図すると、若い日本人がカーテン・ドアを少し開けた。
 外へ出ると、ドアが背後で閉まり、ふたりきりになった。
 日本人が運転して車で行くのだろうと思っていたマコーミックは戸惑った。
 トビーが首を傾げて、坂を上るように指示をする。
 下校時にあたるのか、大勢の若い女性が笑い声や嬌声を上げながら、男ふたりの回りを流れるように通り過ぎ、坂を下がって行く。
 ピッタリ身を寄せ合って、流れに逆らうように上って行くマコーミックとトビーは無視されているが、たまに意味ありげな笑みを浮かべて振り返って行く生徒もいる。
「シュールじゃねえか」
 顔を寄せたトビーがささやいた。
ーとぼけたことを言いやがるー
 マコーミックは苦笑した。
 この人ごみでは、お互い何も出来ない。もみ合いになれば、銃が暴発して被害者が出る恐れがある。トビーがそれを計算しているのは間違いない。
 ふたりは大学と高校の校舎が隣接しているところまで上がって来た。すぐ前がマドモワゼル・ラインの始発駅で、バス待ちの学生や生徒たちの列が出来ている。 
 昨日、山上の豊国廟まで登ったマコーミックは、これから参道に向かい、急に人通りが途絶えることを覚えていて、アドレナリンが強くなった。
「まだ歩くのか?」
「ここまでだ」
 マコーミックは辺りを見回した。
「車なんかないじゃないか」
「車には乗らない」
「・・・え?」
 トビーはマコーミックを押すようにして、バス待ちの列の最後尾についた。
「バスに乗るのか?」マコーミックは呆気に取られた。
「そうさ。このバス・ラインは、キョウト駅とここを結んでいる。ほとんど一般客は乗らないから、直行みたいなもんだ。若い女学生に囲まれちゃ、お互い、何も出来ねえだろうが」
「・・・なるほど。そういうことか」
「つまらねえことは考えるな。お前さんが変なことをすれば、俺はバスの車中でも遠慮なく撃つ。ドウシの命令は絶対だからな」
「ロスでは不首尾だったじゃないか」
 トビーはいまいましげに、にらみつけたが、何も言わなかった。
 真っ赤なバスは頻繁に来た。
 ふたりが乗ろうとしたバスはすでに混みかけており、トビーは脇に避けて、順番を譲った。
「どうした?」
「この状態で立ったまま、満員バスで揺られるのはヤバイだろう」
 トビーはポケットに突っ込んだ右手を目で示した。
「座ったほうがいい」
 次のバスには真っ先に乗れた。
 最後部は六人掛けの長い座席なので、ふたりはその前の右側の二人掛けに、マコーミックを窓側にして座った。若い女性たちが次々と乗り込んできて、バスは混み合った状態で出発した。
「途中、止まらないのか」
「三、四ヶ所あるが、あまり乗降はない」
 バスは女坂を下りきると七条通りへ入った。途中で降りようとする乗客もなく、すぐ京都駅が見えてきた。
「お前はシンカンセンの乗り場まで来るのか?」
 トビーは返事をしなかった。
 バスの案内が「烏丸七条」を告げると、
「俺はここで降りる」
 トビーがいきなり言った。
「えっ!」
 マコーミックは驚いた。
「あとはキョウト駅までノン・ストップだ。駅では仲間が、お前がシンカンセンに乗るまで見届ける。だからバスは一番最後に降りてくれ。バス代ぐらいは持っているだろう」
 トビーは停車ボタンを押して、立ち上がった。
「Sorry, nothing personal」(スマン、悪く思うな)
 言い捨てて、女性客をかき分けるようにしながら、前部の下車口から姿を消した。
 ひとりになったマコーミックは、安堵感が全身にしみわたるのを感じた。どうやら無事に帰れそうだ。駅で仲間が見届けるというのは、おそらくハッタリだろう。
 銃を突き付けられた時、マコーミックは激しく動揺した。
 不意にアイリスとそのお腹の赤ちゃんが、頭に浮かんだからだ。死んでしまえば、産まれてくる子供の顔も見れない。
 その閃きが、雷のように身体を貫いた。
 そんなことは・・・・絶対イヤだ。
 マコーミックは、自分でも意外なほど怖気づいてしまった。
 ギャングとの銃撃戦で殉職した父親のことも蘇えった。
 親になるという簡単な事実が、これほど自分に影響を与えるものだとは、思いもよらなかった。
ーこんな状態では、FBI勤務はもう無理だなー
 マコーミックは通り過ぎる街並みを、バスの窓越しにボンヤリと眺めた。
 京都人は在来線のある北側を京都駅の正面としてとらえ、新幹線が発着する南側を八条口と呼ぶ。
 マドモワゼル・ラインのバスは、その八条口にある所定のバス停に滑り込んだ。
 トビーが銃を返してくれなかったことに気がついたのは、その時だった。
 マコーミックは舌打ちした。
 女性たちがバスを降り始めた。どちらにせよ、後部に座っていたマコーミックは女性より先に降りるつもりは無かった。
 横を通り過ぎようとした最後尾の女が振り向いた。
 何気なくマコーミックは見上げた。
 長身の女はマスクをしていたが、その目つきには見覚えがあった。
 彼女はマコーミックに右手を差し出して、ささやいた。
「Here is your gun」(あなたの銃よ)
 見下ろしたマコーミックは、自分のグロック30を認め、思わず取ろうとした。
 バンッと銃声が響いた。
 一瞬の静寂のあと、かん高い女性の悲鳴が上がった。

「どうかしたの、竜介。いやに静かじゃないか」
 タツオはコーヒー・カップに口をつけながら、上目遣いで言った。
 竜介はちょっと肩をすくめた。
「少し疲れたのかも」
「そう言えば、顔色が悪いですよ」
 盛田が心配そうにのぞき込んだ。
 ブライアンは、先ほどから黙ったまま、日が陰ってきた庭園を見詰めている。
「それはいけないね。ちょっと、横になればいい。青山、和室におふとんを敷いてあげて」
「はい、導師」
 青山が立ち上がると、竜介は慌てて手を振った。
「あ、それには及びません。もう、そろそろ失礼しますので」
 知らぬ顔で、青山はさっさと出て行く。
 タツオも聞こえなかったかのように、盛田を見た。
「あなたは下宿で、ひとり住まいだったね。どう、部屋はいくつもあるから、今夜は泊まっていかない? 食事をしながら、ゆっくり話も出来るし」
 盛田はパッと顔を輝かせた。
「いいんですか。ウワア、凄い。こんなトコに泊まれるなんて」
「竜介も泊まってくれるよ」
「ホントですかあ。嬉しいなあ」
 竜介もさすがにムッとした。
「困りますよ。僕にも都合があってー」
「都合?」
 タツオがじろっと見た。
「昨日の話では、予定は何もない、とことん付き合いますよ、と言ってたんじゃなかったかな」
 竜介は黙り込んだ。
 タツオがため息をついた。
「トンネルのせいだろう」
「え?」
「悪いことをしたね。秀吉様のすぐ近くまで、いきなり連れて行ったんだものね。僕でも体調がいまいちのときは、降り注ぐパワーに圧倒されて、くたくたになるんだ。竜介がショックを受けるのは無理もないよ・・・・・ゴメンな」
 驚いたことにタツオは、今にも泣きべそをかき出しそうである。
「二度とトンネルには誘わないよ。約束する。今、竜介に、また振られて、出て行かれるのは、耐えられないよ」
 竜介は思わず笑い出した。
「分かりましたよ。今夜はとことん付き合います」
「良かったァ」
 タツオは、子供のような笑顔に戻った。
 盛田がパチパチと手を叩く。
 タツオも竜介も気がつかなったが、庭園を見ていたブライアンは、呆れたように薄ら笑いを浮かべていた。
 
  
 第十章

「どうしたのかしら。もう二時間近く経つわよ」
 恵美が時計を見て言った。
 浩二が顔をしかめた。
「ウーン、まさかとは思うがなあ・・・・」
 伊助も仕事が手につかず、気掛かりそうだ。
「イヤな予感がする」
 ポツリとナオミがつぶやいた。
 とたんにセルの着信音がなり、全員がびくっとして、それぞれのセルに手を伸ばした。
「・・・私の」
 恵美が言って、セルを耳にあてる。
「はい・・・あ、乾先生、昨日はお疲れ様でした・・・」
 恵美以外の三人が、ホッと肩の力を抜いた。
「・・・・・いいえ、こっちには来てませんよ・・・・・あ、そうなんですか・・・・・分かりました。はい、どうも・・・」
 恵美はセルを切った。
「・・・盛田さんが来てないか、だって」
「盛田って・・・ああ、あのパーティーに来ていた可愛い女の子やな」
 伊助が訊いて、恵美がうなづいた。
「来てないかって、どうしたんや?」
 浩二が尋ねた。
「彼女、今日は資料室に来なかったらしい。そんなことは今まで一度もなかったので、先生、心配している」
「年頃の女の子が、毎日カビくさいところへ、顔を出す方が心配やろ。ケータイは?」
「持ってないんだって」
「へえ、変わってるな」
 オフィスの電話が鳴り響き、四人は思わず顔を見合わせた。
 立ち上がろうとする伊助を制し、浩二が受話器を取った。
「はい、谷山です・・・え、ああ、青木さん、京都府警の・・・ええ、ええ、覚えてますよ、その節はどうも・・・」
 恵美がさっと緊張した。
 伊助がナオミに、「ポリス」とささやく。
 その時、恵美のセルがまた鳴り、画面を見た彼女が、
「アイリスだわ」
 と言って、浩二から離れながらセルを耳に当てた。
 ふたりの、それぞれ緊迫した応答が、室内を行き交う。ナオミと伊助が、恵美を見たり、浩二に耳を傾けたりしている。
 浩二と恵美は、ほとんど同時に通話を終えた。
 恵美が、鋭い口調で、浩二に言った。
「ボブのことでしょう」
 浩二がうなづいた。
 恵美が悲痛な表情で、
「こっちはアイリスから掛かってきた」
 と言った。
「ねえ、どうしたの。コウジ、説明して」
 日本語が不得手なナオミが、いらただしげに問いかける。
「アオキって刑事、覚えてるよね。キャサリン事件の時の。彼が、ボブ・マコーミックの身分証明書を所持している白人の男が、京都駅で死んでいるので、確認に至急来てくれないかと言ってるんだ」
「キョウト駅のどこ? 殺されているの?」
「死体は京都駅に着いたマドモワゼル・ラインのバスの中だ」
「バス? 何でまた?」
「分からない。銃で撃たれているらしいんだが・・・・どうも、自分で撃ったんじゃないか、と言うんだ」
「自殺? そんなこと、絶対あり得ない」
 ナオミが叫んだ。
 浩二は恵美と顔を見合わせた。
「東京のFBI日本支局へも連絡がいったのよ。さすがにアイリスは気丈だわ。もう新幹線で京都へ向かっているけど、出来たら私たちに確認して欲しいって」
 恵美は自分も行くつもりのようだ。
「私も行きます」
 ナオミが断固とした口調で言う。
 この二人は止めても無駄だな、と浩二はあきらめた。
「わしは店番しています。タクシー、呼びまひょか」
 伊助が言った。
「いや、パトカーを迎えによこすと言っていた」
 もう、こうなっては言ってしまうべきだと恵美は決心した。
「浩二さん、私、昨日ボブたちと豊国廟へ行ったでしょう」
「ウン」
「彼の話では、タツオはロスのPRSで数年ほど働いていたんだって」
「えっ、本当かい・・・・・じゃあ、ニューヨークのETPRSは・・・」
「ナオミは、ETはエドとタツオの頭文字だろうと推測している」
 浩二が見ると、ナオミはうなづいた。
「そうか。やはりタツオだったのか」
 黙っていたことを怒り出すだろうと覚悟していたが、意外にも恵美を見る浩二の視線は優しかった。
「気を使ってくれなくて良かったんだよ。僕にとって恵美以上に大切なものなんてないんだから」
 恵美が微笑んだ。
 見守っているナオミの眼に、どこか悩ましげな影がさした。
 店の表に車が止まった気配がした。
「来たな」
 と浩二が言い、三人が慌しく出ようとすると、「ぼん」と伊助が呼び止めた。
「盛田とかいう女の子、ひょっとしてこれに関係してんのやおまへんか」

 目立つ赤いバスは、京都駅のマドモワゼル・ラインの所定のバス・ストップに停まっていた。府警のパトカーが数台、前後でライトを点滅させている。
 それでなくてもバスやタクシーに乗用車の往来が激しく、無数の人出で賑わうエリアである。物見高い見物人と渋滞する車両で現場はごった返していた。
 浩二ら三人が人ごみを掻き分けるようにして到着すると、青木警部が待ち構えていたように出迎えた。
「ああ、すんまへんなあ。どうもとんだ事でー」
 恵美とナオミが続いているの見て、少し眉をひそめる。
「ーご婦人方も来られたんですか」
 浩二が急いで説明した。
「青木さん、FBI日本支局のアイリス・タナカを覚えてられますね」
「ああ、FBIにしておくのは勿体無いようなひとでしたな」
「実はボブ・マコーミックと婚約したばかりなんですよ」
「ええっ、それは、また・・・」
 青木は顔をゆがめた。
「この恵美はアイリスの親友なんです。青木さんが私に連絡されている、ちょうどその時に、アイリスからも彼女に電話があって、同じことを頼んできたというわけです。もう本人は新幹線でこっちへ向かってるらしいのですが」
 青木はうなづいた。
「分かりました。ではー」
 歩き出した青木は、浩二に身を寄せてささやいた。
「関係者の方に現場に来ていただくことは、あまりないんですよ。分かっているつもりでも、いざその場で見られると、けっこう衝撃を受けるもんです」
 青木は続く女性ふたりを目配せした。
「バスは狭いし、貴方が先頭でご確認していただけるのがいいかと思います」
「了解です・・・こんな時になんですが、あれは今、私の妻です」
 警部はちらっと恵美を見て、
「おお、それは・・・」
 と言いかけて、さすがに後の言葉を呑み込んだ。
「・・・お似合いですね」
「有難うございます」
 バスは前部の降車口だけが開いていて、中央の乗車口は閉まっている。車体の後部の窓は、内側から青いビニールシートで被われていた。
 手渡されたシューズ・カバーを靴の上から履き、青木と浩二は降車口から乗り込んだ。
 後部座席付近にいた鑑識員らしい三人が浩二を認めると、身を引く。
 ボブは二人掛けのシートの窓側で、頭を座席の背にあずけるような姿勢で座っていた。
 浩二はゆっくり近づいた。
 生気のない眼がバスの天井を見ている。
 ボブは少し口を開け、手はだらりと両脇にたらしていた。
 着ているシャツの真ん中に小さな穴が開いているだけで、服装に乱れはない。
 両脚の間の床に、拳銃が落ちているのが目に入った。
 もう二度とコイツが元気に喋り、動き回る姿を見ることが出来ないのだと思うと、ぐっとこみ上げてくるものがあった。きっと産まれてくる赤ちゃんを、その手で抱きたかっただろうに。
 振り返るとバスに乗り込んだところで、恵美とナオミが青白い顔で立ちすくんでいる。
 浩二は青木にうなづき、ボブに合掌した。
 恵美とナオミも手を合わせた。

 タツオが用意した夕食はスシだった。
 二つの大きな黒塗りの寿司桶に、美しく、見事に盛り付けされていた。竜介が嘆声をもらし、盛田がパチパチと手を叩く。
「こんなところだからね、お手軽なものしかお出し出来なくて、申し訳ない」
「とんでもないよ、タツオ。とても美味しそう」
 塾生たちが、サラダやお吸い物、飲み物を次々と運んでくる。
「導師が自らご用意なさったのですよ。滅多にないことです」
 青山が誇らしげに言った。
 さっそく口に運んだ竜介が目を細める。
「ウワア、新鮮で、たまらないわ・・・そうだ、ボブもくれば良かったのに。彼は帰っちゃたの?」
「ああ。誘ったんだけどね、気が進まないようで。何か悩みがあるみたいだった」
「へえ、昨日はそんな素振りも見せなかったのに」
 竜介と盛田の頭越しに、タツオとブライアンが微妙な視線を交わした。
 
 青木警部と浩二らは、道路を挟んで駅前のニュー・キョウト・ホテルへ移動した。
 ホテル側の配慮で、カフェ・テラスの一隅が、移動式のパネルで区切られていた。
 三人を案内すると、青木はいったん姿を消したが、すぐ戻ってきた。座ると姿勢を正し、頭を下げる。
「ご協力、感謝いたします。皆さん、親しくなさっておられたようで、辛かったでしょう。こんなことになるとは、本当に残念ですね」
 青木の口ぶりは型どおりの挨拶ではなく、心からの思いやりがこもっていて、言葉が分からないナオミにさえ心情は伝わったようだった。
 三人も頭を下げた。
「こういう所へお越しいただくのは本意ではないんですが、現職のFBI捜査官が、一般人が利用する乗り合いバスで銃により変死するなんて、我々にとってもいろんな意味で、大変なことでしてね・・・・・それに、ホラ、マコーミックさんは、一昨年の鹿ケ谷事件に関わってられた捜査官だし」
「その節は、何かとお世話になりまして・・・」
 浩二が言いかけると、青木は目の前で手を振った。
「いやいや、おふたりこそ怖い思いをされて、寿命が縮みましたやろ」
 浩二と恵美は顔を見合わせて、微かに微笑んだ。
「世界のVIPが続けさまに変死する異常な出来事だったのに、警視庁どころか、CIAや日米の政府までからんで、私らは、まったく蚊帳の外でしたからな。ですから正直なところ、マコーミックさんの名前が出た時は、本部の連中が沸き立ちましてね。大騒ぎになっとるんですよ」
「青木さん、ボブが自分で撃ったのではないかとは、どういう意味ですか? 私たちは昨日も会っていて、とても考えられないんですけど」
 恵美がたまりかねたように尋ねた。
「ほう。昨日、マコーミックさんとは会ってられたのですか?」
「はい。我々三人ともです」
「どちらで?」
 恵美はちょっと口ごもった。
「・・・鹿ケ谷の別荘です」
 青木は意外そうな顔をした。
「あそこは現在、確か斉藤辰男とかいう、ゴールドバーグさんの秘書をされていた方のものでしょう。立ち入ったことをお伺いしますが、皆さんご一緒にどのようなご用件で?」
 浩二が口をはさんだ。
「青木さん、そのことは、後でゆっくりご説明します。取りあえず、ボブのことで状況を教えていただけませんか」
 警部は、ごもっともと、うなづいた。
「マコーミックさんは、本日午後三時前に女子大前のマドモワゼル・ラインの始発駅に現われ、同三時十二分発の京都駅行きに乗車されました」
「ひとりでですか?」
 青木は首を振った。
「若い白人男性の連れがいました」
「連れが?」
 浩二は驚いた。恵美が急いでナオミに通訳する。
「ふたりは一台バスをやり過ごし、十二分発のに乗って、後部の二人掛けに座りました。ふたりの様子は別に変わったところはなかったようです。女子大前から京都駅まで、中間に四つの駅がありますが、最初の三つは乗降客がなく、ノンストップで走りました。駅のひとつ手前の烏丸七条で、マコーミックさんの連れが降りました」
「えっ、じゃその時点でボブは独りになったわけですか?」
「そうです。近くにいた乗客の話では、京都駅に着くまで、ボンヤリ外を見ていたらしいです」
 三人は顔を見合わせた。
 青木の話では、ボブは女子大生や生徒に囲まれた状態のバスで京都駅に着いたことになる。
「バスは無事京都駅のマドモワゼル・ラインのバスストップに着き、前部の降車口から学生たちが降り始めました。勿論、全員が下車するまで、乗車口は開きません。後部座席に座っていた女性たちはマコーミックさんが立ち上がらないので、最後に降りるつもりだろうと思いました。彼女らが立ち上がり、降車口に向かって動き出した時、突然、銃声がしたので、振り返ると、座席で反り返ったマコーミックさんが目に入りました。悲鳴が上がり、あとはパニックです。全員が降車口に殺到しました」
「バスの運転手は?」
「降車中の人に気を取られていましたし、騒ぎが起こってからは、生徒の安全を守るのに必死で、それどころではなかったようです」
 ナオミが早口で恵美に尋ね、彼女が通訳した。
「ナオミが、マコーミックとその連れ以外は、乗客は全員学生かと訊いています」
「違いますが、現在のところ、正確なことは分かりません。銃が発射された時点で、乗客の三分の二は、すでに降車して、立ち去っていました。まだバスに残っていた女性たちも、逃げ出すなり、われ先にと消えてしまったのです。何人かは義務感と好奇心で残ってくれましたが。浩二さんも良くご存知のように、あの学校の学生や生徒たちは、いわゆる良家の子女たちですからね。無理もないです。明日、学校を通じて、十二分発のバスに乗っていた者は申告するよう、お願いしますが」
「現場で踏みとどまってくれた女性は何人ですか?」
「十三人です。その内、十人が学生です。一般の乗客は地元の土産店の奥さんと大阪から来たふたり連れの観光客の三人で、揃って最後部の六人掛けに座っていました。一般人は生徒に遠慮するのか、最後部に座ることが多いようです。マコーミックのすぐ後ろですね。彼の様子を教えてくれたのは彼女らです。学生たちには、一般の乗客は眼中にないみたいですよ」青木は苦笑いした。
「ということは降車しようと並んでいる列の後ろにいたのも彼女ら、三人ですね」
「そうなんですが・・・・・最後部の座席には、もうひとり、背の高い、マスクをした女がいたと観光客のひとりが言ってるんです。右端に座っていたから、彼女が一番後ろだったはずだと主張してるんですが」
「見つからないんですか?」
「はい。他に、そのマスクの女に気づいた者はいないんですよ」
「じゃ、その女が怪しいわ。ボブが自殺なんかするハズないもん」
 恵美は言い切って、うんと、強くうなづいた。浩二は、恵美と青木の会話をナオミに訳している。
 青木が改まった口調で話し出した。
「・・・・・銃弾はマコーミックさんの心臓を撃ち抜いて、座席の背もたれで止まっています。ちょっと専門的になりますが、銃弾の射入口のまわりにパウダー・タトゥーイングと呼ばれる、火薬痕がありました。これは拳銃が、ほとんどマコーミックさんの体に押し付けんばかりの近くで発射された証拠なんです。拳銃は彼の両脚の間に落ちていました」
「何をおっしゃりたいのですか?」
 いらついた浩二が尋ねた。
「テレビの犯罪ものなんかで良くご存知でしょうが、銃弾には施条痕があって、どの拳銃から発射されたか分かります。これから鑑識で、本格的に照合しますが、まずこの銃と銃弾が一致するのは間違いないと思います。またナンバーから、FBI日本支局がマコーミックさんが所持していた拳銃だと確認してくれました」
 警部が指摘したいのは何だろうかと、三人は不安そうな面持ちである。
「ですから現在の状況では、第三者、例えばそのマスクの女としますかね、彼女がマコーミックさんを撃ったとはちょっと考え難いのです・・・・・マコーミックさんは腋の下につけたショルダー・ホルスターに拳銃を収めていました。マスクの女が銃撃を実行するには、降車する女性たちに続きながら、振り向いて、彼の腋の下に手を突っ込み、拳銃を奪い、心臓部に押し当てて、発射する一連の動作が必要ですね。現職のFBI捜査官が、何の抵抗もせず、なすがままになっていますか。あり得ないでしょう・・・マスクの女が気を許す相手でない限り、例えばアイリスさんのような」
「バカな! アイリスがそんなことをするはずがない!」
 かっとなった恵美が、思わず声を荒げた。
「ええ、勿論ですよ。だって彼女、新幹線に乗って、こちらに向かっている途中でしょう?」
 警部は冷静に応えた。
 恵美はうなづいて、口を開きかけたが、黙ってしまった。
 アイリスが、電話でそう言っただけなのだ。
 恵美は、彼女が密かに浩二に会いに京都へ来ていたことを思い出した。
 ちらりと浩二を見ると、眼が合った。同じことを考えているらしい。
 つかの間の沈黙を破ったのはナオミだった。
 口早に恵美に語りかけ、青木を見た。
「ボブが死ぬ一時間ほど前、ナオミはケータイで彼と喋っています」
「えっ!」
 青木は座り直した。
「どういうことですか?」
 ナオミが説明をまかせたというように恵美を促した。
「実は昨日、私たちが鹿ケ谷の別荘にいたのは、ナオミが企画した喜寿を祝うパーティーがあったからです」
「どなたの喜寿で?」
「私たちの店の長老で、森本伊助といいますが、ナオミとはとても仲がいいんですよ。ま、それはどうでもいいんですけど、たまたまアイリスと京都にいたボブがそれを知って、飛び入りで参加したのです。ボブがアメリカで関わっている捜査が、どうやら別荘の新しいオーナー、斉藤さんに結びつくらしくて、かなり強引でした」
「ほう、なるほど」
「パーティーは大成功だったのですが、ボブは斉藤さんが、新しい塾を馬町に建てているのを知ったのですね」
「塾とは、あの進学塾とかの塾?」
「ええ。もとは病院の跡とかで、女坂に面しています」
 警部の目がキラッと光った。マコーミックの軌跡が明らかになりそうなのだ。
「ボブは、この塾に興味を持ちました。それで、今日、尋ねてみるつもりで、アイリスだけ東京へ帰したのです」
「女子大の前からバスに乗ったのなら、彼がその塾まで行ったのは明らかですな。それで、ケータイの電話は彼から? それともナオミさんから?」
 恵美はナオミを見た。
 彼女は、いいから言ってというように、うなづいて見せた。
「ナオミは、若いボブが無鉄砲なことをしないか、気にして掛けてみたのです。案の定、ボブは塾の中にいて、どうも無断で入り込んだ様子でした。ナオミがすぐ出るように説得すると、了解しましたが、地下にトンネルを掘るマシーンが、と言いかけたところで、不意に切れたのです」
「掛け直しました?」
「それは自分が止めました」
 と浩二が言った。
「ボブの状況が分からないので、こっちからは掛け直さないほうがいいだろうと思って」
「なるほど」
 青木は首をひねった。
「トンネルって何でしょうな・・・何れにせよ、マコーミックさんとバスに乗った白人の男が、問題ですね。目撃者はたくさんいたはずですから、ふたりが、その塾の現場から出てきたのが確認さえ出来れば・・・」
 青木は後の言葉を呑み込んだ。
 鹿ケ谷の事件では、彼も口惜しい想いをしたはずだ。
 今度は、この手で決着をつけてやるとの意気込みが、噛み締めた唇に現われていた。
「部長」と声を掛けて、丸顔の男が入って来た。三人に会釈する。
 見覚えがあった。恵美が饅頭とあだ名をつけた中村という刑事だった。
「マドモワゼルのバス、下京署へ移動します」
「よっしゃ」
 青木が立ち上がったので、三人とも立った。
「今日はほんまにご苦労さんでした。ごっつう参考になりましたわ。もっと、もっと詳しくお話を聴かしてもらわんとアカン思いますので、よろしくお願いします。マコーミックさんをこんな目にあわしたヤツがいるのなら、必ず捕まえます」
「よろしくお願いします」
 三人は頭を下げ、揃ってカフェ・テラスを出た。
 ロビーからはバスが目の前に見え、まだ多数の人が、飽かずに眺めている。
「アッ!」恵美が小さく叫んだ。
 浩二や青木らが、驚いて振り向いた。
「堀さんに連絡していない!」
「そうや。竜介にも言うたらなアカン」
 浩二が慌ててセルを取り出した。
「堀さんて、聞いたことあるな。誰やったかな」
 青木が首をひねった。
「部長、ホラ、あの、美男のオカ・・」
 中村が言い掛けると、「分かった、分かった」と青木が慌ててさえぎった。
「ア、アッ!」恵美が、また言った。
「何だよ、今度は」
 と恵美を見た浩二が、彼女が凝視する視線の先を追って、
「あ、あ」同じように呻いた。
 青木もふたりの視線を追った。
 若い白人男性が、ロビーから熱心にバスを見詰めていた。
 恵美がぐっと浩二の腕を掴んだ。
「あいつよね、ロスの」
「そうや、ジムや! あの顔は絶対忘れへん」
 ふたりは顔を見合わせた。
「ひょっとしたらー」
「ウン。自分もそう思う」
「どうかしました? あの外人」
 ただならぬふたりの気配に、青木も緊張している。
 浩二は青木の腕を引っ張り、壁の陰に入った。ナオミと中村も訳が分からぬまま、ついてくる。
「青木さん、詳しいことを説明するヒマがないんですが、あの若い白人、タツオ、いや斉藤に使われてる男だと思います。結構なワルです」浩二は青木の腕をつかんだまま、勢い込んで喋った。
「ふーん・・・君たちが言いたいのは、あいつがー」
「マコーミックと一緒にバスに乗り、烏丸七条で下りた白人だと思います。きっとここで様子をうかがってるんですよ。掴まえましょう」
「そう言われても、君の推量だけでは無理ですよ。まして相手は外人だ。たまたまここにいたと言われれば、それまでです。ヘタをして、海外にでも飛ばれてしまったら、なんにもならない」
「うーん、悔しいなあ。ジムに間違いないんだけどなあ」
「ジム? 名前を知っているんですか?」
「今年の夏、ハネムーンでロスへ行った時に、あいつに一杯はめられて、妻がレイプされそうになったんです。ナイフで脅されてね。名前は偽名だと思いますが」
「何故、それを早く言わないんです」
「だってロスの警察には届けませんでした」
「相手は知らないでしょう」
 青木はにやっとした。
「中村、いいな」
「了解。せやけど部長、あいつ、日本語分かりますか?」
「私が一緒に行きます」恵美が敢然と言った。
「僕もついているし」浩二も身を乗り出す。
 青木は、一瞬、迷ったが、すぐ決断した。
「レイプされそうになった場所は?」
「ロスのボナベンチャー・ホテル」
 青木はうなづくと、
「後ろにいて下さい」
 中村を促して、男の背後の左右から挟むように近づいた。
「失礼」
 青木が言って、警察手帳を開いて見せる。
「ちょっと、お話いいですか」
 白人の若者は警察手帳のバッジと青木を見てから、右手に立った中村にも目を走らせた。
「I don’t speak Japanese」(日本語は分からないよ)
「OK.パスポート、プリーズ」
「Why? What for?」(どうして?)
「パスポート、プリーズ」
 青木は辛抱強く繰り返す。
「No passport」
「ノー・パスポート? それは困りましたな。じゃ、ちょっと警察まで来てもらおうか」
「No, I won’t go」(いや、行くもんか)
「おや、分かる日本語もあるようですな。では、ロサンゼルスのボナベンチャー・ホテルと聞いて、何か思い出しませんか?」
 白人の若者は、フンと鼻先で笑い、青木をののしり出した。
「That’s none of your business, stupid cops. I am a decent American citizen. You understand? A-M-E-R-I-C-A-N! Don’t bother me. Get lost!」(お前らに関係ないことだよ、バカおまわりめ。俺はまともなアメリカ市民だぞ。分かるか。ア・メ・リ・カ・ン! 俺に構うな。失せろ!)
 英語でどなりつけれは、日本人は引き下がる、そう信じきっているようだ。
 周りの宿泊客たちが、興味深そうに眺めている。
 青木は涼しい顔をしていた。
「そっちがアメリカ人なら、私は日本の警官。ポ・リ・スだ!このチンピラめ」
「What did you say!」(何だと!)
 にらみ合ったふたりに、後ろから恵美が声を掛けた。
「Hi, Jim. Or how should I call you. Big Dick」(ハイ、ジム。それともどう呼べばいいのかな。デカチンさん) 
 ギクッとして、若者は振り向いた。
「Nice to see you again」(また会ったわね)
 恵美はニッコリ笑った。
 まさに青菜に塩である。
 若者は顔色を変え、がっくりとうなだれた。
「ま、ここではなんだから、さっきのカフェ・テラスへ」
 青木警部が言って、若者の肩を押した。

 第十一章

 とことん付き合いますと、威勢のいいことを言ったわりには、食事のあと、竜介は強い睡魔に、度々襲われた。
 ブライアンの口数は極端に少なく、珍しくタツオも考え込むことが多くなった。
 青山と盛田も、さすがに話の種がなくなってきたのか、黙ってお茶を飲んでいる。
 こくり、こくりとする竜介を見て、タツオが笑みを浮かべた。
「やはり、竜介は疲れているようだな。まだ宵の口だが、これで解散として、部屋へ帰って休もう。盛田さんは若いんだし、好きにしていたらいいよ。ただ、夜は足元が良く見えないから、庭園は止めたほうがいい・・・・・おい、竜介」
 とタツオが起こしかかると、
「あ、私が見ています」
 盛田が制止した。
 ふたりを残して、皆が引き上げると、辺りは恐ろしいほどの静寂につつまれた。
 庭園にも闇のカーテンが下り、大きな全面ガラスに、ロビーの様子が反射して写っている。
ーもうひとりの私と居眠りしている竜介さんがいるわー
 本当にカッコいいひとだなと、見惚れてしまう。
 島根県の出雲の高校から京都の大学へ入って三年目、授業以外のほとんどの時間を考古資料室や発掘の現場で過ごしてきた盛田にとって、この二日間は、嵐に翻弄された小船のようだった。
 彼女は自分が、「神の手」や「女神の手」なぞ持っているとは、決して思っていない。
 長い間、地中に埋まっていた器物は、それがどんな状態であっても、何百年も昔の人が、きっと大事にしていたものだ。掘り出して土くれを取り除いてやると、とても喜んでいるようで、嬉しくなってしまう。
 そのうち、なんとなく、呼びかける声が聞こえてくるようになった。
 ダシテ、ココカラ、ダシテ・・・
 そういう場所は、とても空気が濃い。
 そこを、優しく、優しく、土を掘り起こしていくだけでいい。
 けれども今日、タツオに連れられて秀吉の墓所の直下に立ったとき、盛田に迫ってきたものは、まったく違っていた。
 そこに眠っているものは、明らかに触れられるのを、喜んでいない。
 サワルナ、サワルナ、サワルナ・・・
 感じたままを伝えたが、タツオは気にもとめていないようだった。
 ロビーの空気が蒸し暑い。
 暖房が効きすぎているのだろうか。
 竜介は気持ち良さそうに、寝息をたてている。
 外の暗闇を、白いものが、すっと漂っていったような気がした。
 盛田は目を凝らした。
ー気のせいだったのかなー
 いや、確かに、何かいる。
 ガラスには、ロビーの様子が反射していて見づらいが、白い、もやっとしたものが、様々に形を変えながら動いている。
 それは次第に、人の姿を取り始め、ガラスに写っている盛田に近づいてきた。
 盛田はパッと振り向いた。
 実際には、それがロビーにいて、彼女の背後へしのび寄って来ているのかと思ったのだ。
 後ろには誰もいなかった。
 ガラスの方に視線を戻すと、それはまだそこにいた。
 両目の部分は、空虚な穴があるだけだが、じっと彼女を見ているのは間違いなかった。
 盛田はふらりと立ち上がり、庭園に面した、大きな全面ガラスに寄っていった。
 近づくにつれ、おいで、おいでをするように、ゆっくりと庭園の池へ消えていく。
 彼女はガラスに顔を押し付け、視界にロビーのライトが入らないよう、手でカバーして、見回した。
 ロビーからもれる光りの届く範囲の庭園には誰もいなかった。
 盛田は、しばらく迷っていたが、好奇心が勝った。怖さはまったく感じなかった。恐ろしいのは、生身の人間の方だから。
 隣接するエントランス・ホールから、庭園に出た。
 頭の中でざわざわと声が聞こえる。かなり強い。
 彼女は引き寄せられるように池に近づいて、のぞき込んだ。
 水面から立ち上る濃密な空気を感じる。
ーこれは、何だろう。水の中にあるものはー
 盛田は思い切り、息を吸った。
 目の前が暗くなり、気を失った小柄な少女は池に落下した。

 座って、しょんぼりしている白人の若者は、先ほどの威勢のよさは、カケラもない。それどころか、どこかホッとした気配があるのを、青木警部は見抜いていた。
 今なら、コイツはべらべら喋りそうだ。
 目を伏せて、浩二や恵美と視線を合わさないようにしている様子を見ながら、青木はこの絶好の機会を生かすことにした。
 署に帰ってしまえば、上司や外事との打ち合わせに手間がかかるし、通訳も必要になる。その前に浩二や恵美、それにナオミからも詳しい事情を聴かなければならない。ぐずぐずしてると、この若者の気が変わってしまう恐れもある。
「谷山さん、奥さんも」
 と青木は、浩二と恵美を側らに呼んだ。
「この男は、明らかに貴方と奥さんに負い目がある。谷山さんは英語が達者だ。ここは、私に代わって、彼からマコーミックさんの件で、話を訊いてもらえませんか。その内容は、奥さんが私に逐一通訳してくださればいい。大事なポイントは私も声をかけます」
 中村が、それは、という表情をしたが、青木は眼で抑えた。
「お願い出来ますか。もしこれが殺人事件なら、一刻も早く真相を知りたい。アイリスのためにもね」
 一瞬、戸惑った浩二だが、すぐ首をたてに振った。
「分かりました。とにかくやってみます。恵美、いいな」
 若者の正面に浩二が、その左右に恵美や青木らが席を占めた。
「ジムは偽名だろう。本当の名前を教えてくれ」
 浩二が口をきいた。落ち着いている。
 さまになってるじゃないか、と青木は安心した。
「トビー・パーカーだ」
「スペルは?」
 トビーの答えを、中村がメモする。
「キャンパス前のバス停から、マコーミックと乗ったのは、お前だな」
「そうだ。だが、俺はひとつ手前の駅で降りているぞ。キョウト駅には行かなかった」
「そいつは知ってる。大勢の目撃者がいるからな・・・聞きたいことはそれじゃない」
 一呼吸おいて、浩二が言った。
「バスの最後部に乗っていた、マスクの女はドロシーだな」
「・・・ああ」
 青木は驚いた。いとも簡単に、浩二はマスクの女の正体にたどり着いたのだ。中村が、やりますな、と苦笑いを浮かべている。
 トビーを見つけた瞬間に、浩二と恵美には、背の高いマスクの女の見当がついていた。
「ドロシーの本名は何というんだ?」
「グロリア・ドーン」トビーは彼女のスペルも言った。
「マコーミックを撃ったのは、グロリアだろう」
「そうだ。彼女だ」
 トビーはあっさり認めた。
「マコーミックの銃を使ったのは、自殺に見せかけるためか?」
 浩二はたたみ掛けるように尋ねる。
 トビーはうなづき、肩をすくめた。
「俺はうまくいったように思ったんだがな」
(お前がウロウロしていたお蔭だよ、トビー)
「グロリアは、どうしてマコーミックのホルスターから、拳銃を取り出すことが出来たんだ?」
 トビーは、にやりとした。
「アイツにそんな器用なことが出来るはずないだろう。マコーミックの拳銃は、あらかじめジュクで、俺が預かった。銃を突きつけてな」
 青木が、はっと緊張し、
「お前は、その銃をまだ持っているのか?」
 と訊いた。
 日本語だったか、意味は分かったのだろう、
「いや。バスを降りてから、カモ川に捨てた」
 トビーは慌てて答えた。
「確かめさせて貰うぞ」
 中村がトビーの体をさぐり、青木にうなづく。
「で、俺とマコーミックは仲良く肩を並べて、バス停に向かったわけさ。左のポケットにはヤツの銃を入れ、右のポケットの中の銃で威しながらな。俺たちは、若い女学生に取り囲まれていて、さすがのFBIも羊同然さ」
 トビーはクッ、クッと笑い、恵美がにらみつけた。
「グロリアは俺たちのあとをつけていた。一台待って、後部座席に座る混雑の中で、すぐ後ろについていたグロリアにヤツの銃を渡した。勿論、ふたりとも手袋をしていたよ」
「それから?」
「降車する女たちの最後尾につけたグロリアが、いきなりマコーミックを撃ち、その銃を足元に落とすと、自分も悲鳴を上げて逃げ出す、という手はずだった」
「グロリアは何処へ逃げた?」
「・・・シシガタニの別荘だろう」
「うまく考えたな」
「そうさ」
「お前のアイデァか?」
「いや・・・・・・・タツオだ」
「タツオ! 彼がジュクにいたのか・・・マコーミックはタイミングが悪かったんだな。お前らに都合の悪いことを見るか、聞いたんだろう」
「ああ。そういうことだ」
 ナオミが目配せをした。(トンネルよ)
「そいつはトンネルだな」
 トビーは目を丸くした。
「知っているのか・・・・・マコーミックも、見て、見ぬ振りをしてれば良かったんだよ。もっともリュウスケとモリタとかいう小娘に遇っちまったがね」
 今度は、浩二らが仰天した。恵美は、青木に訳することも忘れている。
「何だって! リュウスケとモリタもいたのか?」
「そうだよ。タツオがトンネルを案内してたんだよ」
「そのトンネルって、いったい何のためだ?」
 トビーは唇を舐めながら、愉快そうに見回した。主導権を握れたのが嬉しいらしい。
「ヒデヨシって言ったかな、この国の王様になったサムライがいただろう。そいつの墓が、ジュクの横の坂を上がって行った山のてっぺんにあるらしい。タツオはヒデヨシの骨を手に入れようとして、その墓の真下までトンネルを掘ったってわけさ」
「それだけのためにか? いい加減なことを言うなよ」
「マジの話だ。お笑いだろう。ブライアンの話では、最初は墓に向かって、礼拝所を地下に掘るだけの話だったらしい。それがだんだん伸びていって、最後はとうとう骨が欲しい、となったんだ。そんなもの、どうするんだ。頭がおかしいぜ」
 トビーは完全に吹っ切れたらしい。タツオをあしざまにののしり始めた。
「以前はあんなじゃなかった。俺はたいした学校は出ていなし、本も読まない。だがタツオは凄かったよ。何でも知っていた。バカな俺にも分かるように、丁寧に教えてくれた。この人についていけば間違いないと信じていたよ。半年ほど前から、だんだんイカレだしたんだ。ここがね」
 トビーは、指で頭をトントンと叩いた。
「死んだエドが忘れられないんだよ。惚れきっていたからね。一度、池の側らで立ちすくんでいる後ろを通ったら、そばに行きたい、そばに行きたいってブツブツ言っていて、ぞっとしたよ。アイツがかろうじて正気を保っているのは、エドとの約束を遂行しなきゃならないからだ、とブライアンが愚痴ってた」
 青木と中村が顔を見合わせた。エドとタツオが、そんな関係だとは、想像もしていなかったのだ。
「その約束って、何だ?」
「詳しいことは、俺には言ってくれなかったよ。でも、あのジュクって、ただの学校じゃないぜ。研究所だよ」
「何を研究しょうとしてるんだ?」
 トビーはニヤニヤした。
「地球から人間の数を減らそうとしてるのさ」
「はあぁ?」
 聞いていた全員が呆気にとられた。
「生物学的に言えば、人間の数が増えすぎて、世界はパンク寸前なんだってよ。俺にはどういうことか分からなかった。するとタツオはこう言ったんだ。あのシシガタニの別荘で五百人は平和にくらせる。五千人になると、殺し合いになる。俺はなるほどなと思ったよ」
「では、あのジュクで研究しようとしているのは、大量殺人の方法なのか」
「大量殺人だって?」
 トビーはバカにしたような顔をした。
「野蛮人と一緒にするなよ。俺たちはもっと平和的な集団だ」
「何をわけの分からないことを、言ってやがる」
 中村が毒づいた。
 浩二は恐ろしく不安そうな顔になった。
「リュウスケはその計画を知っているのか」
「・・・まだ、そこまで話してないだろう」
「リュウスケとモリタはどうしたんだ?」
「ブライアンがシシガタニの別荘へ連れて行く、と言っていた」
「竜介さんにメールしてみたら?」
 恵美が浩二に声をかけた。
 意味が分かったのだろう、
「そいつは無駄だと思うぜ」
 とトビーが言った。
「どうして?」
「別荘はジャミングされているからさ。タツオはセルが嫌いなんだ」
 浩二は、タツオへの連絡は固定電話だったことを思い出した。
「お前も持っていないのか?」
「そうだよ」
「じゃ、お前はバスを降りてからの予定はどうだったんだ?」
「拳銃を川で始末し、ここへ来て様子を見て、別荘へ帰って報告することになっている」
 浩二は青木と顔を見合わせた。
「すると、お前が帰らなきゃ、何かあったとタツオには分かるわけだな」
「そうさ。でも、もういいんだ。あんな狂ったヤツは、こっちで願い下げだ。正直なところ、あんたらに囲まれた時は、内心、これで助かったと思ったぐらいだよ」
 青木はしばらく考え込んでいたが、
「谷山さん、念のために竜介さんに、掛けてみてくれませんか」
 と言った。
 セルはやはり繋がらなかった。
「圏外になってます」
「別荘にいる可能性が高いですな」
 青木は腹をくくった。
「トビーに言ってくれませんか。シシガタニの別荘へ帰ってくれ、と」

 盛田は激しくむせて、水を吐き出した。
 生臭い匂いが、口中に残る。
 彼女のしょぼしょぼした目が真っ先に捉えたのは、髪をべっとりと顔に張り付かせ、濡れそぼった白人の若い女性だった。
「・・・ど、どうしたんですか。びしょ濡れですよ」
 盛田がしゃがれ声で尋ねると、周りから笑い声が起こった。
 気がつくと、タツオや竜介、それに見知らぬ数人の男女が、心配そうに覗き込んでいる。ブライアンの顔もあった。
「助けられたひとが、助けた者を気遣っているよ」
 竜介があきれたように言った。
 盛田は肩肘ついて身を起こし、辺りを見回した。
 自身も水を被ったように濡れていて、池の横の芝生に横たわっている。
「ア、アタシ、何をしてるんです? ひょっとして、池に落ちたのですか?」
「そう、ひょっとして、その通りよ。どうしたの? 足元が暗いから、庭園には出るな、とタツオが言っていたじゃない」
 難しい顔をして、腕組みをしているタツオが、厳しい声で言った。
「たまたま、外出から帰ってきたグロリアが、落ちる君を見て、すぐ飛び込んだからよかったものの、一歩間違えれば大変なことになっていたところだよ」
「スミマセン」
 盛田はうなだれた。
「誰かが池から呼んでいるように思ったのです」
 タツオがハッとして、組んでいた腕を解いた。
「それで、ふらふらと池のそばまで来ると、水の中から、とても強い気が出ていて、アタシ、大きく息を吸ったとたんに真っ暗になって・・・・・あとは覚えていません」
 突然、タツオは足踏みせんばかりの激しい勢いで、芝生を行ったり、来たりし始めた。
 両手を揉みあわせながら、ブツブツとつぶやいている。
「やっぱりそうか・・・水中から上げなくては、駄目だったんだ・・・くそっ、しまったなあ」
 その様子を見て、ブライアンが急いで竜介に言った。
「リュウスケ、モリタを部屋に連れて行って、暖かいシャワーを浴びさせてくれ。可哀そうに、震えているじゃないか・・・グロリア、君もだ。みんなも、何か暖かい飲み物を用意してくれ。早く」
 竜介が盛田を抱えるようにして離れると、背後でタツオとブライアンが言い争いを始め、次第に怒鳴りあいに近くなった。
「ーとにかく、君はサトリを引き上げる準備をすればいい」
「今はそれどころじゃないって言ってるんだ!」
「僕にアレコレ指図するのか。誰のお蔭でここにおいて貰っている」
「そいつは言い過ぎだぞ」
「黙れ! 言われたとおりやれ!」
 竜介は思わず振り向いた。
 タツオとブライアンがにらみ合っていた。
「分かった」
 短く言って、くるっと背を向けたブライアンが立ち去っていく。
 タツオは両手を固く握り締め、その背をにらみつけたままだ。
ーエライことになってきたわ。どうしょうー
 竜介はため息をついた。

 もっとも驚いたのは、トビー自身だった。
「何だって! 俺にこのまま帰れってか?」
「そうだ。そうして欲しい」
 青木がトビーに向かい合い、浩二が訳する形になった。
「いいか。お前がこのまま帰らないと、タツオはどう考える? 怖気づいて逃げたか、それとも警察に拘束されたか、どっちだ?」
「パスポートはヤツに押えられてるし、俺はどこへ行くアテも金もない。パクられたと思うだろうな」
「タツオは、お前が黙秘してくれると思うほど甘いとは思えない。取りあえず証拠を消し去ろうとするだろう。今、一番気掛かりなのはマコーミックを目撃したリュウスケさんとモリタさんだ。だからお前は何食わぬ顔をして戻り、見たままを報告すればいい。計画がうまくいったと思えば、すくなくとも今夜は動かないだろう」
「それで、俺はどうなるんだ?」
 トビーは不安そうに尋ねた。
「私たちはこれから本部で準備し、朝イチで別荘の捜査に入る。お前は知らぬ顔をしていろ。協力してくれたことは、必ず考慮するから。じゃ、いいな」
 トビーはしぶしぶ立ち上がったが、まだ迷っている様子だ。
「急げ。遅れれば、遅れるほど、お前が疑われるぞ。タクシーを使えよ」
 やっと踏ん切りがついたのか、トビーは急いでカフェ・テラスから出て行った。
「警部」
 中村が心配そうに、青木を見る。
「分かっている。私が全て責任を持つ。大事なのは、これ以上犠牲者を出さないことだ」
 浩二がうなづいた。
「青木さん、竜介さんに状況を知らせるよう、トビーに言っても良かったのでは?」恵美が言った。
「それも考えたんですが、竜介さんひとりならまだしも、その盛田とかいう女子大生も一緒なら、かえってマズイことにならないかと危惧したもので。あそこは城塞みたいなところですからな。簡単に抜け出してこれそうにも思えません。ところでお疲れのところ、申し訳ないですが、署で調書をとらせていただけますか」
 着信音が鳴り、恵美が急いでセルを取り出した。
「アイリスからだわ。あと十分で京都駅に着くって」
「ちょうどいい。このホテルに来るように、返しといてください。一緒に署へ行きましょう」

 別荘の北側の山陰に、もとは警護やハウス・キーピングの従事者が居住していた二階建ての横長の寮がある。母屋のような和建築の粋を集めた数寄屋造りとはいかないが、青灰色の天然スレートの屋根に、木材を効果的に使ったロッジ風の建物で、とても寮には見えない。
 玄関を入ったところに、居心地の良さそうなダイニングがあり、エドやタツオも軽食やお茶に良く利用していた。
 現在は塾生が多く、ブライアンは一階にある最大の部屋を占有している。
 彼もエドに心酔していたひとりである。
 エドは冷酷で、わがままな男だった。ブライアン自身の斬新なアイデアも、勝手に横取りされたこともある。だがそんなことは、彼にとって問題ではなかった。
 天才とはそうしたものなのだ。
 自分が後継者と信じていたから、タツオが現われても、少しも気にならなかった。たかがアジア人の青二才だと歯牙にもかけずにいたのである。
 タツオには自分にない強み、それも最強のセックスがあると分かったときには、遅かった。
 ブライアンはエドにとって、その他大勢の一人に成り下がっていた。
 タツオにカリスマ性があるのは、ブライアンも認めている。
 だからこそ、エドの夢の実現のためにと今日まで協力してきたのだが、もう限界だった。
 ブライアンは部屋の中をぐるぐる回りながら、思案していた。
 正直なところ、もうエドもタツオも、どうでもよくなってきた。こうなれば、わが身大事である。
 いきなり、ドアが慌しく叩かれた。
「はい」
「あ、ドウシが呼んでおられます」
 ブライアンはしばらく考えていた。
「何処だ?」
「ロビーです」
 
 タツオは満面の笑みを浮かべて立ち上がり、ブライアンを出迎えた。
「ブライアン、本当に僕はバカだね。勘弁して欲しい。君が正しかったよ」
「どういうことかな?」
「今はジュクとヒデヨシ様に集中すべきだ。ついあの娘が余計なことを言ったから、動揺してしまったんだ。恥ずかしいよ」
「・・・では、あの件はもういいんだね」
「勿論だよ。僕が言った暴言は許してくれるね」
「全然、気にしてないよ」
「良かった」
 タツオは近づくと、ブライアンをハグした。
「休んでいるところを、すまなかった」
 グロリアがトビーを伴って入ってきた。
「タツオ、トビーが帰ったわ」
 トビーは緊張して、固くなっている。ブライアンは変に思った。
「僕の部屋へ」とタツオは言い、ブライアンに手を振って、二人を引き連れてロビーを出て行った。
 ブライアンは、しばらく暗い庭園を見ていた。タツオが言ったことなぞ、まったく信じていなかった。
 自室に戻らず、リュウスケのいる和室棟に向かった。
 部屋は分かっている。襖の外から、「リュウスケ、いるかい?」と声をかけた。
「あ、どうぞ」
 襖を開けると、驚いたことに盛田がいた。上気して、赤くなっている。
「彼女、シャワーを浴び終わったところよ。ほんとに心配させて」
「スミマセン。お騒がせしました」
「もういいのかい?」
「少し頭が痛いけど、大丈夫です」
「ふたりいるなら、ちょうどいい」
 ブライアンは部屋に入って、襖を閉めた。
「ジュクのこと? 」
 竜介が尋ねた。
 ブライアンはうなづき、声を潜めた。
「・・・・・実はあそこは研究所になるんだ」
「へえ。何を研究するの?」
「水だよ」
「水?」
「そうだよ。地球上の水の九十八%は海水だ。残りの二%は淡水だが、人間が飲める水となればコンマ以下しかない。今後人口が増え続けるならば、水を制するものが、世界を制することになる。動物は水がなければ死に絶えるからね。私の卒業したMITは、空気中から水を取り出す研究で、世界のトップを走ってるんだ」
「スゴイ、スゴイ。タツオさんは素晴らしいことやってはるのね」
 盛田が目を輝かせた。
「始めたのはエドだ」
「エド?」
 首をかしげた盛田に、竜介が説明した。
「IT産業の『JUN』は知ってるでしょう。そのもとCEOであり、この別荘のもとの持ち主でもあり、ついでに言えば、タツオのもと彼よ」
「えーっ、男同士じゃないですか。ヘンなの」
「そういう愛も、世界にはあるの!」
 いささか気分を害したらしい竜介が、決め付けた。
「技術自体はもう問題ないし、やろうと思えば、何時でも出来る。だが、エドやタツオの本当の狙いはね、ある成分を溶け込ませた水を、利益を度外視して世界に供給することさ」
「どんな成分なの?」
「インドネシアで取れるガンダルサという植物の葉に含まれていて、男性の精子にある酵素の動きを弱める効果があるんだ」
「どういうこと?」
「この水を飲み続ければ、産児制限をしているのと同じことになるんだよ。子供が生まれなければ、自然に人口は減っていく。副作用はまったくない。飲むのを止めれば、精子の働きは回復する。水資源に乏しい国では、安価な水は無条件で浮け入られるだろう」
 竜介はショックを受けたようだった。
「それは・・・・タツオが言う人類の未来を考えるとは、そういうことだったの・・・赤ちゃんを持つ喜びを勝手に奪うなんて、絶対オカシイ」
「殺しあう方がマシかね」
 盛田はきゅっと唇を結んでいる。
「エドはこのまま人口が増え続ければ、必ず世界大戦が起こると予想していた。核戦争で世界が荒廃するのを防ぐのは、この方法しかないと信じていて、その遺志を引き継いだのがタツオだよ」
「ブライアン、どうして君は、わざわざ僕の部屋まで、それを伝えに来たの?」
 ブライアンは、これ以上ないほど真剣な顔付きになり、竜介はハッとした。
「もしかして、ボブのこと・・・・・」
「殺されたんじゃないかと思う」
「まさか・・・・どうして、そう思うのよ」
「今日の昼、ジュクでタツオと君たちが来るのを待っていると、ボブが不意にやって来たんだ。慌てて、なんとか追い返したんだけど、どうやら我々がトンネルに入っている間に、舞い戻って来たらしい」
「じゃ、あの時、彼は許可なく地下へ忍び込んできていたのか。それで君は怒っていたんだね」
「ああ。タツオがボブと話があると言って、我々を先に別荘へ行かせたのは、トンネルを見られた以上、何とかして彼を仲間に引き入れようとしたのだと思う。ところがタツオはひとりで戻って来た。うまくいかなったのは間違いない」
「それだけで・・・殺すかな?」
「FBIだぞ。彼らが本気で乗り出してきたら、計画はめちゃめちゃになる。説得のために、タツオは相当突っ込んだ話をしたはずだ。ボブを無事に帰したとは、到底思えない。実はあのジュクには、タツオの手足になって動いているアブナイ奴らがいた。タツオのことだから、尻尾はつかませないようにしたとは思うが」 
 ブライアンは竜介と盛田の顔を見た。
「ここはジャミングされていて、様子が分からないんだ。だが、どんな方法にしろ、ボブがエリミネートされたとすれば、彼をジュクで目撃している君たちは、タツオにとっても、組織にとっても、危険な存在になる」
「次は僕らが危ないと・・・」
 竜介が言いかけると、盛田がさえぎった。
「アタシはタツオさんを信じます。あのひとは、絶対、そんなひどいことをする人じゃありません」
「今、ブライアンが言ったことを聞いていなかったの。赤ちゃんが出来ない水を、何も知らない人たちに飲ませようとする男よ」
「それはタツオさんの本心ではありません。あのひと、今、とても迷って、悩んでいます。アタシには分かります。アタシは・・・アタシはあの人についていて上げたいのです」
 ブライアンは首を振った。
「ま、どうするかは君たちの自由だ。好きにしたらいい」
「ちょっと待ってよ。ここは周りを高い塀と門で取り囲んでいるし、監視カメラもあるわ。逃げたくても、方法がないじゃない」
「今なら、ひとつだけある。ちょっと危険だが、不可能ではない」
「何なの。教えて」
「チキン・ウオーカーだ」

 トビーはキョウト駅の状況を見たまま報告し、額に浮かんだあぶら汗をぬぐった。
 タツオとグロリアが黙ったまま、一言も口をはさまず、ただ見詰めているからだ。
「どうしたのだ、トビー。えらく具合が悪そうじゃないか」
 タツオが静かに尋ねた。
「すみません。少し気分が悪くて・・・」
「どうして気分が悪いのかな?」
「え?」
「僕に何か隠してることがあって、気がとがめるんじゃないのか」
「いえ、とんでもない!そんなバカな・・・・何故、そう思われるんです?」
「ボブには、駅では仲間が待機していて、シンカンセンに乗るまで見張っている、と言ったのだろう」
「はい・・・・・でも、それはヤツに勝手をさせないためのウソでしょう。だから俺が駅まで行って、状況をチェックしたんじゃないですか」
「ところが、実際タクシーで先回りして、バス乗り場で様子を確認していたジュクセイがいたんだな」
 トビーは青くなった。
「だから彼は、コウジら三人が駆けつけ、警察の人間と一緒に、駅前のホテルへ入るところまで見ていたんだよ。するとしばらくして、面白いことにロビーで大騒ぎしているガイジンに気がついたんだ」
 タツオは冷ややかに、血の気の失せた顔のトビーを見ている。
「僕は寛大な人間だ。君が正直に、何もかも話してくれれば、このことは忘れよう。グロリアが証人だ」
1俺をここへ帰したケイサツが悪いんだよー
 トビーは喋り始めた。

「チキン・ウオーカーはアトラクション用のモデルだからね、映画のように身軽にはとても動けない。だがそれなりに良く出来ている。ナオミに頼まれて、僕が設計したんだ。コックピットと二本の脚は強化プラスチックで、本体を支えているのはスチール・パイプだ。脚はピストンでそれらしく動いているが、見せかけで、実際はパイプの足元にセットされた二つの小型キャタピラーで移動している」
「ひょっとして、それで逃げろと? 無理、絶対に無理」
「いや、デカイだけで、操作は遊園地の乗り物と変わらない。丸いアクセルペダルを踏めば動き、離せば停まる。速度は出ないが、馬力はある。二つのキャタピラーは独立して動く。座席の左右に、それぞれギア・チェンジ用の操作レバーがある。垂直に立っておれば、ニュートラルだ。トップの赤いボタンを押してクラッチを切り、両方とも前へ倒すとキャタピラーは前進、後ろへ倒すと後進だ。簡単だろう」
「・・・まあね。でも方向はどう変えるの? ハンドルがあるの?」
「ない。方向転換だけが、ちょっとややこしい。あのチキン・ウオーカーは侵入してきた状態で停止しているから、出口へ戻るには百八十度回らなければならない。左右のレバーをそれぞれ、前進と後進にするんだ。それでアクセルペダルを踏むと、チキン・ウオーカーは、その場で回転を始めるから、適当なところで停めればいい」 
「どうしてコックピットまで登れるの?」
「脚とボディに取っ手がついている。チューバッカが乗り降りしたぐらいだから、問題ないだろう」
「僕、高所恐怖症なのに」
「キャタピラーは電動で、スターターは正面の赤いボタンだ。その下のいくつかある青いボタンには絶対触らないように。サウンド・エフェクト用だから、大きな銃声やマシーン音が鳴り響くぞ。出来れば静かな方がいいだろう」
 ブライアンは襖の外を気にしながら、立ち上がった。
「私が出来るのはこれだけだ。グッドラック」
 ブライアンは襖を少し開け、様子をうかがってから、するりと出て行った。
 竜介は盛田と顔を見合わせた。
「うまくいかないと思う」
 竜介がつぶやいたが、盛田は無言で宙をにらんでいた。

 ブライアンは厨房横の廊下で、急ぎ足で来るタツオに会った。
「あ、まだ、こっちにいたのか」
 とタツオはブライアンの腕を取った。
「明日の朝イチ、ここへ家宅捜査が入るよ」
「えっ、本当か」
「グロリアとトビーに命じて、ボブを消したが、トビーがキョウト駅で警察につかまって、何もかも喋っちまったんだ」
「トビーは、さっき帰ってきたじゃないか。逃げて来たのかね」
「いや。警察はわざとトビーを離した。時間稼ぎさ。彼がここへ帰って来なければ、リュウスケとモリタの身が危なくなると考えてるんだよ」
「どうして警察はトビーに目をつけたんだね」
 タツオは悔しそうな顔をした。
「警察がコウジ夫婦を駅に呼んだんだ。多分ボブの確認のためだろう。で、彼らがトビーを見つけたというわけさ」
 そら、みろ、とブライアンは腹の中で毒づいた。ロスのホテルの件は、タツオから聞いていた。当時はつまらないことをすると、疑問に思っていたが、やはりツケが回ってきたのだ。
「トビーはどうした?」
 タツオは不思議そうな顔をした。
「エリミネートしたよ。当然だろう」
 眉ひとつ動かさない。
「すまないが、モリタを車のところまで連れてきてくれないか」
 ブライアンはぎょっとした。
「どうするのだ?」
「どうせジュクの方へも、手が入る。その前にヒデヨシ様の遺骨を取り出したい」
 まだ、そんなことをー、と危うく出掛かった言葉を呑み込んだ。
「それも大事だろうけど、こっちはいいのか?」
「トビーを手放したのは、やつらのミスだ。証拠はないのだから、なんとでも逃げ切れるさ。それに明日には、警察はそれどころじゃなくなるよ」
「なぜ?」
「プランBを実行する」
「まさか。ウソだろう」
「ほかに方法はないだろう。トンネルや計画を隠すには・・・・・じゃ、僕は車で待ってるから」
 立ち去るタツオに、声を振り絞る。
「リュウスケは?」
「グロリアが始末する」
 ブライアンは立ちすくんだ。

 下京署から、アイリスを囲むようにして、浩二と恵美、ナオミが出てきた。
 表に停めたステーションワゴンの中で、伊助が待っている。
 明日の捜査の準備に、署内は慌しく人影が動いていた。
 アイリスは気丈にも、涙ひとつこぼさなかった。
 助手席に浩二、後ろの座席にアイリスをはさんで、ナオミと恵美が座った。
「アイリス、うちに来る?」恵美が声を掛ける。
「有難う。ただこのまま、じっと夜を過ごすと思うと・・・」
「ね、シシガタニの別荘まで、様子を見にいかない? あまり役には立たないとは思うけど、リュウスケやモリタの近くにいると思うだけでも、いいじゃない」
 ナオミが話しかけると、「あ、それがいいね」とみんながうなづき、伊助が車をスタートさせた。

「リュウスケ、モリタ、入るよ」
 いきなりブライアンが襖を開けたので、座っていたふたりは驚いて見上げた。
「どうしたの」
「そこでタツオに出会ったんだが・・・」
 ブライアンは盛田を見た。
「タツオが君に、これから一緒にトンネルへ来て欲しいと言っている」
「はい」
 盛田は何のためらいもなく、さっと立ち上がった。
「ちょっと待って、盛田さん。君、どういうことか分かってるの」
 竜介も立ち上がり、「こんな夜更けに、マジ、ヤバイよ。止めなさい」と彼女の腕に手を掛けた。
「いいんです。これはアタシがいないとダメなんです」
 盛田は竜介の手をそっと離した。
「行きましょう」
 ブライアンはうなづいて、盛田と部屋を出たが、しばらく行くと立ち止まり、
「モリタ、ちょっと待っててくれ」
 と言って、部屋へ引き返した。
「リュウスケ」
 ブライアンは声を潜めて、早口で語りかけた。
「やっぱり、タツオはボブの殺害を指示していた。しかも、警察はそれを摑んでいる。詳しいことを言うヒマがないが、これを洩らした実行犯のひとりが、先ほど殺されたようだ。ようするに警察の目的は、目撃者の君とモリタを確保することだし、タツオはそれを消しに掛かっている」
「じゃ、盛田を連れて出るのはー」
「危ないのは彼女より君だ。タツオと彼女がここを離れれば、君は必ず襲われる。リーダーはグロリアという女だ。女だと思って油断するな。ボブを殺害したのは、多分彼女だ。あと、三、四人、ややこしいのがいるが、怖いのはグロリアだ。それより、リュウスケー」
 ブライアンは盛田を気にしながら続けた。
「タツオはヒデヨシの遺骨を手に入れば、ジュクを消すつもりだ」
「え、どうして?」
「火をつけるのさ」
「そんなことすれば、自分で白状してるようなものじゃない」
 ブライアンは激しく首を振った。
「ジュクだけが燃えるのじゃない」
「ーまさか。そんな・・・」
「そうだ。万一のことを考えて、タツオは小型だが燃焼性の高い爆弾を、ジュク周辺の目立たない所に仕掛けている。あのあたりは有名な寺、博物館、女子大学が集中する文化財の宝庫みたいな地区だ。いっせいに火の海につつまれれば、普通はテロを疑うだろう。一箇所なら目立つが、あちこちで発生すれば、本当の目的がどこか分かり難くなる」
「狂ってるね・・・どこに仕掛けてあるの?」
「それはタツオしか知らない。だか無線でいっせいに起爆さす装置は、あのトンネルの中ほどにあったスペースにある。そこを押えればいい」
 自分に何とかしろ、ということか。竜介はむかっ腹が立った。
「ブライアン、こんな大変なこと、君が手伝ってくれなくちゃ、駄目だよ」
「いや、私はここから離れられないし、何よりも・・・」
「ブライアンさん、まだ?」
 盛田の呼んでいる声が聞こえると、「じゃあ」と短く言って、ブライアンはするりと襖の外へ消えた。
「クソッ!」
 竜介は、吐き捨てた。
 爆弾も無線の装置も、ブライアン以外の人間が出来るはずがない。いざとなって、ビビッてしまい、何とかしようとする勇気もないのだ。アフター・タツオのことも視野に入れ、自分はカヤの外にいたいのだろう。
 竜介は覚悟を決めた。

 パーキングは寮の建物の地下にある。
 タツオとふたりの若い日本人らしい塾生が、バタバタと細手のシャベルやヘルメットをレクサスに積み込んでいた。
 ブライアンが盛田を連れて現われると、タツオが駆け寄った。
「アア、夜遅くにすまないね。もう大丈夫?」
「はい。ご心配、お掛けしました。元気一杯です」
「そう、良かった。実は塾生の一人が不始末をやらかしてね、どうしても今夜中に、ヒデヨシ様の御遺骨を改葬したいんだ。手伝ってくれるかな」
「アタシでお役に立てるなら、喜んで」
「嬉しいことを言ってくれるね。じゃ、ブライアン、後は頼むよ」
 塾生たちは運転席と助手席に、タツオと盛田は後部座席に乗り込んだ。
 山すそに開けられた出口の、頑丈なシャッターがするすると上がり、レクサスは飛び出した。

 池の北側の数寄屋造りの建物棟は雁行しながら、山手に向かって伸びている。
 手前からエントランス・ホール、ロビーに改装された広間、竜介のいる和室棟、厨房、管理と続き、一番奥がタツオの居間と寝室で、廊下で行き来が出来た。
 竜介は襖を開け、廊下へ出て左右をうかがった。
 人影はなく、シーンと静まり返っている。
 静か過ぎるな、と竜介は思った。
 空気が張り詰めている。じわじわと迫ってくる気配がする。
 なよなよとしている美男の彼は、外見だけで侮られることが多いが、大学の剣道界では、「小太刀の姫天狗」として、一目置かれていた男だった。
 廊下からロビーを抜けるのは目立ちすぎる。
 竜介は部屋に戻り、縁側から庭に降りた。裸足になるが、仕方がない。
 光悦垣を身軽に越え、竹林に沿ってエントランス・ホールに向かった。
 せめて手頃な棒の一本でもあればと見回すが、腹立たしいほど、キレイに整備されている。
 広間、エントランス・ホールの陰を通り過ぎ、建物の角で、いきなり若い男に出くわした。
 敵なのか、ただの塾生なのか、一瞬迷う。
 その隙に、男は大声を上げた。
「ここにいるぞ!」
 ミゾオチに当て身をめり込ませる。
 相手の懐に飛び込む小太刀には、柔術も重要なワザだ。
 ぐっ、と呻くと男は崩れ落ちた。
 竜介は月光を浴びて突っ立ているチキン・ウオーカー目指して走った。
 芝生なので足は楽だ。
 たどり着くと、脚に付けられた取っ手を握り、振り返った。
 まだ誰も出て来てはいないが、内部でざわめきが聞こえる。
 素早くよじ登り、コックピットの上に立った。思ったよりずっと高いが、アドレナリン全開なので、怖くない。
 丸蓋を開けて、入り込む。
 暗い。
 竜介は舌打ちした。
 正面に空いた細長い窓から差し込む月光で、かろうじて、丸いボタンとその下の四個のボタンが識別出来た。スタート・ボタンを押す。小さな明かりが灯った。
 暗闇に慣れた目には充分明るい。
 ひとつ、ポツンと置かれたシートに座る。
 左右に教えられたとおり、ギア・チェンジのレバーがある。
 先ず左のレバーのトップにある赤いボタンを押しながら、前へ倒した。続いて右のレバーを同じように後ろへ倒す。
 目の前の足元に丸いアクセル・ペダルがある。これを踏めば、チキン・ウオーカーは回転するはずだ。
 一息入れて、踏み込んだ。
 チキン・ウオーカーがガタガタと揺れ始めた。
 窓から見える光景が、ゆっくり左へ流れていく。ウオーカーは右回りで回転しているのだ。
 竜介は、思わず、ヒッ、ヒッ、ヒッと笑い出した。
 窓から、門に続く砂利道が見えてきた。
 適当なところで、アクセル・ペダルから足を浮かせると、回転は止まった。
 竜介は右のレバーも前に倒した。
 ペダルを踏み込むと、チキン・ウオーカーはゆっくり前進を始める。
「イェーイ」
 竜介は歓声を上げた。
 砂利道に入ると、キャタピラーが砂利を踏みしめるバリバリという音が加わった。
 突然、コックピットの上で、どん、どんと足音がし、竜介はギョッとして丸蓋を見上げた。
 パッと丸蓋が開くと、白い顔に黒髪の女の顔が覗き込み、紅い唇をゆがめて、にっと笑った。
 一瞬、ろくろ首の女に見えて、竜介はぞっとした。
 グロリアは、足から飛び込んでくると、いきなり手に持ったバタフライ・ナイフで切りつけた。
 竜介が素早く身をひねらなかったら、頚動脈を切断されていたのは間違いない。
 それでも鋭い痛みが頬から耳にかけて走った。
 彼は足で強烈な蹴りを入れ、グロリアはコックピットの壁に叩きつけられた。
 予想外の反撃に、眼を光らせながら、グロリアはゆっくり姿勢を立て直した。
 狭いコックピットの中で、お互いが中腰でにらみ合う。
 ペダルから竜介の足が離れたので、ウオーカーは停止してしまった。
 このままでは、応援が駆けつけ、竜介は不利になる。
 グロリアの不幸は、このやさ男が一流の武芸家だったことを知らなかったことだ。
 竜介はわざと隙を見せた。
 武芸家同士だったら、見え見えだったが、グロリアは簡単に引っ掛かり、ナイフを突き刺そうと突進した。竜介は体をひらいて避け、ナイフを持った手首を掴むと、腕を彼女の首に回して、頚動脈を圧迫する。
 脳への血流を止められ、もがいていたグロリアはぐったりした。
 取り上げたナイフを外に捨てると、丸蓋を閉め、ウオーカーを再びスタートさせる。
 門が見えてきた。正面から少しズレている。
 竜介は何度かギアを操作し、ウオーカーが真正面から突っ込めるようにした。
 あと数メートルに近づいたところで、再びコックピットの屋根に物音がした。
 竜介はアクセル・ペダルから足を離した。ウオーカーが停止した。
 スターターのボタンを押して電源を切る。コックピットが暗くなった。
 そっと立ち上がって、丸蓋の近くへ寄った。
 丸蓋が開き、「グロリア」と呼びかける声がする。
 発音からすると日本人ではない。竜介は黙って待ち構えた。
 若い白人の男が、恐る恐る顔をのぞかせた。
「グロリア、大丈夫か」
 竜介は男の顎に手をかけ、体重をかけて、思い切り引き下ろす。
 脳天を床に叩きつけられて、男は気を失った。
 暗いので竜介は気がつかなったが、男は拳銃を手にしていた。
 人間がふたり横たわっているので、コックピットは足の踏み場もない。
 スターターを再び押して電源を入れると、竜介は男を引きずり、その頭をアクセル・ペダルに置いた。
 ウオーカーが再び、ガタガタと前進し出す。
 門は目前に迫ってくる。
 竜介はスターターの下のボタンをでたらめに押した。突然、大音響の銃声とマシンの唸りが、深夜の町に響き渡る。
 竜介はフンと鼻で笑い、急いでコックピットの上によじ登った。
 座り込み、落ちないように、後ろ手で丸蓋の縁を掴みながら、門を見下ろした。
 黒い鉄で装飾されている重厚な木の扉が閉まっていて、まるで城門である。
 ブライアンは馬力があると自慢していたが、竜介は疑問に思っていた。
 突き破れないようだったら、何とかしてコックピットから、扉を乗り越える積もりである。
 ズシンと衝撃があって、ウオーカーは門に当たった。
 スピーカーの銃声が轟くなかで、ウオーカーのキャタピラーは、砂利を巻き上げながら、前進しようとする。
「ガンバレ、ガンバレ!」
 竜介は絶叫した。
 揺れているコックピットの中で、グロリアは目をさました。
 ぼんやりと辺りを見回したが、倒れている男の拳銃に気がついた。
 門はキャタピラーの突進を必死で支えていたが、メキメキと呻き声を上げながら次第に隙間が開き出した。
 グロリアは拳銃を取り上げ、コックピットから顔を出した。
 目の前に夢中になって、門を見下ろしている竜介の背中がある。
ーFBIは正面から、コイツは背中からねー
 グロリアはにやりとして拳銃を構えた。

「何なの、あの音!」
 別荘の近くに停めている車の中で、恵美が驚いて叫んだ。
 静かな住宅街を銃声のような大音響が流れてくる。
「あれは・・・チキン・ウオーカーだわ」
 ナオミが言った。
 全員が顔を見合わせる。
「行ってみよう!」
 浩二が声を張り上げた。
 
 チキン・ウオーカーが勝った。
 バリバリと凄まじい音を立て、木片を撒き散らしながら、門が開き、抵抗がなくなったウオーカーが、ぐいと前進した。
 はずみで、グロリアはコックピットに倒れこんだ。
 竜介は彼女に気がつかないまま、取っ手に取り付くと、素早く地上に降り立った。
 この先には、もうひとつ、アールデコ様式の青銅の表門があるが、それに連なる塀は盛り土をした低い石垣なので、簡単に乗り越えられる。
 竜介は駆け出した。
 ヒュン、と顔の横を銃弾が通って、正面の樹木を弾き飛ばし、竜介は驚いて、振り返った。
 前進し続けるウオーカーのコックピットの上で、グロリアが片膝をつき、拳銃を両手で構えている。
 とっさに竜介はジグザクで、走り始めた。
 グロリアが慎重に狙いを定めた。
 そのとたん、ウオーカーのキャタピラーの前部が、水捌け用の溝に入り、コックピットが前に傾いた。
 バランスを失ったグロリアが、落下する。
 もがきながら起き上がろうとする彼女が最後に見たのは、目の前に迫ってくるキャタピラーだった。
 恐ろしい悲鳴がキャタピラーに巻き込まれ、竜介は顔をそむけた。

 青銅の表門の前に、浩二らの車が到着すると、すでに何人かの住民たちが不審そうな面持ちで様子をうかがっていた。
 近づいてくるパトカーのサイレンも聞こえる。
「あっ、堀さん」
 表門横の低い石垣から出てきた竜介を、真っ先に見つけのは恵美である。
 五人はいっせいに駆け寄った。
「ちょっと、どうしたの、そのほっぺ、血だらけよ。それにハダシじゃない」
「ア、恵美。それに浩ちゃん、ア、ア、みんないるんだね。大変だよ。警察に、あ、いや、消防署に、いや、ともかく馬町の塾に行かなくちゃ、早く、早く」
 浩二が肩に手を置いた。
「竜介、まあ、落ち着いて。何がなんだか、分からないやないか」
「あ、そうだね。でも、とにかく塾に行かなくちゃ。あ、アイリス、可哀そうに。でも、カタキは、今、トッタよ。あ、伊助さんもいるんだ。じゃ、車あるんだね。取りあえず、乗って、乗って。車の中で話すから」
「リュウスケ、モリタは、まだここに?」
 ナオミが尋ねた。
「彼女は、タツオと塾にいる」
 ええっとみんなは驚いたが、竜介の見幕に押されるように、車に乗り込んだ。

 阿弥陀ヶ峰の頂上、秀吉を祀る石塔の真下、地下五メートルの十二平米ほどの空間の真ん中に、盛田が突っ立っていた。
 周囲の壁はコンクリートが吹付けられて白かったが、天井はむき出しの土だった。
 床から天井までは、せいぜい二メートルほどしかない。
 部屋の隅にはタツオと塾生がひとり、控えている。
 塾生はヘルメットとゴーグルを手にぶらさげており、脚立とシャベルが床に寝かせてあった。
 部屋は、むっとする土の匂いが満ちていた。
 目をつぶっていた盛田の身体が、ふらっと揺れる。
「あ、大丈夫か、盛田」
 タツオが駆け寄って、支えた。
「ここが・・・・・ここが、一番強いです」
「そうか、よし」
 タツオが塾生に合図した。
「タツオさん」
 盛田がタツオの腕に手をかけた。
「今まで感じたことのないような、物凄い圧力です。本当にいいんですか。アタシは間違ったことをしているのでは?」
「いいんだよ。それが僕が求めているパワーなんだから。さ、君はそっちで見ていなさい」
 塾生がヘルメットとゴーグルをつけ、盛田が立っていた地点の天井をシャベルで崩し始めた。
「いいか、そっとやるんだ。くれぐれも慎重にな」

 塾に向かう車の中で、竜介が夢中で喋っている最中に、浩二のセルに青木警部から掛かってきた。
「あ、青木さん・・・パトカーから連絡が・・・そう、どエライことになってます・・・いや、そっちへ回って、説明しているヒマないです。いいですか、簡単に言います。トビーとグロリアは別荘で死にました。竜介は脱出に成功して、ここにいます。盛田は、斉藤タツオと馬町の塾にいます。僕らもそこに向かってます。それからこれが一番大事です。竜介が得た情報では、あの辺り一帯に爆弾がしかけてあるそうです」
 浩二は顔をしかめて、セルを耳から離した。青木が喚きたててる声が漏れてくる。
「ちょっと聞いてください・・・いや、違います。タツオは塾から関心をそらすためだけに、あの辺り一帯を火の海にしようとしてるんです。国宝や重文が燃えているのに、誰が塾に関心を持ちます・・・・だから、オカシイんですよ、あいつは・・・とにかく、馬町へ急いでください」

 塾生は、脚立に足を掛けて、天井に開いた穴に細長い金属棒を入れ、土を崩き落としている。
 掘り出した時は三十センチほどだった穴の直径は、今四十センチほどになっていた。
 ヘルメットとゴーグルを装備している塾生だが、どうしても土を被るため、汗と混じって泥まみれのようになっている。
「どれぐらい、いったかね」
 タツオが尋ねた。
「もうすぐ二メートルぐらいに達すると思います」
「ご遺骨は地上から二、三メートルの深さにあるはずだ。そろそろ近いな。気をつけて」
「はい」
 塾生が応えたとたんに、どっと土の塊りが、まともに頭上に落ちてきた。
「うわっ」
 彼が悲鳴を上げて脚立から飛びのくと同時に、ドスーンと異様な音がした。
 土の塊りに見えたのは、古びた長方形の木箱だった。
 帯状の鉄板で補強されているが、ぼろぼろになった木の蓋は裂けて開き、中身がこぼれ出していた。
 詰まっていたのは、輝く金の大判ではなく、ただの石ころである。
「あぁ~」
 盛田は長いため息を洩らした。
「がっかりすることはないよ」
 盛田の肩に手を置いたのはタツオだった。
「君の推理は当たっていたじゃないか。やはり秀吉公の大判が木箱に入れられて、このご遺骸が埋葬された周辺に埋められたのは間違いないよ。墳墓が暴かれたとき、下手人たちは秀吉公の木棺を壊して、ご遺骸を素焼きの壺に押し込み、金の大判を取り出して、かわりに石を詰め込んだのさ」
「じゃ、ここには石ころの詰まった大量の木箱がぎっしりあるんでしょうか」
「そこまで手間はかけないよ。ほとんどの木箱は、そのまま持って帰ったはずだ。これはあとから掘り起こしに来た者へのイヤミさ。とことん、ゲスな奴らだ」
 タツオは穴の下へ歩いていき、現場用のライトで照らされた中を見上げた。
「砕けたご遺骸の壺は、あの木箱近くにあったはずだ。もうちょっと、あたりを・・・・・ア、盛田さん、ちょっと来てくれ」
 盛田は急いで近寄った。
「あの土の中から、のぞいている灰色のもの、あれは何だろう?」
「・・・・・骨だと思います」
 タツオは塾生を見た。
「吉田、すまないが、あの周辺を少しづつ、土を取り除いてくれないか」
「はい」

 塾の表に到着したのは、浩二らが最初だった。
「まだ誰も来ていないのね」
 恵美が口をとんがらせた。
「出前持ちじゃあるまいし、青木さんもすぐは飛んでこれないさ」浩二が言った。
 アイリスが車から降り、閉じられている塾のカーテンドアに近づいて触れた。
「カギはかかってない」
 手を腰の後ろに回し、拳銃を取り出す。
「あ、待って」
 浩二らが慌てて車を出る。
 伊助が靴を脱ぎ、竜介に渡した。
「くさくても、ガマンしてくれ」
「有難う」
 竜介は急いで履いた。
「アイリス、どうするつもりだ?」
 浩二が鋭く言った。
 ナオミが続けた。
「ここはニホンよ。警察が来るまで待ちなさい」
 アイリスは皆の顔を見回した。
「これ以上、タツオに好き勝手をされるのはゴメンだわ。ここで待っている間に何かあったら、私は一生後悔する」
 宣言すると、アイリスはカーテンドアを開き、するりと中へ消えた。
 残された人間は、顔を見合わせた。
 ナオミが肩をすくめると、入って行く。
 恵美も続いた。
 浩二はため息をつき、首を振った。
「僕のガール・フレンドは、どうしてこう向こう見ずなんやろか」
 彼は竜介を見た。
「竜介は残れ。ケガしている」
「トンネルに入ったのは、僕だけだよ」
 ため息をついて、浩二は運転席の伊助を見た。
「警察が来たら、すぐ突入するよう、頼んでください」

 土をのぞいていくと、灰色のものは小さな断片でなく、丸い球形であることが分かった。
「導師、もうすぐ落ちると思います。受けてください」
「よし。盛田さんも頼むよ」
「はい」
 塾生の吉田は少しずつ、土を取り除いていく。
「とれた!」
 突然、土くれと共に、灰色の丸い物体が落ちてきた。
 タツオがしっかり両手で受け止める。
 頭蓋骨だった。
 土が埋まった眼孔が、カッとタツオをにらんでいる。
「ああ、ああ、秀吉公だ」
 タツオは思わずよろめき、膝をついた。
 地上に置くと、伏し拝む。
 盛田は、茫然と突っ立ている吉田の服のすそをそっと引き、跪いて頭を垂れた。

 竜介の指示で、拳銃を構えたアイリスを先頭に、塾の建物の横にある平屋の入り口に近づき、スロープの手すりから、アイリスはそっと地下をのぞき込んだ。
 停まっているレクサスの隣りに、若い男が所在なげに立っている。
 ここで待て、と手で指示をすると、アイリスはスロープの手すりの陰を、しゃがんだ姿勢のまま下りていった。
 下まで到着すると、アイリスは周囲を確かめ、いきなり立ち上がって拳銃を構えた。
「Freeze!」(動くな!)
 普段のアイリスからは、想像も出来ない、鋭い一喝だった。
 アイリスは、勿論流暢な日本語も話すが、この場合、英語の方が効果的だろうと踏んだのだ。
 目論見どおり、若者は慌てて両手を上げ、目を丸くしている。
 竜介と浩二を先頭に、四人が急いでスロープを下りてきた。
 アイリスは拳銃を構えたまま、恵美に奥にある木工と金属の作業を目で示し、
「何か縛るものとガムテープがあれば、お願い」と言った。
 恵美が駆けていき、すぐ両手に持って戻ってくる。
「床にうつ伏せになりなさい」
 若者がその通りにすると、
「リュウスケ、通用口を見ていて」
 と指示し、拳銃をホルスターに戻して馬乗りになり、恵美が持って来たロープで、素早く後ろ手に括り上げた。
「はい、座って」
 と座らすと、ガムテープを三十センチほどびりっと切り、若者の口の上からピッタリと貼り付けて口を封じた。
一分も掛からない手際の良さに、恵美とナオミは感心して見惚れている。
 アイリスは再び拳銃を抜くと、「OK」と言い、通用口に向かった。

 タツオは秀吉の頭蓋骨に付着した土くれを丁寧に取り除いた。
「酷い目にあわれましたね。私がこうして、お預かりさせていただいた上は、あらためて立派に改葬させていただきます。少しの間、ご辛抱ください」
「タツオさん、これからそれをどうされるんですか?」
 盛田が尋ねた。
「それ? 失礼な。秀吉公のお頭(おつむ)だぞ。もっと敬意を表しなさい」
「スミマセン」
「まあ、あなたのような小娘に言っても、仕様がないことだがね。これから鹿ケ谷に持ち帰って、お祀りするのだよ」
「タツオさん、その・・・・・・秀吉公はここを、離れるのを、イヤがってられます。どうか、改葬されるのなら、ここでして下さい。お願いします」
「残念ながら、ここはもう閉鎖するんだよ」
「え?」
「君も子供もじゃないんだから、分かるだろう。いや、これから僕の下で働くなら、分かってもらわなくちゃ困るんだ。あのFBIのお蔭で、ややこしいことになっているんだよ。さ、話は後だ」
 タツオは頭蓋骨を抱えたまま、小さな電動ジープに乗り込んだ。

 トンネルの中をアイリスを先頭に、全員が急ぎ足で歩いていた。
 坂だけに、みんなの吐く息が荒くなってくる。
「その起爆装置は中ほどにあるスペースにあるのよね。行けば分かるの?」
 アイリスが竜介に聞いた。
「電動ジープに乗っていて、あっと言う間に通り過ぎたから、良く分からないけど、テーブルがあって、何か装置らしきものがあったような気がするわ」
「相変わらず、頼りないわね」
 恵美が、懲りずに竜介をからかう。
「何ですって・・ハア、ハア、僕のどこが頼りないのよ・・・・ああ、息が切れる・・・しんどい」
「・・・無駄口をたたくなよ、もう・・」
 次第に竜介、浩二、ナオミは、アイリスと恵美から遅れ始めた。
「アイリス、大丈夫なの? その、身体で・・・」
 恵美が、お腹の小さい生命を気遣って言う。
「大丈夫よ。これぐらい」
 彼女も徐々に離され出していく。
「・・・ねえ、起爆装置って・・・止める方法、分かるの?」
「ここは地中だから、外部のアンテナとつながってるはず・・・それを切る・・・分からなければ、ぶっ飛ばす」
 アイリスも、吹き出す汗をぬぐう。
「クソッ・・・・まだなの」
 トンネルは、えんえんと続いている。
 どこら辺りにいるのか分からなくなってきた。
 心臓が早鐘のように打ち続ける。
 ふっと、自分に宿るボブとの絆を思う。
 彼のためにも止めるべきだったか。
 頭を振って、その考えを追い払った。
ーゴメンね、赤ちゃん、ゴメンね、ボブー
 三十メートルほど先に、窪みらしいものが見えてきた。
ーあった!アレだわー
 同時にトンネルの上の方から、ブーンという微かな電動モーターの音が聞こえてきた。
 タツオがやってくる。
 アイリスは最後の力を振り絞って、坂を駆け上がり始めた。

 タツオの方が、先にアイリスを認めた。
「おや、アイリスじゃないか」
 どこか面白がっているようだ。
 運転している吉田が、不安げにタツオをうかがう。
「君がお守りしてくれ」
 タツオが後ろに座る盛田に言って、秀吉の頭蓋骨を手渡し、ズボンのポケットから拳銃を取り出した。
 盛田が息を呑む。
 アイリスは立ち止まった。
 大きく肩で呼吸をしている。
 近づいてくる小さなジープには、タツオに寄り添うように、若者と盛田が乗っている。
 この状況ではジープに向かって発砲するのは危険だ。
 チラッと窪みを見た。
 テーブルの上に、発信機らしい黒いボックスがある。
 とっさに拳銃を構え、狙いをつけた。
 タツオが無造作に拳銃を上げ、アイリスを撃った。
 銃声がトンネルに響く。
 アイリスは衝撃を受けてよろめき、拳銃を落とすと、仰向けに倒れた。
「キャーッ」
 盛田が悲鳴を上げた。

「銃声よ!」
 恵美が叫んだ。
「分かってる!」
 後ろの方から竜介の声が上がる。
 あえぎながら、恵美は走り出した。

 タツオはジープを降り、ゆっくり倒れているアイリスに近づいた。
 右肩に血が滲み出し、広がっていく。
 傍まで来ると、タツオはしゃがみ込み、彼女をのぞき込んだ。
「あの発信機を狙ったところをみると、馬町に爆弾を仕掛けたのを知ってるんだな」
 盛田が驚いて、吉田と顔を見合わせた。
「・・・やはりブライアンは始末しとくべきだったな。じゃ、グロリアも失敗したのか・・・まあ、いい」
 持っていた拳銃をアイリスの目の前に突き出し、ひねくり返した。
「見覚えがあるだろう。二年前、鹿ケ谷で失くしたお前の銃だよ。元の持ち主の命を奪うようになるとは、これも因縁だねえ」
 アイリスは、ぺっとタツオにツバを吐きかけた。
 タツオは平然として、ぬぐおうともしない。
「恨むのなら、ボブを恨め。僕はチャンスをやったんだから」
 足音が聞こえて、タツオは顔を上げた。
 ハア、ハアと大きく息をつき、恵美がタツオをにらみつけながら近づいてくる。
「これはこれは。恵美までお出ましだよ。秀吉公のお導きだな。有難いことだ」
「人殺し! 彼女のお腹には赤ちゃんがいるんだよ!」
「それは素晴らしい」
 タツオは微笑んだ。
「地球の人口を減らすのに、ボブも彼女も協力してくれたわけだ」
 恵美はあきれたように立ちすくんだ。
「あなたは悪魔ね」
 恵美の背後から、足音と叫び声が近づいてくる。
「お仲間も来てるんだな。ナオミもいるのか?」
 恵美はうなづいた。
「お願い。もう、十分でしょう。終わりにしましょう」
 意外にも、タツオは素直にうなづいた。
「そうだな。もう終わりにしよう」
 タツオは天を仰いだ。
「秀吉さま、最後に復讐の機会を、与えて下さったことを感謝します」
 それから恵美を見た。何の感情もこもっていない黒い碁石のような眼だった。
 恵美はゾッとした。
「お前からだよ、ビッチ」
 タツオは拳銃を恵美に向けた。
 強烈な衝撃があった。
 一瞬、銃が暴発したのだとタツオは思った。
 気がつくと床に転がっている。後頭部がズキズキと痛む。
 やっと半身を起こして、見上げると秀吉公の頭蓋骨を持って見下ろしている盛田と目が合った。
 真っ青な顔をしている。
 彼女に頭蓋骨で殴られたのだ。
「・・・な、なんと、モ、モッタイナイことを・・・」
 ふらふらする首を戻すと、恵美がアイリスを抱え起こし、彼女に持たした銃に両手を添えて構えていた。
 アイリスが静かに言った。
「Go the hell」(地獄へ落ちろ)
 至近距離から発射された銃弾は、タツオのノドのど真ん中に命中し、頚椎を砕いて抜けた。
 仰向けに倒れた彼は最愛の人を呼ぼうとした。
・・・・・・・エド・・・・・・・
 だが、ノドに開いた穴から、血の泡がポコ、ポコと出ただけだった。

 第十二章

 阿弥陀ヶ峰の頂上を、木枯らしが吹き抜けていった。
 浩二、恵美、竜介の三人は、揃ってブルッと身を震わせた。
「わざわざ上がってくることもなかったのよ」
 と竜介が言った。
 頬にグロリアにつけらた傷跡が残っている。
「まあ、秀吉様も大変な目にあわれたのだし、なによりも恵美の命を救って下さったんだから、こうして御参りするのは当然だよ」
 浩二が慰めるように言う。
「まあね」
 竜介は、やはり浩二には弱い。
 ナオミと伊助は、上まで行くなんて、とんでもない、と下で待っているのだ。
「でもアイリスとお腹の子が無事だったのが、一番嬉しいわ」
 恵美が言って、ふたりとも大きくうなづいた。
「独断で突入したのもお咎めなしだったようだし」
「そりゃそうだろう。へたをすると、この下は焼け野原になっていたんだからな」
「アイリスは、しばらく退院出来ないでしょうけど、産まれてくる子は、男だろうが、女だろうが、FBIには絶対させない、と宣言していたわ」
「カエルの子はカエルよ」
 竜介が済まして言う。
「鹿ケ谷の別荘はどうなるのかしら」
「タツオは遺言は残していないし、ブライアンが、手に入れようと走り回っているらしいけど、どうだろうな。税金もきっときついぞ。トンネルの始末もあるしね」
「そう言えば、あの盛田って女の子は、どうしてる?」
 竜介が恵美に尋ねた。
「事件直後は大変だったみたいだけど、乾先生が付きっきりで、やっと大学に通うようになったみたい」
「そう。また、あの、くさッ、が、聞きたいな」
 浩二が寒そうに体をすくめた。
「じゃ、そろそろ下りよう。寒くなった」
 三人は急な石段に向かう。
「堀さん、下へ降りたら、離れて歩いてね。その筋のお兄さんみたいだもん」
「そんなこと言うなら、よけいくっついてやるわ」
「いやだぁ」
 笑い声が下りていった。

                                     了
 

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